2004年7月26日月曜日

歌に求められているもの

またまた乱暴な分け方をしてしまいますが、音楽が人に与える影響は、「音響」と「メロディ」に分けられると思います。

「音響」とは、編成とか、それに由来する音色の違いとか、ホールの響きとか、打楽器の力強さとか、ステレオ効果とか、音環境全般を取り巻くものが私たちにもたらすイメージのことです。前々回書いた、鼓童の音楽の魅力とは和太鼓による音響の迫力であり、楽器演奏自体がパフォーマンス化したその舞台空間にあるのだと思います。同種の面白さは例えば、バリ島のケチャのような音楽。これもピッチのない掛け声をリズムとパフォーマンスで規律化したものだと言えるでしょう。
映画音楽でも未だにオーケストラ的音響が使われるのは、映画の持つ壮大な雰囲気や、勇壮な心持を表すのにオーケストラ音楽の音響は非常に重要な役割を示しているからだと思います。
音楽がどのような空間で、どのような楽器で演奏されるかというのは、人の印象に大きな影響を与えます。そして、クリエータ側は、まずこの音響的な側面を非常に重視します。

その一方、音楽のもっとも根源的なアイデンティティとして、メロディがあると思います。
合唱をやっていると、メロディが人に与える影響は、本当に強いものだと実感します。私たちは人生において、自分が熱中したものに関連する音楽や、遠い昔に何度も聴かされたような音楽に特別に郷愁を感じます。合唱のステージで唱歌をアレンジしたものがうけるのは、多くの人が小中学校時代にそれらを覚え、そして歌い継がれた曲たちだからでしょう。そういう意味では、なつかしの映画音楽であるとか、アニメ主題歌集であるとか、こういったポピュラーステージも根は同じで、そのメロディを聞かせて、久しぶりにあの頃の郷愁を感じさせることで人々を楽しませるわけです。
こういった音楽の力は本当に強いと思ったりします。演奏がいくら下手でも、涙を流して喜んでくれる人たちだっているのです(それを自分たちの音楽の力だなどと思ってはいけない)。
それらがとびきりの名曲というわけではないかもしれません。それでも、ある一時代を象徴する音楽は、人々の心に音楽の価値以上のものをもたらします。メロディは、どのような編成で演奏されても必ず人々の記憶を呼び覚まします。このとき、音楽の評価は音響の力を超えたところに持っていかれてしまいます。

歌を歌うものとして、上のような効果は無視できないことです。日々の練習は、ピッチやリズムを合わせ、音楽の表現を高めるような音響的側面が大きいわけですが、メロディとして何を歌うのか、それをもっと戦略的に考えることはできるでしょう。
オリジナル合唱曲はもちろん芸術性の追求として必要なものではあるのですが、残念ながら一般大衆の興味はそこまでついてきてくれません。演奏家のアイデンティティとして、歌の持つ郷愁をいかに提示するかというのももっと追求すべきことのように思います。
例えばNHKがやるような「懐かしのあのメロディ」なんていう番組は永遠になくならないでしょう。若い頃はバカにしていたのに、そこで選ばれる曲がだんだん私たちの射程距離に入ってきた感じがします。もう10年、20年したら、そういった番組でピンクレディやキャンディーズの曲をなつかしながら聴くんだろうなあ。

ときにオリジナル合唱曲の面白さは何か、と考えたときに、どうも私たちは独りよがりなものを作り続けているような気がしてしまうのです。
テキストの精神性のようなものに依拠したメッセージ性の強いもの、時間密度の極端に濃いものは、簡単には理解してもらうことは不可能です。もちろん、過去の多くの名作のようにいずれ多くの人に理解されるだろうと楽観的に考えてもいいのだけれど、私としては、上記のように合唱という音響特性をもっともっとアピールするような音楽であるとか、逆に民謡、唱歌アレンジなどのメロディを楽しませるもの、という観点で作品が作られても良いのかな、と最近は感じています。

2004年7月18日日曜日

なんとかならないかスパムメール

今、私のところにも毎日10通ほどスパムメールがやって来ます。
DMだって十分うるさいのに、自分とは全く関係ないスパムメールを毎日のように削除するのは、全くバカバカしい行為です。
まあ、HP上でメールアドレスをさらしているので、何のメールが来てもおかしくは無い状態ですが、他人からのメールを受け付けたいから公表しているわけで、スパムの嵐から解放されるためにアドレスを変えるのもまた口惜しく、未だに何も対策していません。
実際、プロバイダにもスパム対策のサービスはあるのですが、送信先も受信先も毎日のように違い、タイトルでも特定の文字列では判定できないとなるとそういうサービスもほとんどお手上げです。
まだ10通程度なのでいいですけど、これが100通とかなったらマジメに考えないとやっていけないでしょうね。そうなる可能性は、十分あるわけですし。

そう考えると、ネットの世界というのはつくづく不思議なもののように思えます。
どんな通信手段だって完璧というものはありません。しかし、ツールが便利になればなるほど、結局行き着くところは「人間」の問題なんだなあ、と最近は感じたりするのです。
電子メールの良さは、パソコンの前にいるだけで、世界中の誰にでも自由に手紙を出せるということです。距離という障壁、手続きの面倒さという障壁が無くなれば、送りたい人にとってはどこまでも便利なツールです。送るのに不便だったり、お金がかかったりしたからこそ、通信量が抑えられていたのであり、お手軽になればなるほど全体の通信量が増えるのは当然のことでしょう。
送る人が自由になった分、送られる人の迷惑さという、今まで考えもしなかったことがクローズアップされます。不必要なものなら送られれば捨てればよい、と昔なら思えたのですが、「捨てる」という行為さえ莫大な時間になってしまう、ということまで予想することは出来ませんでした。
所詮、便利なツールを作っても使うのは人間です。人間が、このツールをどのように使うのか、それをきちんと規定しなければ、結局のところツールは使えないのです。法を犯すことにためらいを感じない人がすこしでも商売で儲けようと思えば、こういったツールをいくらでも悪用することは出来ます。使う人の道徳心などに期待するレベルではなくなってきているのです。

携帯のメールでも、アダルトサイトのメールを頻繁に受信します。こちらは特に削除するようなこともしていませんが、老若男女みさかい無くこのようなメールが送られるとは、今までの常識では考えられませんでした。通信にお金がかかったからこそ、昔はノッてきそうな人だけに連絡していたのでしょうが、メールを送るコストがタダになれば、そんなまどろっこしいことはしないのは当たり前です。プログラムさえ書けば、何もしなくたって自動的にメールを送ることは出来るのですから。
しかし、その結果、誰のみさかいも無くああいうメールが送られてくる世の中って何か間違っている・・・と思いませんか。世の中にあるノイズが、オープンな環境によって、簡単にかたぎな世界に流れてしまうのです。

いま、考えようによれば、ネット社会は管理化のほうに行くか、オープン化のほうに行くか、迷っているような気がします。
例えば、世の中の全ての人の行為が管理されれば、世の中の悪を取り締まるのに非常に効率が良くなるでしょう。しかし、そんな世界は誰も望まない。逆に、何も管理せずにオープン化すれば、様々な利益を世界中の人々が享受できるのと同時に、一部から発せられるノイズがどこまでも凶悪になることを容認することになります。

スパムメールを根本的な意味で退治するのは不可能に思えます。例えば、あるアドレスから一定時間内に大量にメールが出るのを取り締まるのならDMと区別する方法が必要ですし、そうやったとしてもスパムの発信先を転々と変えるような手法が現れれば、あっという間に上の方法は意味が無くなります。
結局のところ、自分自身がメールに対してフィルターをかける方法を考えていかざるを得ないのでしょうか。

2004年7月11日日曜日

もし、プロ合唱団を作るなら

ちょっと前に、こんな話を書いて、聴衆不在の合唱界を活性化するために、合唱のイメージを変えるようなスーパープロ合唱団が出来たら・・・なんて書きました。もちろん、具体的なイメージがあるわけでもありません。それでも、電子バイオリンを持ってステージ上を動き回るセクシー弦楽四重奏団や、中国の民俗楽器を演奏する12人の女性バンドとかがマスコミの注目を集める時代なのですから、アイデア次第でなんかできそうな気がしてきませんか。そんなわけで、たまにはちょっと妄想系に入ってみましょう。

といいながら、いきなり別話題ですいませんが、先週テレビで、「鼓童meets玉三郎」をという番組をやっていて、これに私は非常に感銘を受けたのです。(また再放送されるようなので、気になる方はお見逃しなく。鼓童のHPはこちら)
鼓童はいわずと知れた和太鼓の演奏集団。実は私、まだ一度もコンサートに行ったことはないのですが、この番組を見て、今度は絶対に行きたいと心に誓ったのでした。
彼らの本拠地は佐渡島です。一年の1/3を佐渡で、1/3を国内ツアーで、1/3を海外ツアーで過ごしているそうです。プロといっても都会でない場所に本拠地を置き、そこでひたすら練習を重ねるような、そういうプロ団体というのはクラシックの世界では聞いたことがありません。もちろん、日本の伝統的な音楽を中心にすえ演奏活動するわけで、その意識を保つためにも都会でなんか暮らしちゃいけないのかもしれません。でも、音楽演奏に対するそういった精神的な態度は、全く恐るべきものです。

このテレビ番組の中でも、そういった彼らの音楽への真摯な態度を感じることが出来ました。
自分たちだけで作ってきた今までの音楽がマンネリ化していないか、それに疑問を抱き、玉三郎を演出家として招きます。最初は、私も玉三郎なんて音楽家じゃないし、なんか眉唾だなあと思っていました。しかも、なんで女形の人ってカマっぽい話し方になっちゃうのかな、なんてことを考えながらぼんやりテレビを見ていたのですが、なんだか段々面白くなってきます。よくよく聞いていると、玉三郎の言うことは、やっぱりなかなか奥が深いのです。芸術全体の普遍的な考え方みたいなものをしっかり捉えていて、鼓童のメンバーとやりあいながらも一つずつ音楽を仕上げていく様子に、だんだん惹きこまれていきました。
それに、玉三郎ってなかなか音楽の素養も高そうです。古典芸能全般に関して、一通りのことができちゃうんですね。それに気づいたとき、ようやく、なんで鼓童が玉三郎を呼んだのか、その理由が分かった気がしました。
印象的なシーンは、鼓童のメンバーの一人が、ある民謡を玉三郎に歌い聞かせたところです。本当に情感がこもっていて、聞いていた玉三郎も思わずホロリ。歌の本当の力を垣間見た気分でした。
鼓童のメンバ、実は歌もステージでかなり歌います。もちろん民謡に根ざした旋律なんですが、合唱で中途半端に民謡を歌っている私たちが本当に恥ずかしくなるくらい、日本の叙情世界にどっぷり浸かった彼らの歌声は聞くものの心を揺さぶるものです。
��鼓童は伝統音楽に関するワークショップなどもやっていて、その中で「ヴォイス・サークル」なんてのもあるようです。ちょっと興味あり)

もはや世界的に成功を収め十分なネームバリューもある鼓童のように、しっかりした芸術的目的意識を持ち、独自の音楽を作り続けるようなそういったプロ合唱団というのは出来ないものでしょうか。
合唱団というわけではないけど、歌関係でちょっと気になるのはイギリスのADIEMUSというグループ(というか、カール・ジェンキンスによるプロジェクト的団体らしい)。このバンドも、ちょっとエスニックな不思議な「歌」の世界を追求している面白い音楽を作り続けています。

まだまだ、歌でも、新しい表現方法でありながら人々の心を打つ、そういった個性ある音楽を作ることは可能だと私は信じています。

2004年7月4日日曜日

ティム・バートンにはまる その2

シザーハンズを観ました。
はさみの手を持つ主人公エドワードって、もうこれ監督のティム・バートン自身じゃないの、と感じてしまいました。この映画、構想から脚本まで、ほぼティム・バートンが手がけていて、ストーリーから映像まで、何から何までもがティム・バートン色に満ち溢れています。
そして、主人公の人造人間エドワード。突然街に連れてこられるまで一人で城に住んでいたので、街の人たちと正常にコミュニケーションが取れない。街の人は、ちょっと異質なエドワードを最初は大歓迎し、チヤホヤともてはやすのだけど、一つ歯車が狂い始めると、まるで手のひらを返したように迫害し始めます。
映画の中では、なぜエドワードがはさみの手なのか、明確な説明はありませんが、この映画に対してそのことを突っ込むのは野暮というものです。なぜなら、このファンタジーにとって「はさみ」は極めて象徴的なモチーフと思えるからです。
映画の中で「はさみ」は、独創的な形に植木を刈ったり、髪の毛を切ったりする、芸術性を表現するための道具であると同時に、近くにいる者を思いがけず傷つけてしまったり、時として暴走する怒りの感情で凶暴な凶器に変わってしまったりします。まさに、「はさみ」は、芸術家的資質を持ちながら、他者とのコミュニケーションを不得手とした人間の、そしてそれはティム・バートンの人間性そのものを象徴しているように思えてしまいます。
そう思うと、この映画も、太宰治の「人間失格」とか、谷崎潤一郎の「異端者の悲しみ」のような、自身の青年期の不安定な心理を語った自叙伝的な芸術作品と言えるかもしれません。

それにしても、ここまで作家性が強烈に発揮されるような映画監督というのは本当に珍しいと思います。
だからこそ、ティム・バートンにはマニアックな支持層が多いのでしょうが、このような個性ある作家性を持った映画監督が活躍できるアメリカの映画産業というのも大したものです。
もっともティム・バートン自身は、いろいろと映画の内容に口出しされたり、肩越しに撮影をチェックされるようなハリウッドの環境にいろいろ不満を述べたりしていますが、まあ経営側から見れば当たり前のことでしょう。本当かは知りませんが、「マーズアタック!」でティム・バートンが好き放題に作った結果、興行的に失敗してしまい、しばらくティム・バートンはお仕着せのテーマでしか撮らせてもらえなかったという話もあります。
それでも、30ちょっと前の若輩者にバットマンの映画監督を任せるというのは、やはり日本では無理だろうなあ、と思います。

話はそれますが、映画作りというのは、チーム作業によるものなわけで、以前私が書いたこんな話がやっぱり当てはまるんだろうなあと感じます。
恐らく、日本の映画監督というのは現場監督そのものであり、大勢の人たちを一言で動かすだけのカリスマ性、及び事務能力が必要とされているのではないでしょうか。だから、まず人間的に頼りがいがあり、人々の信頼も厚いというようなそういう人(経営者のような)であることが要求されているような気がします。
それに比べると、少なくともティム・バートンの例を見る限り、アメリカ映画では映画監督の芸術性をきっちり判断するような審美眼を制作側が持ち合わせているし、映画に携わる人たちも、監督の人柄でなく(だけでなく)、芸術性を信頼しているように思えます。
それは、どのようにすれば良い映画が作れるかわかっているからであり、もう少し悪く言えば、何が売れるのかという意識を明確に持っているからなのでしょう。
芸術のことを考えれば考えるほど、そういった日本と海外の審美眼の違いに見えざる壁をいつも感じてしまうのです。