詩の文芸誌であるユリイカが、何と「初音ミク」の総特集ということで2008年12月臨時増刊号を出しました。そう言えば、以前ユリイカの総特集を買ったのは、矢川澄子さんのときでしたっけ(2002年10月発行)。
DTMマガジンとかが「初音ミク」特集を組めば、それはもうソフトの使い方とか、歌わせるためのテクニック、といった内容になるわけですが、当然文芸誌が特集を組めば、その内容は全く変わります。
1年半ほど前に発売されたボーカロイド「初音ミク」が、その後ネットや音楽業界にどのような影響を与えたか、そしてそれが現代の社会的な流れとどういう関係にあるのか、そういうことを様々な識者が語っているわけです。
切り込み方は多種多様で、どれもが社会的、文化的視点を持っているから、今時の芸術潮流を俯瞰できるという意味でも、非常に面白い一冊。紅白で見たパフュームの口パク・ロボ声歌唱なんかも、ボーカロイドブームとシンクロしているように思いました。
ちなみに初音ミクにクラシックの声楽曲を歌わせることを「ミクラシック」とか「ボカロクラシカ」とか言うらしく、この本で紹介されている楽曲をニコニコ動画で聴いてみて、こりゃ面白い!と思いました。マタイ受難曲全曲製作に挑戦しているつわものもいます。
もちろん、その音楽にクラシック音楽の精神など求めてはいけません。しかし、そこには高度な音楽性と、センスあるパロディ精神に溢れた新たな芸術の種を感じます。
その雰囲気をうまく言い表している「ミクラシック」の記事に書かれている内容をちょっと長いけど引用。
初音ミクの声はデータベース化された人間の声が組み込まれているとはいえ、本質的に機械的なアンドロイドの声である。それは声であると同時に楽器でもある。そしてその特性は特にノンビブラートの長音やトリルにおいて効果を発する。最近は復古的演奏の隆盛にともないバッハの合唱曲などはノンビブラートで歌われることが多いが、それでも人間が歌う以上そこに音の揺れはどうしても入ってくる。ところがミクが歌う『マタイ』のコラールは、人間には不可能な有無を言わせぬ機械的なノンビブラートによってこの限界を容易に超え、衝撃的なまでの非情な透明さを実現する。
日本人のアニメソングの歌手がそのままの声で『マタイ』を歌うことはほとんど物理的にあり得ないことだが、そのあり得ない超人間的なことをミクは成し遂げる。そしてその一方意外なところで弱点や稚拙さをさらけ出しもする。「萌え」はこの未熟さから発生する。『マタイ』でも特にレシタティーヴ、それもイエスの語る場面においてその「どいちゅ語」は遺憾なく威力を発揮する。原曲ではバスが歌うイエスのパートを、ミクが低音で歌うだけでも異化効果は十分であり、人間が歌えば大いに感情が籠もるはずの最後の晩餐のシーンも明るくあっけらかんと流される。
しかしそもそも二十世紀後半から現在に至るクラシック音楽演奏の主潮流は、感情過多のロマン主義的表現を排除し即物的な表現に徹することを理想としてきたのであり、そこから見ればミクの『マタイ』もそれほど奇矯であるわけではない。実際これだけ異化しながら、バッハの音楽そのものは全く損なわれていないのは見事である。
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