2009年5月29日金曜日

PD合唱曲に混声合唱曲を追加

混声合唱曲を作曲して、PD合唱曲に追加しました。
題名は「A DREAM WITHIN A DREAM」という曲。英語の詩です。
詩は私の好きなアメリカの作家 Edgar Allan Poe(エドガー・アラン・ポー)によるもの。名前が江戸川乱歩に似ている・・・とか言わないように。乱歩は筆名で、ポーの名をもじったものですから。

何度か、歌としての日本語の特質といった話を書いてきました。
当然、日本語の特質を論じるならば、日本語以外の場合とどういう違いがあるのか考えなければなりません。実践の中でそれを体感するには、やはり外国語の詩に作曲することも必要ではと思っていました。
今回はそれを体験してみようというのが作曲の一つの動機です。で、日本語以外の外国語というと、やはり一般性を考えて英語が適当だと思われます。

英語の詩の善し悪しを論じるには、あまりに経験不足の私としては、まずは好きな作家の詩を用いるというのが最も良い方法に思えました。
ポーは幻想と怪奇の世界を探求する一方、論理性や科学にもこだわった風変わりな作家。一般には推理小説というジャンルを初めて開拓した作家として有名です。
恐らく、今後英語詩に曲をつけることがあるとすれば、またポーの詩を選ぶのではないかと思っているところです。

2009年5月23日土曜日

みんなアーティスト

アーティストがアマチュア化するなら、巷にいるアマチュア音楽家と何ら変わることが無くなります。これは、まさに「みんなアーティスト」時代の到来ということになります。
もちろん、これは音楽をやる誰もが人気アーティストみたいになれる、ということではありません。むしろ事態は全く逆で、レコード会社の方針や妙な業界の力学で音楽が評価されなくなる分、より評価が音楽原理主義になり、演奏の上手さ、表現の巧みさ、楽曲のオリジナリティが情け容赦無く批評されるようになるでしょう。
こういった時代に人々に必要な態度とは、仲間内だからといって上辺だけで褒め合ったりするのでなく、自らの芸術観を個々人が確立した上で、誰に対しても自分の意志で明確な音楽批評が出来ることです。
残念ながら現状ではアマチュアのほうが自尊心が強くて(批評慣れしてなくて)、他人に自分の音楽を批判されると怒る人も多い。中には「一生懸命やった人に対して、そんなことを言うのは失礼だ!」と言わんばかりの人もいます。
失礼のある言い方も問題ですが、他人の批判を謙虚に受け取ることが出来ない音楽家は、恐らくいつまでも成長することは無いでしょう。

まあ、何はともあれ、「みんなアーティスト」時代というのは、決して悪くない時代だと思います。
恐らく最初は芸術の質が落ちた、という人も出てくるでしょう。しかし過去の偉大なアーティストしか愛せない保守的な態度もまた、批判の対象になり得ます。
芸術活動は常に同時代的であるべきだし、もちろん過去から学ぶべきものは山ほどあるとしても、今生まれている音楽、そして芸術を評論する力は、その世界に生きようとするなら必須なものです。
そして、ビジネス縛りが無くなって、本当に、純粋に、音楽そのものの力が試される、そうなったら本当に面白い世の中だなあ、と私は思うのです。

2009年5月18日月曜日

賀茂真淵記念館

Mabuchi浜松に住み始めて早20年経ちましたが、地元にいながら行ったことの無い場所というのがまだまだ結構あるものです。
私が住んでいる場所から歩いて15分くらいのところにある「賀茂真淵記念館」もそんな場所のひとつ。本日、急に思い立ち行ってみることに。
まあ、予想通り日曜なのにお客がほとんどいない、ちょっと寂しい博物館でした。料金は大人300円。
ちなみに行ってみようと思った直接のきっかけは、今週号の「古代文明」に国学の記事があり、そこで賀茂真淵の話を読んだからです。

賀茂真淵とは何者かというと、一言で言えば、江戸時代の「万葉集」研究家。
当時は、そんなものを組織的に研究するような機関は無く、完全なアマチュア研究家でした。しかし、その功績のためか(良く分からないけど)将軍吉宗の次男の家庭教師となり、浜松から江戸に移り住みました。

結構、へぇ~と唸るような話として、「松坂の一夜」というエピソードがあります。
賀茂真淵が関西に旅行した際、その途中の松坂に一泊したときのこと。国学に興味を持っていた若い医者、本居宣長はそのことを聞き、賀茂真淵を訪ねます。そして、その夜二人は国学について語り合ったということです。
本居宣長は賀茂真淵の弟子となりましたが、生涯会ったのはこの一度だけ。それ以降、二人は手紙を通して様々なことを論じ合ったそうです。本居宣長は、やはりアマチュア研究家として、その後「古事記」の研究に大きな業績を残すことになります。
ということで、本日のお勉強はここまで。

2009年5月17日日曜日

アマチュア化するアーティスト

もはや音楽業界の凋落ぶりは明白なものとなり、有名アーティストでさえもCDを売ることが難しい時代になってきました。
そもそも、音楽業界、レコード業界などと言われるものは、エジソンがレコードを発明したときに生まれたものであって、その歴史はたかだか100年程度。音楽はそれ以前からあったわけだから、レコードなんか無くても音楽活動は十分成り立つはずです。

私の予想では、10年くらいのうちに現在の音楽業界には相当の変化が訪れるのではという気がしています。そういえばこんなことを書いてみたのはもう6年前ですが、今でもいずれデジタルコンテンツはタダになると私は思っています。
そうなると、もはやCDのようなパッケージを売ることは商売になり得ず、ライブや広告収入、映画・テレビの挿入歌の提供のような形でアーティストが収入を得るようになっていくのではないでしょうか。

レコードがビジネスにならないとすると、レコードデビューがメジャーアーティストであることの証である今の感覚も変わってくることになります。
結果的にプロとアマチュアの境目も変わってくると思います。というか、今後アマチュア的なスタンスのアーティストが増えてくるような気がしています。
文学の世界では、同様に出版業界が非常に厳しく、なぜかそれと比例するように数多の文学賞が現れ、それに信じられないくらい多くの人が応募しているようです。文学賞を受賞して作家になる人のレベルも高くなり、映画化やドラマ化される例も増えています。
しかしそれでもプロの作家で食べられる人はごくわずかで、本業を持ちながら作家活動と言う人も珍しくありません。

同じことが音楽でも起きるのではないかという気がします。
あくまで音楽活動は趣味だけど、ライブでそこそこお客さんを呼べるようなアーティストとか、映画や放送で使われる音楽を提供できる作家とか、そういうことが成り立つかもしれません。
売れる、売れないで評価しない分、そのほうが音楽そのものに対してシビアに評価できる環境に近づいていくのではないでしょうか。
それは、私も望んでいることなのです。

2009年5月10日日曜日

日本語を伝える-母音の色で言葉を作る

何しろ母音の色は5つしか無い、なんてことは無いのです。言葉によって、文脈によって、そのときの表現の仕方によって、常に発音は変化するはずだし、それを前提に音楽作りをすべきです。
ところが長い間合唱をやっていると、何となく自分が歌う音色が凝り固まってきて、どんな言葉を歌っても、決まりきった発音になりがちです。こういうのはボイトレとかやっても、発音記号としての母音の練習しかしないので、言葉の中の発音というのがどうしてもおざなりになってしまいます。
言葉が浮き立ってこないのは、母音の色の変化の弱さに起因しているのだと思います。変化を付けようとするなら、言葉を何度も反芻して抑揚や音色をきっちり意識するしかありません。

そのために歌詞を一度、話し言葉の発音に立ち戻って、皆で朗読をする、というのは一定の効果はあると思います。さらにその後、リズム読みして、テンポの中で言葉を作っていくとなお良いでしょう。
しかし、学生ならそういった練習もある程度やり易いだろうけど(国語の先生も居そうだし)、なかなか大人にきちんと朗読させるのは難しいかもしれませんね。そもそも、朗読そのものが下手なので、何を練習しているのかわからなくなりそうです。
ただ、昨今の日本の合唱では、均一な音色で、むらなく均等に響かせることを良しとする価値観がやや強いと感じます。宗教曲などはそういう価値観はある程度必要なのですが、同じ歌い方で日本の曲を歌うと抑揚の無い無表情な演奏になってしまいます。
日本人だからこそ日本語の言葉の強さをもう一度再確認し、その強さをそのまま歌にして表現したいのです。逆に今は、日本人だからテキスト読めばわかるじゃん、になっていないでしょうか。
私には、アマチュア合唱では、発声より発音のほうがよほど重要じゃないかという気がしているのですが・・・。

2009年5月5日火曜日

スラムドッグ$ミリオネラ

アカデミー賞受賞作。やや社会派的な内容ぽかったのでそれほど食指は動かなかったのだけど、GWの暇に耐えきれず見てみることに。
結果的には、やはり社会派なのだけど、必ずしも重く暗い雰囲気ではないし、シリアスな内容と共にそれを吹き飛ばそうとするくらいのパワーと前向きさを持った、不思議な映画でした。

何と言っても、ストーリーの基本的プロットが面白い。無学なスラム育ちの青年がミリオネラに出演して、次々に難しいクイズを解いていきます。そのクイズの内容とリンクさせながら彼の生立ちを語っていくうちに、その厳しい現実が彼にクイズの解答を与えていたということが次第に明らかになります。
もちろん、所詮フィクションですから、偶然彼の生涯に関係あるクイズばかりが出るなんてことはあり得ないわけですが、それでも無学な人間がクイズを次々解いていくという爽快さ、皮肉さ、というのが、この映画の面白さの真骨頂なのでしょう。
これだけの厳しい少年期を過ごしてきた主人公ジャマールなのだけど、彼を突き動かしてきたのは愚直なまでの一途な恋愛感情、というのも、深刻な物語をシンプルな気持ちよさに見せかけているのだと思います。

しかし、この映画に描かれるインドのスラムの実態というのは、日本人にはやや残酷に過ぎ、こういった映画は日本では流行らないだろうなあとも思います。子供を物乞いさせるために、わざと不具ものにするシーンなど、直視できない痛ましさです。そして彼の周りの人間も、暴力で次々死んでいく。
経済成長するインドの中でこういった貧民たちの裏社会が存在していることを、声高に主張すること無く、この映画の中で淡々と描写します。
それにしても映画全体がそれほどシリアスにならないのは、スピード感、テンポ感溢れたてきぱきとした進行、映像とリンクしたビート感ある音楽、躍動感溢れるカメラアングルなど、映画の細かい点での技術のおかげ。やけに追跡シーン、逃走シーンも多いし、それがこの監督の持ち味なのかもしれません。
ややシニカルで辛辣な映像作りもアメリカ的正義感とはちょっと違っていて、私にはちょっぴり小気味良く感じました。

2009年5月3日日曜日

過去の自作品演奏をYouTubeにアップ

またまたYouTubeに動画をアップ。
一つは、2000年の静岡県合唱祭にて(今は亡き?)YAMAHA Chamber Choirにより演奏された「雲の信号」です。長谷部雅彦男声合唱曲集所収の「宮沢賢治の詩による三つの男声合唱曲」の中の曲。
画像は歌詞を中心に作ってみました。





さて、もう一つは2006年の同じく県合唱祭にて、ヴォア・ヴェールが演奏した「E=mc2 part II」です。
前年、朝日作曲賞佳作を頂いて、楽譜がハーモニーに掲載されたのを記念して(?)、私が指揮する合唱団で自作自演を行いました。
もともと、この曲はヴォカリーズ的なテキストなので、相対性理論にまつわる画像を集めて動画にしてみました。