無論そのような結末にこそ、この物語が伝えたかったことや、賢治の神髄が現れていると私は思うし、それ故にこの作品が名作である理由なのでしょう。
そもそもこの世は理不尽なことだらけです。
腹黒い人間が世を跋扈し、才能の無い人間がはやし立てられ得意気になっている。そう思う人も多いでしょう。まあ、私もそう思います。
確かに一般論として皆が納得してくれたとしても、個別の事例に対峙すると人の意見は分かれます。何を持って特定の人を腹黒いと思うか、何を持って誰々に才能が無いと判断するか、その同意を皆から得るのは基本的に不可能なのです。
「銀河鉄道の夜」は終始主人公であるジョバンニの視点で語られます。
物語を読み進めるにつれ、読者はジョバンニに共感し、カムパネルラを心強い友と感じ、ザネリに憎しみを感じます。しかし、それはジョバンニ視点で見た物語の世界です。そもそも、この世はそれを見る主体によって全く違った解釈をされるものです。例えば、ザネリを悪いやつと思わない視点だって十分あり得ます。
仮にカムパネルラにとっても、ザネリが憎むべき存在だとしたら、彼は川に溺れたザネリを助けるべきではなかったのでしょうか? 人を助ける、助けないという判断が、自分が好きな人間か、そうでないかによって左右され得るものでしょうか。
私たちは、良い人と悪い人を、自分の好きな人と嫌いな人の判断と混同しがちです。
世の多くの宗教はそういう狭量をこそ、克服すべしと言ってきたのだと思います。「汝の敵を愛せよ」という言葉は象徴的です。賢治が法華経に傾倒していたことも、こういった価値観と無縁ではないでしょう。
だからこそ、そのアウフヘーベン(止揚)として、分け隔てなく人を愛し、奉仕をすることに賢治は美徳を感じました。そして、この作品はそのような思想の結実として現れたものだと私は思うのです。
宮沢賢治については、以前こんな話や、こんな話も書きましたね。
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