2012年2月22日水曜日
もう無責任ではいられない
前回、オープンとクローズのせめぎ合いについて書きましたが、もう我々がどうあがこうとオープンな世界に突き進むしかないと私は思います。
そんなとき社会はどうなっていくのか、ちょっと実例を元に考えてみたいのです。
私たち一般人は、通常芸能人でも政治家でも警察官でも裁判官でも、ましてや大学の教授でもありません。自分たちは自分たちのことを無知で非力なか弱い子羊だと思っています。だから、理論武装も何もしなくても許されるし、逆にどのような場でも言いたいことが言えてしまったりします。それは自分が公の立場で話さなくても良いからです。
何を言いたいかというと、例えば、昨今で言えば、沖縄の基地問題や原発瓦礫問題、その他、多くの住民の反対運動のようなものは全国にたくさんあるはず。
昔の成田抗争のように武力闘争みたいなことは無くなりましたが、国や自治体が説明集会を開いた際、ほとんど議論とは言えないような激しい応酬になることがあります。
公を背負っている人と、背負っていない人では、大きく立場が違います。
公を背負っている人たちが怒ったり、力でねじ伏せようとしたり、バカにしたような発言をしたりすれば、話はこじれ、まとまるものもまとまらなくなります。従って、どこまでも低姿勢であることが求められます。
ところが、反対意見を言う側は、どれだけ強く主張したかが問われるので、ややきわどい発言や、怨嗟の声さえ許されるように見えます。その様子は中立的な立場から見れば、双方の非対称さが目立ち、随分不毛な話し合いに見えてしまいます。
ここでもっと世の中がオープンになったらどうなるでしょうか。
住民代表であっても、政府や自治体代表であっても、ネットで発言することが増えてくるでしょうし、そう言った人たちのパーソナルな情報と彼らの発言は常にセットになっていくことでしょう。
住民代表であっても、その人がどのような職業で、普段どのような政治信条を持っているか、もちろん名前やら何まで分かってしまいかねません。
そんなとき、テレビなどの公開の場で不適切な発言をすれば、ネット上で激しい報復に遭うかもしれません。
これはもちろん、公にいる側も同じこと。いろいろな情報がオープンになればなるほど、発言と個人が紐付けされ、全ての発言に個人の良識が問われるようになっていくはずです。
人は丸裸にされて、自分自身の意見を言え、と言われると案外言えないものです。
常日頃、自分の意見だと思っているものは、自分の信頼する他人や知識人の意見だったりします。だから、自分の全く知らない事例について何らかの判断を求められると、他人の判断が参考に出来ず、全く対応できなくなるのです。
世の中には、自分の意志で自分の意見を比較的はっきり言える人がいる反面、他人の意見を聞いてそれを自分の意見のように言い換える人もいます。後者の人はちょっと議論をすると化けの皮が剥がれますが、こういうことがネットのようなオープンの場で起きてくると、自分の考えを持たない人はますます発言できなくなっていくことでしょう。
それは自分の意見にどこまでも責任を求められる厳しい世界です。
世の中がオープンになるに従い、自分の意見をしっかり持っている人だけが発言力を持つようになり、無責任な発言をする人は、今より益々疎まれるようになるのではないでしょうか。
それは良い世の中のように見えて、結構シビアで生きづらい世かもしれません。
ラベル:
文化・芸術
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