もちろんこれは前回の対になる記事なわけですが、応募する立場になると、考え方は全く逆でなくてはならない、というお話。
最初に結論を言ってしまうと、どのような募集であっても公平な審査などというのは最初から不可能であり、自分の応募内容がきちんと理解された上で判断されたのかなどということをグジグジ考えても仕方が無いと思っています。
もちろん、それはなぜ落選したのか考えても仕方が無い、と言っているわけではありません。そういう反省は常に必要。だけれども、その際に、常に審査が公平に行なわれていると言う前提で考えても仕方がないし、そのくらいの現実は受け入れるべきだということです。
例えば自分の例で言うと、すでに書いたように私は何度も作曲コンクールに応募しています。当然ながら、賞を頂いた数よりも圧倒的に落選した数の方が多いのです。
しかし、幸い1次審査通過とか入賞したこともあるので、落選した場合の自作品における差異を多少感じることが出来ました。
若干誤解を恐れずに言うなら、意外とそれは表面的な差が強かったように思います。特に冒頭部分の面白さ、譜面の見た目、は重要な要素だったと感じました。
例えば百近い作品を評価しようというときに(それ以上ならなおさら)、それぞれの作品の最初から最後まできちんと見てもらうなどというのは現実不可能です。
特に審査の最初の段階で、ある程度数を絞ろうとする段階では、作品のごく一部だけで(恐らく冒頭で)判断されているとしても全く不思議はありません。
従って、作品の冒頭があまりに凡庸な出来だった場合、その後にかなり自分の良い部分があったとしても引っ掛からない場合があります。これは私の得た教訓の中で,もっとも普遍的なものと今でも思っています。
同様な理由で見た目も重要です。
文学賞ならば、手書きかワープロか、というのは重要でしょう。もっともほとんどの人は現在ワープロでしょうから、筆跡に自信があれば敢えて手書きで挑戦するというのも一つの戦略。
作曲も、手書きか浄書か、という問題はあります。まだ手書きの方はそこそこいるとは思いますが、楽譜の手書きはかなり読譜が大変だし、時間もかかります。浄書の場合もワープロと違って、ソフトによってかなり見栄えが違うので、安物は使わないことを私はお勧めします。
電子化してあるかどうかだけでなく、全体のレイアウトとか、大きさとか、鮮明さとか、見た目を左右するあらゆる要素において、細心の注意を払うべきでしょう。
やや具体的な話になってしまったけれど、応募する立場としては、なぜ自分が落選したのかとても知りたいものです。私もその気持ちはとても良く分かるのです。
でも、それは結局分からないし、最初からコンクールで選ぶことに完璧な公平性を期待しないほうが良いです。
それを理解した上で、自作品を自分の許容出来る範囲内で、狡猾にコンクールで通るような形に仕上げていく、という戦略もまた必要だと私は考えます。まぁ普通はそういうことは言わないのでしょうが、正直な私は、敢えてそういう意識も重要だと言っておきたいです。
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