2015年10月11日日曜日

シンギュラリティは起きない

AIネタです。よく言われる、シンギュラリティ、技術的特異点。
AIが自分より賢いAIを生むことが出来るようになったとき、加速度的にAIが賢くなり、人間を超えてしまうタイミングが訪れる、というのが私の理解。

もちろん、元ネタをきちんと知っているわけではないので、多少認識に間違いがあるかもしれませんが、AIがいつか人間を超えてしまう、という点については、世の中の理解とそう遠くはないはずです。

で、今のところの私の結論は、シンギュラリティなど起きないし、AIが人間を超える、といった現象も起きない、と考えています。
そもそもAIが人間を超える、というのはどういう状況なのか、という問題はあります。人類がそれに気づかなければ、超えたことにもならないからです。まあ、そういう意味でも超えないと言えるかもしれません。


たまたま人工知能研究者の本を立ち読みしていて、下のような話が書かれており、非常に納得したのです。(じゃあ、本買えよ)

曰く、人工知能には知能があるけれど、生命がない。

これは非常に重要なことを意味しています。生命のないところに、いかなる欲望も生まれず、いかなる欲望もなければいかなる能動的な行動や発言も生まれないと思うからです。
気の利いた会話とか、他人への思いやりとか、ある考えに対する反論とか、他人に対する好感とか、つまり、そういった感覚全てが生命であることに起因していると私には思われます。このような感情を持ち得ない以上、人間を超えるどころか、人間と対話することすら出来ないと思います。

もちろん、今でもSiriのようなサービスで、ちょっとだけ気の利いた答えを返してくれることがあります。しかし、どう考えてもそのような言葉は単にプログラムで仕込まれているだけで、人間のように常にその場で考えながら発言しているわけではなさそうです。だから、Siriは特定の言葉(しかもプログラマが考えた)しか発することができません。

今後、パターン認識的に、多少は発言にバリエーションが増えたり、全く空気を読まないような発言は減ってくるでしょうが、それでも、人間のリアルタイム性、反応のバリエーションには遠く及ばないでしょう。

そして、それを実装しようと思うほど、プログラマはAIに生命を植え付ける必要が出てくると感ずると思います。
もっと言うと、複数の生命がしのぎを削り何世代も進化させることによって、いわゆる自然淘汰による進化が起きるわけですが、そのような生存競争を経て進化した意識でないと、少なくとも動物レベルの能動性を獲得し得ない(「生命」を植え付けたことにならない)と思います。


人間の仕事の中で、あるパターン化された仕事を非常に高い精度でこなす必要のある仕事があります。いわゆる職人技と言われるような類いの職業です。

これらは何年もかけて修行を積む必要がありますが、そこで職人が得る知見というのは、やり方や量が具体的であるほど、実はコンピュータにとって非常に親和性の高い情報だったりします。

AIが得意なのはまさにそんな領域です。
一人で黙々とこなす職人の世界。これこそが、ディープラーニングで知識化したAIによって置き換え可能な職業だと私は考えています。
皮肉なことに、人間が人生の中で苦労して身につけるようなスキルはAIがとても得意なのですが、人間のもっともプリミティブな(動物的な)部分をAIはほとんど真似ることが出来ないのです。

人々の欲望に従って世界が周る限り、そして人間が自ら地球を住めなくしてしまうまでは、AIは人間と同じような人格を持ったモノには成り得ず、特定の技術をデータ化したエキスパートシステムとして、もっと言えば安価になった工場で動いているようなロボットとして、我々の生活に浸透してくるだけなのだと私は思います。




2015年9月21日月曜日

Yamaguchi Mini Maker Faire 2015に出展しました

Yamaguchi Mini Maker Faire(YMMF) 2015 に出展しました。場所は山口市の情報芸術センターYCAMという場所。
芸術センターというだけあって、建物の形もちょっと変わっています。


私の出展スペースはこんな感じ。今回は一人での参加なので、それほど展示物も多くありません。
内容はいつものMagicFluteに加えて、試作中のMagicShakerも基板のまま展示。今回も二日間、ずっと笛を吹いておりました。
MagicShakerはそこそこウケが良かったと思います。次回は何とか筐体を作って持っていきます。


今回は、土曜の17:30からMagicFluteのライブをさせてもらいました。
曲目は「大きな古時計」「ロンドンデリーの歌」「ふるさと」の3曲。(昨年のHMM用に作ったカラオケを使用)
会場全体にMagicFluteの音が響き渡ったと思います。こういう機会があれば、これからもどんどん出て行こうと思います。(今のところ写真とは無し)

私は自分のブースに張り付いていたので、ほとんど他のものは見れませんでしたが、いくつか見た中で面白かったものを紹介しておきます。
手を動かすと3Dのホログラムみたいな映像が動くという仕掛け。カッコ良かったので写真を撮っておきました。

なんとフロッピーディスクのモーターの音をMIDI音源にしてしまったというとんでもない代物。しかも8インチフロッピーなんですよ!

テルミンのような音を非接触でなく、矢印のコントローラを使って演奏する楽器。確かにテルミンっぽい音がしてました。

本物の生楽器です。廃材を使って作った打楽器やバイオリンなど。電子楽器ばかりやっていると、こういう方々が羨ましく思えます。

それから、FABLAB浜松の方々も来てました。彼らとは浜松ではない場所でばかり会ってる気がします。


懇親会では何人かの人と話をして盛り上がりました。

MFTには無い地方のMakerFaireの楽しみとは、こういった出展者同士の交流にあるような気がします。
東京以外のMakerFaireも今後も出て行きたいと思います!
(しかし、山口は一人で行ってもお金がかかります・・・)


2015年9月17日木曜日

人が格差で分断されるということ

政治や経済に詳しいわけではないけれど、マクロ的に社会を論ずることは大好きです。
これまでもいろいろと未来社会を想像してきましたが、私が考えていることは、非常に特定のシチュエーションや特定の人たちに特化していたような気がしてきました。

実際には、世界はもっとまだらに変化し、ある人たちは想像以上の変化が起き、またある人は今と大して変わらない未来が待っているのかもしれません。
いずれにしても、全ての人に同じような未来が訪れるわけではないだろう、ということです。


人々がまだらにしか変化しないということなら、それによって格差はどのようにして付いてしまうものなのでしょう。

お金を持っている家庭に生まれた子供は良い教育を受けることが出来ますが、そうでない子供は教育機会さえ持ち得ません。
結果的に、親の貧富が社会的に子供に影響を与えてしまいます。こういったことは統計的にも明らかなことのようです。

ただ、これは必ずしも受けた教育の質だけの問題ではないような気がするのです。
収入の多い人と、少ない人では、モノの考え方も違っています。それは単純に政治的信条が違うというレベルに留まりません。
場合によっては、風習や伝統といったものへの対応、行動様式、ある言説に対する反応、そういった物事に対して、大きく考え方が隔たっていることがあるように思えます。

考え方の違いは文化的な差になり、格差のある人々はついにお互いに話しても分かり合えないほど、考え方や指向性が変わってしまうことがあるのではないでしょうか。
このような状況においては、お互いが違う人たちを避けるようになり、コミュニティがどんどん分断されていきます。
日々の接触が少なくなるにつれ、考え方が分かれてしまった人たちが同じ考え方に同化することはほぼ無くなってしまい、詰まるところ暴力的な対立になるまで発展してしまうのです。
そして、このように分断された人々の収入の差は、考え方の分断と何らかの相関があるはずです。


ネットはそのような状況をますます加速させるでしょう。
人間はこれまで地域性で分断されていましたが、これからは人間性や、基本的スキル、そこから派生する考え方の相違によって人々は分断されていくでしょう。

分断された人たちからは、例えばテロを正当化するような考え方が生まれるかもしれません。それをいくら他の人たちが糾弾し、道徳的に訴えかけたとしても、そういった一派がある種の宗教性を持ち始めると、ほとんどお互い理解不能な領域に入ってきます。

日本人はそこまでお互いが対立するようなことはこれまでありませんでした。
今も安保法案で多くの人が国会議事堂前でデモを行っていますが、この平和な世相で何か不穏な事件が簡単に起きるわけでもなく、お互いが大げさな事態を想定して、空虚なもしも話をしているだけのようにも思えます。
ここで分断された人々も、おそらく何らかの格差が傾向としてあるのだと思います。

このような格差のある集団が、考え方の違いで分断される状況は社会をどのように変えていくでしょうか。
テクノロジーが人々の暮らしを豊かにするであろうことを予想する反面、このような格差をじわりじわりと生んでいるという側面はあると思われます。

同じ場所に暮らしていても分かり合えない人たちと一緒に暮らし続ける時代。それはますます私たちを精神的に疲弊させるでしょう。このような事態はいったいどのように解決されるべきなのでしょうか。なかなか結論が出せない問題です。


2015年8月16日日曜日

ネアンデルタール人は私たちと交配した

ひと月ほど前、NHKスペシャル「生命大躍進」でネアンデルタール人の研究者として登場した研究者が書いた本ということから、この本を知りました。
一見、学術書のように見えますが、この本は著者スヴァンテ・ペーボ博士のほぼ完全な自伝書。
ある程度、細かい研究内容も書いてあるのですが、ペーボ博士がどのような紆余曲折を経ながらこの研究にたどり着き、そして大きな成果を上げてきたのか、私生活まで赤裸々に明かしながらも、その研究生活が克明に記録されています。

そして何より、一人の優れた研究者がいろいろな状況に翻弄されながら、様々な人たちに評価され、大きな仕事を任されるようになり、そして最後に素晴らしい研究内容を世界に公表する、という研究者としてのリアルなサクセスストーリーが、読んでいてとても爽快です。
スウェーデン人であるペーボ博士がアメリカ、ドイツと世界各国の研究所からオファーを受け、実力本位で重要な地位につけるというのは、タコツボ化した日本の大学研究室の状況とは一線を画しており、そういう点で大きな羨望を感じつつ、欧米諸国のリアルな研究の現場を知ることが出来るのも本書の面白いところ。(論文を雑誌に寄稿する際の様々な駆け引きとか)

そもそも、このペーボ博士は、単なる知識追求型の学者ではなく、とてもロマンチストな方なのだと思います。
医学や分子生物学を専攻しながらも、古代エジプト研究への想いを忘れられず、ついにミイラのDNA解析を始めてしまったのが、ペーボ博士のキャリアのスタートです。
古代への憧れとDNA解析を合わせることで、専門と興味を一緒にしてしまったのです。そして博士の興味はミイラからネアンデルタール人に向かいます。

それも、やはりロマンから来たものでしょう。
数万年もの間、人間とネアンデルタール人は不思議な共生期間がありました。それについては私も以前こんな本も読みました
その期間、お互いどんな気持ちで双方を感じていたのでしょうか?
ネアンデルタール人が最終的に滅びたのは事実ですが、だからといって単純に人間、ホモサピエンスがネアンデルタール人を駆逐したという結論とするのは乱暴すぎます。
そして、それに対する疑問の一部がDNAから明らかになったのです。

2010年、ペーボ博士のチームは長年の研究の末、ついにネアンデルタール人のDNA配列を発表します。
そして、さらに調査した結果、アフリカから出たホモサピエンスの中にネアンデルタール人由来の遺伝子が組み込まれていることが分かったのです。その遺伝子は、アフリカに残ったホモサピエンスには組み込まれていません。

つまり、ホモサピエンスはネアンデルタール人と交配、つまりセックスをしていたのです。
この感覚は、もうなんとも言えない不思議な気持ちですね。
何万年も前の人間が生きている環境も分からないし、ましてやネアンデルタール人の生態も分かりませんから、その事実が恋愛を伴うものなのかどうかもさっぱり分かりません。

でも、太古の出来事を夢想すること自体がロマンなのであり、こういう研究に心惹かれる気持ちは、私には理解できるつもりです。
今後も人類進化に関する幾つかの重要な発見もあるかもしれません。
ネアンデルタール人研究には、これからもロマンを感じながら注目していきたいと、この本を読みながら思いました。


2015年8月12日水曜日

古典調律アプリ「Meantone」を2.0にバージョンアップしました

4年前に最後のバージョンアップをしたまま放置されていた古典調律アプリ「Meantone」をv.2.0にバージョンアップしました。
ちなみにアイコンは、バロックの巨匠、モンテヴェルディの肖像です。

iOSがバージョンアップした際、Meantoneのプログラムの不具合が顕在化し、それについてiTunesでも何人かに指摘されているのは分かっていました。
ただ、iOSのバージョンアップのスピードが速すぎるのと、ここ数年、Make系の活動に夢中になっていたこともあり、申し訳ないと思いつつもなかなか手がつかずにいました。

昨年Appleから新しい言語Swiftが公表されましたが、今後iPhoneで何かやるにはどうしてもSwiftの知識が必要になるだろうし、これを機会にちょっとSwiftの勉強をしてみようと昨年から考えていました。
また、仕事でやっているわけでもないので、この際Objective-Cからきっぱり足を洗って、過去のソースも全て捨てて(一部捨ててませんが)、プログラムを書き直してみようと思い立ったわけです。

そんなわけで、有料アプリを買っていただいた方々のためにも、まずこのアプリをSwift化しようと考えました。


コンピュータ言語を語れるほどの専門知識はありませんが、Swiftはある意味Objective-Cと逆の方向性を持った言語のように感じます。

Objective-Cは、あまりコンパイルエラーを出さず、ランタイム時(実動作時)に不具合を発生します。プログラムの書き方には自由度があるのですが、その分だけ、プログラマは自分自身で非常に気をつけてプログラムを書く必要がありました。

ところが、世のコンピュータ言語は複雑になり過ぎました。
プログラマがより生産的であろうとすると、開発の後段でたくさんのテストを行って不具合を取るより、言語自体が不具合を発生させないような仕組みを持つべきだという考えも当然出てきます。

私にはSwiftは、コンパイル時に不具合をなるべく出して堅牢なソフトとするため、かなり厳格な書法をユーザーに課している言語に見えます。その辺の感覚は、Objective-Cと一線を画す感じがしました。

特に驚くのが、クラス(のポインタ)が入る変数に?や!のような記号を付けて、この変数にヌルが入るかどうかを明確に意識させる点です。
最初はここまで冗長に書かされて、ややバカにされている感じもしましたが、結局は自分もこの手の不具合を相当出しているので、そういう意味ではSwiftのおかげで変数の扱いの意識が高まったとは言えると思います。(←今更何言ってんの!とか突っ込まれそうですが)


もう一つ、今回後半で苦労したのが、iPhoneの画面サイズの問題。

今やiPhoneアプリは、3.5inch, 4inch, 4.7inch, 5.5inchの4種類の画面をサポートしなければいけなくなりました。どの一つでも欠けていると、Appleはアプリを受け付けてくれません。
このようなときに、どの画面でも画面パーツがうまく表示されるように調整できるというAuto Layoutを使ってみたのですが、これがさっぱりうまくいきません。個別の理屈は分かっても、全くうまく制御が出来ないのです。ある数値を入れると、パーツがいきなり変な場所にフッ飛んでしまったりとか・・・
仕方がないので、結局昔からあるAuto resizeという方法で何とかうまくゴマかして各画面に対応しました。

企業が商品として出すアプリだと、きっちり正攻法でAuto Layoutを使い、デザインをどのサイズでもきっちり作ってくるのでしょうが、個人開発ではそこまで対応する余裕がありません。

Meantoneでも、3.5inchでは妙にきちきちで、5.5inchでは逆に画面に無駄なスペースが生まれているのはそのためです。
参考までに、3.5inchと、5.5inchの画面を貼っておきます。



ここ数ヶ月、少しずつ時間を捻出して何とかここまで作りましたので、ぜひ使っていただいて、ご感想、ご意見などいただければと思います。

2015年8月4日火曜日

MagicFluteを作ってみよう

MFT2015では、以下のようなチラシを配りました。

3万円というと、ちょっと割高感はありますね。3Dプリントは手軽になってきましたが、これが値が張っている原因となっています。

とはいえ、私がこれまで一人で開発してきたこの電子吹奏楽器が、何とか誰でも作れる形になりました。是非多くの人に触ってみてほしいです。
MagicFluteはMIDI Controllerですので、iPhoneの楽器アプリや、PCのソフトシンセ(GarageBandとか)につないで好きな音色を奏でることが可能です。
世の中にあるWind Synthというと、もうちょっと値が張りますから、手軽に遊べるWind MIDI Controllerとして何かと使い道はあるのではないでしょうか。

この「MagicFluteを作ってみよう」という別のブログを作ってみました
まずはどのように作っているのか、ぜひご覧になってください。
その上で、ちょっと作ってみようかな、という方がいましたら是非トライしてみてください!

2015年8月3日月曜日

Maker Faire Tokyo 2015に出展しました

Maker Faire Tokyo 2015(MFT2015)に出展しました。
MFT2015は、8/1-2に東京ビッグサイトにて開催された、年に一回のMakerたちの一大イベント。



私は奇楽堂という団体名で、これまでこのブログでも紹介してきた電子吹奏楽器MagicFluteを展示、試奏いたしました。
ブースはこんな感じ。




去年のOMMFでは一人だけでしたが、今年は水引さん、菅家さんという二人が参加してくださり、3人での出場。
水引さんは、ラズパイで物理音源を作ってくれました。菅家さんはBLE MIDIでMagicFluteを無線化してくれました。

二日間、笛を吹きつつ、覗き込んでくれた方々にひたすら説明。
疲れたけれど、充実の時間を過ごすことができました。

ちなみに私たちの隣のブースは、あのウダーでした!




浜松からきた他のチームでは、R mono Labのリコーダーによるパイプオルガンが大人気。このアイデアには本当にやられた!と思いました。
なんと、私のMagicFluteから出力したMIDIで、リコーダーパイプオルガンを鳴らすというコラボレーションも出来ました!




その他の浜松組からは、Yara:MakersさんのラブキテルとArduinoシンセ

FabLab浜松さんの合鴨ロボットプロジェクト

そしてデザイン寮のループテーブル


懇親会ではその場で知り合った方々と、意気投合して盛り上がったこんな場面も・・・


今回は、「MagicFluteを作ってみよう」というチラシを配ってみましたが、今のところ、反応は無し・・・
残念ですが、現実はまぁこんなものかもしれませんね。

これから、地道に何回もMaker系イベントに参加しながら、いつも変な楽器を演奏している名物オジさんと認知されるように頑張っていきます。

2015年6月28日日曜日

トゥモローランド

すごい久しぶりに映画を見ました。
ディズニーのトゥモローランドという映画。予想を超えて面白くて、色々思うところもあったので、たまには映画の紹介でも書いてみます。

トゥモローランドとは一見、未来都市のことかとも思えるのですが、映画を見る限り別次元の平行世界みたいなもの。
このトゥモローランドは非常に科学が進んでおり、多くの世界の科学者、発明家がその平行世界を作るのに秘密裏に尽力していたという設定。

主人公ケイシーはひょんなことからトゥモローランドに見ることが出来るバッジを手に入れ、そのために謎の人たちから何度も襲撃にあいます。しかし、そこに至る描写が非常に断片的で、映画の前半ではかなり多くの謎が積み重なります。
事件に巻き込まれるケイシーも、途中で助けてくれる謎の少女アテナに対して、多くの疑問を口にするのですが、なかなかきちんとした回答をしてくれません。

この辺りの謎を引っ張るテンションに支えられて、中盤くらいまで観る人もほとんど良くわからないまま、謎の男たちに襲撃されるアクションでドキドキハラハラ。
そして、中盤以降は平行世界を舞台に映画は展開していきます。


この映画の見所の一つは、その平行世界の描写。
冒頭、子供時代のフランクが未来世界に驚く様とか、ケイシーがバッジでトゥモローランドを体験する様とか、そこでの近未来社会の様子が詳細に描かれていて、映画を見ていてとてもワクワクします。
未来といっても、多分それほど先の未来ではなく、どれも今ある技術の延長ではあるのが多分心地良いポイント。というのも、どれも普通の人が想像しうる未来だからです。

もし、本当に何十年か先にこの映画を見たら、「あぁ、あの頃の未来のイメージってこんなだったよね」とか逆に懐かしく感じるに違いありません。
それでも、それを非常に細かいディテールで描いていたのはさすがディズニーと思いました。

ただ正直言って、途中まで膨らませた謎が、終盤、解かれていく度にややショボい感じになったのは確か(ご都合主義的で)。
終盤でのケイシーのアイデアも実は今ひとつ理解できませんでした・・・
この辺りは、出てくる設定の数を少なくするなど、多少整理の必要があった気がします。


ただ、この映画の底流に流れている「夢見る人(Dreamer)になれ」という思想が、ひしひしと伝わってきて、私にとってそれがこの映画で一番面白いところではないかと思ったのです。

言葉で言うと「夢見る人になれ」というのは簡単。
言葉だけなら誰も否定しない。だけど、夢見る人は実際に行動を移せば、いろいろなところで問題を起こし、否定されます。
それでもめげないケイシーの向こう見ずさ、明るい未来を信じているその強い想い、そしてラストでのポジティブなメッセージは、映画を観る人たちに、もう一度「夢を見よう」という心地良い希望を与えてくれます。

やや青くさいメッセージではあるけれど、何かに興味を持ち、その気持ちを持続させながら、大人になっても夢に向かって静かに突き進もうとするその強い意志を持つことは、人間にとってどれだけ大事なことでしょう! ディズニーは子供だけでなく、大人にもそういった希望を与えてくれたのです。
私もちょっとだけ勇気をもらいました。

2015年6月21日日曜日

何となく言いたいこと

すっかりブログ更新を怠っています。
以前は無理矢理でも何か書いて、続けることが大事だと思っていました。しかし、ことブログに関しては、もはや自分にとって重要な表現メディアで無くなってきたような気がしてます。

なので、やや独り言っぽいような話を、こっそり書いてみることにしましょう。

最近、私をイライラさせるものが増えていて、それらは同じ根を持っているものではないかと思うのです。
同じ根といいつつ、なかなか文章化するのは難しいのだけれど、ざっくり言うと「局所的な正しさの追求」「責任回避の論理」そしてその結果生じる「コミットメントの欠如」といった感じのものです。


「局所的な正しさの追求」とは、ほんのちょっとした間違いに対して、過敏に反応し、大問題に仕立て上げ、最も問題が極大化するような場所で表面化させ、直接的な間違いをおかした人に対して非難するようなメンタリティのこと。
しかし、間違っていると指摘した内容そのものは全く正しいことだし、それを表面化させる場所も本来そうすべきと規定されている場所です。
今まで私たちは本音と建前で使い分けていて何とか回していたことを、仕事のすべてを建前のフォーマットで表面させようとするようなやり方です。

この件だけで無茶苦茶深い話ですね。
そもそも、建前とは心の中でみんなが建前だと思っていても、それが建前であることを前提として作られていないので、本気でその建前を守ろうとすることを批判することはできません。
ところが、情報化が何もかも可視化してしまい、今まで見えなかったことが簡単に見えるようになってきました。
我々は過剰な建前と、実際に運用されている本音の差に耐えきれなくなり、過剰な建前側に自分の立ち位置を寄せるしかない状況になっていると思えるのです。

例えば、ある書類を有効とするために、どの役職とどの役職の人が承認する必要がある、といったルールが5年くらい前に作られていて、実際にはほとんど機能していないにも関わらず、ある人が思い出したようにこの承認手順を求めてきたら、あなたはどう思うでしょう。
直前の案件までルール通り運用されていなかったとしても、それを理由に今回もルール通りしなくて良いという理由にはなりません。
あらためて他の人にそこまでやらなくてもよいのでは、と聞いても、皆が「いちおうルールだから」と守ることを求めたりします。
つまり表沙汰にすればするほど、建前的に正しい方向に結論を持っていくしかなくなります。

こんなことがあちらこちらで日常茶飯事に起きるので、どんな小さな仕事も(もちろん指摘する人は決して小さい問題などとは言いません)複数人が絡む結論を出しにくい状況に追い込まれ、これまで10くらいの仕事量だったものが、15や20とかに増えてしまったりします。


「責任回避の論理」とは、自分の範囲を明確にした上で、曖昧な箇所を切り取り、そこは私の責任ではないと言い張る態度です。
ただこれについては、私は多少理解しますし、そのような態度は否定しません。

なぜなら、そもそも日本で複数人で何かの仕事をする際、私たちは役割分担とその責任範囲をあまり明確にしてこなかったからです。
責任範囲を明確にすることを、横の関係である担当者同士で決めることは原理的には不可能です。特に利害が一致しない場合は、そこを調停するのは本来もう一段高い階層の判断者がすべきなのです。

ところが日本の場合、それがあまり機能しないのです。
だから日本の職場では現場がお互いを思い計って、敢えて現場には権限の無い責任範囲について勝手に決めていたのです。
しかし、誰かが「それは私の責任ではない」と言い始めればそちらの方が絶対的に正しく、これまでのように曖昧にものごとを進めることが難しくなります。
これも、最初に書いた建前が建前で済まなくなっている状況と似ています。

しかし、この件については、昔みたいな曖昧な状況に戻すことは出来ないでしょう。管理側の人が正しく各担当者の責任範囲を明確にするようなマネージメントが必要なのです。
ぶっちゃけ、今の日本人には望むべくもないのですが・・・


こういったメンタリティは最終的にコミットメントの欠如を引き起こします。
コミットメントの欠如、とは簡単に言えば、各自が自らの問題領域として主体的に行動しようとしない状態を表現しています。

例えば、とある屋外イベントを計画したとします。
人が集まるから、場所は狭く無いか、トイレは十分にあるか、荷物やクロークはどうするか、音響設備は整っているか、などいろいろな細かい作業が思い付きます。
ところが、コミットメントの欠如があると、例えばトイレが足りないからどうしたらいいか、などと自ら考えません。リーダーが気付いて「トイレが足りないから何とかしてほしい」と指示されても、別の場所に誘導すべきか、仮設トイレを作るか、その場合どのようなタイプのものをいつまでにいくつ増やした良いか、事細かに問い返されたりします。
もちろん、担当している人の立場にもよるでしょうが、自分がそのスタッフの一員だという意識があれば、せめて自ら判断し「何日までに仮設トイレを3個レンタルの見積もりを取ったら⚪︎⚪︎円でした。これでいいですか」くらいまで、自力でやったほうが圧倒的に仕事の効率が良いでしょう。

単にもっと仕事をして欲しい、ということでなく、自分のすべきことの内容にどれだけ自分が直接関係者として関与しようとするか、そういう意識の問題です。
ただし、何をやっても報われない、やらされ感しか無いような仕事では、こういったコミットメントの欠如は簡単に起こってくることでしょう。

こういうのって、日本社会の高齢化と無関係ではないと思うこのごろ。とすると、この先が本当に恐ろしいです。


2015年5月17日日曜日

もし今どきの大手製造業で交響曲を作曲したら

●X社新作開発会議にて
企画担当「市況ですが、前回の交響曲第5番の初演より2年が経ち、観客動員数約◯◯人、音源の売り上げが合計◯◯枚であり、現在市場シェア約40%です。すでに世界中の顧客より新作への要望が高まっており、シェア維持のためにも新商品開発が必要です」
「先般C社の交響曲2番が5楽章構成で発表されており、市場では評価が高まっております。我がX社としては、次回の新作は6楽章構成といたします」
「また、1楽章のソナタ形式では従来二つしかなかった主題を三つに増やし、ゴージャスでボリューム感たっぷりの音楽を演出いたします。緩徐楽章では、最新ヒット曲の動向を踏まえた泣きのメロディを使用して多くの女性のハートを掴みます。終楽章では、サウンドの圧倒的な音圧を確保するため、大太鼓だけではなく本物の大砲を使うことを検討します」

(会議に参加している開発者の心の叫び)
『ちょ、ちょ、C社への対抗で5楽章を6楽章って、ただ楽章増やせばいいってもんじゃないでしょ』
『主題二つから三つだって。三つ目の主題は何調にすればいいんだよ。そういうの考えて言ってるのかな』
『最新ヒット曲の動向って、またギリギリセーフ的なパクリメロディ使うわけ? あと大砲とか何考えてんの? チャイコフスキーなの?』

●開発経費と担当決め
「今回6楽章なんだけど、どうする? 幸い偶数だから、第一開発課と第二開発課で半々かなあ。第一開発は1〜3楽章、第二開発は4〜6楽章でどう?」
「ちょっと待ってください。今回第一楽章は主題増加により、開発経費が増えることが予想されます。もしそうなら、開発費は按分というわけにはいかないんじゃ・・・」
「それはウチも一緒。増員は無理なんだから、現状でなんとかしてくれ」
「また、頑張れ、ですか?」
「いや、そうじゃなくてうまく開発効率をあげてくださいってこと」

(押し切られた課長の心の叫び)
『毎回毎回、内容が増えるのに開発パワー一緒って無理ゲーじゃん。効率上げるって、目立たない木管を前の曲のやつコピーして使っちゃう? もうリピート記号使わせようかな・・・』
『それに一つの曲を複数の課で作っても曲の統一が取れないよね。スラーや休符の扱いとか、フェルマータの書法とか、多分合わせ込みできないし』
『っていうか、企画担当って作曲したことあるわけ? 作るの我々なのに、てんこ盛りの変な仕様ばっかりで、こんなんでいい作品作れるのかな。企画考える人と作る人が違ってていいのかな』

●開発中の課長と担当者
課長「ということで、ウチの課は1〜3楽章なので、1楽章はA君とB君ね、それから2楽章はC君、3楽章はD君」
B「A君は昨年入社ですけど、いきなり第一楽章大丈夫っすか?」
課長「なのでB君にサポートしてもらいたい」
A「先輩よろしく! 先輩が先に提示部作ってくれたら、その後再現部作りますね」
B「おい、展開部は?」
A「なんすか、それ」
課長「まあまあA君は勉強を兼ねながら二人でうまくやってください。じゃ、よろしく」

(担当者Bの心の叫び)
『こりゃ、時間があれば一人で作りたいわ。教えるより自分が作る方が早いし』

●開発後半
課長「困ったな、品質部から5件も指摘があったよ。それから2件、平行五度が見つかった。平行五度の使用にはリスクが伴うから社長決裁が必要なのに。B君、A君は大丈夫かね」
B「すいません、まさか平行五度を使うとは思ってなかったです。こんなこと言わなくてもわかるだろうと思って・・・」
課長「ちゃんと言わなきゃ分からないんだよ、今どきの若者はね。もう一度、決裁ルールの教育を徹底してください。
それから、品質部からの5件。和声上のミスがたくさん見つかってる。いったいどうなってるんだ。ミスの修正はすぐやるとして、これらのミスの原因分析と今後同じミスを起こさないための施策を検討して、後で報告するように」

(担当者Bの心の叫び)
『あー、やっぱりね、時間無さ過ぎだものミスだって起こるよな』
『っていうか、まだ残りの仕事あるのに、原因分析と今後の施策考えろって、また仕事増えてるじゃん』
『本当は平行五度も味があるんだよね。決裁での使用になってから、みんなすっかり使わ無くなっちゃった。それに昔はこのくらいのミスがあっても平気でリリースされてたよな。一生気付かれないミスだってあるよなー。でもきっと市場からクレイマーが現れて、YouTubeとかで暴露するんだよなー』

●X社新作リリース後の顧客の(本当の)反応
「X社交響曲第6番はスゴい! やっぱり全6楽章の威力は違うね。緩徐楽章のメロディも良く出来てるし、それに大砲には驚かされたよ。これこそ交響曲の醍醐味だ」
「X社はまたちょっとつまらなくなったね。各楽章のスペックはスゴいんだけどね。何か心に響かないよね」
「ねー聴いた? あの緩徐楽章のメロディ。◯◯に超似てなくない?」
「X社の新作は飛び抜けた面白さが無い凡庸な音楽だ。全ては管理され、一様で、破綻が無い。しかし全体を統一した方向性も明確ではなく、曲を通してメッセージ性がほとんど感じられない」
「っていうかー、今どきオーケストラ曲って20分以内じゃないと聞く気になれないじゃん。交響曲なんてマジダサいじゃん」

2015年4月29日水曜日

いまさらながらIoT

IoTという言葉はここ数年、技術関係のトピックで良く聞かれるようになりましたが、最近では私の身の回りの仕事環境でさえも良く聞くようになってきました。

そもそもIoTという言葉の前にはユビキタスとかいう言葉もあったし、言いたいことはほぼ同じなわけで、それだけ一般性が高く、確実に未来に浸透するであろう技術だと私にも思えます。
そういう意味ではクラウドと同じ。今やクラウドは当たり前。セキュリティーがー、とか言っていた人も今では無批判にクラウドを使っています。
数年もすれば、IoT当たり前な世の中になっているでしょう。


といいつつも、IoTが当たり前の世の中とは一体どんな世の中でしょう。
個別の小さなサービスでは、こうなるとは言えても、そういったサービスによる小さな改善がつもりつもったとき、社会がどれほど大きな変革を遂げるか、私には想像も付きません。

また、法律や社会システムがIT, IoTサービスについて行けず、いずれこういう問題が技術イシューではなく政治イシューになっていく可能性は大いにあります。
恐らくその折には、数学的、論理的に当たり前のことを、理屈を知らない政治家が喧々諤々と議論するというかなり間抜けなシチュエーションが生まれるかもしれません。


そもそもIoTが政治そのものに与える影響は無視できなくなるのではないでしょうか。
例えば、住民投票をするのにさえ莫大な政治活動が必要なのに、重大な政治的アンケートもかなりの母集団で短期間で簡単に出来るようになったらどうでしょう?

あるいは政治家ごとの支持率がまるで株価のように日々変化する様子を確認できるようになったり、有権者の日々の行動と彼らが支持するであろう政治家とマッチングしたり、彼らに簡単に寄付できるような仕組みができたらどうでしょう?

政治そのものでなくても、議論の間じゅうIoT的に数分レベルで何らかの情報を集める仕組みを作れば、議論が非常に効率的に済むというようなことができたら嬉しいですね。


自分の興味の対象として、音楽活動とIoTって何か考えられないでしょうか。

楽器を使うシチュエーションを考えたとき、バンドやオーケストラでアンサンブルするだけではなく、家で一人で演奏を楽しむということも多いと思います。
というか、むしろ圧倒的多数の人が、人にも聴かせず、一人で家で楽器演奏しているのではないでしょうか。

彼らは今まで一人で家で演奏してそれで終わりでした。
でも、これをIoT的に繋げてみるとどんなことが可能でしょう。
例えば、いつ頃、何時間楽器を演奏したか、といった情報を集めることを考えてみましょう。もしかしたら世界のどこかで、自分と同じ曲を練習している人がいるか探せるかもしれません。
演奏のレベルを解析すれば、サーバー側で同じレベルのもの同士をマッチングすることも可能です。実際、演奏の現場では、演奏レベルの違う人たちが一緒に活動すると悲劇が起きることが多いのです。上手いもの同士、初心者同士が結びつく仕組みは(それと知られない程度に)うまく作ってあるとお互いに幸せです。

逆に演奏レベルの違いの情報をベースに、もっと簡易な楽器のレッスン、演奏アドバイスみたいな非対称な出会いの場を提供することも考えられます。


楽器演奏だけでもいろいろ考えられるのだから、他のいろいろな活動についてもいくらでもIoTのアイデアはありますね。

そう考えると、本当にこれから10年くらい世の中の変化はかなり大きなものになるのではないかと思えます。(相変わらず、無駄に壮大な予測ですが)

2015年4月25日土曜日

未来の戦争

戦争なんて物騒な・・・と思いつつも、思考実験というか、ある種のファンタジーだと思って読んでみてください。

ここ数日首相官邸で放射性物質を装着したドローンが見つかったという事件が世間を賑やかしています。
ドローンがこれだけ流行りだしていたにも関わらず、首相官邸をアタックしたという事件があって急激に法規制を始めようという議論が巻き上がるあたりに苦笑しますが、ドローンがこのような事件に使うことができるということを国民に知らしめたという意味で、今回は確かに象徴的な事件でした。

つまりドローンを使えば誰もがテロを行えるということです。
ドローンがどれだけ産業にメリットをもたらすかを考える以上に、社会にどれだけ不安を与えるかの方が先に立ち上がってしまった気がします。
かなりの人にドローンに対するマイナスイメージがついてしまったのは確かなことでしょう。


AI、ロボット、ドローンといった昨今話題の技術は、よく考えてみたら戦争に使うことに非常に経済的合理性があるような気がしてきたのです。

戦争は基本的に人の殺し合いです。とはいえ、今の世の中、兵士の命とて大事にしなければいけません。戦闘機を作れば、コクピットは頑丈に作るでしょうし、脱出装置は必要でしょう。戦車を作っても、同様に中で操縦する人を十分守るような設計をするはずです。
つまり戦争に使う道具も人が乗る以上、そのためのコストを払う必要があります。

そう考えると兵器の無人化は、兵器の低価格化を引き起こすと思うのです。
国防費に十分にお金をかける国であれば、兵士は死なず、低価格化する兵器は大歓迎ですから、どう考えても無人兵器を作るようになるはずです。


昨今の戦争は、国家対テロリストといった、立場的に非対称な者同士が戦うことが多くなりました。
上記のような無人兵器はまず大きな国家が作るでしょうから、戦争のある時点で、テロリスト対無人兵器、という戦争が始まると思います。

しかし、相手が無人ではテロ軍団は勝ち目がありません。兵士の士気も落ちます。

兵器の低価格化は兵器市場に新規参入を招く可能性があり、そういった企業のいくつかがテロ組織に兵器を安く売るような商売を始めたらどうでしょう。
もちろんテロリストも喜んで、その無人兵器を買うに違いありません。

そうなれば、どちらかが無人兵器を使い始めたら、その流れは一気に加速し、戦争はほぼ無人兵器同士が戦うものに変わっていくような気がするのです。
そして、もはやこれは戦争というより、ゲームの世界です。


無人化した兵器が、戦争をした場合、勝者は技術力、戦術が勝った方になるでしょう。
しかし、人が現場にいなくなった戦争は、果てしなく長く続く可能性もあります。

兵士が死ななくなる戦争はもちろんいいことではありますが、そのような地域紛争が何かのはずみで暴走したらと思うと、それはそれで怖い話です。搭載しているAIがもし暴走したらとか・・・
そんなわけで、ITや技術の進歩は、戦争のあり方も根本的に変えてしまう可能性があると私には思えるのです。


2015年4月4日土曜日

AIとシンギュラリティ

AI関係の話題が多い昨今。専門家でもAIを肯定的に捉える人もいれば、否定的に捉えている人もいて、私のようなAI技術の素人には予想もつきません。

それでも、私自身の率直な感想を言えば、仮にシンギュラリティのような事象が発生して、AIが人間を凌駕してしまったとしても、それはそれで受け入れてそういう未来を見てみたいという気持ちもあります。間違っても、科学の進歩に否定的になったりAIの存在を否定したりする気持ちにはなれません。


以前、AIについて、こんなことこんなことを書きました。
これは、人々が何となく思っている人間のように振る舞うAIなんてあり得ないんじゃないか、という主張です。もちろん、今でもその気持ちには変わりないです。

恐らくAIがまず我々の生活に入り込むのは、エキスパートシステムからだと私は思います。
例えば、ラーメンを作るロボットを作って、あるラーメン職人の仕事をサンプリングし、AIに学習させたとします。どの程度の間学習させるか、ということについては私は詳しくないですが、ある時点で、AIはこの職人のラーメン作りをほぼ完全に模倣できるようになるでしょう。
学習を徹底的に進めることによって、その職人自体が持っている出力の振れ幅より(毎日の微妙な味の違いというような)、さらに振れ幅が少なく、均質な味を作り続けることが可能になることでしょう。

その人にしか作れなかった味は、その学習結果を他のロボットに転送することで、どこでも手に入れることが可能になります。
料理ロボットが家庭で一般的になれば、ラーメン職人だけでなく、世界中の有名シェフの味を家庭でも堪能することが可能になるかもしれません。


料理は非常に分かりやすい例だと思いますが、世の中には、何年もの間同じ仕事をし続けて、熟練してその人にしかできない、といった職人ワザがたくさんあると思います。
機械的にその人と同じように動けるロボットが作られ、そこにAIのエキスパートシステムが載せられれば、職人ワザそのものを量産することが可能になります。
ある場所に隠されていたエキスパートシステムが、瞬く間に世界に広がりコモディティ化してしまう、という未来があるタイミングで起きることは容易に予想できます。

AIといって人々が思い描く未来は、ほとんどの人がロボットと人間の共存といった世界だと思うのですが、実際にAIが入り込むのは、まず産業であり、ビジネスの領域だと私は思います。
すでに多くの工場では、無人化が進んでいますが、それはさらに加速するでしょうし、先程書いたような料理ロボットが可能になれば、飲食店のあり方も、様変わりするでしょう。自動運転車で流通もそのうち無人化されるでしょうし、恐らくちょっとした処方箋を書くだけの内科の医者でさえAI化は可能でしょう。
それと同時に、オフィスワークもAI化され、単純な会計、税務処理や法務関係とか、定型的な業務がAIベースのWebサービスに置き換わるかもしれません。
プログラミングでさえ、ある程度の要求仕様をインプットすれば、素晴らしい精度のコーディングが出来るようになる気がします。


AIの発展がまず私たちにもたらす社会的問題は、失業問題ではないでしょうか。
これだけ多くの仕事がAIで置き換わっていけば、多くの会社で必要ない人が増えていきます。また、新しい会社がこういう技術をうまく使いこなしていけば、使いこなせない企業が淘汰されます。いずれにしても、世の中には失業者が増えることになります。

そして、その次にやってくる問題は、あらゆることがAIのエキスパートシステムに置き換えられた結果、そのような職人技を持っている人が死に絶えた時、人間に何も習熟すべき技術が残らなくなるということです。
そもそもAIに命令するのが人間なのに、AIのやっている技術レベルに命令する側が追いつけなければ、AIを使いこなすことさえままなりません。
これは、ひたすらAIの学習方法を研究し続ける人だけしか、職業を持てなくなるような社会であり、AIへの命令さえAI化することによって、まさにシンギュラリティといった、人間不在の社会が現れることになり兼ねないのです。

しかし、今の社会は人間の欲望を満たすために作られているのであり、人間不在の社会、などという概念自体、何か自己矛盾のような気がします。
シンギュラリティ後のAIは自らに何を望むのか、そんなことまで思いを馳せてしまうのですが、これはあながち遠い未来のことでも無いのかもしれません。

微妙にダークな話になりましたが、そのようなシンギュラリティを人間が自ら回避する流れも起きるでしょう。そのときに議論されるであろう「人間とは何か」という問いこそ、私が最も興味のあるテーマでもあるのです。


2015年3月27日金曜日

リスク対応で自滅しないために

私が最近ついイラッと感じてしまうことを、なるべく一般化してみようと考えていました。そしてそれは、過剰なリスク対応と同根なのだなと思い至りました。

リスク対応の世間一般の話題としては、食品の異物混入事件でしょうか。
本来なら、その場で文句言ってお金を返してあげて終わりだった案件も、メディアでどんどん表沙汰にされることで、人々の印象の中に不衛生のレッテルが貼られてしまいました。
ウチの子も急にマック行きたくない、言い出しています。「今なら人いないよ」とか言ってもダメ。もう感覚的に拒否してます。子供だから仕方ないと思いつつ、ということは日本人全体がそういう子供っぽい反応をしているようにも感じます。

カップ焼きそばのゴキブリも衝撃的でしたが、あれはTwitterのような拡散の仕組みがあればこその衝撃であって、実は以前よりその程度のことはあったのかもしれません。

上記のような事案に対して食品提供側はお客サマの理解を得るために、工場を止めたり、過剰と思える謝罪をしたり、その社会的制裁ぶりには思わず同情してしまうほどです。
このようなニュースは、多くの人に業者に対して「反省しろ」と心の中で喝采させるのと同時に、誰もがいつ自分が吊し上げられるかわからないという不安を与えます。
次は自分があの場所に立っているかもしれない、という恐怖です。


かくして私たちはどこまでもリスク回避、責任回避の行動を取りたがるようになります。

私たちは人間ですから間違いはどうしても犯します。人によっては間違う多さも違うのでしょうが、誰もが完璧に仕事をこなせるわけではありません。
リスク回避の意識が強くなれば、間違いを処理する仕事がプロセス化され、間違いを放置しておくことが難しくなります。結果的に、このような組織文化は他人の失敗を糾弾する行動が賞賛されるようになっていくでしょう。
そして、組織内にある数多の間違いをお互いに指摘し合う文化が醸成されていきます。

このような文化はある程度正しいことです。
組織として良質なアウトプットを出すために、間違いはなるべく少ない方が良いのですから、相互で確認し、チェックすることで品質を高めていくことは、組織の価値を高めるために当然のことでもあります。

しかし、組織の価値を高める以上に、リスク対応の業務が増えてくるとすればどうでしょうか。それが過剰になっていくと、それは必ずしも良い方向には向かわなくなると思います。端的に言えば、余計な業務が増え、利益率が悪くなるからです。
営利企業ならまだしも、利益という概念が基本的にない公務員の場合、こういう事態はそうとうひどい状態になっているのではないかと推察します。


このような事態に対して、冷静に的確に業務量を分配するには、私には確率、統計的な手法は避けて通れないのではないかと思うのですが、ほとんどの場合、情緒的な反応のみで、誰か一人でも「許されない」と言えば、それが正義となってしまうのです。
そのような状況で、確率的な対応の話をしても「その一人にとっては100%だ」みたいな反応をされることがほとんどであり、結果的に確率論を否定されます。
それが業務効率向上の否定であることにまるで気が付いていないようです。

もちろん、自分がこれまで書いてきた内容、すなわち、確率、統計、効率、利益・・・こういう言葉は嫌われやすいですね。
分かる人には分かっているし、なるべく上記の言葉を使わずにうまく人を説得できる素晴らしい経営者もいるのでしょうが、それでもビジネスを続けていくためにこういう感覚が共有できなければ、継続的な事業運営なんて出来ないと思います。
昨今の有名日本企業が苦境に立っているのも、こういう考えが出来ない経営者が多いからではないかと私には思えてしまいます。

ちょっと話題が逸れましたが、リスクに対して発生確率を統計的にとりつつ、こういった案件がSNSで拡散されやすい昨今、むしろSNS対応、マスコミ対応みたいなものを別途研究すべきなのかもしれません。
こんなところで技術部長が引っ張り出されて正直なことを言おうものなら、火に油を注ぎかねません。外部に対する公表で必要なことは、内容の正確さを失わないまま、いかに大衆の感情をうまくコントロールできる表現をするか、ということが問われているのだと思います。


2015年3月21日土曜日

プリント基板製作に挑戦

久しぶりにMagicFluteの制作報告。

PICにはいろいろ苦労しましたが、一つずつ問題をクリアし、MagicFlute内に収める電子回路を製作。以下の写真がユニバーサル基板を使って自力で作った電子回路です。


写真は2台分写っています。左側から出ているケーブルは気圧センサに繋がっています。気圧センサは笛の吹き口の中に装着され、吹いた時の息の強さを気圧で検出します。

緑のユニバーサル基板の中にある二つの赤い基板は、左から加速度センサと、タッチセンサ。
そして、基板の一番右側にある薄緑の基板がCPUであるPIC18F14K50のモジュール。さらにそこからタッチシート用のケーブルと、フルカラーLEDへのケーブルが出ています。

基板は電源とI2Cを繋げる程度なので、それほど複雑な回路ではないのですが、それでもこの回路をユニバーサル基板で作るのには述べ数日かかっています。
老眼で小さいものが苦手になっているのにも関わらず、数ミリピッチの電子基板をハンダ付けするのはかなりしんどい作業。

私自身は基本ソフト屋なので、電子工作は嫌いではないけれど、そこそこの規模の回路になってくると正直楽したいと思ってしまいます。


ということで、プリント基板の製作に挑戦してみました。
プリント基板を作るのは完全に素人なので、そんな立派な回路でなく、今までユニバーサル基板で作ってきた程度の回路がプリント基板で作れれば十分。

プリント基板製作用のアプリを探していましたが、いろいろ試した結果、Fritzingというアプリを作ってみることにしました。
何と言っても初心者向けで、ドラッグ&ドロップと直感的なGUIですぐにそれっぽい基板図が作れます。

さっそく作った基板図がこちら。(初めて作ったので、やや恥ずかしいけど)


いずれも既存のモジュールを刺すだけなので、穴と線が引ければ十分なのです。表面実装とかあったらもう私にはお手上げです。

データをここまで作ったら、早速プリント基板を作ってみたくなります。
これもネットで検索して、いろいろな見積もりサービスを発見したのですが、国内のサービスはいずれも3万円程度。
たった数枚作って、しかも動かないかもしれない初めての基板を発注するのに、数万円はちょっと痛すぎ。

海外のサービスなら安い、という話はよく聞いていましたが、そういうリンク集から辿って見積もりをしてみるとビックリ!
桁が一つ違います。SpeedStudioというところで$35、OSH Parkというところで$24。
数千円じゃないですか。時間がかかってもいいので、一番安かったOSH Parkに発注してみることにしました。

以下、OSH Parkに発注してから、基板が到着するまでのメールでのお知らせを紹介しましょう。
2月28日:OSH Parkに基板発注。直後にPaypalで支払い。
3月1日:受注しました、というメールが送られる。
3月3日:データを工場に送った、というメールが送られる。
3月11日:基板が到着した、というメールが送られる。
3月11日:基板を送った、というメールが送られる。
3月19日:ウチのポストに届いた。

こまめに進捗をメールで送ってくれるのも信頼性がありますね。
ということで、実際に送られてきた基板はこちら。


OSH Parkはアメリカの会社のようですが、基板は中国で作っているのではないかと予想しています。
それにしても、たかだか3000円程度で中国で作って、アメリカに渡って、日本に到着、なんてよく元が取れるものです。それに国内の基板作成サービスは全部日本なのに3万円もするんですよ!

最近は電子回路をプリンターで比較的安価にプリントするような技術も出始めており、製造プロセスに大きな変革が起きているのを実感します。
電気製品の製造や流通のあり方まで、草の根レベルでどんどん変わりつつあることを思わず実感したのでした。


2015年2月28日土曜日

残業代とインセンティブシステム

前回残業代ゼロ法案について書いてみましたが、私自身は政治的な主張というよりは、人がどういうインセンティブで動いているか分析することに興味があります。

ということで、私の浅はかな推論で、残業代が労働者にどのようなインセンティブを与えているかをちょっと考えてみます。


「お金が欲しい」→「残業代が欲しい」→「長時間残業」という図式がまずすぐに思い浮かびます。
もちろんこの意識は、残業代が招く悪しきインセンティブということで、全く否定できない事実だと思います。
俗に生活残業などと言ったりしますが、特に忙しくなくても毎日1、2時間は残業して帰ることが日常になっている人も多いでしょう。
今さら、1、2時間早く帰るよりは、残業代をもらえるのだから少しでも長く居ようという意識が多少は誰にでもあるはず。(これを否定されるとツラいですが)

これをもう一段、抽象化して考えてみます。
長い間、長時間残業が当たり前の環境に身を置くことによって、「お金がもらえる」→「価値がある行為である」→「組織に貢献する」、というような感覚が無意識に心に根付くのではないかと私は思います。
給与額はお金の価値そのものだけでなく、労働に対する評価として機能します。プロ野球の選手が高い年俸にこだわるのは、お金が欲しいという動機よりも、自身のチームに対する貢献を高く評価して欲しい、という意識の方が強いはず。

もちろん、プロスポーツの場合、残業代ではなく純粋にプレー自体の価値、成績とかで可視化しやすい状況にあるので、これは誰でも感覚的に納得できます。
残念ながら、会社の中で完璧に個人の貢献度を可視化するのは難しく、どれだけ組織に貢献したかはその評価者、つまり上司の裁量に寄らざるを得ません。
全ての管理職が自信を持って部下を評価出来ているわけでもなく、そのときの数値化された一つの指標が残業時間、ということになる可能性があります。
特に生活残業とかではなく、非常に忙しい時にかなり時間的に無理して頑張ってくれた、といった場合、作業効率うんぬんよりまず長時間残業してくれたことに感謝したくなる気持ちは私にだって否定できません。


残業代のインセンティブを語る場合、もう一つ、終身雇用的な慣例を切り離して考えることは難しいとも私は思っています。
私がここで言う終身雇用的な慣例とは、同じ人たちと何十年も一緒に働く、という状況です。昨今、非正社員の問題も話題になりますが、実際の現場では非正社員であっても、それなりのスキルがあれば、長い間同じ職場で働くことは珍しくありません。これなど、終身雇用的な意識の表れとも私には思えます。

同じ人たちが、同じ場所で、同じことをやり続ける、という環境において、誰が一番評価されやすいか、ということを考えてみましょう。

端的に言えば、どれだけその環境に貢献しているか、自分のリソースを割いているか、つまり自分の時間をその組織に割いているか、ということが評価につながるのではないかと私には思われます。

この感覚は、残業代でその貢献を表現する方法ととてもマッチします。
つまり、長時間同じ人たちと同じ仕事を続けるといった環境では、残業に対して評価を与えるという仕組みがインセンティブとして非常に効果的なのだと思います。


我々の職場環境もめまぐるしく変わっている現在、上記のようなインセンティブシステムが微妙に崩れつつあります。
人々の意識が変わるのには時間がかかりますが、グローバルに世界経済が繋がった現在、世界と対等に渡り合うには時間が足りないと私には感じます。

であれば、残業に価値を置くようなインセンティブシステムは変えなくてはいけないし、人々の意識を変えていくためにも早ければ早いほど良いと私は考えています。


2015年2月15日日曜日

残業代ゼロ法案はブラックの合法化か

突然の超政治的話題ですが、この件についてちょっと自分なりに思うところを書いてみます。

巷では、ホワイトカラーエグゼンプション、いわゆる残業代ゼロ法案の是非について騒がれています。
要するに、ある程度の頭脳労働、専門スキルを必要とする労働においては、時間給という考え方は適切ではないので、労働時間に関係なく給与額を決定できるようにすべきということだと私は理解しています。

現状では年収一千万円を越えたあたりから適用というような制限で法制化するとのことですが、反対論者はいずれその適用金額が低くなっていくことを懸念しています。

私もいずれその金額は減っていくだろうと思ってはいますが、実は私はホワイトカラーエグゼンプションに基本的には賛成です。
ブラック企業を合法化しかねない要素があるのは確かなことなのですが、この影響は近視眼的に見るだけでなく、もっと働く人のインセンティブ構造にどのように働きかけるかということを複合的に見る必要があると思うからです。


ITの発達により、これからも世の中はどんどん効率化していくのは確かです。恐らく、残業代ゼロ制度もそういう視点とセットで考える必要があるのではないかと思います。

私の考えを端的に言えば、安い賃金で人間を長時間労働させても良いインプットは出ず、結局そのような働かせ方をする企業はリソース配分の仕方が効率的でないため、競争に敗れてしまうでしょう。
なので、短期的にブラック労働が増えたとしても、いずれ淘汰されるため、結果的にブラックな労働環境はむしろ減っていくのではないかと思います。

もちろん時間給が必要な職業は永遠に無くなりません。
そこに多少のクリエイティブな要素はあるにしても、直接サービスを提供するような職種は確実に時間の制約を受けるからです。

その一方で、時間管理が適切でない職業もたくさんあります。
情報収集、調整、判断のような経営者的仕事は時間を束縛しませんし、商品開発のように比較的納期が長期間に渡るような仕事も一時間単位の労働時間管理をする必然性はありません。

そしてまさに上記のような時間管理が適切でない仕事こそ、クリエイティビティが求められており、総労働時間とクオリティが比例しないことが往々にして起こります。
そのような職場で大事なことは、いたずらに人を投入したり、長時間労働を強要することではありません。
適切な人材を適切なタイミングで集め、彼らのモチベーションを高める仕組みを用意しながら、プロジェクト全体の納期を守るためのマネージメントをすることが絶対的に必要です。

私の思うに、そのようなマネージメントは、日本では決定的に欠けていると思います。
具体的には以下のようなマネージを日本でもする必要があります。
1) プロジェクトマネージャー自身が必要な人材を面接し直接雇い入れる権限を持てる。
2) 悪平等を廃し、貢献度が高かったメンバーへの報酬を惜しまない。
3) 担当を決めたら、権限の範囲を明確にした上で、大胆に権限を移譲する。
4) タブー無しな自由闊達な議論ができる文化と、最終的な意思決定権の明確化。
5) 担当者の責任範囲を明確にし、安易に横つながりで勝手に人の仕事を助けない労働文化を作る。
と自分で書いてて、すごい難しいなあという気がしてきました。

特に5)は、日本人的価値観とはかなり相容れないですね。
短期的には誰かを手伝ってなんとか仕事を回したほうが一見効率的なので、どうしてもそのようになってしまうし、他人を手伝わない行為は倫理的に避難されそうです。

しかし、それでもそのような責任の明確化を行わないと、貢献度の評価が曖昧になってしまいますし、結果的にみんなでダラダラと無責任に長時間労働、という世界に戻っていくことでしょう。


私が本当に嫌なのは、責任や権限を曖昧にしたまま、誰かが「何とかしろ」と日々怒りながら、みんなが嫌々ながら長時間働いているような環境なのです。

しかも高齢化が進んだ日本では、高齢者の雇用を守るために若者を非正規で安い賃金で雇うことが半ば常識化してしまっています。このようなことは早晩続かなくなるのは確かです。

いずれ、成長企業が効率的なマネージメントで、有望な人材を根こそぎ持っていくような事態が生まれるようになれば、他の企業も変わらざるを得なくなるでしょう。
そのような時代には、やはり労働を時間管理で行う非効率さはいずれ淘汰されるのではないかと私には思えるのです。


2015年1月31日土曜日

私たちを分断するもの

連日イスラム国の人質事件がニュースから流れてきます。
普段日本で生きているだけでは、事件の起きる背景や、現実など皮膚感覚では知る由も無いのですが、あのような暴力的手段でも国家という秩序を構築しようとするそのモチベーションに今の常識とは異質なものを感じます。

それほど極端な考え方ではなくても、日々Twitterでいろいろな識者の意見を聞いていると、全く見事に正反対の意見が激しく交わされているのを見ることができます。
政治的な主張なら、雇用労働関係とか、経済政策とか、外交政策とかそういうものに関してもネット上で多くの人が討論、というよりは一般人が有名人に食いかかっていたりするわけです。

ネットがあるから簡単に可視化されるようになり、表面化しているだけかもしれません。
しかし今まで交わりもしなかった人たちがネットで反対意見を言い合うことによって、その主張がより先鋭化してしまい、お互いがどんどん過激化してしまう、ということはあるような気がするのです。


IT化による情報の可視化は、人々の思想を明確にさせ、お互いがより過激になり、結果的に人々を分断する原動力になってしまっているのではないか、と思ったりします。
ITが開いたパンドラの匣は、まるで人間を試しているように感じます。

人がここまで進化してきたのは、人同士で協力し合うという力を得たからだと私は考えています。人同士で協力するためには、相手が敵か味方か判断するために多くの記憶を必要とします。人間の脳の発達は、まさにより複雑な人間関係に対処するために生まれたのではないでしょうか。

古来、人間はたくさんの争いごとを行ってきました。
それは、まさに人間が協力する動物であることの裏返しでもあるのだと思います。つまり、敵味方をはっきりさせ、味方同士で集まれば、それと違う集まりも生じ、そこに争いが生まれます。
協力したもの同士の力が大きくなるほど、その争いも大きくなっていきます。

これまで協力するもの同士は、一緒に暮らすもの同士でした。
だから、これまでの争いは部族間、集落間、地方間、そして国家間とスコープは広がりながらも、違う場所に住む者との争いだったのです。

ところが、IT化以降起きていることは、少し様相が違います。
同じ会社や組織の中で当たり障りのない程度に一緒に暮らしながら、モノの考え方とか哲学とか、政治的指向とかが全く違っていて、ネットの情報で自分の考え方を日々育てながらまるで別の人生を生きているのです。


冒頭のイスラム国には、欧米から戦闘員の志願者が集まっていると聞きます。
もはや民族や宗教も関係ないのです。
実際のところ、考え方に共鳴しているわけではないのかもしれないけれど、ここではないどこかに自分の居るべき場所があるのではないかと思う人がいても不思議ではありません。

情報が氾濫し、一人一人が社会や集団の常識などから解放され、自分の心と対峙できるようになったとき、今まで人々を無意識に連帯させていたものも同時に崩壊し始めているのでしょう。
そのような未来に、人間はどのように新しい連帯を始めなければいけないか、それが問われ始めているのではないでしょうか。

2015年1月25日日曜日

ファブ社会への期待

ファブラボが今日本中でオープンしていますが、こういった施設が当たり前になって広く利用されるような未来はファブ社会と呼ばれています。
ファブ社会では、規格化、標準化された工作機械があちらこちらに配置されており、それら工作機械を動作させるための電子化された図面データがネット上を駆け巡ります。

これまで商品の設計、開発、生産は、それらを製造する企業内での活動であり、その方法は企業内で独自に培われてきたものだったのですが、試作・開発するための機材や部品が共通化されていけば、企業内で閉じていた方法論もだんだん似通ってくることでしょう。
昨今のIT化によって、世の中では電子ファイル形式の標準化が進み、さらにWebベースで事務作業が出来るようになると書類仕事がどんどん標準化されるようになってきました。
そして、書類仕事だけでなく、実際にモノを作るための方法論もまた、同様に標準化される可能性があるはずなのです。

もちろん、そういった開発プロセスの効率化が各企業の競争力のみなもとでもあったのですが、社会全体の効率から考えれば、その過程が完全にオープン化されてしまった方がはるかに生産性が高くなるのではないか、とも考えられるのです。


そんなわけで、またしても勝手ながら、そんな未来を想像してみようと思います。

街にはたくさんのファブラボがあります。
ファブラボは今のコンビニくらいの勢いで存在しているといいですね。
もしあなたに何か自分の欲しいものがあったとき、あなたはまずネット上で世の中にどのような種類のものがあるか検索します。そして、それらの中からあなたの好みに合うものを探し出します。
もちろん、人件費の安い国で作られた、安かろう、悪かろうの汎用品は未来にも存在するでしょうが、ちょっとだけでも自分のオリジナルな希望を叶えようと思えば、世界中にそれを満たしてくれるデータがどこかにあります。

次に、あなたはそれらのデータをダウンロードします。
データの開発者には、気持ち程度の寄付をして、そのデータを近くのファブラボに転送します。ファブラボで自分が工作機械を使って製造すれば、値段は機械の使用料と部材費のみ、製造もファブラボに依頼すればさらにその値段が上乗せされます。
もちろん汎用品よりは高くつきますが、色や形にオリジナリティを加えれば世界に二つと無いオリジナルなものがそれほど高くない値段で手に入るわけです。

ファブラボはあくまで民間なので、より良いサービスやクオリティをもったファブラボが儲かるし、世界的なネットワークを持っている方がファブラボとしての価値は高まるでしょう。

ある製品を設計した人、あるいはチームには、世界各国からライセンス料、あるいは寄付金を得ます。
ライセンス料はある程度、数量を生産して商売したい人から徴収します。データはあくまでオープンですが、商用利用ではライセンス料発生、といった形でデータを公開するわけです。
もちろん、ダウンロードした個人からの寄付もあるかもしれません。データのやり取りとはいえ、一対一の関係ですから、いいモノを得たのならそれに対して感謝の意を表したいのが人情というもの。


そんな時代、いま企業が作っているほとんどのものは、個人開発者が作るようになります。
企業は、大規模で安価に売る汎用品、量産品を作るか、ファブラボが使用する材料、部品を供給したり、ある程度の規模が必要な新しい技術開発と、それをベースにした標準化の取り組みなどがおもな業務になるでしょう。

ここで対象となる製品とは、最初のうちはシンプルなオモチャとか、照明、椅子のような小家具やインテリアが中心でしょうが、そのうちにタンスやベッドなどの大規模な家具、テレビ、パソコン、オーディオなどの電気製品、自転車、自動車といったものまで可能になるかもしれません。

もちろんこのような未来の社会では、今存在しないような職業が出来ているわけです。
ファブラボの運営や、工作機械の説明員、そして個人設計者、世界各地の情報収集と検索を容易にするポータルサイト、国を超えた少額送金システムなどなど。

こんな社会になったらいいなと私は切に願っているわけです。

2015年1月16日金曜日

2040年の新世界


邦題には「2040年の新世界」とありますが、オリジナルのタイトルは「Fabrifated: The New World of 3D Printing」であり、この本は3Dプリンタにまつわる話題について書かれたものです。

近頃、3Dプリンタに関する話題が増えていて、何となく面白そうなツールだなと思っている人も多いと思いますが、その潜在パワーを侮るなかれです。
この本には、3Dプリンタに関する様々な取り組みや実践例、そして可能性が紹介されています。
その一つ一つはこれまでも聞いたことのある話ではあったのですが、それらを一通り読んだ今では、これからとんでもない世の中になってくなあ、という印象を持ったのです。
3Dプリンタすごいです。未来は予想以上の速さで変化しますよ!


最近聞くようになったのは、3Dのバイオプリンタやフードプリンタ。
バイオプリンタとは、生物の臓器を作ってしまうというプリンタ。細胞(バイオインク)を何らかの構造物に吹き付けて臓器を作り上げていくわけです。
病気になった臓器を取り替えるだけでなく、老化した臓器を交換していけばいつまでも若々しい体を保つことが出来る、という夢のようなお話なのですが、もちろん現実はそれほど簡単ではありません。
研究はまだまだこれからですが、こういった技術が荒唐無稽なものではなく、実際に実用化される可能性があるということを知っただけでも驚くべきことです。

フードプリンタはその名の通り、食べ物を出力します。
現状でも、すでにチョコレートや、クッキーなどはプリンタで出力可能なレベルにあるのです。また、いろいろな栄養物を自由に混ぜ合わせることができるので、例えば個人の身体の状況に合わせてカロリーメイト的な完全オーダーメイドの栄養食品を作ることが可能になります。そうなれば、自分の健康管理にこういったフードプリンタが使えるわけです。
ただし、素材を趣向を凝らして料理するのとは違うので、プリンタから出力された食べ物がどれだけ美味しく感じるかはやや疑問もありますが。


3Dプリンタで何かを作ることは、そもそもこれまで組み立てて作られてきたものとは発想を変える必要があることを、この本では繰り返し説いています。
3Dプリンタは物体の内部をいきなり出力してしまうことが出来ます。
今までなら、中の部品を作って、それを覆うような筐体をネジなどでカバーして何かを作り上げていくわけです。世の中の機械類は、そういう作られ方をされることを前提としてデザインされています。

ところが、3Dプリンタを使えば、内部を分解する必要が無ければ、いきなり内部構造をプリントしてそれを密封することが可能です。
最近は電子回路そのものをプリントするといった研究もされていますから、基板の上にICチップや電気回路をハンダ付けして電子回路を作っていますが、回路図を書くだけでそういった電子回路が埋め込まれたブロックのようなものをプリントすることが可能になるかもしれません。
そうなると、あとは本当にレゴで何かを作るように、世の中の様々な電気製品を簡単にはめ合わせるだけで作れるようになるかもしれません。


後半では、3Dプリンタからやや飛躍して、未来はどのようにモノが作られるようになるのか、といったことについてもかなり刺激的なことが書かれています。

現在、プリンタから出力されるデータはCADを使ってデータ化しますが、CADは物体の形状を全て手作業で書かなければなりません。
例えば、自然に生えている「木」のような造形物は非常に複雑であり、これをCADで正確に表現するのは大変な作業です。
ところが、木の幹からどのように枝が生えるか、というルールは比較的シンプルであり、木の形状とあるランダム性を掛け合わせた木の成長ルールをスクリプト化すれば、木のような複雑な構造物もそれほど手間をかけずにデータ化することが可能なのです。
実はこういう手法はすでにCGの世界では一般的なのだそうです。私は知りませんでした。

こうして、造形そのものをデータ化するのでなく、造形が生成されるルールをスクリプト的に記述することによって、より複雑で自然に近いものを簡単にプリントすることができるようになります。
さらには造形物の振る舞いを記述して、動きのあるものをプリンティングする、というようなことも可能になるかもしれません。

そして、ついに3Dプリンタが自分自身を作ることができれば・・・それはもはや自己複製が出来る生物と同じであり、新しい生命が誕生したとも言えるかもしれないのです。
もはやSF的、哲学的な話題ですが、そのようなことを想像する楽しみも与えてくれます。


テクノロジーとは、いまや単なる新しい機械が現れることではなく、私たちの生活や常識や社会のあり方や、政治、国家のあり方にまで影響を与えることになるでしょう。
そして、その中で3Dプリンタ的なものが果たすべき役割も、相当大きなものになるのではないかと私には思われるのです。