詰まるところ、楽器を作るモチベーションは大きく分けて、二つあるのではないかと思います。
一つは現状の楽器をさらに改良して、良いものにしていきたいというストイックな気持ちによるもの、そしてもう一つは、全く新しい楽器で全く新しい音楽表現を追求してみたいというアバンギャルドな態度によるものです。
最初のストイシズムでは、全く新しい表現方法を追求するわけではなく、既存のものをさらに良くしようというモチベーションで楽器を作ります。
例えばピアノなら、より大きな音が出るとか、鍵盤連打が速くできるとか、調律が容易とか、いろいろな改良点があると思います。現状のピアノに対して不満を持っている人がいて、それを解決する手段があるのなら、その改良版のピアノは商品としての価値を持つわけです。
また、性能の向上だけでなく、同じ性能でも値段が安くなるという技術革新もあります。
いずれにしても、徐々に楽器を改良していくのは、極めてストイックな作業で職人的な感じがするし、技術者としてもより良いものを作ろうと思うそのモチベーションは実に正統的で、誇らしい気持ちを感ずるものです。
今、会社組織で楽器を作る場合は、ほとんどこのモチベーションがベースになっていると言えるでしょう。しかし、その一方、このモチベーションの肝は技術革新であり、最初の記事に書いたように、楽器における技術革新が、私は頭打ちになりつつあるように感じているのです。であるなら、この方向性にはいずれ陰りが見えてくることでしょう。
PC、IT技術が発展している今、世の中の多くの要素が大きな変革を迫られており、楽器の世界もその例外では無いのではないかという気がしています。
その昔、アバンギャルドな態度で楽器を作ることは非常に大変なことでした。ゼロから楽器を作るのですから、試作と失敗の連続です。あまりに変なものだと、誰も使ってくれません。そういうリスクを冒してまでアバンギャルドな楽器作りをした人は、よほどの変わり者か、お金持ちではなかったかと思います。
ところが、技術革新は、その試作を非常に簡単に出来るようにしてしまいました。
簡単には出来なかったアバンギャルドなモチベーションによる楽器製作が、大きくクローズアップされるような世の中に変わってきたように思います。
いや、もはや楽器製作は、音楽製作の一部であり、またパフォーマンスの一部でさえあります。そこで必要なのはアーティスティックな感性であり、人々を惹きつけるようなまだ見たことのない新規性であり、未来を想像できる卓越した構想力です。
そういう力を持った人々は確実に存在しており、彼らが実現手段さえ手に入れば、早晩、こういった新規楽器がいろいろと出てくる可能性はあります。
とはいえ、ほとんどの人々は普通のピアノや普通のギターを弾くのであり、そういう一般的な楽器は無くならないのは確かです。世の中の音楽を楽しむ人の9割以上は、既存の音楽を既存の楽器で楽しみます。
この市場がある限り、楽器メーカーが無くなることはありませんが、それでもひたすらコモディティ化の道を歩むことは避けられないとは思います。
メーカー視点とアーティスト視点が交錯する中、楽器を作る者たちの悩みはますます深まるばかりなのです。
2011年10月29日土曜日
2011年10月24日月曜日
猿の惑星:創世記
映画、「猿の惑星:創世記」を見に行きました。
古い「猿の惑星」は実は観たこと無いので、そういう思い入れは無いのですが、10年前のティム・バートン版は観ていたので何となくそのイメージが残っていて、これは観てみたいと思っていたのです。
しかし、今回の映画、「猿の惑星」になる前史を扱ったものであり、そういう意味で10年前の映画とは全く設定や内容が違います。
舞台はあくまで現代の都市。そこで知能の高い猿たちがどのように生まれたかが描かれるといった内容。
どのように猿が知能を獲得したかというと、研究所での新薬開発における猿への実験という設定。
遺伝子操作とか、ウイルスとか、ネタとしてはもはや定番とも言えるわけですが、それゆえ、そういう設定が逆に安易に思えてしまいます。ちょっとバイオハザード的な臭いも感じました。
しかし、この映画の白眉は、シーザーが猿の保護施設の中で猿のリーダー格にのし上がり、知恵を使いながらどんどん施設の中身を把握していくところ。
かなり早いうちに施設の脱出方法を把握したにも関わらず、自分一匹だけでは逃げ出さないのです。実際に夜のうちに何度も施設を抜けながら様々な「仕込み」をして、施設の猿たちをだんだんに戦闘集団として手なずけていく様は空恐ろしく、また、わくわくするところでもありました。
最後の猿対人間の戦闘は最大のクライマックスですが、猿には目的地があっても明瞭な目的があるわけではなく、あのような戦闘を起こす動機としてちょっと釈然としない感じはありました。
猿たちに何かもう少し具体的な行動目標があると、後半から最後のシーンに納得感がいくような気がします。
それにしても、猿の描写はリアルで、よくこんな映像を作ったなあ、と率直に感心しました。話によると猿の映像はほぼ全部CGだそうです。
ところで、何度も災難に遭う隣人の存在は、ギャグなんですかね。
しかし描写がシリアスすぎてギャグにならないし、しかも最後は究極のヒドい目に遭わされるし・・・。
というか、最後のシーンはどう考えても次回作への繋ぎですよね。エンドロール時の映像はウイルスの蔓延なんですよね・・・。そうなると、やはりほとんどバイオハザードっぽい感じがするわけですが。
古い「猿の惑星」は実は観たこと無いので、そういう思い入れは無いのですが、10年前のティム・バートン版は観ていたので何となくそのイメージが残っていて、これは観てみたいと思っていたのです。
しかし、今回の映画、「猿の惑星」になる前史を扱ったものであり、そういう意味で10年前の映画とは全く設定や内容が違います。
舞台はあくまで現代の都市。そこで知能の高い猿たちがどのように生まれたかが描かれるといった内容。
どのように猿が知能を獲得したかというと、研究所での新薬開発における猿への実験という設定。
遺伝子操作とか、ウイルスとか、ネタとしてはもはや定番とも言えるわけですが、それゆえ、そういう設定が逆に安易に思えてしまいます。ちょっとバイオハザード的な臭いも感じました。
しかし、この映画の白眉は、シーザーが猿の保護施設の中で猿のリーダー格にのし上がり、知恵を使いながらどんどん施設の中身を把握していくところ。
かなり早いうちに施設の脱出方法を把握したにも関わらず、自分一匹だけでは逃げ出さないのです。実際に夜のうちに何度も施設を抜けながら様々な「仕込み」をして、施設の猿たちをだんだんに戦闘集団として手なずけていく様は空恐ろしく、また、わくわくするところでもありました。
最後の猿対人間の戦闘は最大のクライマックスですが、猿には目的地があっても明瞭な目的があるわけではなく、あのような戦闘を起こす動機としてちょっと釈然としない感じはありました。
猿たちに何かもう少し具体的な行動目標があると、後半から最後のシーンに納得感がいくような気がします。
それにしても、猿の描写はリアルで、よくこんな映像を作ったなあ、と率直に感心しました。話によると猿の映像はほぼ全部CGだそうです。
ところで、何度も災難に遭う隣人の存在は、ギャグなんですかね。
しかし描写がシリアスすぎてギャグにならないし、しかも最後は究極のヒドい目に遭わされるし・・・。
というか、最後のシーンはどう考えても次回作への繋ぎですよね。エンドロール時の映像はウイルスの蔓延なんですよね・・・。そうなると、やはりほとんどバイオハザードっぽい感じがするわけですが。
2011年10月23日日曜日
楽器を作るということ─揺らぐ境界
「楽器を作る」というためには、楽器とは何か、が定義されていなければなりません。
別に哲学的な問いをしようとしているわけではないのです。エレクトロニクス技術の発展で、音を出すということがいとも簡単に出来るようになった結果、いろいろな機器を作ることが可能になりました。
確かに商品として世に出ているものの作っている側もこれは楽器と言っていいのか、という疑問を感じるようなものがあるわけです。
そういう意味で、楽器と単に音が出る何か、の境界が非常に曖昧になりつつある感じがします。
例えば、DJ用のターンテーブル。
いわゆるDJの世界については私は多くを語ることは出来ないけれど、一つの音楽ジャンルを形成していることは事実だし、その世界で活躍する人たちがいて、その世界で使われる機材があります。
ターンテーブルといえば、アナログレコードをかけながら、回っているレコードを手でわざと動かしスクラッチノイズを出すためのアレですが、これは楽器と言えるでしょうか?
まあ、元はといえばアナログレコードプレーヤなのだから、それ自体は単なるオーディオ機器です。
しかし、DJプレイ専用に開発されたターンテーブルは、積極的な音楽パフォーマンスを実現するために作られているわけである意味、楽器を作る、という自覚が必要ではないかとも思えます。
同様にKORGから出ていて、ヒット商品となっているKAOSSILATORとか、iPadのタッチインタフェースを利用したアプリといったものはどうでしょう。
考えようによっては、全く新しいUIを提供したテルミンなどもこの系譜に入るのかもしれません。
電子的なパラメータをタッチインタフェースでコントロールして、いろいろな音色を出す、というのは、自然楽器ではあり得ないけれど、音をコントロールするという意味では立派な楽器ともいえます。
こういう演奏法が市民権を得れば、それは何十年後に楽器として標準化するかもしれません・・・が、パラメータや操作への設定の可能性は無限大であり、この手の演奏法が標準化するような事態は、正直想像しがたいというのも事実。
一見、いろいろな表現が出来て面白いのは確かですが、シリアスな音楽を作る道具として今後使われうるものなのか、賛否両論はあることでしょう。
ヤマハのTENORI-ONも微妙な立ち位置にいます。
これが楽器と言いづらいのは、演奏のリアルタイム性がほとんどないからです。
��小節単位のリズムパターンを全てスイッチでON/OFFできるというのが操作のコンセプト。ですから、ユーザーの操作はあくまでシーケンスのプログラミングなのです。
今までの感覚でいえば、これはシーケンスソフトで打ち込みをする機械とも言えるわけですが、TENORI-ONの不思議なところは、この操作が次の小節から有効になり、半リアルタイムともいえる操作性を持っているということ。
演奏家というよりは、指揮者的な楽器とも言えます。音楽の全体設計、全体構造を半リアルタイムで制御するといったイメージだからです。
このような近年の新しい楽器の登場を考えてみると、テクノロジーが音楽の可能性をも広げている実態が垣間見えます。
このような状況において、オーケストラとか、ピアノとか、打楽器とか、そういった生楽器を演奏することが音楽演奏、あるいは楽器の本質であるという感覚自体が時代遅れになってしまう可能性だってあります。
自分が望むかどうかに関わらず、時代はどんどん変わっていきます。音楽はあくまで文化的なモノですから、世の多くの人が面白いと思えばそれが主流になっていきます。
そのような時代において、そもそも楽器とは何ぞや、ということを音楽に携わる者は考えざるを得なくなってくることでしょう。
別に哲学的な問いをしようとしているわけではないのです。エレクトロニクス技術の発展で、音を出すということがいとも簡単に出来るようになった結果、いろいろな機器を作ることが可能になりました。
確かに商品として世に出ているものの作っている側もこれは楽器と言っていいのか、という疑問を感じるようなものがあるわけです。
そういう意味で、楽器と単に音が出る何か、の境界が非常に曖昧になりつつある感じがします。
例えば、DJ用のターンテーブル。
いわゆるDJの世界については私は多くを語ることは出来ないけれど、一つの音楽ジャンルを形成していることは事実だし、その世界で活躍する人たちがいて、その世界で使われる機材があります。
ターンテーブルといえば、アナログレコードをかけながら、回っているレコードを手でわざと動かしスクラッチノイズを出すためのアレですが、これは楽器と言えるでしょうか?
まあ、元はといえばアナログレコードプレーヤなのだから、それ自体は単なるオーディオ機器です。
しかし、DJプレイ専用に開発されたターンテーブルは、積極的な音楽パフォーマンスを実現するために作られているわけである意味、楽器を作る、という自覚が必要ではないかとも思えます。
同様にKORGから出ていて、ヒット商品となっているKAOSSILATORとか、iPadのタッチインタフェースを利用したアプリといったものはどうでしょう。
考えようによっては、全く新しいUIを提供したテルミンなどもこの系譜に入るのかもしれません。
電子的なパラメータをタッチインタフェースでコントロールして、いろいろな音色を出す、というのは、自然楽器ではあり得ないけれど、音をコントロールするという意味では立派な楽器ともいえます。
こういう演奏法が市民権を得れば、それは何十年後に楽器として標準化するかもしれません・・・が、パラメータや操作への設定の可能性は無限大であり、この手の演奏法が標準化するような事態は、正直想像しがたいというのも事実。
一見、いろいろな表現が出来て面白いのは確かですが、シリアスな音楽を作る道具として今後使われうるものなのか、賛否両論はあることでしょう。
ヤマハのTENORI-ONも微妙な立ち位置にいます。
これが楽器と言いづらいのは、演奏のリアルタイム性がほとんどないからです。
��小節単位のリズムパターンを全てスイッチでON/OFFできるというのが操作のコンセプト。ですから、ユーザーの操作はあくまでシーケンスのプログラミングなのです。
今までの感覚でいえば、これはシーケンスソフトで打ち込みをする機械とも言えるわけですが、TENORI-ONの不思議なところは、この操作が次の小節から有効になり、半リアルタイムともいえる操作性を持っているということ。
演奏家というよりは、指揮者的な楽器とも言えます。音楽の全体設計、全体構造を半リアルタイムで制御するといったイメージだからです。
このような近年の新しい楽器の登場を考えてみると、テクノロジーが音楽の可能性をも広げている実態が垣間見えます。
このような状況において、オーケストラとか、ピアノとか、打楽器とか、そういった生楽器を演奏することが音楽演奏、あるいは楽器の本質であるという感覚自体が時代遅れになってしまう可能性だってあります。
自分が望むかどうかに関わらず、時代はどんどん変わっていきます。音楽はあくまで文化的なモノですから、世の多くの人が面白いと思えばそれが主流になっていきます。
そのような時代において、そもそも楽器とは何ぞや、ということを音楽に携わる者は考えざるを得なくなってくることでしょう。
ラベル:
音楽
2011年10月18日火曜日
楽器を作るということ─工業製品としての限界
楽器なんてもう発展しないんじゃないか、とも取れる前回の話でしたが、もちろん、人類がいる限り恐らく楽器はこれからも新しく作られることでしょう。
ただし、工業製品として、大量生産されるものとして、世界的に流通する商品としての楽器は、標準化された形式にならざるを得ず、結果的にコモディティ化の運命を辿るのではないかとやや悲観的に考えます。
浜松の駅の近くに楽器博物館という古今東西の楽器を集めた施設があります。
楽器に興味のある人ならぜひ行ってみてもらいたいのですが、ここには楽器が標準化される前の、進化大爆発とでもいうような多くの奇形な楽器を見ることができます。
ピアノでさえ、一台で二人分の鍵盤があったり、鍵盤の数や大きさが様々だったり、といろいろ面白い楽器を見ることができます。
実際のところ、新しい楽器を作るということは、単に音量を良くするとか、音質を良くするとかというレベルでなく、一つを二つにするとか、大きさを半分にするとか、発音体の材質を変えてみるとか、もっとアグレッシブな行為であったりします。音楽を作り出すことと同じだけ、楽器を作ることはクリエイティブな作業なのだと実感できます。
先日、ビョークのニューアルバムの紹介をしましたが、あるwebの記事に(真偽は定かではないけど)ビョークがガムランとチェレスタを合わせてガムレスタという楽器を作らせた、という話が書いてありました。
アーティストは常に新しい音楽を作り出そうという存在であるわけですから、そんな人たちこそ、新しい楽器を生み出す主人公です。
クラシックでも、作曲家は常に新しい楽器を欲しましたし、古典〜ロマンとかけてオーケストラの楽器は随分発達しました。
実際のところバッハの時代の鍵盤楽器と、現代の楽器とは全く違うもので、いわゆる古楽の世界では、今の楽器を弾いてもバッハの音楽は良く再現されないという考え方まであります。
微分音の曲を書くために、二つのピアノを合体させて、一つのピアノは全部50セントずらして半音の半音まで表現できるピアノを作った人もいますし、純正律に近い響きをえるため、一オクターブを12以上に分割したオルガンを作った人もいます。
そして、今でも一部のミュージシャンは自ら楽器を作ります。
私の見るところ今一番新しい楽器が生まれている場所は、iPadです。こんなもの楽器じゃない、という人もいるでしょう。しかし、それはすでに保守的な考え方に囚われています。これほど、毎日のようにタッチというインタフェースを利用して新しい楽器が生まれている環境はありません。
楽器はこれからも新しく作られ、発展していくことは間違いないのですが、それは常にアーティストのどん欲で斬新なクリエーター魂とセットで行われるものです。
その部分がビジネスベースにのらない限り、楽器メーカーから新しい楽器を出すことは難しいと思えます。今後はiPadなどのデジタルデバイスだけでなく、3Dプリンタの発展でモノとしての楽器も作りやすくなっていくでしょう。そうなると、もはや会社といった組織でなく、マニアックな個人が新しい楽器を作る主人公になるのではないか、とそんな気がしているのです。
ただし、工業製品として、大量生産されるものとして、世界的に流通する商品としての楽器は、標準化された形式にならざるを得ず、結果的にコモディティ化の運命を辿るのではないかとやや悲観的に考えます。
浜松の駅の近くに楽器博物館という古今東西の楽器を集めた施設があります。
楽器に興味のある人ならぜひ行ってみてもらいたいのですが、ここには楽器が標準化される前の、進化大爆発とでもいうような多くの奇形な楽器を見ることができます。
ピアノでさえ、一台で二人分の鍵盤があったり、鍵盤の数や大きさが様々だったり、といろいろ面白い楽器を見ることができます。
実際のところ、新しい楽器を作るということは、単に音量を良くするとか、音質を良くするとかというレベルでなく、一つを二つにするとか、大きさを半分にするとか、発音体の材質を変えてみるとか、もっとアグレッシブな行為であったりします。音楽を作り出すことと同じだけ、楽器を作ることはクリエイティブな作業なのだと実感できます。
先日、ビョークのニューアルバムの紹介をしましたが、あるwebの記事に(真偽は定かではないけど)ビョークがガムランとチェレスタを合わせてガムレスタという楽器を作らせた、という話が書いてありました。
アーティストは常に新しい音楽を作り出そうという存在であるわけですから、そんな人たちこそ、新しい楽器を生み出す主人公です。
クラシックでも、作曲家は常に新しい楽器を欲しましたし、古典〜ロマンとかけてオーケストラの楽器は随分発達しました。
実際のところバッハの時代の鍵盤楽器と、現代の楽器とは全く違うもので、いわゆる古楽の世界では、今の楽器を弾いてもバッハの音楽は良く再現されないという考え方まであります。
微分音の曲を書くために、二つのピアノを合体させて、一つのピアノは全部50セントずらして半音の半音まで表現できるピアノを作った人もいますし、純正律に近い響きをえるため、一オクターブを12以上に分割したオルガンを作った人もいます。
そして、今でも一部のミュージシャンは自ら楽器を作ります。
私の見るところ今一番新しい楽器が生まれている場所は、iPadです。こんなもの楽器じゃない、という人もいるでしょう。しかし、それはすでに保守的な考え方に囚われています。これほど、毎日のようにタッチというインタフェースを利用して新しい楽器が生まれている環境はありません。
楽器はこれからも新しく作られ、発展していくことは間違いないのですが、それは常にアーティストのどん欲で斬新なクリエーター魂とセットで行われるものです。
その部分がビジネスベースにのらない限り、楽器メーカーから新しい楽器を出すことは難しいと思えます。今後はiPadなどのデジタルデバイスだけでなく、3Dプリンタの発展でモノとしての楽器も作りやすくなっていくでしょう。そうなると、もはや会社といった組織でなく、マニアックな個人が新しい楽器を作る主人公になるのではないか、とそんな気がしているのです。
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音楽
2011年10月15日土曜日
楽器を作るということ
私の本業は電子楽器開発ですので、当然楽器についても日々、いろいろなことを考えねばなりません。仕事のことはここでは書けませんが、それでも楽器を作る、ということについて一般論として書けることもあるのではないかと思っています。
ただ、私は合唱団で歌は歌っているけれど、人前で楽器を演奏する活動を継続的に行った経験はありません。幸い、楽譜を書く立場で演奏者と関わることはありますので、多少は楽器を語る資格もあるとは思うのですが、それでもリアルな演奏の現場からは程遠いのかもしれません。
最初にこんなエクスキューズを書くのは、これから私が書きたいことは、恐らく一般的な感覚と相反することだと思うからです。
例えば、トップアーティストは当然ながら楽器にもこだわります。ピアノのプロならピアノの音色、鍵盤一つ一つの音の質にも気を遣うでしょう。
音にこだわりを持つのは、音楽家として当たり前じゃないかと思うかもしれません。もちろん、それはそうなのですが、そのこだわりが過剰になってしまえば、楽器を製作する側に多大な負荷がかかりますし、そうなると趣味としてならともかく、仕事としての楽器製作が成り立たなくなってしまいます。
音楽家がこだわることで楽器が発展したきたことは確かです。しかし、もしかしたらそういう時代は終わりを迎えてしまったのかもしれません。
たかだか100年くらい前までは、工業製品は発展する一方でした。
技術革新の連続で誰にでも分かるほど性能が上がることが体感できましたし、あるいは同じ品質なのに驚くほど価格が安くなるということもあったはずです。これは楽器も同じで、時代が経つほど楽器の質も高くなった。
生楽器がある程度の完成を見た後、楽器の世界は電気楽器の世界に向かいます。この電気楽器も30年ほど前に一つの頂点を迎えました。
そしてその後、同じく電気で駆動される電子楽器が発達を始めます。これも最初の頃は、どんどん目に見えて性能が上がっていくことが体感できました。
そのような時代はたかだか10年くらい前まで確かに存在しました。
ほとんど完成されてしまった生楽器の世界は、すでに革新的な性能向上やコストダウンも無くなり、非常に微細な性能向上だけを目指しているように見えます。
そして、電気楽器、電子楽器も目に見えて性能向上していた時代が終わった今、各楽器が差別化を図るための性能向上の余地が大変小さくなってしまったように見えます。
一般にこういうような現象をコモディティ化と呼び、このような商品ジャンルはいずれ商品の価格でしか競争が行われなくなると言われています。
圧倒的な性能向上が見込めない現在、音楽家がこだわる音の違いはもはや万人共通ではありません。
良い音、などという客観的な基準も私には存在しないように感じます。値段が何倍違おうとも、それはもはや音の性能の違いではないような気がするのです。
このような時代、楽器とはどうあるべきなのか、そして楽器はどう作られねばならないのか、いろいろと考えてみたいと思います。(続く?)
ただ、私は合唱団で歌は歌っているけれど、人前で楽器を演奏する活動を継続的に行った経験はありません。幸い、楽譜を書く立場で演奏者と関わることはありますので、多少は楽器を語る資格もあるとは思うのですが、それでもリアルな演奏の現場からは程遠いのかもしれません。
最初にこんなエクスキューズを書くのは、これから私が書きたいことは、恐らく一般的な感覚と相反することだと思うからです。
例えば、トップアーティストは当然ながら楽器にもこだわります。ピアノのプロならピアノの音色、鍵盤一つ一つの音の質にも気を遣うでしょう。
音にこだわりを持つのは、音楽家として当たり前じゃないかと思うかもしれません。もちろん、それはそうなのですが、そのこだわりが過剰になってしまえば、楽器を製作する側に多大な負荷がかかりますし、そうなると趣味としてならともかく、仕事としての楽器製作が成り立たなくなってしまいます。
音楽家がこだわることで楽器が発展したきたことは確かです。しかし、もしかしたらそういう時代は終わりを迎えてしまったのかもしれません。
たかだか100年くらい前までは、工業製品は発展する一方でした。
技術革新の連続で誰にでも分かるほど性能が上がることが体感できましたし、あるいは同じ品質なのに驚くほど価格が安くなるということもあったはずです。これは楽器も同じで、時代が経つほど楽器の質も高くなった。
生楽器がある程度の完成を見た後、楽器の世界は電気楽器の世界に向かいます。この電気楽器も30年ほど前に一つの頂点を迎えました。
そしてその後、同じく電気で駆動される電子楽器が発達を始めます。これも最初の頃は、どんどん目に見えて性能が上がっていくことが体感できました。
そのような時代はたかだか10年くらい前まで確かに存在しました。
ほとんど完成されてしまった生楽器の世界は、すでに革新的な性能向上やコストダウンも無くなり、非常に微細な性能向上だけを目指しているように見えます。
そして、電気楽器、電子楽器も目に見えて性能向上していた時代が終わった今、各楽器が差別化を図るための性能向上の余地が大変小さくなってしまったように見えます。
一般にこういうような現象をコモディティ化と呼び、このような商品ジャンルはいずれ商品の価格でしか競争が行われなくなると言われています。
圧倒的な性能向上が見込めない現在、音楽家がこだわる音の違いはもはや万人共通ではありません。
良い音、などという客観的な基準も私には存在しないように感じます。値段が何倍違おうとも、それはもはや音の性能の違いではないような気がするのです。
このような時代、楽器とはどうあるべきなのか、そして楽器はどう作られねばならないのか、いろいろと考えてみたいと思います。(続く?)
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音楽
2011年10月10日月曜日
biophilia/björk(ビョーク)
ビョークのニューアルバム、biophilia(バイオフィリア)を聴きました。
もう一聴して、この作品が今現在自分が求めている音楽の一つであることを強く確信。
ビョークの音楽自体、もちろんこれまでも好きだったけれど、このアルバムは最も私の嗜好とシンクロしています。感動しました!
そぎ落とされたミニマムな編成は、しかし全く隙が無く、一つ一つの音色も決してありきたりなものではありません。やり過ぎってくらい、音色も作り込まれている。というか、一つ一つの楽曲がまず音色作り、楽器作りから始まっている、とさえ思えます。
Tenori-onやiPad等を興味持ってガンガン使っていこうとするその態度は、単なる新しもの好きというだけでなく、ヒューマンインタフェースまで含めて新しい表現手段としての楽器を求め続けている彼女のアバンギャルドな姿勢を物語っています。
実際、今回の楽曲は拍子もよく分からないくらい前衛に寄っている感じがします。
それがクラシック的な意味での前衛音楽ではなく、もっとプログレが熱かった頃のアクの強いメッセージと緊迫感を孕んでいます。
そんな、ビョークの興味は自然から地球、宇宙規模に拡大。曲名も宇宙の様々な事物を思わせるタイトルが並びます。当然そのテキストを支える音楽も、宇宙的な神秘感を漂わせることになるわけです。
ビョークの歌声は、もう、一聴して誰でも分かるくらい特徴的なもの。
それだけに、彼女が詩・曲を書き、歌を歌う限り、どれだけ伴奏の音楽が変化しても、もうビョーク印にしかならない。それがあるからこそ、彼女は変幻自在にアルバムごとに音楽・音色のコンセプトが変化していきます。
もはやポップミュージックとは言えない、独自の音空間を紡いでいるビョークのこのアルバムは、一般の人が好むところではないかもしれませんが、音楽で何を表現するのか、音楽で世界をどう切り取るのか、そういうことと常に関わりを持っている人々には、強い影響を与える作品となるのではないでしょうか。
もう一聴して、この作品が今現在自分が求めている音楽の一つであることを強く確信。
ビョークの音楽自体、もちろんこれまでも好きだったけれど、このアルバムは最も私の嗜好とシンクロしています。感動しました!
そぎ落とされたミニマムな編成は、しかし全く隙が無く、一つ一つの音色も決してありきたりなものではありません。やり過ぎってくらい、音色も作り込まれている。というか、一つ一つの楽曲がまず音色作り、楽器作りから始まっている、とさえ思えます。
Tenori-onやiPad等を興味持ってガンガン使っていこうとするその態度は、単なる新しもの好きというだけでなく、ヒューマンインタフェースまで含めて新しい表現手段としての楽器を求め続けている彼女のアバンギャルドな姿勢を物語っています。
実際、今回の楽曲は拍子もよく分からないくらい前衛に寄っている感じがします。
それがクラシック的な意味での前衛音楽ではなく、もっとプログレが熱かった頃のアクの強いメッセージと緊迫感を孕んでいます。
そんな、ビョークの興味は自然から地球、宇宙規模に拡大。曲名も宇宙の様々な事物を思わせるタイトルが並びます。当然そのテキストを支える音楽も、宇宙的な神秘感を漂わせることになるわけです。
ビョークの歌声は、もう、一聴して誰でも分かるくらい特徴的なもの。
それだけに、彼女が詩・曲を書き、歌を歌う限り、どれだけ伴奏の音楽が変化しても、もうビョーク印にしかならない。それがあるからこそ、彼女は変幻自在にアルバムごとに音楽・音色のコンセプトが変化していきます。
もはやポップミュージックとは言えない、独自の音空間を紡いでいるビョークのこのアルバムは、一般の人が好むところではないかもしれませんが、音楽で何を表現するのか、音楽で世界をどう切り取るのか、そういうことと常に関わりを持っている人々には、強い影響を与える作品となるのではないでしょうか。
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2011年10月7日金曜日
私とApple
今考えてみると、私がApple製品に対して感じたクールさというのは、全てジョブスに由来していたように思います。ジョブスの訃報を聞いて、予期していたこととはいえ、何か言いようのない喪失感を感じているところ。
私はこれまで決して熱烈なAppleマニアだったわけではないけれど、これまでどのような製品を買ってきたのか、振り返ってみようと思います。
会社に就職した1989年、プログラマーとしてのキャリアを始めたわけですが、寮の同期の友人に影響されMacに触れたのがAppleとの出会い。寮のすぐ近くに、Mac専門店があったので、そこに二人で何回も通っているうちにどんどんその先進性に惹かれていきました。
結局、入社した年にMacintosh Plusを購入。私が初めて買ったパソコンはMacでした。すでにそのときジョブスはAppleにはいなかったけれど、初期の一体型Macはデザインも含め、ジョブスの意志がふんだんに込められていました。
当時、仕事で使っていたのはNECの98で、要するにコマンドライン型のMS-DOSパソコン。メモリも640KBの壁があって、EMSとかで拡張しなきゃいけないとか、何て面倒なんだろうと思っていました。それに比べてMacintoshの何と洗練されていることか!
テーブルの上を模したデスクトップ画面に、マウスでウインドウ操作。一見、ユーザーがやりたいこととは無縁な視覚エフェクトは、コンピュータが何をしようとしているのかの意志が明確となり、何より愛着を感じさせました。また、妙な制約が多いIntel8086系でなく、モトローラ68系というのも当時の技術者からすれば共感した選択だったと思います。
その3年後に、Powerbook 140というノートパソコンを購入。今でこそ一般的になったノートパソコンでしたが、当時はまだ珍しいもの。キーボードの手前にトラックボールとパームレストがある現在のノートパソコンの原型になったと言われています。
次に買ったのがPerforma5210という一体型のデスクトップ。
Windows95が出て来た頃で、スペック的にMacが優位でもなくなってきた時代。今思うと、このころのMacは凡庸で、MacOSが無ければハードウェアは他社メーカーとそれほど代わり映えしなかった感じがします。
確かにこの頃、Apple社は新しいOS開発を続けていたけれど、何度も延期されたりして、良いニュースを聞かなくなりました。
それ以降、音楽のために主にPCを使っていた私は、Macに見切りをつけてしまいました。
多くのソフトウェアがWindows中心になっていき、周辺機器なども充実していたので、その後私はWindows機を購入。
2000年代になって、AppleがiPodなどで再び盛り上がるのがちょっと気になりながらも、一度Windows系で買い続けたソフトを変えるわけにもいかず、しばらくWindowsを使い続けていました。
そして2008年に再び、今使っているiMac購入。
そしてその夏にiPhone購入で、一気にAppleモードに変わりました。この後は、妻のPCもMacbookProに買え、我が家のPC環境はすべてMacに切り替わっています。
そして、3年後の今、またiMacを買おうと画策しているところなのです。
私はこれまで決して熱烈なAppleマニアだったわけではないけれど、これまでどのような製品を買ってきたのか、振り返ってみようと思います。
会社に就職した1989年、プログラマーとしてのキャリアを始めたわけですが、寮の同期の友人に影響されMacに触れたのがAppleとの出会い。寮のすぐ近くに、Mac専門店があったので、そこに二人で何回も通っているうちにどんどんその先進性に惹かれていきました。
結局、入社した年にMacintosh Plusを購入。私が初めて買ったパソコンはMacでした。すでにそのときジョブスはAppleにはいなかったけれど、初期の一体型Macはデザインも含め、ジョブスの意志がふんだんに込められていました。
当時、仕事で使っていたのはNECの98で、要するにコマンドライン型のMS-DOSパソコン。メモリも640KBの壁があって、EMSとかで拡張しなきゃいけないとか、何て面倒なんだろうと思っていました。それに比べてMacintoshの何と洗練されていることか!
テーブルの上を模したデスクトップ画面に、マウスでウインドウ操作。一見、ユーザーがやりたいこととは無縁な視覚エフェクトは、コンピュータが何をしようとしているのかの意志が明確となり、何より愛着を感じさせました。また、妙な制約が多いIntel8086系でなく、モトローラ68系というのも当時の技術者からすれば共感した選択だったと思います。
その3年後に、Powerbook 140というノートパソコンを購入。今でこそ一般的になったノートパソコンでしたが、当時はまだ珍しいもの。キーボードの手前にトラックボールとパームレストがある現在のノートパソコンの原型になったと言われています。
次に買ったのがPerforma5210という一体型のデスクトップ。
Windows95が出て来た頃で、スペック的にMacが優位でもなくなってきた時代。今思うと、このころのMacは凡庸で、MacOSが無ければハードウェアは他社メーカーとそれほど代わり映えしなかった感じがします。
確かにこの頃、Apple社は新しいOS開発を続けていたけれど、何度も延期されたりして、良いニュースを聞かなくなりました。
それ以降、音楽のために主にPCを使っていた私は、Macに見切りをつけてしまいました。
多くのソフトウェアがWindows中心になっていき、周辺機器なども充実していたので、その後私はWindows機を購入。
2000年代になって、AppleがiPodなどで再び盛り上がるのがちょっと気になりながらも、一度Windows系で買い続けたソフトを変えるわけにもいかず、しばらくWindowsを使い続けていました。
そして2008年に再び、今使っているiMac購入。
そしてその夏にiPhone購入で、一気にAppleモードに変わりました。この後は、妻のPCもMacbookProに買え、我が家のPC環境はすべてMacに切り替わっています。
そして、3年後の今、またiMacを買おうと画策しているところなのです。
2011年10月4日火曜日
コンクール関東大会に出場
ヴォア・ヴェールで初めて合唱コンクールに参加し、2日の日曜日、横須賀芸術劇場で開催されたコンクール関東大会に出場しました。
残念ながら我々は銅賞。反省点は多々ありますので、この結果を、またじっくりと今後の精進のネタにしていきたいと思っています。
我々は一般Aの5番目の出場で、公式スケジュールが終わった後の9番目の団体から客席で聞くことが出来ました。自分にとっても久しぶりの関東大会だったので、そこから最後まで演奏を聴いてきました。しかし、その日最後のブロックの一般B、11団体をノンストップで聞いたのはさすがに疲れました。
正直、一般Aは実力が高かったです。自分たちが出たから余計そう思うのかもしれないけど、多くの団体が優れた指導者の元、コンクールのために密度の濃い練習を重ねたことが如実に伝わるような素晴らしい団体ばかり。
特に私見では、千葉の二つの団体、千葉室内合唱団Vox Aeterna と VOCE ARMONICA の演奏が圧倒的に素晴らしかったと思います。いずれも指揮者の音楽を動かす強い力があり、一つ一つの音符にまで意志が込められた純度の高い演奏を聴かせてくれました。特に後者の深い音色と、洗練されたアゴーギグ、ディナーミクから醸し出される音楽性にはただただ溜め息が出るばかりです。今後、きっと益々活躍をしてくれる団体になるのではないでしょうか。
一般Aでは、最後のCollegium Cantorum YOKOHAMAも好みでした。10人強という人数は、とても難しいし、それゆえに楽しくもあります。個人の実力と音楽性が不均衡だと、お互いイライラが募ったりして、こういう団体を維持するのも難しいもの。しかし、恐らくそういう状況と戦いながら、シンプルな曲であっても自分たちが歌いたい歌をじっくり作っていく、その雰囲気に感銘を受けました。
一般Bは一般Aに比べると、やや見劣りする感じは否めませんでした。
しかも30人台の団体が多く、コンクールに大型合唱団が減っているような感じがしました。33人という団体もいくつかあり、ちょっとばかり戦略的なモノも感じてしまいます。とはいえ、2年後からレギュレーションが大きく変わりますから、そのときにはまた随分出揃う合唱団の顔ぶれも変わってくることでしょう。
その中で、ややひいき目かもしれないけど身内の浜松合唱団はなかなかの好印象でした。あの詩って、萩原英彦のアカペラ曲のイメージが強くて(「静かな歌よ〜お前はどこから来て・・・」というやつ)、ついつい歌詞をトレースしてしまいました。曲の雰囲気も良く、後半、壮大な曲調をしっかりした音量でよく表現していたと思います。
来年コンクールに出るかは全くわかりませんが、たまに出場すると大変刺激になります。日曜は久しぶりに合唱三昧の充実した一日を過ごしました。
残念ながら我々は銅賞。反省点は多々ありますので、この結果を、またじっくりと今後の精進のネタにしていきたいと思っています。
我々は一般Aの5番目の出場で、公式スケジュールが終わった後の9番目の団体から客席で聞くことが出来ました。自分にとっても久しぶりの関東大会だったので、そこから最後まで演奏を聴いてきました。しかし、その日最後のブロックの一般B、11団体をノンストップで聞いたのはさすがに疲れました。
正直、一般Aは実力が高かったです。自分たちが出たから余計そう思うのかもしれないけど、多くの団体が優れた指導者の元、コンクールのために密度の濃い練習を重ねたことが如実に伝わるような素晴らしい団体ばかり。
特に私見では、千葉の二つの団体、千葉室内合唱団Vox Aeterna と VOCE ARMONICA の演奏が圧倒的に素晴らしかったと思います。いずれも指揮者の音楽を動かす強い力があり、一つ一つの音符にまで意志が込められた純度の高い演奏を聴かせてくれました。特に後者の深い音色と、洗練されたアゴーギグ、ディナーミクから醸し出される音楽性にはただただ溜め息が出るばかりです。今後、きっと益々活躍をしてくれる団体になるのではないでしょうか。
一般Aでは、最後のCollegium Cantorum YOKOHAMAも好みでした。10人強という人数は、とても難しいし、それゆえに楽しくもあります。個人の実力と音楽性が不均衡だと、お互いイライラが募ったりして、こういう団体を維持するのも難しいもの。しかし、恐らくそういう状況と戦いながら、シンプルな曲であっても自分たちが歌いたい歌をじっくり作っていく、その雰囲気に感銘を受けました。
一般Bは一般Aに比べると、やや見劣りする感じは否めませんでした。
しかも30人台の団体が多く、コンクールに大型合唱団が減っているような感じがしました。33人という団体もいくつかあり、ちょっとばかり戦略的なモノも感じてしまいます。とはいえ、2年後からレギュレーションが大きく変わりますから、そのときにはまた随分出揃う合唱団の顔ぶれも変わってくることでしょう。
その中で、ややひいき目かもしれないけど身内の浜松合唱団はなかなかの好印象でした。あの詩って、萩原英彦のアカペラ曲のイメージが強くて(「静かな歌よ〜お前はどこから来て・・・」というやつ)、ついつい歌詞をトレースしてしまいました。曲の雰囲気も良く、後半、壮大な曲調をしっかりした音量でよく表現していたと思います。
来年コンクールに出るかは全くわかりませんが、たまに出場すると大変刺激になります。日曜は久しぶりに合唱三昧の充実した一日を過ごしました。
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合唱
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