2011年5月28日土曜日

合唱名曲選:嫁ぐ娘にーその1

今年になって、私の指揮では無いですが、ウチの合唱団でこの名曲を練習し始めています。実を言うと、私自身「嫁ぐ娘に」を歌うのは初めてなのです。これまで生演奏や、CDなどの音源で何度も触れてはいたのですが、実際歌う立場になって、また違った視点でこの曲の魅力を感じています。
しかし、その一方、あまりに名曲と言われ過ぎたために、この曲は一方的に礼賛され過ぎたのではないかという疑念もちょっと感じます。出来れば、非常にニュートラルな視点で、この曲の特徴、魅力を再確認してみたいと思うのです。
何しろ、この曲を歌えば歌うほど、多くのことを感じています。なのでこの「嫁ぐ娘に」に関しては、何回かに分けて、書いてみようと思います。

私がこの曲を初めて聞いたのは大学の合唱団時代のことで、部室にあったテープを聴いたときでした。
正直、この時点ではほとんどこの曲の魅力を感じることが出来ませんでした。その理由は、冒頭の9小節にあります。「嫁ぐ日は近づき、むすめの指にあたらしい指輪」と歌うそのフレーズ、歌詞の内容に比べてあまりに音楽が不気味です。
敢えて言えば、8〜9小節はようやく明るい和音になるのですが、それまでの音の運びが私にはどうしても暗い感じに思えました。
その気持ちがあったせいで、当時はそれ以上この曲をきちんと聞こうと思わなかったのです。ところが、その後何度となく、いろいろな人がこの曲を素晴らしいと言っているのを聞き、私自身も積極的にその他の部分を聴くようになって、その魅力を理解し始めた次第。
ただ、冒頭の9小節が不気味すぎる印象は今に至っても変わっておらず、自分の中で、この組曲を評価する際にどうしてもその想いがよぎってしまいます。

自分にとってこの組曲の魅力は、やはり3曲目、及び5曲目に詰まっています。
この2曲はドラマチックだし、歌詞の内容と曲の表現がみごとにシンクロしており、まさにアカペラの邦人合唱曲のあり方の一つの理想型を示したと思います。
また2曲目、4曲目については、恐らく作曲家自身も間奏曲的な役割を与えていると思うので、派手なドラマツルギーはむしろ抑えられています。それだからこそ、この間奏曲的な2曲は純音楽的な作曲者の嗜好が詰まっているという見方も可能でしょう。
��曲全体を一度歌ってしまうと、1曲目冒頭の不気味さの印象もだんだん緩和されていきます。組曲全体が持つ雰囲気の一部を纏っていると考えれば、冒頭の雰囲気も不気味とは言えなくなるのかもしれません。

恐らく作曲者の三善晃にとって、この合唱組曲は本格的にアカペラ合唱曲と向かい合った、ほぼ最初の曲ではないかと思われます。そう考えれば、ある種の生硬さを感じつつも、この時点でこれだけの完成度の楽曲を作ったことに今さらながら驚嘆せずにはいられません。
次回は、「ある種の生硬さ」についてちょっと思うところなど。

2011年5月24日火曜日

新しい組曲を作曲:混声合唱のための「プリンキピア」

すでにこれまで紹介して来たとおり、理系ネタの合唱組曲を作曲していましたが、ようやく完成いたしました。
今までの記事はこちらこちら

ちょっと重複しますが、概要を以下に記します。
組曲名は、混声合唱のための「プリンキピア」。テキストはニュートンが万有引力と天体の動きについて解説したプリンキピアという書物から抜き出したもの。ラテン語です。
編成は、Sop/Alto/Tenor/Bariton/Bassの男声が多めのアカペラ5声。比較的男声が多いと思われる大学混声合唱団を念頭に作りましたが、もちろん大学生で無くても構いません。
曲は全部で3曲。演奏時間は全体で16分ほど。
各曲はそれぞれ5分近い長さなので、それなりに骨のある曲ではあると思います。

特に2曲目は東日本大震災後に初めて作った曲だったので、予定になかった"Amen"の文言を付け加えるなどして、震災犠牲者に捧げるレクイエム的な音楽になりました。
そして3曲目は、1曲目と2曲目の主題を変奏する、快速な音楽です。組曲の最後はシンプルな和音で、1曲目2曲目を回想しながら消えゆくように終わります。

今回の曲では、ラテン語の作曲に挑戦しました。
もちろん私はラテン語そのものには詳しくなく、単語のアクセント、イントネーションなどにはやや不安があります。しかし、今回は単語のディクションの再現よりも曲のイメージ作りを優先し、もうアクセントとかシラブルとか細かいことを気にせずに、思い切って単語をどんどん音符に当てはめて作っていきました。

そのため今回は、全体をほとんど器楽的な音楽として作曲し、後で歌詞割りを行うという一般的な合唱曲らしからぬ作曲方法になりました。おかげで普通の邦人合唱曲とずいぶん肌触りが違うものになったと思われます。
歌詞は一種の記号であり、極端に言えば合唱曲とはいえ音符だけでも独立して成り立つような音楽、を目指しました。テキストが含む情緒に過度に依存することへのアンチテーゼと考えてもよいです。
MIDIを公開していますので、是非一度聞いて頂き、感想など頂けると大変励みになります。

今のところ初演のあてはありません。【初演団体募集中】です。この風変わりな曲を初演してみたい、という挑戦者をお待ちしております。

2011年5月22日日曜日

育児から想像する人間機械論2

子供が生まれる前から、子供の成長には密かに興味を持っていました。
前回も言ったように、赤ちゃんが人間に成長する過程から、人間とはどのように作られているのかが発見できるのではないかと思っていたからです。(普通は、そんなことを考えている人は少ないんでしょうが)

しかし、一番人間として成長するこの2年間、結局わかったような、わからなかったような感じで終わってしまいました。取りあえず育児に手がかかるのに必死で、考えている間もなかったというか。
もう一つ言いたいのは、育児に関するノウハウはあまり科学的な裏付けが少なく、流行り廃りがあるという感じとか、科学的な裏付けがないために怪しい情報(トンデモ系)がまかり通りやすい、という点も感じました。抱っこはどんどんした方が良いとか、しないほうが良いとか。
どの時代に生まれた人だって、育て方のトレンドで人間が変わったとは思えませんから、まあ、所詮育児の常識なんてその後の成長にたいした影響はないんじゃないか、と私は冷ややかに見ています。

それから、赤ちゃんをあやすことについて。
よくテレビドラマなどで、赤ちゃんをあやすとニコニコしたりする場面がありますよね。
誰があやすといいとか、あやし方が上手いとか下手とか・・・。昔は、私もそういう技術は確かにあるものだと思っていました。しかし、今となってはその考えにも否定的です。
確かに多少の上手い下手はあるかもしれない。しかし、それでも乳児が泣く、泣き止むという理由は分からないことが多いです。また一度うまくいった方法が、次回にうまくいくとも限りません。そういう意味では、乳幼児の反応はほとんど予測不可能です。

そう思うのは、うまくあやせないからだ、とか、子供によって違う、という意見もあるでしょう。確かに事例としては少なすぎるので一般化は危険ですが、それでも、乳幼児の予測不可能性は、私の中では非常に意外なことでした。これは機械論に反するかもしれないけど、人間のより深い機械性を感じさせる事例です。
そして、人間として成長する、ということは、この予測不可能性がだんだん薄れていくことに他なりません。
実は今現在、ウチはまさにそのまっ只中にいます。
嫌なことをはっきり表現できるようになり、以前の嫌なことときちんと連続性があり、こちらの意図も少し汲んでくれるようになり、気がつくと知らないうちに人間に近づいてきました。もっとも、言葉はまだきちんとは話せていませんが。

特に満1歳以降の一年は、生物が人間に近づく過程だと言えます。言葉の前準備のような感じ。
それは、泣くことの理由がだんだん明確になること、身振りで指示が出来るようになること、毎日やっていることが習慣として記憶されるようになること、といったことが日々、出来るようになっていくのが良く分かったからです。
言葉が話せることは、上のような行為の肉付けに過ぎません。以前は、言葉が話せないとコミュニケーションが取れない、と思っていたけど、実はそれだけじゃないいろいろな要素があるんですね。
ある状況に対してそれなりにきちんと反応してくれる、そういう要素が一つ一つ確立してくるだけで、かなり人間的になってくることが体感できます。

2011年5月18日水曜日

育児から想像する人間機械論

なにやらヘンテコなタイトルです。しかも、本ブログ初めての育児カテゴリー。

これまで育児の話をあんまりしてなかったのですが、書きたくなかったわけではないのです。子供が生まれてから約2年、幼児の成長を心に刻みつけつつ、子育てを・・・と言いたいところですが、不思議なことにもう子供が生まれた頃のことを忘れつつあるのが正直なところ。ちなみに生まれたときの記事はこちら

しかし、あくまで私は理系的にものごとを解析するのが大好きなのです。
もちろん、本当に学問で探求している人から見たら、私の推理、想像は突っ込みどころ満載なのですが、それでも私なりに育児からいろいろ人間の仕組みについて想像しています。
赤ちゃんが成長する過程、というのは人間が作られていく過程でもあります。人間がどのように作られていくか、を観察することによって、人間がどのような仕組みで作られているかを考えるきっかけになります。

ちなみに人間というのは、生まれた直後の子供があまりに無力だという点において、極めて特殊な動物です。馬だって生まれたばかりの赤ちゃん馬はいきなり歩き出します。ほとんどの動物は自ら母の乳を飲むくらいの動作は可能です。
ところが、人間の赤ちゃんは手足をばたばたさせるだけで、全く身動きできません。親の庇護がないと何も出来ないのです。また、実際に二足歩行出来るのに1年以上、言葉でコミュニケーションを取れるのに2〜3年くらいと、いわゆる生物的に自立するのに異常に時間がかかります。

子供が歩き始める瞬間というのは、実にたどたどしいものです。
本当に足の各筋肉をどのように動かしてよいか分からず、手探りで歩いている感じ。ちょっと歩いてもすぐにこけてしまったり、何でもないところで足がひっかかったり。

このような事実と経験より、人間は他の生物と違い、脳の可塑性が高く、常に書き換わることが出来るプログラマブルなシステムであると想像することができます。
プログラマブルの反対はワイヤード。ワイヤードとは、すでに脳の回路が配線終了されており、いつでも同じ動作が出来る状態のこと。逆に言えば、その動作以上のことは永遠に不可能です。例えば多くの昆虫のほとんどの動作はワイヤードで出来ていると思います。生まれながらにほぼ必要な動作が可能なのではないでしょうか。
その一方、人間の脳は、敢えてワイヤードな脳にせず、プログラマブルにしています。そしてある時期に発動する衝動のみがワイヤードで書かれているように思えます。

どういうことかというと、例えば生まれて1年くらい経ったら「歩きたい」という衝動が起きます。衝動が起きることはすでに決定されているのですが、「歩く」という能力自体は脳の中に書かれていません。そこで懸命に歩きながら、脳内の歩くプログラムを必死に作り上げ、歩く能力を獲得していきます。
万事がその調子でプログラムされていくので、人間らしい行動が一通り身につくまで非常に時間がかかりますし、そのために親が子供の世話をすることが前提になっています。
そういえば、生まれたばかりの頃に捨てられて狼に育てられた狼少女の話ってのがありますね。発見されたときには狼同様4本足で走り回っていたそうな。環境の違いで身体の基本的な動作まで変わってしまう非常に分かり易い例だと思います。

2011年5月15日日曜日

男声合唱の魅力

合唱を始めた高校時代以来、混声合唱中心の活動をしていました。一時期、某職場合唱団で男声合唱もしたおかげでそれなりに男声合唱にも深く付き合うことが出来ましたが、団も活動休止してしまい、今では男声を歌う機会はなかなかありません。

とはいえ、混声合唱をやっていると、ときどき男声合唱をやる機会があるものです。
当然、大は小を兼ねるということで、混声合唱団内では、女声だけ集まって女声合唱曲を歌ったり、男声だけ集まって男声合唱曲を歌うことが可能です。それを団の公式な練習として行うか、有志が別枠で練習するか、それぞれの団ごとに事情は異なるでしょうが、私がこれまで在籍していたどんな混声合唱団でもこういった機会がありました。
しかし自発的に集まるような場合、女性が集まって女声合唱曲を歌おう、となることより、男性が集まって男声をやろうというほうがその機会は多いように感じます。まあ、どうでもいいことだけれど、面白い現象ですね。

恐らく女性と男性の性格的なノリの違いもあるんでしょうが、音楽的な理由もあるように思います。
その一つとして、少なくとも日本において男声合唱曲にはシンプルなアカペラ曲が多いということが挙げられます。というか、具体的に言えばカワイの「グリークラブアルバム」(通称赤本)の存在が大きい。取りあえず男声で何かやるならこの楽譜、みたいな存在です。
こういった楽譜集が合唱団の部室に常設され、ちょっとした折に数人で歌ってみたりといった、そんな風景は全国の合唱団で見られるのではないでしょうか。私の経験だけが特殊ではないはず。
この赤本の曲が全て無伴奏だったということがまた重要ですね。ピアノが必要なら、ピアノを弾く人とそういう場所が無いと練習できません。無伴奏だったことで、混声内であっても数人が乗り気になるだけで歌うことが出来たというのは大きいです。

それから昔から言われているように、物理的に男声合唱はハモりやすく、歌っていて気持ちがいい、という事実があると思います。
女声合唱に比べれば音域が広いし、ハモったときに強調される倍音がちょうど良い周波数帯域にあるのです。同じレベルの技倆なら、明らかに女声より男声のほうが合唱としての美しさが際立ちます。それはハモりに敏感な合唱団員である当人が最も良く感じられるはずです。

ところが、女声合唱団と男声合唱団、日本ではどちらが多いかというと圧倒的に女声合唱団なのです。上の話と合わせると面白い話ですね。混声合唱団内では、自発的に楽しみで歌うのは男声合唱曲が多いのに、世の中では女声合唱団のほうが多い。
これについては、合唱曲の特性と全然違うレベルの理由であるのは何となく想像できますが、ここで具体的に考えるのは止めておきましょう。日本社会の分析論になってしまうので。

いずれにしろ、数の少ない男声合唱団は、団体数が少ないからこそ、本当に好きな人間が集まっており、その合唱オタクレベルはかなり高くなります。
これがまた、オタクの居心地を良くし、不思議な団結力を醸し出しているように思います。人間関係の愛憎で指揮者が苦労する女声合唱団とは大違い。
そういう合唱団を経験すると、団の雰囲気と男声合唱曲の魅力が渾然一体となり、ますます男声合唱は素晴らしいという結論になっていくわけですね。

2011年5月8日日曜日

PD合唱曲からCC合唱曲へ

4年ほど前からPD合唱曲と称して、自作曲をPDFで公開する試みを行っていました。その時の記事はこちら
デジタル/IT/ネット時代になって、コンテンツの流通についてはドラスティックな変化が起きました。デジタル化されたデータは非常にコピーがし易いため、違法コピーが絶えず、これらを防ぐ仕組みといたちごっこが年々続いています。

しかし、そのような状況を尻目に、有料コンテンツは益々売れなくなり、無料コンテンツが幅を利かせるようになりつつあります。
その原因としては、コンピュータ時代にデータのコピーは当たり前のことだし、デジタル化されたデータに面倒なプロテクトをかけると使いづらくなり、統計的に見れば使用を避けるようになってしまうこと。それから、これまで通りに音源を売ることだけがマネタイズの方法ではない、ということを何人かの音楽家が気付き、実践しつつあるということ。この二点が挙げられます。
まだ全体としては、音源を売るビジネスが大勢を占めていますし、CDを買ったり、曲データを買ったりする感覚も多くの人が自然に感じているのは確かなのですが、その一方で静かにコンテンツの無料化が進んでいるのです。

特に私のようなアマチュア音楽家にとって(それで飯を食ってないという意味)、金銭的対価よりまず広く知られることのほうが先決であり、その場合、むしろ無料でコンテンツを配ってしまった方が効果的です。
そのような流れでPD合唱曲という試みを始めましたが、とはいえ、完全に著作権を放棄することはむしろ難しいことです。全く放棄します、と言われても、使う方もどうしても遠慮してしまうものです。

そんなところから近年、ある有力な著作権のライセンス方法が拡がっています。クリエイティブコモンズという考え方です。詳しくはこちらの説明をどうぞ。
まあ簡単に言えば、コピーフリーだし金銭的対価はいらないけど、いくつかのことは守ってね、ということを権利者側が宣言できるというものです。

そこで、私はこのクリエイティブコモンズを利用して、以下のような設定をしたいと思います。
作品のクレジット表示
 私の理解では、人格権の主張ではないかと思います。
商用利用禁止
 勝手に私の楽譜で商売をするなということ。
改変は自由
 原著作者が明示されていれば、改変は好きにして構いません。
商用利用禁止については、あくまで「著作者の許可無く」ということであり、何が何でもこの作品を商用利用してはいけない、ということではありませんのでご注意下さい。

まあ、一般の方が演奏で使う分にはほとんど問題無いはずです。
むしろネット時代で新しい著作権管理の考えが出て来たことについて理解して頂くためにも、クリエイティブコモンズのライセンスを使うのは意義があることではないかと考えています。

今後は、私の作品紹介ページや、PDFの楽譜について徐々にCCの記号を付けていくつもりです。

2011年5月6日金曜日

プリンセス・トヨトミ/万城目学

以前テレビで観た「鹿男」が面白かったり、テレビで作家インタビューとかで見た覚えがあって気になっていた作家、万城目学の作品。帯に映画化と書いてあったので、久しぶりにエンタメ系の小説をGWに読んでみようと思い購入。

基本的に好きです。荒唐無稽だけど、妙に雑学が詰め込まれているペダンティックなところ、しかもやけにディテールに凝っているし、それでいてクスッと笑わせたりほろりと泣かせるところがしっかりあるというサービス性。作家として十分な貫禄ありという感じです。
「大阪全停止」というキャッチコピーが書かれていますが、正直これだけで興味をそそられるとちょっとそらされる感じかも。そういう意味ではややミスリード気味なコピーな気がします。
ただ、実際にたくさんの人が住んでいる大阪の人たちには、誰にも言わない秘密があるなんていうのは、なかなか面白い設定。それがどこかの架空の都市とかでなくて、大阪って言うのが妙にリアル。ただ、その設定を先に考えついたせいか、それを成り立たせるための細かな設定にやや無理があったような気がします。ネタバレになっちゃいけないので、これ以上は書きませんが。

この本の中で際立って個性的なキャラは旭ゲーンズブールという、長身で美人で超エリートのハーフ女性。この人の容姿を想像しながらこの本を読んでいくっていうのが本書の楽しみの一つですし、物語の最初から最後まで重要な役回りを演じます。
映画化って、この役、誰がやるんだろーとか思って、帯の写真に綾瀬はるかの写真があるけど全然イメージ違うよなと考えていたら、なんと映画化では性別が変えられている模様。えー、男? この作品の魅力が半減したような残念さ。
じゃあ、綾瀬はるかは誰役?というと、中年のドジな男役。ここも性別を変えられているわけです。
まあ、視覚的には分からないでも無いし、長身でハーフ美人でこの映画を成り立たせられる女優って確かに思い付かない。それだったら、こういうキャストにしようってのも分かるんですが・・・

全体的にはこういったストーリーなら、もう少し内容をそぎ落として短めな小説にしたほうが良いとも思いました。これだけの長編だと、あまり複雑な伏線を持たせずに、もっとストーリーに起伏を持たせたほうが読みやすいでしょうね。
大阪を舞台にしたファンタジーですが、これと対峙するチームとして会計検査院という組織を選んだところはなかなか秀逸でした。実在しながら、よく立ち位置がわからないこういった組織を表舞台に上げるというセンスは素晴らしいと感じました。
この著者の奇想天外な発想にはこれからも期待したいと思います。

2011年5月2日月曜日

英国王のスピーチ

月初めの1日はTOHOシネマズが1000円になる日、ということで妻と二人で映画を観に行きました。
今はGW中で家族向け映画だらけ。ほぼ自分が観たいと思う唯一の映画だった「英国王のスピーチ」を選びましたが、これはなかなか良い映画!
ハリウッド的なアクションは全く無し。テンポも緩く、渋い言葉のやり取りを楽しむといった、いかにもヨーロッパ的な映画。

内容は比較的史実に基づいたもの。第二次大戦中のイギリス国王ジョージ六世は吃音症で、演説が苦手だったのだけれど、妻の献身や風変わりな言語聴覚士ローグの努力によって、重要な演説を成功に導くまでを描いています。
さすがイギリス映画だけあって、イギリスにおける王族のあり方とか、階級社会の意識とか、そういうものが垣間見えるのがとても新鮮でした。
ローグは実際何の専門教育も認定も受けていない、超怪しい言語聴覚士なんですが、だからこそ、破天荒な診療を行っていけるというのがこの話のミソ。平民なのに王族と対等の関係を要求し、ファーストネームで呼び合おうとする。そして王族に対しても(将来の国王に対しても)辛辣な言葉を浴びせかけます。そこが、この映画の痛快なところ。

しかし、吃音症とか、ドモリっていうのは物理的な障害なのではなく、むしろ心理的なものなんですよね。私もどちらかというとドモり傾向なので良く分かります。だから、吃音症を直すというのは、本質的にメンタルな診療にならざるを得ない。そして、それは心の傷を見つめ直すことに他ならないわけです。
そして国王になるジョージ六世が幼少の頃、無理やり左利きを右利きに矯正されたり、足の形を無理やり直されたり、とかいった子供の頃の一種の心の傷が明らかになるにつれ、王族として生まれることの哀しさなどをさり気なく表現しています。

たかだか80年ほど前の吃音症の実在の王の話を映画にするっていうのもある意味勇気あること。実際、吃音の感じなんかも、とてもうまく演技していてびっくり。多少脚色しているにしても、演技にリアリティがあって、王の苦悩が何だか自分のことのように思えてきてしまったのでした。