2011年10月15日土曜日

楽器を作るということ

私の本業は電子楽器開発ですので、当然楽器についても日々、いろいろなことを考えねばなりません。仕事のことはここでは書けませんが、それでも楽器を作る、ということについて一般論として書けることもあるのではないかと思っています。
ただ、私は合唱団で歌は歌っているけれど、人前で楽器を演奏する活動を継続的に行った経験はありません。幸い、楽譜を書く立場で演奏者と関わることはありますので、多少は楽器を語る資格もあるとは思うのですが、それでもリアルな演奏の現場からは程遠いのかもしれません。

最初にこんなエクスキューズを書くのは、これから私が書きたいことは、恐らく一般的な感覚と相反することだと思うからです。
例えば、トップアーティストは当然ながら楽器にもこだわります。ピアノのプロならピアノの音色、鍵盤一つ一つの音の質にも気を遣うでしょう。
音にこだわりを持つのは、音楽家として当たり前じゃないかと思うかもしれません。もちろん、それはそうなのですが、そのこだわりが過剰になってしまえば、楽器を製作する側に多大な負荷がかかりますし、そうなると趣味としてならともかく、仕事としての楽器製作が成り立たなくなってしまいます。
音楽家がこだわることで楽器が発展したきたことは確かです。しかし、もしかしたらそういう時代は終わりを迎えてしまったのかもしれません。

たかだか100年くらい前までは、工業製品は発展する一方でした。
技術革新の連続で誰にでも分かるほど性能が上がることが体感できましたし、あるいは同じ品質なのに驚くほど価格が安くなるということもあったはずです。これは楽器も同じで、時代が経つほど楽器の質も高くなった。
生楽器がある程度の完成を見た後、楽器の世界は電気楽器の世界に向かいます。この電気楽器も30年ほど前に一つの頂点を迎えました。
そしてその後、同じく電気で駆動される電子楽器が発達を始めます。これも最初の頃は、どんどん目に見えて性能が上がっていくことが体感できました。
そのような時代はたかだか10年くらい前まで確かに存在しました。

ほとんど完成されてしまった生楽器の世界は、すでに革新的な性能向上やコストダウンも無くなり、非常に微細な性能向上だけを目指しているように見えます。
そして、電気楽器、電子楽器も目に見えて性能向上していた時代が終わった今、各楽器が差別化を図るための性能向上の余地が大変小さくなってしまったように見えます。
一般にこういうような現象をコモディティ化と呼び、このような商品ジャンルはいずれ商品の価格でしか競争が行われなくなると言われています。

圧倒的な性能向上が見込めない現在、音楽家がこだわる音の違いはもはや万人共通ではありません。
良い音、などという客観的な基準も私には存在しないように感じます。値段が何倍違おうとも、それはもはや音の性能の違いではないような気がするのです。
このような時代、楽器とはどうあるべきなのか、そして楽器はどう作られねばならないのか、いろいろと考えてみたいと思います。(続く?)

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