社会の中で生きていくということは、多くの人たちと一緒に生活を共にし、ルールを決めてときには罰したり、逆にお互い助け合ったりしながら、生活の機能を分担して豊かな暮らしを享受しようということです。
とはいえ、集団の中で生きていくことが時に息が詰まるような苦しさがあったり、逆に自分がみんなをまとめる立場なら、ルールを守らない人々や自分勝手な人々の言動に手を焼いたりすることもあるでしょう。
そしてそんなとき、ついついもうこんな人たちとは一緒にやっていきたくない、と思うこともあるかもしれません。いや、まあ人生なんて、実際そんなことの連続です。
大ざっぱに言えば、日本的な社会では「こんなところでやってられない」と思ってもそれに耐えようとするメンタリティが強く、一般的な欧米の社会では、自分の属する集団を変えていくことにそれほど抵抗が無いように見えます。
そして、昨今のIT化は、人々のホンネが可視化され、結果的に人々をますます集団よりも個人の気持ちを大事にする方向にシフトさせているように感じます。一度ホンネを言い始めた個人は、それを正当化するために自分の主張を言い続けます。こういったスパイラルはますます人々の気持ちを集団から引き離す作用を及ぼすことでしょう。
しかし、それでも人が集まらなければ出来ないことは世の中にはたくさんあるはずです。
そもそも人類は人々が協力し合うことによって進化し、発展してきました。
一人の人間の持っている能力や時間は小さくても、それを集約すれば大きなことが可能になります。
例えば、一台の自動車を作るためには、たくさんの部品を設計しそれらを組み合わせねばなりません。もはや一人の人間がその全てに精通することなど不可能なことです。
あるいは毎日の食事で、いろいろな食べ物を食べることが出来るのは、世の中にいろいろな食べ物を提供する人々がいるからです。自分一人で自分の食べる物を作ろうと思えば、同じようなものを延々と食べ続けるしかありません。たかだか100年くらい前までは、そのような人々もたくさんいたと思います(もちろん世の中にはまだそういう人たちがいますが)。
そういう巧妙な分業体制があるからこそ、私たちは今の豊かな暮らしを享受できています。こういうことは、人々が協力しながら、分業を進めてきた歴史の集積のおかげです。そのためには人々の協力関係は不可欠だったし、それはこれからも変わることは無いでしょう。
当たり前だけれど、一人で生きていくことは不可能です。
単に必要なモノを手に入れるということだけでなく、人は他人からいろいろな影響を受けて生きています。自分だけが持っている個人的な性向はあるにしても、人から面白いものを教えてもらったり、常識を刷り込まれたりしながら自分自身も常に変わっています。
それでも、集団に依存して生きていくことと、自分が一人で生きていこうと考える比率を少しずつ個人側に変えていくことは可能でしょう。
あるいは、今後個人を重要視する世の中に変わっていくのなら、集団に対する自分のスタンスももう少し変えていくべきなのだと思います。今世の中で起きているおかしなニュースの数々もそういった個々人の常識のズレから発生しているように思えるからです。
明らかに世の中のベクトルが個人側によっているのなら、人々の協力関係をうまく維持しながら、新しい集団との付き合い方、集団のあり方が生じてくるべきです。
そして、そういう潮流をうまく嗅ぎ取って個人も戦略的に行動することが必要だと感じています。
2013年9月29日日曜日
2013年9月21日土曜日
オンライン教育と社会の効率化
昨今、大学の授業がオンライン化されている、という話題を聞くことが多くなりました。
先日見たテレビ番組でも、有名大学の講義を無料でインターネットで受講することが出来、レポートや課題を提出すれば単位も取れる、といった内容を放送していました。そこで優秀な成績をとった若者が、モンゴルの田舎やブラジルの田舎から、シリコンバレーの会社からオファーを受けて入社したりした事例なども紹介されていました。
教育を受ける側からすると、今までの学校では受け身の授業のみだったものが、意欲と才能があればお金が無くても最先端の教育を受けられる機会が増えることとなり、人によっては大変喜ばしい状況が生まれているのです。
しかし、その一方、勉強が好きで好きで仕方がない、というメンタリティを持った人は私が想像するにそれほど多くなく、全てが本人のやる気に還元されるその仕組みは、否応無く本人の気質を露呈させることになります。
このようなオンライン教育が何となく空恐ろしく感じるのは、そういったところにあります。
私とていろいろなスキルが身に付くことは大変嬉しいことだけれど、学生時代、好き好んで授業を受けていたかというとやや疑問も感じます。むしろ勉強好きは、ガリ勉などと言われて蔑まれるような雰囲気さえありました。
そう考えると今までの教育とは、単にみんながやっていたから自分もやっていた、ということに過ぎなかったという気もします。
ネットの本当のコワさというのは、どこまでも人々の欲望を満たそうとすることによって、逆に人間性が丸裸になってしまうということにあるのかもしれません。
いくら、勉強して最先端の技術を持っている企業に入ることがスゴいことだとしても、誰もが一人でコツコツと勉強し続けるモチベーションを保っていられるわけではありません。
大人になって、このような職業にしか就けなかった責任は、以前なら他の何かのせいに出来たのに、これからは全て自分にあるという事実を各自が突き付けられるのです。
もちろん、学ぶことは何歳になってからでも可能です。
オンライン教育は自分が改心して、より高くステップアップするためにいつでも開かれています。だから、より一層、自分が今現在どう生きたいか、ということがやはり丸裸になってしまうとも言えます。
こういった現象を社会全体でマクロ的に見てみると、賢くてモチベーションの高い人々が同じような場所や境遇に集中する現象が、どんどん加速していくように思えるのです。それはITが社会を徹底的に効率化する、という基本的なベクトルを持っているからに他なりません。
そのようなITが目指す世界観とは全く逆に、これまでの日本では社会全体が非常に均質だったわけですが、この中から優秀な人たちだけが一人抜け,二人抜け、という現象がこれから至る所で起こるでしょう。
そうなったとき、優秀な人たちが何とか回していた組織が、まともなアウトプットを出せないようになり、少しずつ瓦解を始めるようなことも起きるかもしれません。
そうすれば組織は、優秀な人が抜けないようにする、ということも真剣に考えなければいけなくなるはずです。今まではあまりに優秀な人たちが冷遇されていたと思うからです。
このようなことが加速度的に高まれば、優秀な人々とそうでない人々は社会の中でどんどん分離をおこしていくのではないでしょうか。そしてそれは思わぬ変化を世の中に起こすことになるでしょう。
優秀な人たちとそうでない人たちが社会的に分離されると、双方の趣味や嗜好の違いもどんどん激しくなるでしょうし、話される言語や常識、倫理観まで集団によって大きく乖離していく気がします。
もはやお互い分かり合えないような地点まで行って政治的に対峙するか、一部の優秀な人たちがその他大勢の人々を精神的にもコントロールしてしまうような状況になるか、そのようなSF的な未来が訪れるかもしれません。
そして、今こうしてそれを薄気味悪いと感じる倫理観もまた、世代が変わるごとに当たり前のものになっていくのかもしれません。
先日見たテレビ番組でも、有名大学の講義を無料でインターネットで受講することが出来、レポートや課題を提出すれば単位も取れる、といった内容を放送していました。そこで優秀な成績をとった若者が、モンゴルの田舎やブラジルの田舎から、シリコンバレーの会社からオファーを受けて入社したりした事例なども紹介されていました。
教育を受ける側からすると、今までの学校では受け身の授業のみだったものが、意欲と才能があればお金が無くても最先端の教育を受けられる機会が増えることとなり、人によっては大変喜ばしい状況が生まれているのです。
しかし、その一方、勉強が好きで好きで仕方がない、というメンタリティを持った人は私が想像するにそれほど多くなく、全てが本人のやる気に還元されるその仕組みは、否応無く本人の気質を露呈させることになります。
このようなオンライン教育が何となく空恐ろしく感じるのは、そういったところにあります。
私とていろいろなスキルが身に付くことは大変嬉しいことだけれど、学生時代、好き好んで授業を受けていたかというとやや疑問も感じます。むしろ勉強好きは、ガリ勉などと言われて蔑まれるような雰囲気さえありました。
そう考えると今までの教育とは、単にみんながやっていたから自分もやっていた、ということに過ぎなかったという気もします。
ネットの本当のコワさというのは、どこまでも人々の欲望を満たそうとすることによって、逆に人間性が丸裸になってしまうということにあるのかもしれません。
いくら、勉強して最先端の技術を持っている企業に入ることがスゴいことだとしても、誰もが一人でコツコツと勉強し続けるモチベーションを保っていられるわけではありません。
大人になって、このような職業にしか就けなかった責任は、以前なら他の何かのせいに出来たのに、これからは全て自分にあるという事実を各自が突き付けられるのです。
もちろん、学ぶことは何歳になってからでも可能です。
オンライン教育は自分が改心して、より高くステップアップするためにいつでも開かれています。だから、より一層、自分が今現在どう生きたいか、ということがやはり丸裸になってしまうとも言えます。
こういった現象を社会全体でマクロ的に見てみると、賢くてモチベーションの高い人々が同じような場所や境遇に集中する現象が、どんどん加速していくように思えるのです。それはITが社会を徹底的に効率化する、という基本的なベクトルを持っているからに他なりません。
そのようなITが目指す世界観とは全く逆に、これまでの日本では社会全体が非常に均質だったわけですが、この中から優秀な人たちだけが一人抜け,二人抜け、という現象がこれから至る所で起こるでしょう。
そうなったとき、優秀な人たちが何とか回していた組織が、まともなアウトプットを出せないようになり、少しずつ瓦解を始めるようなことも起きるかもしれません。
そうすれば組織は、優秀な人が抜けないようにする、ということも真剣に考えなければいけなくなるはずです。今まではあまりに優秀な人たちが冷遇されていたと思うからです。
このようなことが加速度的に高まれば、優秀な人々とそうでない人々は社会の中でどんどん分離をおこしていくのではないでしょうか。そしてそれは思わぬ変化を世の中に起こすことになるでしょう。
優秀な人たちとそうでない人たちが社会的に分離されると、双方の趣味や嗜好の違いもどんどん激しくなるでしょうし、話される言語や常識、倫理観まで集団によって大きく乖離していく気がします。
もはやお互い分かり合えないような地点まで行って政治的に対峙するか、一部の優秀な人たちがその他大勢の人々を精神的にもコントロールしてしまうような状況になるか、そのようなSF的な未来が訪れるかもしれません。
そして、今こうしてそれを薄気味悪いと感じる倫理観もまた、世代が変わるごとに当たり前のものになっていくのかもしれません。
2013年9月14日土曜日
未来の合唱コンクール(短編小説風)
会場内は異様な緊張感に包まれていた。
今年の全日本合唱連合コンクール全国大会は各地から多くの強豪を向かえ、合唱界のみならず、広く世間の注目の的となっている。各界を代表する音楽、文化関係者が会場内にも散見された。それにしてもここ数年の合唱熱の高まりには驚くものがある。底辺の拡大によって、トップレベルの質は瞬く間に上昇した。近年の全国大会での数々の名演奏は世界的な注目を集め、またそこで披露される声楽テクニックは年々高度になっているのである。
私たちの出番は、あと1つと迫っていた。我々は舞台袖で、携帯声帯保護マスク(注:通常のマスクのような形だが、適度な温度、湿度を供給し声帯を保護するために用いる)を各自取り付け、現在出演中の団体の演奏を聞いているところであった。もちろん、楽譜を広げ、最終チェックに余念がない団員もたくさんいる。我々の指揮者は、いま演奏している団体を気にしながらも、指の動きや腰の動きを厳しくチェックしている。
舞台上では演奏が始まった。演奏曲は近年急速に人気が高まった若手現代音楽作曲家の作品である。もちろん、この曲は合唱コンクールで歌われることを最大限に意識された作品で、そのなかで要求される声楽テクニックは恐ろしく難しいものである。
早速、この曲の第一の関門が訪れた。各パートともに、ほぼ5小節の間1オクターブ以上の跳躍が続くという箇所である。各パートの音は跳躍しているものの、縦の和声は非常に魅力的で、幻想的かつ斬新な和声が響く部分である。私も、思わず耳を立ててこの部分に注目していたが、舞台上の団体はこの部分を難無くこなした。そののち一瞬わずかながら会場がどよめくのがわかった。
演奏はこの成功に気をよくしたのか、声の張りが出てきて若干勢いが増している。非常に良い調子だ。舞台袖で聞いている私も非常に複雑な気持ちでこの演奏を聞いていた。
次の関門が訪れる。男声パートがほとんどソプラノと同じくらいの音域で32分音符のメリスマを歌う箇所である。ファルセットであるのはもちろんだが、この音域を女声が歌わないことに意味がある。男性的な力強さが要求されるのである。
ちょっと前のことだが、この曲を演奏するのに、本物のカストラート(注:男性を変声期前に去勢することによって、女声並みの音域を持たせた歌手)が用いられた、という噂が全国的に広がったことがあった。渦中の合唱団はその疑いを否定しが、あの団体ならやりかねない、というのが合唱関係者での定説である。
そののち、同様な箇所を持つ合唱曲が増え始め、男声に対する高度なファルセット技術が要求されはじめるようになった。ついにはホルモン注射を続けることにより女声並みの音域を持たせる方法が全国的に広まることになった。無論、芸術のためとはいえ、身体に何らかの薬物を投与することは決して良いことではない。事態を重く見た全日本合唱連合は、このような薬物投与をやめるキャンペーンを張り、その一環として合唱コンクールで本番前にドーピング検査が義務づけられるようになったのは3年ほど前のことである。
さて演奏のほうだが、音楽に若干力強さが足りないものの、技術的には無難にこの箇所をクリアした。我々の中でも「ちぇっ、技術点狙いか」といった舌打ちが聞こえる。
それから、演奏は幾多の関門をクリア。私から見ると、音楽のダイナミズムを若干犠牲にしているようにも見えたが、それにもまして、常人には考えられないようなテクニックをこなしていくこの団体の力は全く恐るべきものである。演奏は、全く一糸乱れぬハーモニーのまま、空調の音とほとんど同じくらいのレベルまで消え入るスモルツァンドで終了した。
そして、指揮者が棒を降ろした後、おおきなどよめきが、そしてそのあと大きな拍手が鳴り響く。そして聴衆の目は、協和測定メーター(注:声楽曲の演奏の協和度を判定するメーター。ヤマバ楽器によって最初に開発された。マイナスの値で表示され0に近いほど協和度が高い)に注がれはじめた。
現在、コンクールの得点には芸術点と技術点の合計によって競われているが、この協和測定メーターの値は技術点に大きな影響を及ぼす。特に技術点のように絶対的な評価が必要な場合にはなくてはならない測定装置であり、今では合唱音楽の発展に必要不可欠なものとさえ言えるだろう。
さて、拍手が鳴り止みそうになったとき、この演奏の協和度がメーターに表示された。
《-26.5》
また、会場全体がどよめいた。近年の難易度の高い合唱曲で-30を超えることは至難の技である。従って、この値は技術点に大きな影響を及ぼすに違いない。
そして、ついに我々の出番である。
私たちが歌う曲はモンテヴェルディのマドリガーレである。技術全盛の今にあって、こういった古楽曲が全国大会で歌われることはまれになったが、高い協和度を出せることもあり、まだまだ若干歌い継がれている。また、極端な音楽的解釈で非常に高い芸術点を稼ぐことがまれにあるので、技術指向を嫌う指導者にこの初期バロックの世俗曲にはまだ根強い人気があるのだ。
そして、何より私たちの演奏には大きな秘密兵器があったのだった。
我々は、声帯保護マスクをはずし、舞台に向かった。
そして演奏は指揮者のタクトによって静かに始められた。
気がついたら満場の拍手の前に私たちは立っていた。
演奏は万全の出来だったはずだ。
会場の拍手も、我々の演奏が平均を超えるものだったことを物語っている。
そしてメーターに協和度が表示された。
《-15.2》
表示と同時にまた拍手が鳴り響く。どのような単純な曲でもここまでの協和度を示すことは一般の合唱団には難しいとされている。しかし今日の大会では、他団体によってすでに《-11.5》が記録されていた。
表示されるのとほぼ同時に、私たちの指揮者から物言いがついた。
測定を機械に頼ることになってから、毎年若干の物言いがつく。物言いがあった場合は、もう一度再計算されることになっており、たいていは最初の表示とほとんど同じになることから、指揮者の器量の無さだけが目立つことが多い。
しかし、実は私たちの物言いは全て計算ずみの行動なのであった。
物言いを告げられた大会役員の顔が一瞬こわばっているのが感じられた。そして、その役員は再計算の指示のために技術者ルームに向かった。
しばらくして、役員は多少慌てた調子でマイクを握った。
「ただいまの演奏団体より物言いが付きまして、この団体の指示により、新たにミーントーンにて再計算された結果を表示いたします」
《-9.8》
この瞬間、会場全体は大きな興奮の渦に包み込まれた。女性の悲鳴さえ聞こえた。何人かは立ち上がり、驚きの表情のまま声すら発することが出来ない状態である。
ミーントーンによる協和度の測定、これこそが全く新しい見地から技術点を叩き出す我々の秘密兵器だったのである。しかも、我々はついに協和度において夢の一桁台を達成することが出来たのだ!
そして私は、本当にこれまで合唱をやっていて良かった、と一人心の中で叫んだのである。
今年の全日本合唱連合コンクール全国大会は各地から多くの強豪を向かえ、合唱界のみならず、広く世間の注目の的となっている。各界を代表する音楽、文化関係者が会場内にも散見された。それにしてもここ数年の合唱熱の高まりには驚くものがある。底辺の拡大によって、トップレベルの質は瞬く間に上昇した。近年の全国大会での数々の名演奏は世界的な注目を集め、またそこで披露される声楽テクニックは年々高度になっているのである。
私たちの出番は、あと1つと迫っていた。我々は舞台袖で、携帯声帯保護マスク(注:通常のマスクのような形だが、適度な温度、湿度を供給し声帯を保護するために用いる)を各自取り付け、現在出演中の団体の演奏を聞いているところであった。もちろん、楽譜を広げ、最終チェックに余念がない団員もたくさんいる。我々の指揮者は、いま演奏している団体を気にしながらも、指の動きや腰の動きを厳しくチェックしている。
舞台上では演奏が始まった。演奏曲は近年急速に人気が高まった若手現代音楽作曲家の作品である。もちろん、この曲は合唱コンクールで歌われることを最大限に意識された作品で、そのなかで要求される声楽テクニックは恐ろしく難しいものである。
早速、この曲の第一の関門が訪れた。各パートともに、ほぼ5小節の間1オクターブ以上の跳躍が続くという箇所である。各パートの音は跳躍しているものの、縦の和声は非常に魅力的で、幻想的かつ斬新な和声が響く部分である。私も、思わず耳を立ててこの部分に注目していたが、舞台上の団体はこの部分を難無くこなした。そののち一瞬わずかながら会場がどよめくのがわかった。
演奏はこの成功に気をよくしたのか、声の張りが出てきて若干勢いが増している。非常に良い調子だ。舞台袖で聞いている私も非常に複雑な気持ちでこの演奏を聞いていた。
次の関門が訪れる。男声パートがほとんどソプラノと同じくらいの音域で32分音符のメリスマを歌う箇所である。ファルセットであるのはもちろんだが、この音域を女声が歌わないことに意味がある。男性的な力強さが要求されるのである。
ちょっと前のことだが、この曲を演奏するのに、本物のカストラート(注:男性を変声期前に去勢することによって、女声並みの音域を持たせた歌手)が用いられた、という噂が全国的に広がったことがあった。渦中の合唱団はその疑いを否定しが、あの団体ならやりかねない、というのが合唱関係者での定説である。
そののち、同様な箇所を持つ合唱曲が増え始め、男声に対する高度なファルセット技術が要求されはじめるようになった。ついにはホルモン注射を続けることにより女声並みの音域を持たせる方法が全国的に広まることになった。無論、芸術のためとはいえ、身体に何らかの薬物を投与することは決して良いことではない。事態を重く見た全日本合唱連合は、このような薬物投与をやめるキャンペーンを張り、その一環として合唱コンクールで本番前にドーピング検査が義務づけられるようになったのは3年ほど前のことである。
さて演奏のほうだが、音楽に若干力強さが足りないものの、技術的には無難にこの箇所をクリアした。我々の中でも「ちぇっ、技術点狙いか」といった舌打ちが聞こえる。
それから、演奏は幾多の関門をクリア。私から見ると、音楽のダイナミズムを若干犠牲にしているようにも見えたが、それにもまして、常人には考えられないようなテクニックをこなしていくこの団体の力は全く恐るべきものである。演奏は、全く一糸乱れぬハーモニーのまま、空調の音とほとんど同じくらいのレベルまで消え入るスモルツァンドで終了した。
そして、指揮者が棒を降ろした後、おおきなどよめきが、そしてそのあと大きな拍手が鳴り響く。そして聴衆の目は、協和測定メーター(注:声楽曲の演奏の協和度を判定するメーター。ヤマバ楽器によって最初に開発された。マイナスの値で表示され0に近いほど協和度が高い)に注がれはじめた。
現在、コンクールの得点には芸術点と技術点の合計によって競われているが、この協和測定メーターの値は技術点に大きな影響を及ぼす。特に技術点のように絶対的な評価が必要な場合にはなくてはならない測定装置であり、今では合唱音楽の発展に必要不可欠なものとさえ言えるだろう。
さて、拍手が鳴り止みそうになったとき、この演奏の協和度がメーターに表示された。
《-26.5》
また、会場全体がどよめいた。近年の難易度の高い合唱曲で-30を超えることは至難の技である。従って、この値は技術点に大きな影響を及ぼすに違いない。
そして、ついに我々の出番である。
私たちが歌う曲はモンテヴェルディのマドリガーレである。技術全盛の今にあって、こういった古楽曲が全国大会で歌われることはまれになったが、高い協和度を出せることもあり、まだまだ若干歌い継がれている。また、極端な音楽的解釈で非常に高い芸術点を稼ぐことがまれにあるので、技術指向を嫌う指導者にこの初期バロックの世俗曲にはまだ根強い人気があるのだ。
そして、何より私たちの演奏には大きな秘密兵器があったのだった。
我々は、声帯保護マスクをはずし、舞台に向かった。
そして演奏は指揮者のタクトによって静かに始められた。
気がついたら満場の拍手の前に私たちは立っていた。
演奏は万全の出来だったはずだ。
会場の拍手も、我々の演奏が平均を超えるものだったことを物語っている。
そしてメーターに協和度が表示された。
《-15.2》
表示と同時にまた拍手が鳴り響く。どのような単純な曲でもここまでの協和度を示すことは一般の合唱団には難しいとされている。しかし今日の大会では、他団体によってすでに《-11.5》が記録されていた。
表示されるのとほぼ同時に、私たちの指揮者から物言いがついた。
測定を機械に頼ることになってから、毎年若干の物言いがつく。物言いがあった場合は、もう一度再計算されることになっており、たいていは最初の表示とほとんど同じになることから、指揮者の器量の無さだけが目立つことが多い。
しかし、実は私たちの物言いは全て計算ずみの行動なのであった。
物言いを告げられた大会役員の顔が一瞬こわばっているのが感じられた。そして、その役員は再計算の指示のために技術者ルームに向かった。
しばらくして、役員は多少慌てた調子でマイクを握った。
「ただいまの演奏団体より物言いが付きまして、この団体の指示により、新たにミーントーンにて再計算された結果を表示いたします」
《-9.8》
この瞬間、会場全体は大きな興奮の渦に包み込まれた。女性の悲鳴さえ聞こえた。何人かは立ち上がり、驚きの表情のまま声すら発することが出来ない状態である。
ミーントーンによる協和度の測定、これこそが全く新しい見地から技術点を叩き出す我々の秘密兵器だったのである。しかも、我々はついに協和度において夢の一桁台を達成することが出来たのだ!
そして私は、本当にこれまで合唱をやっていて良かった、と一人心の中で叫んだのである。
ラベル:
合唱
2013年9月7日土曜日
内向型人間の時代/スーザン・ケイン
なかなか読書が進まず、読むのに3ヶ月ほどかかってしまいました。
しかし、これは非常に示唆に富む面白い本でした。それはきっと自分が典型的な内向型人間だという自覚があるからでしょう。
著者はアメリカ人。
当然ながらアメリカでは、外交的で明るく、社交的で、言葉遣いが巧みで、人と話をすることが大好きな、エネルギー溢れる人間が社会的には高く評価されるわけです。
しかし、内向型人間は大勢の人と話すと疲れ、一人になって何かに没頭することを好み、広く浅い付き合いより狭く深い付き合いを好みます。こういった人々は、一般的には社会的に表に出るようなタイプにはならないわけですが、本書では内向的な人間でも立派な仕事をした人々の例を挙げ、また内向的ゆえのメリットを生かすことによって、これからは内向型人間でも大きく活躍し得るということを主張します。
著者自身も内向型人間であることを、まずカミングアウトします。その上で展開される論考は著者自身の感情を強く反映しており、それだけに共感するところが大変多いのです。
序章で、内向型人間の特徴を20項目挙げています。
1.グループよりも一対一の会話を好む。
2.文章の方が自分を表現しやすいことが多い。
3.ひとりでいる時間を楽しめる。
4.周りの人に比べて、他人の財産や名声や地位にそれほど興味が無いようだ。
5.内容のない世話話は好きではないが、関心のある話題について深く話し合うのは好きだ。
6.聞き上手だと言われる。
7.大きなリスクは冒さない。
8.邪魔されずに「没頭できる」仕事が好きだ。
9.誕生日はごく親しい友人ひとりか二人で、あるいは家族内だけで祝いたい。
10.「物静かだ」「落ち着いている」と言われる。
11.仕事や作品が完成するまで、他人に見せたり意見を求めたりしない。
12.他人と衝突するのは嫌いだ。
13.独力での作業が最大限に実力を発揮する。
14.考えてから話す傾向がある。
15.外出して活動した後は、たとえそれが楽しい体験であっても、消耗したと感じる。
16.かかってきた電話をボイスメールに回すことがある。
17.もしどちらかを選べと言うなら、忙し過ぎる週末よりなにもすることがない週末を選ぶ。
18.一度に複数のことをするのは楽しめない。
19.集中するのは簡単だ。
20.授業を受けるとき、セミナーよりも講義形式が好きだ。
正直、私も全て当てはまるわけでは無いけれど、ここで著者が内向的だと考えている人たちのイメージは伝わることと思います。
本書の中盤、こどもに対する心理的実験が紹介されます。
それによると、刺激に対して高反応な子供は成長するにしたがい内向的人間になっていき、低反応な子供は外交的になるそうです。
これは非常に示唆に富んだ話です。つまり、内向的人間とは、基本的に非常にセンシティブな人間であり、世の中の多くの刺激から自分の身を守るために刺激から遠ざかるような行動を取るようになるというわけです。
そう考えると、芸術家のような人々が多く内向的であるのも頷けます。彼らは刺激に対してセンシティブであるが故に、それが芸術を生む原動力にもなり得るわけです。
人はどうしたって、持って生まれた性向、性格から逃れることができません。
内向的人間は、人生において、内向であるが故に辛酸を舐めるような経験も多いでしょう。渾身の意見、作品を否定されたり、自分と同じ立場にいても世渡り上手な人が評価されたり、ときには自分の意見も本質とはかけ離れた枝葉末節な理由で否定されたりします。
そういう経験から、自分の外向性を多少なりとも磨く必要はあるのでしょうが、世の中にも多くの内向型人間がいて、同じような経験をしながらも多くの場所で活躍していることは、私に勇気を与えてくれます。
時代はますます専門性が問われ、アート感覚が問われるようになるでしょう。
これからは、センシティブな内向型人間が活躍できる場が益々増えていくでしょう。そんな希望溢れる未来を感じることが出来た良書でした。
しかし、これは非常に示唆に富む面白い本でした。それはきっと自分が典型的な内向型人間だという自覚があるからでしょう。
著者はアメリカ人。
当然ながらアメリカでは、外交的で明るく、社交的で、言葉遣いが巧みで、人と話をすることが大好きな、エネルギー溢れる人間が社会的には高く評価されるわけです。
しかし、内向型人間は大勢の人と話すと疲れ、一人になって何かに没頭することを好み、広く浅い付き合いより狭く深い付き合いを好みます。こういった人々は、一般的には社会的に表に出るようなタイプにはならないわけですが、本書では内向的な人間でも立派な仕事をした人々の例を挙げ、また内向的ゆえのメリットを生かすことによって、これからは内向型人間でも大きく活躍し得るということを主張します。
著者自身も内向型人間であることを、まずカミングアウトします。その上で展開される論考は著者自身の感情を強く反映しており、それだけに共感するところが大変多いのです。
序章で、内向型人間の特徴を20項目挙げています。
1.グループよりも一対一の会話を好む。
2.文章の方が自分を表現しやすいことが多い。
3.ひとりでいる時間を楽しめる。
4.周りの人に比べて、他人の財産や名声や地位にそれほど興味が無いようだ。
5.内容のない世話話は好きではないが、関心のある話題について深く話し合うのは好きだ。
6.聞き上手だと言われる。
7.大きなリスクは冒さない。
8.邪魔されずに「没頭できる」仕事が好きだ。
9.誕生日はごく親しい友人ひとりか二人で、あるいは家族内だけで祝いたい。
10.「物静かだ」「落ち着いている」と言われる。
11.仕事や作品が完成するまで、他人に見せたり意見を求めたりしない。
12.他人と衝突するのは嫌いだ。
13.独力での作業が最大限に実力を発揮する。
14.考えてから話す傾向がある。
15.外出して活動した後は、たとえそれが楽しい体験であっても、消耗したと感じる。
16.かかってきた電話をボイスメールに回すことがある。
17.もしどちらかを選べと言うなら、忙し過ぎる週末よりなにもすることがない週末を選ぶ。
18.一度に複数のことをするのは楽しめない。
19.集中するのは簡単だ。
20.授業を受けるとき、セミナーよりも講義形式が好きだ。
正直、私も全て当てはまるわけでは無いけれど、ここで著者が内向的だと考えている人たちのイメージは伝わることと思います。
本書の中盤、こどもに対する心理的実験が紹介されます。
それによると、刺激に対して高反応な子供は成長するにしたがい内向的人間になっていき、低反応な子供は外交的になるそうです。
これは非常に示唆に富んだ話です。つまり、内向的人間とは、基本的に非常にセンシティブな人間であり、世の中の多くの刺激から自分の身を守るために刺激から遠ざかるような行動を取るようになるというわけです。
そう考えると、芸術家のような人々が多く内向的であるのも頷けます。彼らは刺激に対してセンシティブであるが故に、それが芸術を生む原動力にもなり得るわけです。
人はどうしたって、持って生まれた性向、性格から逃れることができません。
内向的人間は、人生において、内向であるが故に辛酸を舐めるような経験も多いでしょう。渾身の意見、作品を否定されたり、自分と同じ立場にいても世渡り上手な人が評価されたり、ときには自分の意見も本質とはかけ離れた枝葉末節な理由で否定されたりします。
そういう経験から、自分の外向性を多少なりとも磨く必要はあるのでしょうが、世の中にも多くの内向型人間がいて、同じような経験をしながらも多くの場所で活躍していることは、私に勇気を与えてくれます。
時代はますます専門性が問われ、アート感覚が問われるようになるでしょう。
これからは、センシティブな内向型人間が活躍できる場が益々増えていくでしょう。そんな希望溢れる未来を感じることが出来た良書でした。
ラベル:
本
2013年9月1日日曜日
ラズベリー・パイが作る未来、そして私の場合
以前ラズベリー・パイ(Raspberry Pi)についてこんな話題を書きました。
今後、電子機器がこういった小型PCボードに席巻されるだろう、という予想は当時から変わりませんが、それには障壁があります。
コンピュータ、ITの世界は非常に進歩が速く、10年前のパソコンを使い続けるのは基本的には大変難しいハズ。ストレージもメインメモリも10年前とは比較にならないほど容量が増えたし、CPUの性能もどんどん上がっています。
その一方、私たちの身の回りのある電気製品は、壊れるまで使うものがほとんどです。冷蔵庫とか洗濯機とかエアコンとか、あるいは各種調理器具とか、あとはAV機器系でしょうか。こういう機器は、もちろん中にマイコンが入っているわけですが、メモリが足りなくなったからとか、CPUの処理速度が足りない、という理由で製品を買い替えることはありません。
通常は、壊れて使えなくなったから新しいものを買うことが一般的です。
ところが、製品開発側からすれば家電製品がネットに繋がったりすれば、いろいろ便利だろうと考え、そういう機能を追加しようとします。
確かに今の技術でネットに接続することは出来るでしょう。しかし、5年後、あるいは10年後にネットが同じプロトコルのままかどうかも分からないし、各種ネットサービスの機能もある程度ネイティブな処理で行なうことが一般的になるかもしれません。
ネットに繋がって便利〜、みたいな機能を電気製品に入れようとすると、逆説的に10年使い続けようみたいな価値観が揺らいでしまうのです。
それで考えられるのは、電気製品のCPUやストレージ、ネット接続の部分が外部汎用コンピュータボードとして製品から分離され、必要に応じてアップグレードが可能になる、といった方向性です。
確かに今の消費者が、コンピュータボードの性能や、OS、ネットの規格の違いまで知らなければいけないというのは酷な気もします。
しかし、そちらのほうが経済的にメリットがあるのなら、消費者がコンピュータリテラシーを持つことを前提に、そういう商品が増えていく可能性もあると思います。
そして、そこでラズベリー・パイなわけです。
こういう小型PCボードが電気製品から抜いたり挿したりすることが可能になれば、冷蔵庫、洗濯機の基本性能はそのままで、ネット接続や情報管理などの処理をアップグレードすることは可能でしょう。
そのためには、電気製品とPCボードとの接続が標準化される必要がありますが、先に作っちゃったモノ勝ちなのかもしれません。Googleあたりが家電との接続APIを規定してくれれば、世の中も少しは変わるかもしれません。
まとめると、いろいろな電子機器がネットに繋がったり、大量のデータを保持してネットでやり取りしようとすれば、そういう機器のコンピュータ部分を取り外し可能にする、というコンセプトが成り立つ可能性があるということです。
そして、そのときラズベリー・パイのようなボードがそういう部分を担うデバイスとして、少しずつ好事家から一般大衆へ広まっていくのではないか、という予想を私はしています。
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さて話は変わり、私のラズベリー・パイでの活動の報告など。
写真の通り、私の机の上はすっかり電子工作スペースと化しています。
中央にあるのがラズベリー・パイ。いま、I2Cの信号だけ抜き取り、これを小さなタッパーの中に入っている気圧センサーに繋げています。I2Cデバイスはもう一つ。こちらは、ポート出力をI2Cに変換してくれるデバイスもI2Cに繋げています。
この状態でタッパーにくっ付けた透明なチューブをくわえて息を吹き込むと、気圧が若干上昇します。これを吹奏圧として利用すれば、吹く電子楽器が出来るはず。
今は、「電子オカリナ」を目指して、ラズベリー・パイ上で動作するソフトシンセの調整をしたり、ラズベリー・パイのI2C端子以降をきちんとした筐体に入れる方策を検討しています。
また、そろそろ3Dプリンタで出力するために、CADで立体図形を描く練習も始めたいと考えています。
さて、今年中にどこまで出来ることなのやら・・・
今後、電子機器がこういった小型PCボードに席巻されるだろう、という予想は当時から変わりませんが、それには障壁があります。
コンピュータ、ITの世界は非常に進歩が速く、10年前のパソコンを使い続けるのは基本的には大変難しいハズ。ストレージもメインメモリも10年前とは比較にならないほど容量が増えたし、CPUの性能もどんどん上がっています。
その一方、私たちの身の回りのある電気製品は、壊れるまで使うものがほとんどです。冷蔵庫とか洗濯機とかエアコンとか、あるいは各種調理器具とか、あとはAV機器系でしょうか。こういう機器は、もちろん中にマイコンが入っているわけですが、メモリが足りなくなったからとか、CPUの処理速度が足りない、という理由で製品を買い替えることはありません。
通常は、壊れて使えなくなったから新しいものを買うことが一般的です。
ところが、製品開発側からすれば家電製品がネットに繋がったりすれば、いろいろ便利だろうと考え、そういう機能を追加しようとします。
確かに今の技術でネットに接続することは出来るでしょう。しかし、5年後、あるいは10年後にネットが同じプロトコルのままかどうかも分からないし、各種ネットサービスの機能もある程度ネイティブな処理で行なうことが一般的になるかもしれません。
ネットに繋がって便利〜、みたいな機能を電気製品に入れようとすると、逆説的に10年使い続けようみたいな価値観が揺らいでしまうのです。
それで考えられるのは、電気製品のCPUやストレージ、ネット接続の部分が外部汎用コンピュータボードとして製品から分離され、必要に応じてアップグレードが可能になる、といった方向性です。
確かに今の消費者が、コンピュータボードの性能や、OS、ネットの規格の違いまで知らなければいけないというのは酷な気もします。
しかし、そちらのほうが経済的にメリットがあるのなら、消費者がコンピュータリテラシーを持つことを前提に、そういう商品が増えていく可能性もあると思います。
そして、そこでラズベリー・パイなわけです。
こういう小型PCボードが電気製品から抜いたり挿したりすることが可能になれば、冷蔵庫、洗濯機の基本性能はそのままで、ネット接続や情報管理などの処理をアップグレードすることは可能でしょう。
そのためには、電気製品とPCボードとの接続が標準化される必要がありますが、先に作っちゃったモノ勝ちなのかもしれません。Googleあたりが家電との接続APIを規定してくれれば、世の中も少しは変わるかもしれません。
まとめると、いろいろな電子機器がネットに繋がったり、大量のデータを保持してネットでやり取りしようとすれば、そういう機器のコンピュータ部分を取り外し可能にする、というコンセプトが成り立つ可能性があるということです。
そして、そのときラズベリー・パイのようなボードがそういう部分を担うデバイスとして、少しずつ好事家から一般大衆へ広まっていくのではないか、という予想を私はしています。
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さて話は変わり、私のラズベリー・パイでの活動の報告など。
写真の通り、私の机の上はすっかり電子工作スペースと化しています。
中央にあるのがラズベリー・パイ。いま、I2Cの信号だけ抜き取り、これを小さなタッパーの中に入っている気圧センサーに繋げています。I2Cデバイスはもう一つ。こちらは、ポート出力をI2Cに変換してくれるデバイスもI2Cに繋げています。
この状態でタッパーにくっ付けた透明なチューブをくわえて息を吹き込むと、気圧が若干上昇します。これを吹奏圧として利用すれば、吹く電子楽器が出来るはず。
今は、「電子オカリナ」を目指して、ラズベリー・パイ上で動作するソフトシンセの調整をしたり、ラズベリー・パイのI2C端子以降をきちんとした筐体に入れる方策を検討しています。
また、そろそろ3Dプリンタで出力するために、CADで立体図形を描く練習も始めたいと考えています。
さて、今年中にどこまで出来ることなのやら・・・
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