前回の話の続き。
企業が工場にて大規模にモノを作るのではなく、個人が自分に必要だと感じるものを思い思いに作るような状況を、パーソナル・ファブリケーションと呼んだりします。
考えてみれば産業革命以前、世の中の全てのモノ作りはパーソナル・ファブリケーションでした。しかし、技術革新により大規模な機械を導入し、一度にたくさんのものを作れば製造コストはどんどん下がっていくことになりました。このような形で近代のモノ作りは進化し、気が付けば個人でモノを作ったとしても、企業が作ったものと同程度の品質を確保するのはほとんど不可能な世の中になってしまいました。
ところが、その一方かゆいところに手が届くとか、一見無駄な装飾であるとか、あまり一般的には使われない機能だとか、工業製品にとってコストメリットの無いものが少しずつ省かれていくことになりました。
工業化は大規模化の競争であり、市場がグローバルになるに従い、地球規模で寡占化が進みます。寡占化が進むほど製品のバリエーションは少なくなり、世界中の人が同じものを使うようになります。こんなものがあったらいいのに、がある一定の規模にならないと、新商品には全く反映されないのです。
工業製品でなくても、そういうことを体感することは多くなったように感じます。
例えば、日本全国にユニクロがあって、安くてそこそこデザインもいいのでみんながユニクロで服を買うようになります。もともと服にこだわりのない人は一定数いますから、例えばある地方にしかなかった衣服文化とか関係なくユニクロが売りまくれば、そういった小さな規模の文化をベースにした商品は採算が取れなくなり、結局消えていくことになります。
その昔、適当な店で服を買ったとしても、他人と着ている服が同じだったなどということはほとんど無かったのですが、最近は「ユニクロかぶり」現象が頻発しています。私でさえ経験してしまいました。
ちなみに、個人的に最近ヒドいと感じるのは男性の靴が良くかぶる現象。これも郊外のアウトレットモールでみんなが同じようなものを買うようになった結果です。
他人と同じものなんて滅多に無い衣服でさえ、この有様。
今、スマホだと半分はiPhoneだし(まあ、これは別の理由で歓迎すべきことではあるのだけど)、ある商品群なら、日本中ほとんどの人が、同じような選択肢から商品を選ぶ状況になっていると思います。
これは皆が望んでそうなったのではないのです。
経済的に寡占化が進み、買う方も経済的な選択をした結果、そのような状況になっているだけなのだと思います。もしたくさんの選択肢が適度な値段で供給されれば、そちらのほうが良いに決まっています。特に身につけて持ち歩いたり、人に見られるものについては、人とは違うものを持っていたいと誰もが思うのではないでしょうか。
パーソナル・ファブリケーションに経済的な解決さえ見つかれば、世の中はそちらの方向に向かうと私は考えます。
そのためには、逆に極限まで各レイヤーの標準化が必要だし、様々な部品の情報公開が必要です。そうなることで、外見部分や、外部仕様に独自性を出すことが容易になっていくのです。
今、ファブラボと呼ばれる活動があります。
これは、自分が作りたいものを自由に作るための工場貸し出しのようなサービスを世界的に展開しようという活動です。
その活動の憲章の中に、自分が作ったものは他の人が活用出来るように必ず複数つくること、とか、その設計図も完全に公表すること、といったルールがあるようです。
これは、まさにソフトウェアでいうところのオープンソースと全く考え方が同じ。
個人的にこの活動には大いに賛同しますし、一度は関わってみたいものだと今思っているところです。
もし少量でも製造するコストが今後下がっていくのなら、企業が自分の技術を守るために秘密を大事にし、商品に関する全てを自力で設計・開発・製造するようなやり方より、ファブラボの方がずっと面白いものが作れるようになっていくと私には思えるのです。
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