2009年1月27日火曜日

予想どおりに不合理/ダン・アリエリー

Irrational行動経済学という学問があるのだそうです。
この本を読む限り、限りなく心理学に近いのですが、それが経済的行動と結びついているのがポイント。この本では、人々が経済的に見れば不合理なのに、ついついそうしてしまういろいろな行動を紹介しています。そういった人々の行動はまさに予想通りの行動ということで、「予想どおりに不合理(Predictably Irrational)」というタイトルとなっているのです。

例えば、ある雑誌の定期購読の選択肢が次の三つあったとします。
1)ウェブ版だけの購読(59ドル)
2)印刷版だけの購読(125ドル)
3)印刷版とウェブ版のセット購読(125ドル)
この選択肢で多くの人は3)を選ぶのだそうです。ぱっと見ると、2)と3)では同じ値段なので、3)がお得なのは間違いありません。
冷静に考えると、別にウェブ版だけで構わないのかもしれないのですが、この三つの選択肢では3)がとてもお得なように感じてしまいます。
このとき、2)の選択肢は人々を3)に誘導するためのいわば「おとり」なのです。
このように人は、比べるものがあると良いほうに惹かれてしまいます。この気持ちを利用すると、人の選択を操作することがある程度可能になるのです。

上の話はこの本の冒頭のエピソード。これで私はかなり引き込まれました。
この後も、ある価値観が記憶に残っているとそれに影響される話、「無料」というだけで不合理な選択をしてしまうという話、ボランティアだと進んでするのに報酬をもらうとやる気を失う話、自分の持っているものを過大評価してしまう話、価格でモノの価値まで判断してしまう話・・・などなど、興味深い内容が盛りだくさん。
これだけのことに注意していれば、自分も合理的な消費行動ができると思うけど、そりゃやはり無理です。だって人間だもの。
逆に言えば、こういった人間の特性を理解して商売すれば、結構儲かるかもしれない、という気にもなります。

いずれにしろ、自分ではモノの価値を自分なりの価値観で正しく合理的に判断しているつもりでも、実は、提示のされ方、値段、付随するサービス、イメージ、その他もろもろの条件で、その判断は簡単に変わってしまうということを理解するのは大事なことかもしれませんね。

2009年1月24日土曜日

楽譜を読む 見えない作曲家

「楽譜を読む」と題していろいろ書いていますが、結局のところ音楽のやり方に正解など無いのです。私が問題だと思うのは、正解がないものにきっちりとした正解を求めようとすること、逆に正解が無いことをいいことに指示を無視してしまうことです。いずれも両極端な態度ですが、正解が簡単に見つかるようなものなら、そもそも芸術とは呼べないわけで、その中でもがくことこそ音楽することの苦しみであり、また楽しみであるのではないでしょうか。

楽譜を読もうとする時、作曲家が何を訴えたいのか、何を指示しようとしているのか、を読み解く必要がありますが、作曲家の人となりは結局のところ楽譜を通してしか伝えらません。必要以上に作曲家の存在を重視すると、全ての記譜に厳格な意味を求めてしまいがちです。そうすると、論理的に矛盾することがたくさん出てくる。その矛盾に対してさらに厳格に解を求めようとすると、知らぬ間に論理の罠にハマり、作曲家の言いたかったことからさえ遠ざかってしまいます。
楽譜を通してしか見えない作曲家は、楽譜を通してだけ見ればいいのだと思います。少なくとも今生きている作曲家ならば。(古い曲の場合、時代背景も考慮する必要が出てくるでしょう)

テンポのときにも言ったように、指示の直接的な意味をそのまま鵜呑みにするのでなく、その本質的な意味を常に読み解こうとする態度が必要です。
だから同じく"p"と書いてあっても、小さくしたいピアノなのか、大きくしたいピアノなのか、使われ方によって異なる場合もあります。"Tempo primo"といっても、もしかしたら必ずしも最初のテンポと同じでなくていいかもしれません。アクセント、スタカート、スラーのようなアーティキュレーション記号にいたっては作曲家によって、曲によってさえ、その意味合いが違う場合もあり得ます。
でもそれらを読み解くセンスは、日頃注意深く楽譜を読むことによって、十分鍛えることは可能です。でも鍛えた結果は違うものになる可能性もあります。それが、読み解く人が持つ芸術的なアイデンティティとなり、オリジナリティとなるのです。

こんなことを言っていると、結局何を言っても正解かどうかわからない、あやふやな感じを抱くと思います。でも残念ながらそれが真実だと思います。
私が言えるのは、指示の直接的な意味に拘泥して過度にロジカルな解釈を突き進めないこと。どこかの段階で楽譜上の指示を一度曖昧なイメージに変換してみると、全体を俯瞰した本質が滲み出てきます。後は、自分が本質だと思ったことを自信を持って表現してみることです。

2009年1月17日土曜日

合唱名曲選:With a Lily in Your Hand

アカペラスクエアのCDが出来てきて、各団の演奏を聴いています。
自分たちの演奏の傷が痛々しいのは置いておいて、HCCの歌ったウィテカーの"With a Lily in Your Hand"ってかっこいいなあと改めて思った次第。

近年出てきた作曲家の中で、ウィテカーは非常に質の高いコンテンポラリーな曲を書ける人だと私は評価しています。アップテンポ&変拍子とその和声感など、細かく見てみるとそれほど複雑な音でも無いのに、トータルとしての楽想の面白さが非常に斬新に感じます。こういうところが真の能力の高さを感じさせるのです。
甘すぎず、抽象化されたメロディなども才能を感じさせるし、ルネサンス的な音画的発想が曲に仕込まれているのも歌い手にアカデミックな楽しみを与えます。("butterflies"とか、"universe"とか)

あとウィテカーに特徴的だと思われるのはテンション音の使い方。
冒頭の2小節目の"Love" の和音。B-D#-E-F#-B-F# となりますが、つまり B の三和音に E が付いています。譜ヅラだと一見どう解釈していいか迷うのだけど、聴いてみるとこれが心地よい。
私の感じではドミナントの11th(sus4的とも言える)と3rdを同時に使っている、というように解釈しました。なんでドミソにファが付いてるの?と思うとちょっと奇異だけど、ドミナント的に使うなら音楽の流れの中で効果的に聴こえる場合もあるのでしょう。

当然今風の曲ですから、maj7th, 9th はかなり多用されるわけですが、上と同様 11th の扱いがやはり面白い。"universe"の宇宙的な広がりを感じさせる和音では、F#の和音に、6th,9th,+11thのテンション音が乗っかります。特に最高音のソプラノの+11thが神秘的な感じを出しています。
同様の音は、前の方にもあります。32,34小節のG#とか、35,36小節のD#の音とか。D#はテンション音というよりは、リディア旋法的と言った方がしっくりくるかもしれません。

そういった温故知新的な技法と、現代風アメリカ風な音使い、ウィテカーはそれらをうまく縫合して聴き易い音楽を作ることに非常に長けた作曲家ではないでしょうか。

2009年1月10日土曜日

合唱名曲選:Daemon Irrepit Callidus

オルバンの"Daemon Irrepit Callidus"を練習する機会があったのですが、YouTubeで検索すると、まあ世界中のたくさんの合唱団がこの曲を取り上げているのが分かります。いまや隠れた名曲と言ってもいいかもしれません。

この曲の魅力は、ポップスに通じる今どきのビート感を持っているという点、それからモテットでありながらメロディや音の使い方にまさに悪魔的な毒を孕んでいるという点にあるのではないかと思います。
それでいて全体的な楽想がシンプルなので、味付けのしがいがある可塑性も演奏者のやる気をかき立てます。
そうは言っても、このテンポでオルバンの現代的な音程を正確に守ることは難しく、多くのアマチュア合唱団の練習では音取りに難儀するものと思われます。
しかし、実際歌ってみると、この音のハマらなさというのは、歌詞をさばくためのディクションやリズム感、発声のような基礎技術と関わり合っていて、テンポをゆっくりして音を取っても実はあんまり解決にならなかったりします。もっと、総合的な音楽に対する感性の高さが要求されるのです。
実際演奏の動画を聴いても、細かい音符で和音を感じることは難しく、むしろ音楽的にはリズムのキレの良さ、発語の深さのほうが強い印象を与えます。

これは、音符からもそういう傾向を読み取れるのです。
例えば冒頭のメロディ、3小節目の2拍目、7小節目の2拍目はアルトとソプラノが半音でぶつかっています。それから18小節目のアルトはCの方が和音感が高まるのに、Bbを続けるために敢えて9thの微妙な音を使います。30小節やエンディングの半音進行の部分も、各パートはあまり和声の帳尻合わせ的な音を使いません(それでも縦の和声も意外と変ではないけど)。
いずれも、縦より横の力学を重視した音の配置になっているように思われます。
あと楽譜からは、スラーの扱いに多義的なところがあって(同一シラブルの指定、フレージング、単語感をだすため?など)、若干演奏者を迷わせる部分があるかもしれません。

恐らく日本人には、この曲の鋭さを出すために言葉の彫りを深くさせることが大変難しいのではないでしょうか。特に「デーモン」の"d"の爆発具合、「エー」の開き具合を優しくしないことがこの曲の雰囲気を出すのに重要なことのように思えます。
この曲の表現の仕方について敢えて天の邪鬼的な発想をするのなら、私としては「悪魔に打ち勝つ強い心」を表現するのではなく、あくまで「悪魔」そのものを表現したいと思います。悪魔への対抗心はお客さんが感じれば良いのです。

2009年1月6日火曜日

YouTubeに器楽曲をアップ-Ensemble#10

仮想楽器のためのアンサンブル第10番を作曲。
ちびちび書きながら、ついにこのシリーズも二桁に突入です。

今回も基本的には変奏曲的な作りです。時間は7分強。
主題はちょっぴりSFアドベンチャー系映画風。中盤はややおとなしくなったり、ブルースっぽくなったりしますが、後半はビート感が戻り、最後は5/8拍子で疾走し、その勢いのまま終わります。

打ち込みの音源は Halion Symphonic Orchestra。DAWはCubase4。動画の作成はMacにプリインストールされているiMovieと、いつものツール。
YouTubeも16:9になったので、次は画面サイズも変えてみたいです。楽譜はそちらのほうが見やすいだろうし。
あと音声をステレオにしたいんだけど、簡単な方法はないでしょうかねぇ。



2009年1月4日日曜日

ユリイカ総特集 初音ミク

Miku詩の文芸誌であるユリイカが、何と「初音ミク」の総特集ということで2008年12月臨時増刊号を出しました。そう言えば、以前ユリイカの総特集を買ったのは、矢川澄子さんのときでしたっけ(2002年10月発行)。
DTMマガジンとかが「初音ミク」特集を組めば、それはもうソフトの使い方とか、歌わせるためのテクニック、といった内容になるわけですが、当然文芸誌が特集を組めば、その内容は全く変わります。
1年半ほど前に発売されたボーカロイド「初音ミク」が、その後ネットや音楽業界にどのような影響を与えたか、そしてそれが現代の社会的な流れとどういう関係にあるのか、そういうことを様々な識者が語っているわけです。
切り込み方は多種多様で、どれもが社会的、文化的視点を持っているから、今時の芸術潮流を俯瞰できるという意味でも、非常に面白い一冊。紅白で見たパフュームの口パク・ロボ声歌唱なんかも、ボーカロイドブームとシンクロしているように思いました。

ちなみに初音ミクにクラシックの声楽曲を歌わせることを「ミクラシック」とか「ボカロクラシカ」とか言うらしく、この本で紹介されている楽曲をニコニコ動画で聴いてみて、こりゃ面白い!と思いました。マタイ受難曲全曲製作に挑戦しているつわものもいます。
もちろん、その音楽にクラシック音楽の精神など求めてはいけません。しかし、そこには高度な音楽性と、センスあるパロディ精神に溢れた新たな芸術の種を感じます。
その雰囲気をうまく言い表している「ミクラシック」の記事に書かれている内容をちょっと長いけど引用。

初音ミクの声はデータベース化された人間の声が組み込まれているとはいえ、本質的に機械的なアンドロイドの声である。それは声であると同時に楽器でもある。そしてその特性は特にノンビブラートの長音やトリルにおいて効果を発する。最近は復古的演奏の隆盛にともないバッハの合唱曲などはノンビブラートで歌われることが多いが、それでも人間が歌う以上そこに音の揺れはどうしても入ってくる。ところがミクが歌う『マタイ』のコラールは、人間には不可能な有無を言わせぬ機械的なノンビブラートによってこの限界を容易に超え、衝撃的なまでの非情な透明さを実現する。
日本人のアニメソングの歌手がそのままの声で『マタイ』を歌うことはほとんど物理的にあり得ないことだが、そのあり得ない超人間的なことをミクは成し遂げる。そしてその一方意外なところで弱点や稚拙さをさらけ出しもする。「萌え」はこの未熟さから発生する。『マタイ』でも特にレシタティーヴ、それもイエスの語る場面においてその「どいちゅ語」は遺憾なく威力を発揮する。原曲ではバスが歌うイエスのパートを、ミクが低音で歌うだけでも異化効果は十分であり、人間が歌えば大いに感情が籠もるはずの最後の晩餐のシーンも明るくあっけらかんと流される。
しかしそもそも二十世紀後半から現在に至るクラシック音楽演奏の主潮流は、感情過多のロマン主義的表現を排除し即物的な表現に徹することを理想としてきたのであり、そこから見ればミクの『マタイ』もそれほど奇矯であるわけではない。実際これだけ異化しながら、バッハの音楽そのものは全く損なわれていないのは見事である。