2007年7月28日土曜日

アナログシンセの音作り

ウン十年前、シンセはいろいろな音が作れる、と言われたものでした。・・・とはいっても、普通そう言うと、「じゃあ、ピアノの音を作って」とか「人の声を作って」とか「ヴァイオリンの音を作って」といったように、言われてしまうのがオチ。まぁ、一般的には有りものの音しか、人は想像することが出来ないものです。
しかし正直言って、自然の音など複雑すぎて、合成的な手段では音を作るのは不可能と言っていいと思います。実際、最近のシンセというのはPCM音源といって、結局のところ、実際に楽器を録音した音をメモリに詰め込んで鳴らしている、いわばテープレコーダのようなもので、まさに上記のような有りものの音を再現するために出てきた楽器と言えます。

そもそも、アナログシンセというのは、この世には無い不思議な音を作るために存在している、と言っていいと思うのです。幻想的なストリングスとか、フヮ~とした音とか、金属的なベルのような音とか、ビョンビョン鳴るような音とか、それらは何かの楽器の特徴を感じさせながらも、全く聴いたことのない音であり、異次元的、宇宙的なイメージを人々に与えることができるのです。
結局、アナログシンセで音を作る、ということは、頭の中にある音色のイマジネーションを現実化するということであり、そこには作ろうとする者の明確な意思があり、だからこそ、音色を作り出すということが一種の芸術的な行為であるとも言えるのです。
残念ながら、作ろうという強い意志がなければ、やはりシンセでイイ音は作り出せないのです。

2007年7月24日火曜日

シンセを買う

そういえば最近ワクワクするようなモノを買ってないなぁ、と不意に思って、シンセサイザーを買ってみようと思い立ちました。
もっとも、どでかいキーボードを置くような場所も無いし、鍵盤を弾く練習をするわけでも無いので、小型のヤツで十分。それに、弾いて遊ぶというよりは、音をグニョグニョいじって遊びたいので、PCM音源でなくてアナログモデリング系が面白そう。出来れば、合唱の練習で使ったり、場合によっては単旋律くらいなら本番で使ってみたり、なんてことも考えてみました。

というわけで、私が買ったシンセサイザーはKORGのR3
この製品、結構今人気があるようで、ネットショップのどこに問い合わせても品切れ&入荷はだいぶ先とのこと。あきらめていた頃に、某ショップで残り一台あるとの連絡が入り、すぐに購入。

R3の良いところは何といっても、そのサイズと軽さ。
標準鍵で3オクターブの大きさで、重量は何と2.8kgという軽さ!3オクターブなら、片手で弾くメロディならたいていカバーできるし、何といっても持ち運びが簡単というのは嬉しいです。
音も、いかにもシンセ、というような、ビョンビョンした音が久しぶりにワクワクさせます。いろいろなプリセット音を聞いていると、昔大好きだった冨田勲の世界を思い起こすような音もあったりして、往年のアナログシンセっぽい音にちょっぴり郷愁を感じたりします。
そんなわけで、久しぶりに刺激的な音体験が出来そうです。

2007年7月19日木曜日

クロチェット結成記念コンサート

妻が参加しているクロチェットという女性だけの古楽アンサンブルグループの演奏会が、月曜日の祝日に浜松でありました。
私も、関係者として演奏会のお手伝いをしました。ちなみにチケット係は妻の両親。

基本的には、録音担当ということで、レコーダを設置した後、本番では録音ボタンを押しただけ。
後は、チェンバロの搬入、搬出を少し手伝わせていただきました。

私はそれほど、古楽の熱心なリスナーではないので、あまり演奏の質そのものに具体的な評価は出来ないのだけど、バロック時代の音楽の持つ静謐さ、時代的な格調高さ、そして幻想的な雰囲気を堪能しました。
お客は、古楽ファンの集まりとは程遠い層ではあったのですが、意外にも皆さん集中して聴いていてちょっとびっくり。いい音楽はきちんとお客の気持ちを惹きつけるんだな、と感じました。
しかし、後で録音聞くと、妻の音程の悪さがやけに気になっているわけですが・・・

このアンサンブルグループ、女性だけっていうのも結構ポイントだと感じました。舞台から、何か、幻想感がより高まる感じを受けました。そういう線を上手く狙っていけば、良いグループになるのではと思います。

ちなみに、アンコールでは、某有名曲を私が編曲したモノを演奏してくれました。チェンバロ、ガンバ、バロックヴァイオリンの楽譜を書くのも私にとって貴重な体験でした。

2007年7月14日土曜日

メロディ学 拍節感

拍節感って何となく意味が通じてしまう便利な言葉なのですが、人それぞれ厳密なイメージがずれていないか、心配なところでもあります。
私の言うところの「拍節感」とは、「拍」がビートの最小単位であり、「節」は小節、つまり「拍」の集まりでもう一段階大きな構成を意味し、この二つが合わさることで、拍の強さとその繰り返し感全般を表している、といったような定義です。
従って、私にとって拍節感はテンポの速さとは関係ないし、リズムの種類のことでもありません。あくまで、ビートを感じるか、そしてその繰り返し感を感じるか、ということなのです。

そういう意味では、拍節感とは3段階のレベルがあります。
 第一レベル:「拍」も「節」も感じない
 第二レベル:「拍」は感じるが、「節」は感じない
 第三レベル:「拍」も「節」もはっきりしている
第二レベルとは、例えばルネサンス期のポリフォニー音楽などを想像してみてください。そもそも、この時代の楽譜には小節線がありませんでした。ビートはたいてい二分音符が基本となっているのは感じるのですが、それがいくつあって一つの小節と感じるか、ということは音楽を聴いても感じるのは難しいでしょう。
あるいは、ビートははっきりしていても、言語に合わせて変拍子が多用されるような場合、音楽だけで小節感を感じることは難しくなります。それも第二レベル的といえるかもしれません。

「拍」を感じる音楽が、さらに「節」まで感じられるようになるには、「拍」の繰り返し感が必要です。
繰り返し感は基本的には、メロディや伴奏のパターン類似性から類推できますし、また各ビートの強弱でその感覚は補強されます。場合によってはビートによって長短がつく場合もあるかもしれません。西洋音楽的にはポリフォニーがホモフォニーに変化していく段階で、このような「節」感が明確になってきたものと思われます。

メロディにおいても、上記の三レベル、いずれのパターンもありえると思います。例えば、民謡のメロディなどを集めてみて、上のレベルに当てはめてみるといろいろと興味深いことを感じられるかもしれません。

2007年7月11日水曜日

メロディ学 言語依存度

以前、「音楽と言語」という本を紹介したんですが、まさにこの本、言語と音楽の関連性を述べているわけです。西洋音楽史全体を俯瞰した考察は大変示唆に富んでいます。
そもそも、この本が言っていることは、最初に音楽と詩が不可分の状態にあり、そこから韻を持つ詩の世界と、リズムや音階を規定した音楽の世界に分かれた、と述べられます。そして、西洋音楽の歴史が、言語へのすり寄りと音楽そのものの力学の間で、振り子のように振れていることを時代を追いながら解説しています。

前回私が書いたタイプ分けで言うなら、現在のポップス全盛の世の中では、タイプ1の、言語感を大事にしながら、拍節感の強い音楽が一般的と言ってしまってよいと思っています。
しかし、タイプ1の中でも、より言語依存度を高くした、タイプ3のベクトルを持った音楽、あるいは逆に、器楽的なメロディを多用したタイプ2のベクトルを持った音楽というのがあるのではないでしょうか。

音楽史的には、バッハはまさにタイプ2的な音楽を志向していました。声楽であっても、徹底的に器楽的に扱うという方法です。「音楽と言語」でもこのように述べられています。
「彼(バッハ)は言葉を、響きをもち、形をもった意味形態として使用することをやめた。すなわち彼は、言語を自律的な表象像の総体、あるいは言語的形態としてみなすことをやめて、むしろそれをとくに言語的な性質をもたない意味関連の標識として、つまりそこに述べられている意味を単に指し示す指標としてみなしていたのである。」

言葉を語られるものとして使うのでなく、その意味のみを利用することによって、より音楽は器楽的な方向性に向かいます。確かにこのことは器楽的なメロディの特徴の一つを表しているように思えます。

2007年7月8日日曜日

安徳天皇漂海記/宇月原晴明

Antok一言でいえば、史実を元にした壮大な歴史ファンタジーって感じでしょうか。
ちなみに、題名が類似している澁澤龍彦「高丘親王航海記」ですが、やはりこの小説が書かれるきっかけになっており、この作者のリスペクトの対象となっているようです。何といってもこの小説のラストに、「高丘親王」も登場してしまいます。まるで、「高丘親王航海記」の続編のように・・・

さて、この小説、安徳天皇が題になっているけれど、肝心の安徳天皇は琥珀の中で眠ったままという設定。この安徳天皇が眠る琥珀の玉をめぐって、様々な人物が登場します。
第一部は、源実朝編。源実朝のお伴をしていた近習の想い出語り、というスタイルで文章は紡がれます。壇ノ浦の海に散った安徳天皇は実は琥珀の玉の中で眠ったまま生きている、という設定。この琥珀の玉を、源実朝が保護していこうとする様を描きます。しかし、史実どおり、実朝は甥の公暁に暗殺され、琥珀の玉は遠く中国に運ばれるところで一部が終わります。
第二部は、マルコ・ポーロ編。今度はマルコの視点から描かれ、三人称スタイルに文体が変わります。元のクビライ・カーンに仕えて面白い話を聞かせる務めを負っているマルコ・ポーロ。そのマルコが、不思議な琥珀の玉の話を聞き、それを確かめるため元に最後の抵抗をしている南宋に赴きます。そこでは、南宋の幼皇帝が琥珀の安徳天皇と夢の中で交流しているのでした。しかしその皇帝も、安徳天皇よろしく、元の水軍の前で入水することになります。・・・そらに琥珀の玉の行方を追って、マルコはラストの不可思議で壮大なシーンを体験するのです。

歴史上の有名人物が、安徳天皇の琥珀の玉をめぐって、様々に思案し、行動していく様子がとても面白い。そういえば、ちょっと前の大河ドラマ「時宗」を思い出しました。あのときも、マルコ・ポーロが出てきましたし。
個人的には古文がちょっと苦手なんですが、特に第一部、「吾妻鏡」や「金塊和歌集」が、何の解説もなく引用されているのは、正直読むのがしんどかったです。
ただ、そういう非常に手の込んだ小説世界が本当に素晴らしくて、この伝奇的なファンタジーのとりこになったのは確かです。

2007年7月6日金曜日

メロディ学 第二章

昨日の調子でメロディラインを解析していくと、ちょっと大変なことになりそうなので、もう少しマクロ的な視点に変えてみましょう。

ものすごく荒っぽいのだけど、メロディの特徴を二つの評価軸で表現してみようと思います。
一つ目は、拍節感の強さ。
二つ目は、言語依存度の高さ。
言語依存度が高いという意味は、歌詞が付いている可能性が高くなり、人に歌われるという側面が強くなるということです。逆に言語依存度が低いほど、器楽的なメロディになっていく、というような意味です。
この二つを掛け合わせると、メロディは4種類のタイプに分けられることになります。
 タイプ1:拍節感が強く、言語依存度が高い
 タイプ2:拍節感が強く、言語依存度が低い
 タイプ3:拍節感が弱く、言語依存度が高い
 タイプ4:拍節感が弱く、言語依存度が低い
これにものすごくざっとですが、音楽のジャンルや楽器のイメージ等を当てはめてみます。
 タイプ1:ポップス(歌モノ)
 タイプ2:管弦楽曲、室内楽曲、ジャズ、フュージョン(インスト)
 タイプ3:民謡、聖歌、レシタティーヴォ、詩吟
 タイプ4:現代音楽、尺八
かなり乱暴な分類もありますが、何となく言いたいことはわかってもらえたでしょうか。

2007年7月5日木曜日

メロディ学 第一章

メロディ学なるものがないのなら、作ってしまおう!という勢いで、メロディについて分析してみたくなりました。まあ、手の込んだ冗談とでも思って読んでください。^^;

まずはメロディの定義から。
「音程を持っている一つの音が、時間の経過とともにその音程を変えていった一連の軌跡」というのはどうでしょう。この定義だと、音程のない打楽器にはメロディは奏でられないし、また同時に二つ以上の音が鳴っている場合はメロディを特定できない、ということになります。

さて、この定義からすると、メロディは二次元のグラフにて即物的な記述が可能になります。縦軸は音程、横軸はもちろん時間。つまり、メロディを分析するには、この二次元グラフ上に描かれた一本のラインの性質を解析することに他なりません。

そのラインを解析する視点をいくつか挙げてみましょう。
・時間軸上の周期性(拍節感)
・メロディ内の各音程の関連(分散和音、スケール、調など)
・単位時間当たりの音程の数、音価の最小単位
・音程跳躍の量と頻度

・・・まだまだありそうですが、まずは上記の項目について論じるだけでも大変な時間がかかりそうですね。

2007年7月2日月曜日

300 / ボルベール

今週末、二本の映画を観たのですが、両方ともなかなか面白かったので、一緒に紹介。
しかもこの二本、全くの正反対の映画。「300」は、ひたすら戦闘シーンのマッチョな男性誌的映画。「ボルベール」は男と女、そして母と娘の愛憎劇といった女性誌的映画。

「300(スリーハンドレッド)」は紀元前500年ころの、スパルタ対ペルシアの戦争を描いたもの。しかし、いわゆる歴史映画とは趣が異なっています。例えば、もはや劇画チックとも言えるくらい典型的な正義と悪との対比とか、血しぶきが飛び、手や足や首がスパスパ飛んで行く、グロさ一歩手前の殺戮シーン(ちなみにR-15)、あり得ない怪物や奇形人間なども登場といった具合。史実を元にした男性視点のファンタジーといった感じです。
そういう意味では、全く内容に深みはないのですが、逆にそこまで開き直った勧善懲悪が心地よくて、不謹慎ながら敵をバッタバッタと切り殺していく様は爽快感さえ感じました。それを強調するような映像美もなかなかのものです(非常に二次元的な、不思議な映像でした・・・何らかのエフェクトを使っているのでしょう)。

続いて「ボルベール」。出てくる人物はことごとく女。主人公と、その娘と、その姉と、その母と、その叔母と、叔母の隣人だけで成り立っている狭い人間関係。そして、その影には横暴で女を不幸にさせる男の影が・・・。
酔って娘を犯そうとした主人公の夫が逆に娘に刺されて殺されてしまう、というショッキングな事件からストーリーは急激に回り始め、最後には想像もしなかったような過去の事実が明らかに・・・。韓国ドラマ的とも言うべき、ベタなストーリーであることは否めないけど、何しろ登場人物一人一人の生き様がリアルで力強いというのがスペイン的なのでしょう。特に主人公を演ずるペネロペ・クルスの演技の熱さ(ついでに豊満さ)が、何しろこの映画の見どころ。中盤でレストランでのボルベールの歌を歌うシーンは思わず泣けてきます。

つまり、典型的ではあっても、描きたいところに集中して、しっかり作っていけば面白い映画になるのだなあ、と納得。