2011年12月29日木曜日

今年とTwitterと私

去年の今頃、Twitterについてこんなことを書いてました。
今年は社会的にいろいろなことがあったけれど、不思議なほど今の私は当時の心持ちとあまり変わっていません。

実際のところ、今年一年も去年と同様にTwitterを楽しみました。何か新しい展開があったわけでもないし、事件があったわけでもありません。多くの論客の意見に触れ、昨年同様いろいろ刺激を受けてきました。
フォローの仕方も去年から大差なく、フォロー返しなどもせずに、淡々と好きな人だけをフォローするというやり方。Twitterで合唱関係者と交錯することも何回かありましたっけ。

ただ、世の中の進み方に対するあせりのせいなのか、ネットサービスにいろいろ手を出したりした割には、あまり実りは無かった感じがします。
ネットの世界が現実を変えつつあるとはいえ、ものすごく早く進んでいることと、思ったより進んでいないことがあり,もう少しその辺りを見極めていくことが当面は重要となってくるでしょう。

私が思ったより進んでいないと思うことは、働き方の問題です。
ネット環境の進化で、いろいろな人が繋がりやすくなったのは確かですし、どこにいても仕事はできるようになってきています。しかしそれが、在宅勤務とか、組織を離れ個人で活躍できる人が増える、とかいった現象にはまだ結びついていません。
日本的な組織ではそれは厳しいのかもしれません。むしろ海外のほうがそういう環境がどんどん進化していくような気がします。
そういう状況の中で、私自身組織内で行なう仕事についてあまり邪険にするものじゃないよな、とちょっと思い直しているところです。

もう一つ、Twitterというのは本当に人格を丸裸にすると感じます。
Twitterは書きたくなければ書かなきゃいいのです。ところが、書かなければいないことと同じ。他人のつぶやきを読んでいると自分も何か書きたくなるし、何かを書けばそれを読んでもらいたいと思うものです。
しかし、書けば書くほど自分の世の中へのスタンスがどんどん明らかになるし、言葉遣いや表現方法でその人の品性まで知れてしまいます。これって、冷静に考えると怖いですね。
実際に長い間の知り合いでも、こんな人だったなんて知らなかった・・・なんてことはあります。
そうやって、知性、信条、人格、品性が丸裸になる社会・・・。でも、私は嫌いじゃないです。

2011年12月25日日曜日

子供の想像力・創造力

まだ3歳にもならないウチの子ですが、少しずつ言葉を話すようになってきました。
さすがに自分には3歳の頃の記憶はないけれど(というか、学生の頃の記憶さえないけれど・・・)、周りのオモチャで遊びながら、ブツブツ言っているのを見ると、自分もそんなころの感覚を思い出したような気になってきます。

遊んでいる本人は、ちゃんとオモチャが偽物だと分かっているけれど、手元にあるモノを何かに見立てて、頭の中で想像しながら一人で会話したり、それを動かして模擬的な行動をさせたり。そうやって何かになりきることが大好きです。というか、自分が小さい頃もそういうことは好きだったし、うちの子も好きそうに見えます。

おもちゃを手にして何かを想像しながら遊ぶことは、恐らく子供の成長の過程で何らかの必要な行程なのでしょう。
いつかはそういう遊びを卒業して青春時代に入っていくのでしょうが、このように子供がオモチャを使って何かになりきって遊ぶことは、何かを創造することに繋がる感覚を覚えます。
ブロックを使って何かに見立ててものを組み立ててみたり、クレヨンで何かを書いてみたり、お人形で会話を楽しんだり・・・。これって、何か芸術的なオブジェを作ったり、絵を描いたり、小説を書いたりするようなクリエータとベクトルが全く同じに思えるわけです。

つまり、人間は生まれながらにして創造したい欲求を持っているクリエーターなのではないか、という推論が成り立ちます。
ということは、人は成長するに従って、だんだんとクリエーターで無くなっていくのではないでしょうか。
よく芸術家を評して「子供がそのまま大きくなったような」とか「子供のような感性を持った」などと言うことがありますが、それは一般的な真理としてあながち間違っていないのかもしれません。つまり、芸術家というのは、成長の過程で子供の頃に持っていたクリエイティビティを失わなかった人たちだということができると思います。

誰だってクリエイティブな人間になりたいと思うことでしょう。
それに今の世の中、いろいろなジャンルでクリエイティブな人材が必要とされています。
では、なぜ人は成長するに従ってクリエイティブで無くなっていくのか? それが重要な命題になります。

私見ですが、クリエイティビティを失わさせる原因は、どれだけ厳しくしつけをしたかにかかっている気もします。しつけそのものは、社会性を身につけるために必要なものです。しかし、それは幼児が感じた気持ちを抑え込んで、常識的な対応をするように強制することでもあります。
子供は大きくなるに従い、たくさんの規制を覚えていきます。もちろん人として生きていく以上、他人に迷惑をかけるわけにもいかないし、常識を逸脱して後ろ指をさされるのも良くはないことです。
しかし、そのように積み上げられた規制が一つ一つ、子供の創造性を失わせるのではないか、私にはそんな気がするのです。

まあ親としてはクリエイティビティを失わさせないために、しつけをしない、というわけにもいかないのですが、不用意にみんながやっているからといって行動に規制をかけるような言い方は慎みたい・・・とは思っています。

2011年12月21日水曜日

音楽の形式─形式論が嫌いな理由

重要だろうとは思っていても、音楽形式を論じたりするのに興味を持つ人は少なそうです。
音大出てたって、交響曲のソナタ形式を理解してない人は結構多いのではないでしょうか(言い過ぎですか?)。

もちろん曲を書く側からすれば、自分が考えたことに理解を示して欲しいわけですが、一方で一般の音楽愛好家が形式論に興味が持てない理由を考えてみても面白いかもしれません。
思い付くものを挙げてみましょうか。

●一度に把握できない。
音楽は時間芸術ですから、全曲聞くには時間がかかります。
全曲聞かないと形式は分かりませんが、それだけの集中力を保つのは、実際のところなかなか難しいものです。パッと見て把握できればいいのでしょうが、音楽の場合そういうわけにはいきません。

●興味がメロディなど局所的な美しさに向かってしまう。
まあ、これが第一なのでしょう。
ある曲が好き、といった場合、普通はメロディが好きとか、この部分の和音が好きとか、そういう聞き方をしますよね。

●本来、形式とは予定調和なもの。
例えば、J-POPなら、1番があって2番があって、サビが繰り返されて終わる、みたいな形式が一般的です。逆に複雑な構成だと、聴く側は戸惑いを感じます。
そういう意味ではポップスの世界は、予定調和な形式がある程度確立しています。
クラシック音楽も、バロックや古典初期くらいは、比較的予定調和な形式が多かったのではないでしょうか。それは貴族のサロンで気軽に聞くような用途が多かったからでしょう。
音楽が「芸術」となって、予定調和な形式から解放された途端に、聴衆は耳慣れない複雑さを感じてしまうのです。

●何しろ教科書的なのが嫌い。
いろいろなパターンを類型化し、それに名前を付けてしまうと、お固い教科書的な雰囲気になってしまいます。そうは言っても、ある形式に名前を付けないことに会話も成り立ちません。
これは学業の何にでも言えることでしょうが、本来実技が中心の音楽の世界で暗記しなければいけないことというのはどうしても疎まれてしまうのかもしれません。

●音楽の抽象性がもたらす解釈の多様性。
まあ、ありていに言えば、作る側が考えたように聴く側が理解してくれてはいないということ。
それでも、どのような理由であっても、ある曲を好きになってくれるという事実だけは嘘ではないのです。そもそも、音楽の感じ方に正解はありません。それこそが、音楽の面白さの一つであるとも言えるのです。

そんなわけで、自分で書いていて、分かる人だけ分かればいいや、というような気分にだんだんなってきました。


2011年12月18日日曜日

音楽の形式─合唱曲の場合

前々回、形式の大ざっぱな分類をしてみました。あくまで一般論のつもりでしたが、これを合唱曲に限ってみたらどうなるのでしょう。

そもそも音楽は、基本が歌だったのではないかと私は思っています。
人間が歌い始めたのは、恐らくまだ人間が人間でなかった頃からです。しかし、器楽に関していえば、打楽器をのぞけば、たかだか数千年程度の歴史しか無いと思われます。
何を言いたいかというと、音楽が複雑な構築性をまとうようになったのは、器楽の発達と無関係では無いと思うからです。人の声で直接言葉や感情を伝えられない器楽では、音響やメロディ、曲の構成などで芸術的な魅力を出すほうに労力が割かれるようになると私には思えます。

逆に言えば、歌のある音楽には、それほど厳格な構造を希求する理由があまりありません。
従ってたいていの場合、合唱曲は感じるがまま作曲されるのが一般的だと感じます。
また、歌詞があるということは、そのテキストが文章としての何らかの構造を持っており、音楽がその構造に従属されやすいという側面があります。
もし、音楽的構造とテキストの構造を一致させようとするなら相当綿密な設計を作曲前に行う必要があるのでしょうが、少なくとも私の経験ではそのような設計はうまくいきません。作り始めると、メロディや和声が別の力学を主張し始めてしまうからです。

このような場合、おそらく多くの作曲家が取る方法は、前回書いた「主題繰り返し型」です。
具体的な作曲時の感覚は前回書いたので繰り返しませんが、有節歌曲形式ではない歌曲や声楽曲がこのような形式になりやすいのは非常に必然的だし、また自然な選択とも思えます。

実際に合唱曲で主題を繰り返す場合、以下の二つの場合があります。
一つはテキストそのものも繰り返してしまう方法。あるいは、テキストが持つ繰り返しの構造を利用する方法。歌詞とメロディが一致し、繰り返し感が明瞭に現れるので、聴く側にも非常に分かり易い構造性の明示が可能です。
しかし歌詞に繰り返しがある場合はいいのですが、作曲家が自ら詩の構造を変えてしまう場合、ちょっと注意が必要です。冒頭の詩を後ろにまるまる持ってくることにより歌詞の構造を台無しにしてしまうかもしれません。これは、作曲家の歌詞を読むセンスが問われる作業です。

もう一つは、メロディは繰り返されても、あてられた歌詞は変えるという方法。
これ、日本語は言葉のイントネーションの問題があり、かなりきついですね。メロディにイントネーションの違和感があると、日本人は非常に敏感に察知してしまいます。
もう一つは意味の問題もあります。同じメロディを繰り返すなら、テキストも同じ気持ちのものをあてたいところです。もし、テキストの意味する内容が関連が無かったり、逆のことであったりする部分に同じメロディを与えてしまうと、これはまた作曲家の歌詞を読むセンスが疑われてしまいます。

詩に曲を与えるとき、作曲家自らの詩の解釈は不可欠です。そして、演奏家は詩の意味だけでなく、作曲家がそのテキストにどのような解釈をもたらしたか、までを意識しないと、それを生かした演奏が出来ないのではないでしょうか。

2011年12月14日水曜日

音楽の形式─主題繰り返し型

前回類型したパターンのうち、3番目の「主題繰り返し型」は、特に明瞭な構造性を指向しない芸術作品において、最も扱い易いものではないかと思っています。

例えば、ある合唱曲を作曲するとします。
詩の冒頭の言葉で、ある印象的なメロディを思い付きます。そして、そのメロディを元に作曲を開始します。
ある程度の節が終わったところで、少し楽想を発展させたり、ちょっと曲調を変えたりします。それが一通り終わると、曲をエンディングに向かってしめなければいけません。
最もシンプルに曲をしめる方法は、というかそれ以外ほとんど思い付かないのですが、冒頭のメロディを使うことです。
もうこれは誰にでも思い付くというか、もうそうでもしないと収まりが悪い感じがしてしまいます。
「主題繰り返し型」というのは、そういう意味で普遍的だし、その感覚は作る立場になった人なら誰でも共感してくれるものと思います。

それでも、作曲家によってはもうひとひねりしたいという人もいるでしょう。
その場合、二回目に現れる主題は、一回目と全く同じにせず、伴奏を変えたり音量を変えたりするようなバリエーションが出てきます。
しかし、本来収まりが悪いから同じものを繰り返しているのに、二回目の主題の雰囲気が変わってしまうと、結局収まりの悪さを解消出来ない可能性が出てきます。この「収まり」の悪さは、もはや創作家の審美眼によるしか無いのですが、それでも客観的に見てそのセンスの無さを感じる楽曲は正直存在します。

演奏家として、ある曲に取り組む場合、まさにこういう構造性を感じるセンスが必要になるわけです。
あまりに「収まり」の良すぎる主題繰り返しの場合、演奏で冒険してあげる場合もあるし、逆に複雑すぎて主題の繰り返しが不明瞭な場合、何としてでも主題が繰り返されたことを強調してあげる必要があるでしょう。
もちろん演奏家は自分のやりたい曲をやればいいのだけど、その曲に構造的な弱点があるのであれば、それを補正し、構造性を増強するのも演奏家の仕事になってくるのです。

2011年12月10日土曜日

音楽の形式

音楽形式などというと、教科書的で堅苦しい感じがあります。
でも、そんなにアカデミックなアプローチをするまでもなく、どんな音楽にも構造が必要であり、そのために何らかの形式は持たざるを得ないのです。
音楽好きの間でさえ、実際のところ、音楽形式について興味を持つ人は多くありません。普通はどうしてもメロディがきれいとか、音色が気持ちいいとか、和音の展開が良いとか、その瞬間の音楽の善し悪しに注目してしまうものです。
しかし、思っている以上に楽曲形式は聴く人に大きな影響を与えていると思います。音楽の作り手が巧妙に形式を使って仕掛けているからこそ、その音楽の魅力が高まっているという側面もあるのです。

「音楽の形式」とは、ものすごく単純に言ってしまえば、メロディの繰り返しがどう作られているか、ということです。
音楽が始まってから終わるまで、全く一つとして同じメロディが現れない、ということは通常考えられません。どんな音楽でも、1曲内に同じメロディを持った箇所があるはずです。そうでないと、一度聴いてもメロディを覚えるのが困難になり、非常に聴きづらいという印象を与えるはずです。
楽曲分析というと、ミクロで局部的な方向に行きがちですが、ある音楽の魅力を調べるには、その音楽の楽曲構造も調べるべきです。それによってある主題がどのように繰り返されているか理解するようになり、それがその楽曲の魅力の一つに見えてくるのです。

繰り返しに注目して構造を解析していくと、音楽の流れに物語が生まれます。その物語の流れを作るということも重要な創作の一部です。そこで、音楽の教科書的な形式の話から離れて、私なりに曲の構造をパターン化してみました。
・「反復型」
小さな固まりが何度も繰り返される構造です。
いわゆる有節歌曲的な構造。これは通常、歌のある音楽に使われ、物語は音楽よりも歌詞のほうに委ねられます。繰り返しというからは、最低2回は必要ですが、近年のポップスはほとんど2回ですね。

・「変化する反復型」
小さな固まりが繰り返されるのですが、繰り返される度に変形が加えられます。
一般的には変奏曲形式ということになるのでしょう。同じものが変形していく様は、何かしらの成長や、あるものの歴史とか、そういう物語を付与することが可能です。

・「主題繰り返し型」
ロンド形式とか書いたほうが分かり易いのでしょうが、教科書的な言葉を使うと何やら厳格なイメージがしてしまいます。
これはある特定の主題が、思い出したように何回か現れるようなパターンです。
明確な形式感が無ければ、ほとんどの芸術作品はこんな感じの構成に分類されるでしょう。これが一般的なのは、ある程度曲の規模感を出しつつ、その曲の統一感を保つことが出来るからでしょう。
主題が出てくる度に聴衆はほっとするわけですから、この主題に何らかの意味を付加することによって、曲が物語性を帯びてきます。

・「複数の主題繰り返し型」
繰り返される主題が複数あると、曲の構造はとたんに規律を重んじるようになっていきます。
一番良い例はソナタ形式でしょう。ソナタ形式では、曲全体が提示部、展開部、再現部となっており、各所に二つの主題が配置されます。再現部の第二主題の調性が主調になるとか、古典の世界ではそれなりにルールがあります。
このような音楽の場合、曲の構造自体が作曲者の大きな関心となり、そこに積極的な意味が込められるようになっていきます。行き当たりばったりでは複数主題を扱う音楽を作曲するのは難しくなるからです。

繰り返しがどのように構成されているか、こういう観点で楽曲を眺めるといろいろ重要な発見があるはずです。

2011年12月7日水曜日

矢野顕子×上原ひろみ Get Together -Live in Tokyo-

上原ひろみファンとしては見逃せません、このアルバム。
矢野顕子も聴き始めたのは90年代からですが、個人的にはデビューから80年代くらいのちょっと前衛っぽい音楽が好き。この人も結構、変拍子好きなんですね。

そんな二人がピアノデュオ+矢野顕子のボーカルというシンプルな編成で行ったライブの様子を納めたのがこのCD。
何と言ってもジャンルが全く括れない、不思議な音楽空間が私にはとても気持ち良かったのです。
ジャズっぽい部分もあるし、ポップス風の部分もあるし、現代音楽風だったり、民謡風だったり、それでいて二人のあまりに個性的な女性は、全体を通して何とも形容しがたい統一感を作り出しています。
このバリエーションにまず圧倒されました。

��曲目の「あんたがたアフロ」というふざけたタイトルの曲。この前衛っぽさがたまらない。ラヴェルとプロコフィエフをジャズ風味に混ぜ合わせ、そこに自由すぎる矢野顕子のボーカルが入ると、もうどこにも無い音楽世界が出来上がります。
��曲目の「りんご祭り」も面白いですね〜。こてこてのジャズ風に始まりながら、その雰囲気を持ちながら、昭和歌謡の代表とも言える「リンゴの唄」になだれ込みます。昭和的なバタ臭さを漂わせつつも、下降音形の洗練されたコードプログレッションが同居する面白さ。
終曲の「ラーメン食べたい」は矢野顕子の往年の名曲。これも原曲からは跡形もないほど切り刻まれ、新しい魅力が付与されています。

全体的には、上原ひろみとのバランスを保つため、決してボーカルが歌う箇所は多くありません。
その分、きちんとピアノの超速弾きなどのヴィルトゥオーソを楽しませてくれます。
ただ、バックミュージックとして流すには本当にもったいなくて、ライブの雰囲気を一緒に味わいたければ、ヘッドフォンステレオで聴いたほうがいいかも。ピアノの定位感がはっきりしてきて、二人の掛け合いしている様子も味わえます。

二人が出るテレビ番組では、二人がラーメン食べ歩き、みたいなシーンばかりですが、もう少しテレビならではの視点で音楽を流して欲しいものですね。

2011年12月3日土曜日

久し振りにiPhoneアプリをバージョンアップ

iPhoneをお使いの方はご存知のことと思いますが、10月にiPhone4Sがリリースされ、その後iOSのバージョンが5にアップしました。
iCloudへの対応もあったので、喜んでバージョンアップしたわけですが、ある日ふと自分の作ったアプリを使おうとすると、音が全然出なかったり、立ち上がらなかったりすることが判明。
一度はアプリ開発にはまっていたのですが、ここ1年くらいずっとアプリ開発から離れていたので、すぐに治せそうも無い気がして、この不具合にちょっとショック。

しかし、Appleは結構大胆なのです。
ユーザーの見えるところでは、例えばCPUをPowerPCからIntelに変えたり、OS二世代くらいでそのサポートも止めてしまったり。
同様に、プログラム開発していない人には気がつかれないところで、微妙にOSの振る舞いが変わったりします。それによって、突然動かないアプリが出てきたりするわけです。互換はある程度考えはするけれど、正しい方向に向かうためには、過去を比較的簡単に捨ててしまう潔さがAppleにはあります。

ただし、今回の音が出ない不具合については、実はきちんとマニュアルさえ読んでその通りに実装していれば、iOS5でも問題が起きなかった可能性はあります。事実、私が持っている多くの楽器アプリは、バージョンアップ無しで正常に動いていますし。
私のようにお仕事でなく、ちょこちょこと作ってリリースしちゃう趣味層は、割とネットとかで転がっているプログラムをそのまま貼付けて、よーし動いた、とかやっちゃってるんで、まあそれがいけないことでもあるのですけど。

そんなわけでとりあえず、MovableDo が無事バージョンアップしました。
残念ながら機能アップはありません。とりあえず音が鳴るようにしただけです。後は、指を五線上でスライドさせた時の挙動がちょっと変わります。改悪に近いのですが、これもiOSの動作が変わったため仕方なく変更しました。
それから、有料の Meantone もバージョンアップしました。
こちらは、有料なので音が鳴るようになった、というだけでは申し訳ないので、新しい音律を追加することにしました。キルンベルガーの音律を、何と3種類も追加です。とはいえ、マニアックなネタなので、どこまで喜んでもらえるか分かりませんが。

あと、同様の症状になっている TransposeMusicJustIntonation なども順次修正していくつもりですので、もう少々お待ち下さい。
また、これを機に、まだ触ったことの無い方は、拙作のiPhoneアプリを使ってみませんか。