2011年12月18日日曜日

音楽の形式─合唱曲の場合

前々回、形式の大ざっぱな分類をしてみました。あくまで一般論のつもりでしたが、これを合唱曲に限ってみたらどうなるのでしょう。

そもそも音楽は、基本が歌だったのではないかと私は思っています。
人間が歌い始めたのは、恐らくまだ人間が人間でなかった頃からです。しかし、器楽に関していえば、打楽器をのぞけば、たかだか数千年程度の歴史しか無いと思われます。
何を言いたいかというと、音楽が複雑な構築性をまとうようになったのは、器楽の発達と無関係では無いと思うからです。人の声で直接言葉や感情を伝えられない器楽では、音響やメロディ、曲の構成などで芸術的な魅力を出すほうに労力が割かれるようになると私には思えます。

逆に言えば、歌のある音楽には、それほど厳格な構造を希求する理由があまりありません。
従ってたいていの場合、合唱曲は感じるがまま作曲されるのが一般的だと感じます。
また、歌詞があるということは、そのテキストが文章としての何らかの構造を持っており、音楽がその構造に従属されやすいという側面があります。
もし、音楽的構造とテキストの構造を一致させようとするなら相当綿密な設計を作曲前に行う必要があるのでしょうが、少なくとも私の経験ではそのような設計はうまくいきません。作り始めると、メロディや和声が別の力学を主張し始めてしまうからです。

このような場合、おそらく多くの作曲家が取る方法は、前回書いた「主題繰り返し型」です。
具体的な作曲時の感覚は前回書いたので繰り返しませんが、有節歌曲形式ではない歌曲や声楽曲がこのような形式になりやすいのは非常に必然的だし、また自然な選択とも思えます。

実際に合唱曲で主題を繰り返す場合、以下の二つの場合があります。
一つはテキストそのものも繰り返してしまう方法。あるいは、テキストが持つ繰り返しの構造を利用する方法。歌詞とメロディが一致し、繰り返し感が明瞭に現れるので、聴く側にも非常に分かり易い構造性の明示が可能です。
しかし歌詞に繰り返しがある場合はいいのですが、作曲家が自ら詩の構造を変えてしまう場合、ちょっと注意が必要です。冒頭の詩を後ろにまるまる持ってくることにより歌詞の構造を台無しにしてしまうかもしれません。これは、作曲家の歌詞を読むセンスが問われる作業です。

もう一つは、メロディは繰り返されても、あてられた歌詞は変えるという方法。
これ、日本語は言葉のイントネーションの問題があり、かなりきついですね。メロディにイントネーションの違和感があると、日本人は非常に敏感に察知してしまいます。
もう一つは意味の問題もあります。同じメロディを繰り返すなら、テキストも同じ気持ちのものをあてたいところです。もし、テキストの意味する内容が関連が無かったり、逆のことであったりする部分に同じメロディを与えてしまうと、これはまた作曲家の歌詞を読むセンスが疑われてしまいます。

詩に曲を与えるとき、作曲家自らの詩の解釈は不可欠です。そして、演奏家は詩の意味だけでなく、作曲家がそのテキストにどのような解釈をもたらしたか、までを意識しないと、それを生かした演奏が出来ないのではないでしょうか。

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