2011年11月30日水曜日

大阪維新があぶり出す日本の心

あまり政治的な主張をする気は無いのですが、先日の大阪府知事・市長選のダブル選挙っていろいろな観点で興味深いイベントだったなあと感じました。
私自身は大阪都構想の是非については、特に賛否はっきりしているわけではありません。二重行政が良くないのは当たり前のこと。これを改善する手法として何が良いやり方なのかは、それなりの知見が無ければ意見が言えるものではありません。

むしろ、この選挙の本質は政策では無いところにあるような気がするわけです。
大衆はヒーローを求めます。悪者をまつりあげ、それをバッサバッサと批判していくさまは全く快感で、自分の日常の不満を代弁してくれるその存在が頼もしくてなりません。
その一方、自分の考えをぶち上げ、それを成就させるために手段を選ばないような強権的な手法に、漠然とした不安を持つ気持ちもあります。
自分がどちらの立場にいるかでその印象も180度変わってしまいますが、仮に叩かれる側にいなかったとしても、世の中を動かす世代にとっては、このような批判をてこにのし上がって来る傍若無人な若者にはたいてい嫌悪感を示すことが多い。
橋下氏があぶり出すのは、そういった私たち一人一人の生き方・考え方の基本的なスタンスです。実際、選挙後思うのは、私の周りの多くの人は、橋下氏に対してあまり好感を持っていない、ということです。

先に私の気持ちを言ってしまえば、基本的に今回の選挙結果については肯定的です。
さらに言えば、橋下氏に嫌悪感を抱く感覚に、不満を感じます。そう思っている人に直接は言えませんが、反橋下的な人々は、基本的に革新を嫌い権威を好む傾向を感じてしまいます。それはものごとを進める際にいつも足を引っ張るような考え方です。

特に良く言われる「独裁」という言葉には非常に抵抗を感じます。
民主的な手続きで選ばれた人が自分の意志で政治を行うことは全く当たり前のことで、恐らく日本人から見れば、アメリカもイギリスもフランスも独裁に近い状態ですが、それらの国の人々が為政者を「独裁者」などと批判するなど聞いたことがありません。
そこに日本人の感性を見る思いがします。
我々は全ての意思決定を特定の個人に委ねることを、極端に嫌がる傾向がある気がします。だから、権限が集中するそういう個人を排除しようとします。
ところがその一方、個人が中心にいる集団がある一線を越えてしまうと、特定の個人が神様に近くなり、まるで新興宗教のように個人をあがめ奉るような状況も起こり易いと感じます。
独裁か神様か、私たちは見事に支配者を単純化してしまいます。個々人が自律的に判断したいと思う意思を持っていれば、恐らくこんなことにはならないでしょう。

我々はそういう心象を知っているからなのか、それが例えば戦争に向かうような本当の独裁になってしまうかも、という恐怖を感じるのかもしれません。
しかし、そのために意思決定力が無いトップがあちらこちらで間抜けな事態を引き起こしている現状を考えると、有能な人を一人選んで、その人に自分たちの未来を預けることを我々はもっと肯定していかなければいけないと私は思います。その上で、その個人が暴走したときに止める仕組みさえ持っていれば良いのです。
今は、みんながトップの足を引っ張る仕組みしか無いように思えます。
私は今の政治家の質が低いとはあまり思っていません。みんなが思うような理想の政治家などこの世の中にはいないのです。
誰もが権力を握りたい欲望を持っていて、その欲望はまず現権力を否定しようとします。我々はそのための仕組みを持ち過ぎているのではないか、そんな気がするのです。

残念ながらそのような日本の仕組みを変えていくためには、今はとんでもないパワーを持った個人が必要だと私は思います。いつか、健全な政治が実現するために、今はそういったパワーを期待してしまうのです。
でも、こういうのもヒーローを求める大衆心理と変わらないと言われちゃうんだろうなあ・・・


2011年11月27日日曜日

楽譜を読む─テンポを微分してみる

前回、テンポを微分するなどという話を書きました。
そんなこと言われたって、何をしたらいいか分からない、あるいは何を意図しているか分からない、という方もいるでしょう。
ですので、今回は具体例で、私が考えるテンポの微分について紹介してみます。
難しくない話のつもりなので、ぜひ読み飛ばさないで、数字まで読んでみてください。


<テンポの例>
Bibun


ということで、まず楽譜からテンポ情報だけ抜き出してみましょう。
ある架空の楽譜から抜き出したことを想定して、上のような表を作ってみました。上の段が小節番号で、次の段にテンポの値が書いてあります。
微分する、ということは端的に言えば、前のテンポと新しいテンポの差を計算するということです。
その考えに基づき、テンポの変わり目でどれだけテンポが変わったかを示したのが3段目です。

テンポが速くなったときには正の数になります。テンポが遅くなったときには負の数になります。
変化の大きさが大きい時は、絶対値が大きくなります。
そして、実際音楽の演奏で重要なことは、まさに上の2点であると思うのです。すなわち、1.速くなるか遅くなるか、2.前からどれだけ変わるか、ということです。
テンポ値を微分することによって、この重要な値がきちんと抽出出来ることに気がつくはずです。

私の感覚で言えば、テンポの変化が10以内くらいであれば、物理的な数値の変化というより、ほとんど表現の変化の問題です。しかし差が20を超えるようになると音楽が持っている景色が変わります。
従って、このような大きなテンポの変化は、演奏者が明瞭な目標をもってその景色を変えてやらなければいけないということになります。

微分する前の絶対値は、合唱団の人数や、ホールの響き、指揮者の曲のイメージによって多少変化するのは当然です。しかし、作曲家が本当に伝えたいことは、むしろフレーズ間のテンポ相互関係なのです。ここをきっちり読み取っていかないと、作曲家の意図から離れた演奏になってしまいます。

2011年11月24日木曜日

楽譜を読む─テンポの数値について

数値を理解したり、扱ったりするには、やはりそれなりのセンスが必要です。
最近では、原発事故のために、シーベルトという単位があまりに身近になってしまいました。いろいろ報道を見る限り、この単位の数値評価のポイントは、ミリなのか、マイクロなのか、毎時なのか、年間なのかという点です。数百マイクロシーベルトという数値も毎時と年間では桁が四つ近く違ってしまうわけですから。

関係ない話で始めてしまいましたが、音楽にも数値を扱うセンスが要求されます。
楽譜内で使われる数値で特に厳格なものに思えるものは、テンポと音価です。テンポと音価以外では、音量も数値的ではないし、小節番号はただの序数だし、あまり思い付きません。

テンポの数値の扱いについて考える際、そもそもテンポを数値で書くことの危うさ、を認識しなければいけません。コンピュータで曲のテンポを制御しない限り、生音楽のテンポは常に変わり得ます。同じ曲を同じ人が演奏しても、演奏する場所によってテンポは変わります。ましてや、演奏者が違えばテンポはすべて変わります。
それなのに、なぜテンポは数値で書いてあるのでしょう。
もちろん、AllegroとかLentoとか、数値を直接書かずに昔ながらのイタリア語表記で、ある程度イメージ的に記譜する人もいますが、それでも演奏者とすれば四分音符がだいたいどれくらい、といった指標は欲しいものです。

残念ながら「だいたいこのくらい」という感覚を音楽的に上手に表現する方法は、誰も標準化してくれませんでした。むしろ、数百年前メトロノーム表記が出来たときに、多くの人は喜んでそれに従ったものと思います。これほど明確にテンポを伝える方法がそれまでなかったからです。
しかし、便利さは新しい悩みを常にもたらします。作曲家が記譜したテンポの数値をどれくらい厳格に守るべきなのか、という演奏家の新しい苦しみを生むことになってしまいました。

それでも私は、曲のテンポの数値を分析すれば、作曲家の気持ちを汲むことは可能だと考えます。
例えば、ある曲の作曲家のテンポの数値に込めた思いを調べるとしましょう。
まずその曲全体で使われているテンポの数値を全部書き出します。合唱曲では、それほど長い曲でない限り、せいぜい4つとか5つとかくらいではないかと思います。
そして、書き出した数値の相互関係を見てみます。
例えば、セクションAのテンポが72で、その後のセクションBのテンポが112だったら、曲はセクションBになったとき急に速くなります。ところがその数値が、72から80くらいの変化だと、速くなり方が微妙です。
こういう場合、テンポを速めるというよりは、曲の雰囲気が快活になる程度の感覚を持ったほうが、正しいように思えます。

時系列に数値を並べ、その数値の相互関係を見るという行為は、数学的に言えば微分する、ということです。
今や、株の取引も高度な微分解析をする時代です。連続した数値の変化には、常に微分的な発想が必要になります。私たちを取り巻くいろいろな数値も微分すると、いろいろなことが分かるものです。
しかし微分とか言われて引かないで下さいね。
作曲家が伝えたいテンポに込められた数値のエッセンスは、微分することによって浮かび上がります。実際のところ、テンポの絶対値的な数値はホールや演奏者によって変わり得るものであり、曲の本質にとって本当に大事なことは数値の相互関係にある、と私は思うのです。

2011年11月22日火曜日

テレビが大進化する─テレビアプリ

こうなったらとことんテレビのこと、考えてみましょう。

携帯がスマホ化して、アプリをインストール出来るようになったことによって、携帯はとてつもない力を得ることになりました。もう、その能力はちょっと前のパソコンと変わらないほどです。画面は、パソコンみたいにフォルダとかファイルという概念では操りませんが、スマホのアプリがアイコン化し画面に整然と並ぶUIはすっかり市民権を得てしまいました。

私たちは、iPhoneとかアンドロイド端末で、いろいろなアプリをインストールして楽しんでいます。携帯のアプリはPCとはまた味わいの違うものです。すぐに取り出して情報を見るだけとか、思ったことをメモに書くとか、食べ物の写真を撮るとか、そんなことだけでもアプリの価値があります。むしろ機能が多いと煩わしい感じさえします。

テレビの入力がフラット化し、UIが使い易くなったその先には「テレビ用のアプリ」という世界が広がる可能性が当然出て来るでしょう。
もちろん、テレビ用のアプリでまず考えられるのがゲーム。もし、自由にゲームをインストール出来るようになれば、今の家庭用ゲーム機器もいらなくなり、ハードを持っていないと遊べない、という感覚も無くなっていくでしょう。
もちろんゲームほどのインタラクティブ性が無くても、テレビ用のアプリにはいろいろなアイデアが考えられます。
ネットを介して双方向の通信が出来れば、英会話のレッスンとか、大学の講義とか、学会の発表を聴いたりとか、その他世界中のあちらこちらの個人放送を見ることができるでしょう。
映像付きの本として読書したり、何か調べものをしたり、音楽鑑賞したり、地域の情報を得たり・・・残念ながら私にはありきたりのアイデアしか湧きませんが、テレビで使えるアプリにはきっといろいろな可能性があるはずです。

そしてそのときに無くなってしまうものは、例えばHDレコーダーであり、DVDプレーヤーであり、家庭用ゲーム機であったりします。これらのハードがすっかり無くなって、ネットにつなぐだけのすっきりしたテレビが出てくれば、それは経済的にも優しい商品になることでしょう。

ここまで考えていくと、一消費者としてテレビがどんどん変わっていくことにワクワクする一方、きっとそういったサービスや新しいデバイスは、ほとんど外国製に席巻されてしまい、日本メーカーが総崩れになりそうな予感もしています。
最近の私は、日本の製造業にほとんど期待を持てなくなってしまいました。いろんな意味で・・・。

2011年11月20日日曜日

テレビが大進化する─クラウド

テレビとは仕事上全く関係ない私ごときが、こんなことをここで書いても何の反応も無いとは思いつつ・・・、自分自身の思考の記録という意味で、最近思っていることを書いてみます。

前回、様々な映像を簡単な操作で呼び出せるような新しいUIを持ったテレビのことを考えてみました。
私たちはテレビと言うと、テレビ放送を見るための機械、と思うのでしょうが、これからの常識はその辺りから変わってしまうでしょう。テレビ番組であれ、映画であれ、映像コンテンツは全て我々が自由にみることの出来るコンテンツとしてフラット化され、テレビはそれらのコンテンツの統一された窓となっていくのです。

この考え方をもうちょっと進めてみると、映像コンテンツを所有する、とはどういうことかを考えなければならなくなります。
例えば、自分の好きな映画のDVDを買ったとします。DVDはプレーヤに入れないと観ることが出来ません。ところが今のDVDプレーヤーはたいてい特定のテレビに接続されていて、その場所でないと観れないのです。
例えば、車の中で観たい場合、車載用のDVDプレーヤーとモニターが必要になります。いろいろな場所でDVDを観たければ、こんな機材をいくつも買って、なおかつDVDを持ち歩く必要があるわけです。
最近は多くの人が、CD/DVDをリッピングするようになりました。例えば、自分の買ったDVDをリッピングしてPCに置いておけば、PCで観ることが可能になります。そして、そのデータをネット上に置いてしまえば、ネット環境のあるPCで観ることが可能になります。

考えてみれば当たり前のことですが、ネット上にコンテンツが置いてあるのは実に便利なことです。
しかし、いったんネットに置いてしまえば、誰でも観れてしまうし、そうなると著作権的な問題が発生します。そして、ここから先は技術の問題ではなくなってしまいます。

今でも、ネットと著作権に関わる様々な問題は日々生じています。しかし世の中は少しずつですが、ネット上にデータが置かれることを容認しつつある感じがします。
最近では、アップルがiCloudと称して、ユーザーが一度買ったことのある音楽であれば、サーバー上のデータを何度でも聞くことが出来る、といったサービスをアメリカで始めました。そのために、大手のレコード会社とも合意を取ったようです。
残念ながら,日本ではそのような行為は違憲であるという判例があり、このサービスのめどが立っていないと言われています。

しかしそれも時間の問題でしょう。10年も経てば、クラウド上にデータが置いてあり、誰もがそれにアクセス可能な世の中になっていくと思います。
一般ユーザーがコンテンツを買う、ということは、ネット上のデータを観ることのできる権利を買う、というような意味合いに変化していくことでしょう。
そして、ますますテレビというものは、今の枠組みでは収まらない別の価値観を持ったハードウェアに変わっていくのだと思います。

2011年11月17日木曜日

テレビが大進化する

ジョブスが死ぬ前に、すでに新しいテレビの構想があったなどとまことしやかに語られています。
また、Googleもテレビを変えようと画策していたり、最近ではソニーも新しいテレビのあり方を構想中だとか。
新しいテレビとかいうと、3Dとか高精細とか、そういうハードウェアのことしか思い浮かばない人も多いと思いますが、上のハイテク企業で言われていることは、そのような画面の性能や機能のことではないことは今や明らかです。

というわけで、私なりに新しいテレビのあり方とはどんなものか、勝手に考えてみましょう。
まず、今テレビを使っていて不満なことは何でしょう?
何と言っても面倒な操作です。確かにチャンネルを選んでテレビを見るだけならそれほど大変ではありません。
しかし、今どきほとんどの人はHDレコーダーを繋げているだろうし、人によってはデッキを2台繋げていたり、DVDプレーヤーが繋がれていたり。あるいは家庭用ゲーム機がHDMIに繋がっているかもしれません。
何かをやるにも、テレビのリモコンで「入力切替」を行い、今度は切り替えた先のリモコンに持ち替えて、その機械の操作を行う必要があります。
しかし、そんなことはここ十数年当たり前のことだったし、それぞれ別のメーカーだったら仕方ないじゃないか、などと思考を止めてはいけません。

なぜなら、これからはさらにパソコンを接続して、YouTubeの動画投稿サイトをみたり、ネットで映画をレンタルしたり、といった形でネットを利用した新サービスがたくさん出て来るでしょうし、それによってさらに操作は煩雑になることが予想されるからです。
このような状態で、今のようなリモコン操作の延長では面倒で仕方がありません。
そして、恐らくApple, Google, Sony その他の意欲あるハイテク企業が狙っているのは、画像表示のハブ的デバイスを作ることです。それはテレビそのものであっても良いし、テレビに接続する何らかのデバイスでも構わないでしょう。
重要なことは、そのデバイスが単体で売れることではなく、ネット上のサービス、コンテンツまで含めたエコシステム、あるいはプラットフォームを作った者がこの競争を制するということです。

では、具体的にどのようなものになるか考えてみましょう。
「入力切替」はもはやテレビのリモコンでは行いません。「入力切替」という概念は、テレビの後ろの入力配線のどれを選ぶかというハードウェアを意識した言葉です。しかし、それはユーザーの望むものでは無いはずです。
まずお客さんは、テレビ放送か、DVDか、動画配信か、ネットのレンタル映画か、あるいはケーブルテレビ用の放送か、これを簡単に選択できれば良いわけです。
例えば、新しいリモコンはMacの MagicPad みたいなタッチインタフェースになっていて、左右にスワイプすると階層を簡単に行き来できるようにします。まずテレビの電源を入れると、上記の映像の種類を上下のスワイプで選んで、左にスワイプすると、次にチャンネルや画像一覧などが現れる、といったインタフェースを作れば、今より操作はかなり楽になると思います。
チャンネルを選ぶのも、YouTubeみたいに小画面が12個に分割されて見えていて、その中から選べばチャンネルを数字で覚える必要もありません。(ケーブルテレビではすでにありますね)

そのような感じで、統一されたインタフェースで好きな画像を出来るだけ速く選べるようになると、テレビの概念もだんだん変わって来るのではないかと思うのです。
画像用の液晶パネルは益々安くなって、一つの部屋に数枚あるのが普通になれば、テレビは単なるモニターに変わっていくでしょう。
そして、空いているモニターを使って各自が好きなものを見るような、そんな時代に変わっていくのかもしれません。さらにカメラなどを取り付けてインタラクティブになっていけば、同じ画面で会議をやることも、英会話のレッスンを受けることも、楽器のレッスンを受けることも出来るようになるでしょう。
そしてその頃には、20世紀型の今のテレビというものは、もはや時代の遺物にしか見えなくなることでしょう。

2011年11月13日日曜日

楽譜を読む─継続か一時か─

楽譜の音量記号をどう解釈したらよいか、ということについて考えてみましょう。

楽譜に「f(フォルテ)」と書いてあったら、その音量はどこまで有効だと思いますか?
例えば、下の譜例1では、音量記号は「f」しか書いてありません。もし、フォルテに有効期限が無いのであれば、この曲はいつまでもフォルテしか出てこないので、ずっとフォルテが継続するということになるでしょう。

もちろん、これだけの譜例では情報が少なすぎます。実際には、曲の内容はもちろんのこと、作曲者の年代や国、作風などによって結論は変わってくるでしょう。
例えば、古典以前の古い音楽では、強くしたいところだけにフォルテを書いていました。そしてその有効範囲も非常に恣意的でした。従って、まず第一に「楽譜の音量記号の有効範囲に定義はない」ということは言えると思います。
ですから、例えばバッハの楽譜を見て「ここにフォルテが書いてあるから、次に音量記号が書いてあるまでずっとフォルテですか?」みたいな質問は、通常はナンセンスです。
(もちろんその楽譜に現代的な校訂が入っていれば別ですが)

ところが、今どきの作曲家は楽譜の厳密さを追い求める傾向があるので、範囲が恣意的であることがだんだん許せなくなってきているように思えます。例えば昔なら譜例1で済んだような楽譜でも、譜例2くらい音量記号を丁寧に書いているのです。
実際、今生きている作曲家なら、いろいろな人から質問を受けて「ここがフォルテなのに、またフォルテが書いてあったらどちらのほうが大きいのか?」みたいなことを言われ、面倒だから絶対そんな疑問を抱かないように厳密に書いてやる!という思いが強くなってしまうのではないでしょうか。
その気持ちはとても理解出来るけれど、残念ながらそういう傾向が強くなるほど、人々は楽譜を見て考えなくなり、機械的に記号を判断するようになるでしょう。それは最終的には音楽性の貧困を招くような気もするのです。


111112

それはさておき、比較的現代に近い作曲家であっても、世の中にはまだ譜例1のような楽譜は存在します。
もし、音量記号が次に何かの指示がない限りずっと有効であると仮定すると、2番目、3番目のフォルテ指定は無意味ということになります。
しかし、作曲家が無意味な音量指定すること自体おかしな話です。そのことを2つめの原則として挙げるとすれば「楽譜上に記述される指示に無意味な記号は無い」と言うべきでしょう。

そのように考えていくと、譜例1はフォルテはずっと継続しない、という考えのほうがむしろ正しいように感じます。
その結果、演奏家が譜例2のように、何らかの具体的な音量を想定する必要が出てくるわけです。そしてそれこそが、演奏家が楽譜を読み込んだ上でどのように解釈し、どのように演奏するか、という行為だと私は思うのです。

もう一つ、意地悪な例として譜例3を挙げてみます。
フォルテからクレシェンドしてまたフォルテ。そこからクレシェンドして、またフォルテ・・・。
これは、記号が継続的に振る舞う前提に考えれば、フォルテからクレシェンドするのだから、その後にフォルテがあれば、少し音量が落ちることになります。
しかし、クレシェンドした先で音量が落ちる、というのはやや不自然であり、その場合は注意を喚起するようにsubitoを付けたりするでしょう。
こういう点もフレーズを良く吟味すれば、クレシェンドの頂点としてのフォルテなのか、急に音量が下がるフォルテなのかは、音楽的に明確なのではないかと思います。
こういう点も楽譜をどれだけ読めるかというセンスの違いとなって現れるのではないでしょうか。

2011年11月9日水曜日

自分のアタマで考えよう/ちきりん

私が敬愛するブロガーちきりんさんの新著。
一見するとハウツー本のような、こういう本をふだん買うことは無いのですが(失望することが多いので)、この本はそれらのハウツー本とは一線を画していると思いました。

一つには、ハウツー本というのは、学者や有名な識者が片手間に書いているようなものが多く、しかも同種のような本を量産していたりすると、内容はどうしても薄くなってしまいます。
逆に、ロジカルシンキングのような学術的な内容になると、どうしても腰が引けて気軽に読めなくなってしまいます。
この「自分のアタマで考えよう」は、上記のような二つの欠点を補完しており、具体例が豊富で読みやすく、かつそこから一般的な教訓を引き出すという内容の深い一冊になっていると感じました。これはオススメです!

レベルの高い思考は、常に抽象性を纏ってきます。
今問題になっていることを解決するために、より一段高いレベルの思考をして、状況を俯瞰することが必要だし、そこからこの問題だけに留まらない一般性のある解法を抽出できるかが、非常に大事だと思うのです。
しかし個別の学術的な話題について非常に深い造詣を持っているような才人でさえ、どうして一般的な話題になると、こんなに俗っぽい発想しか出来ないのかなあ、と疑問に感じることはあります。
この本を読んで思ったのは、狭い世界での解法には詳しいのに(恐らくこれまで知識ベースで解決してきた)、そういう人たちは一般性のある思考力が弱いということ。まずは、身の回りのそんな人たちに読んで欲しい、と密かに痛切に感じました。

自分に役立った内容としては、グラフや表の作り方、使い方のあたり。
これまで私は、他人を納得させるために、正しく論理的な文章をずっと書こうと思い続けてきました。しかし、書けば書くほど後の自分でさえ理解できないような文章を書いていたりして、これじゃ他人に理解してもらうのは難しいよなと反省することは多々あります。
要は、これまで私はあまり図を書かずに過ごしてきたと感じました。
最近入社してきた若い人たちが作った、まるでスティーブ・ジョブスのように、大まかな図と一枚に2〜3行しか書いてないすっきりしたパワポを見ることがあって、今やついつい字をたくさん書いてしまう私たちのほうが、よほど遅れたオジさんに見えるだろうなあ、と思ったりします。
書くことを切り詰めるからこそ、一番大事なことが何なのか抽出する必要が出て来ます。今我々が必要なのは、こういった思考なんですね。
いろいろなことを並置して「さあ、どうしましょう」となった後、皆が黙り込む、ことのいかに多いことか。

ということで、この本を読んで、もう少したくさんグラフを書こう、と気持ちを新たにしたところです。

2011年11月6日日曜日

ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを/カート・ヴォネガット・ジュニア

ハヤカワSF文庫なのに、全然SFでない話。
とある金持ちの御曹司、エリオット・ローズウォーターがその資産を使って、無償の愛を人々に施そうとするけれど、彼の妻、父親、法律事務所などがそれぞれの立場で阻止しようとする、ブラックユーモアをふんだんに湛えたドタバタ的ストーリー。

しかし、物語には上記の上流階級の人間の他に、たくさんのエリオットに関係する貧しい人が現れます。
彼らは確かに、全く助けるに値しないような人々なのかもしれません。そのような彼らのつまらない日常や、無能ぶりをいちいちしっかり描写します。ところが、彼らの人生の背景を知れば知るほど、そのような貧しい無能な人々への何らかの憐れみ、あるいは同情のようなものが湧いてきます。
それこそが、大金持ちのエリオットを動かす心情となります。

ところが、その当のエリオットという人は、全く聖人君子という感じではなく、どちらかというと半分とぼけたような人物。
作中でも、戦争で過酷な経験をしてから精神を病んでしまった、と周囲からは思われているのです。

終盤でのエリオットが街を離れるシーン。
実際、エリオットは多くの人に施しを与えたのに、自分自身は何をしたのか全く覚えていない。街の人に「助かりました」と声をかけられてもそれが誰だか覚えていないのです。お金を人に分け与えるその行為はほとんど反射的で、まるでドブにお金を捨てるようなものだったとでも言わんばかりです。
そして、彼は小説の最後の最後で、ある超大盤振る舞いをするというオチで終わるのです。

この寓話的な話が示唆するのは、お金、貧しさ、人間の価値、といったようなものの相関です。
もちろんそこに結論などは無いのですが、貧しくて下劣な人間は助ける必要のない人間なのか、小説の中にそういう舞台を作ることで、読者に問いかけているわけです。
恐らくアメリカ的価値観から言えば、助けないというのが基本的な社会の暗黙の合意なのでしょう。そしてそれに疑問を感ずるアメリカ人作家が、皮肉を込めて書いたのがこの小説だと感じるのです。

2011年11月4日金曜日

古い考え

何かこう、いつもモヤッとしたものを感じながら会社人生を送る私。
私がモヤッと感ずるのは、私の思うところの、いわゆる「古い」考え方に接した時です。賛否あると思いながら、いくつか思うところを挙げてみますが、あくまで一般論としてお読み下さい。私の職場とは一切関係がありません(?)。

●残業するほど仕事に熱心である
もちろん、いまどきこういうことをストレートに言う人はいません。
が、あからさまにそういう価値観を強要されることはしばしばあります。そういう自分だって、他人が差し迫った仕事があっても、のうのうと早く帰っているとやや腹が立つこともあります。
しかし、一度残業して成り立ってしまった仕事は、もはや残業無しでこなすことは不可能です。
社会のため、家庭のため、個人の豊かな人生のため、残業しないほうがいいのは分かりきっているのに、誰が一番我慢できるか、を競争しているように見えます。

●徹底的なクレーム回避
これは程度問題なので一概には言えないけれど、日本人は極端に非難されることを恐れるように見えます。逆に消費者側に立った場合は、商品に何らかの不具合があれば鬼の首を取ったかのように尊大に振る舞います。
もちろん、そういう消費者の厳しい目が製品レベルを上げてきた側面はあるけれど、あまりにお客様のクレームを恐れるあまり過剰な反応をしたり、哲学も方針も示さずあたふたしている様は滑稽にさえ見えます。
お客様が大事なのは当たり前だけれど、自分たちが自信を持ってやったことは、批判されても押し通す気概は必要です。それは瞬間的な批判を引き起こしますが、長い目で見た時、会社の指向性が明確になりお客様の信頼を得ることになると思うのです。

●大切なことは秘密にしなければいけない
企業だから、技術開発や商品開発の内容は、一般には企業秘密であり、なるべく他人の目には触れないようにします。
今まではそれは私も当たり前だと思っていました。
しかしソフトウェアの世界では、オープンソースが当たり前になってきていて、多くの人がその恩恵に預かっています。世界の有名なソフトウェア企業は(日本は無さそう)、自社開発のソフトウェアをオープンソースにしたり、またそういうコミュニティに寄付したりして、持ちつ持たれつの関係を作ろうとしています。
外の技術を取り入れたり、また公開しようとすることによって、自分自身の力が試されます。
人と交わらず、自分の中に抱えて何かをやっていれば、どんどん時代遅れになります。
ソフトウェアと工業製品とは、技術に関する性格が異なるのです。しかし、依然として多くのメーカーは自社のソフトウェアを秘密にしたがります。大した技術でもないのに。

●合理的、効率的、という言葉が嫌い
もちろんとことん合理的であるべきとか、効率を追求すべきとか言うわけではありません。
しかし、もうちょっと頭使えば、全然仕事は楽になるはずなのに、時間をかけてわざわざ同じことを繰り返すほうが仕事をしっかりやっていると印象を持たれてしまう。
それは、担当者だけでなく管理する側にもコスト意識が足りないのでしょう。同じ仕事を早く済ませるほうが生産性が高いに決まっているのに、エクセルのマクロとか使うだけで小賢しい感じがして疎まれたりとか、そういう雰囲気が往々にして起こります。
「昔は、一つ一つしっかり○○したものだー」などと昔話などされた日には最悪です。
だから、日本のホワイトカラーは生産性が低いとか言われるわけです。

●整理整頓、服装、態度、などなどの見た目の問題
まあ、見た目は良い方がいいし、会社で働くならルーズな格好とか、茶髪とか、そういうのを気にする人もいるでしょう。
しかし学校じゃないんだから、そんなこといちいち注意しなくても良いのに、とか思います。
極端に言えば、仕事が出来ればいいのです。きちんとした身なりの人が必要なのではなく、仕事が出来る人が必要なのです。

●交通安全とか・・・
まあ、交通事故は無いほうがいいですが、そういうのって会社でやることかなぁ。

●何しろITを使いこなすのがダメダメ
ITって技術とか知識じゃ無い気がするのです。ある種の生活態度のようなもの。
直接会うか、メールで済ませるかは、実利で考えればいいのに、まだ大切なことは直接、とか思う人は多いでしょう。
一文一文、強調のために色が違っている文章とか(超読みづらいし、ダサい)、更新されないHPやもう存在しない部署のHPが散乱していたりとか・・・これは十分罪なんですが。
こういう情報開示の仕組みが、おまけの業務だと考えている人がまだ多いのでしょう。こういうところにどれだけ力を入れているかが、これからの組織力の差になると私は思うのですが。


2011年11月1日火曜日

楽器を作るということ─私が欲しかった楽器

自分が欲しいモノを作る、というのが物作りのスタートであると考えます。
じゃあ、私が欲しかった物ってなんだろう、と振り返ってみると、これはなかなかの難題です。
すでに作る側に立ってしまった者は、冷静に自分の欲しい物を想像することが出来ません。なぜなら、この市場についてあまりに多くのことを知りすぎてしまったからです。

私の大学時代、シンセサイザーはすごくカッコいい商品でした。
ハイテク製品を使いこなしながら、芸術活動を行うっていうことが、私の感性にはまりまくったわけです。実際に手にしたYAMAHA DX7は、いろいろな音を出すことが出来たけれど、実は私にはオリジナルの音作りはほとんど出来ませんでした。FMの音作りはあまりに難しく、思った通りにいかなかったのです。
思えば、あの頃からデジタルシンセサイザーの限界があったのかもしれません。うまく使いこなせなかったのは私だけではないと思うからです。でも、使いこなせないなんて、恥ずかしくて言えない。いくつかのFM音源のキーワードを覚えただけで使えたような気になっていた、というのが実態なのかもしれません。

そうこうしているうちに巷で流れている音楽が、もはや生演奏なのか、完全打ち込みなのか分からなくなってきて、演奏することの楽しみ、というのが希薄になってきたような気がします。
そして、芸術家になりたいという甘い欲望に囚われた凡人たちによって、不思議な音楽製作ワールドが拡がっているのが今の時代なのではないかと思います。言ってみれば、私はそのはしりだったわけです。

私のような人間をサポートする道具は、すでにPCアプリとしてごまんと揃っています。
しかし、何度か書いたようにそれは恐らく楽器では無く、もはやプログラミングツールとでもいうべきものです。昔は楽器を買って、テープレコーダーに録音しなければ音楽製作できませんでした。楽器を弾けなければ音楽を作れませんでした。
なんと、今では楽器を弾けなくても音楽が作れてしまうのです!
そんな恐ろしい時代を私たちは迎えています。そんな時代にどんな楽器が売れるかなんて、想像出来るわけがありません。

でも、一方で電子ピアノを買う時に、大して違いが分からないのに、より良い鍵盤を使っていたり、音源性能が高かったりするものを欲しくなったりします。
それは、確かにテレビを買う時に、分かりもしないのに○○機能搭載とか、○○性大幅向上とか、言う言葉に惑わされているのとそう変わらない心境。
実際、実物を見てもその違いはほとんど分からないし、仮に分かったとしても買ってしまったあとはもうどうでもいい価値だったりする。
そういう曖昧な物に振り回されている一消費者の自分がいます。

何だか取り留めがないけれど・・・、自分が欲しかった楽器、というのはあるようで無かったのかもしれません。もしかして、これから探すべきなのは、自分が欲しいと思う楽器とは何か?・・・に対する答えなのかもしれません。