では、今回は主に曲の構造について解析してみます。
合唱曲の曲構造を論ずるときには、まず詩の構造を調べる必要があります。
この詩を見てみて、すぐに分かる特徴は、詩自体が有節歌曲(1番、2番・・・がある形式)を指向しているという点です。しかも、各連の音節のシラブル数まで一緒。こういう詩を書く場合、当然詩人は有節歌曲的な曲が付曲されることを想定していると考えるべきですが、もしかしたら詩人が有節歌曲的な詩を書くという制限を自らに課しただけなのかもしれません。
そのような詩に対して、この「父の唄」は有節歌曲的な作曲をしていないのは明白です。
「とおく行け」のモチーフがかろうじて同じになっている程度(しかも3番は違う)。やや詩の題材も庶民的な感覚を持っていますから、詩情的にも有節歌曲が似合っている気がしますが、敢えて芸術性を強調するような作曲をしているということが特徴的に思えます。
では、この詩の各連が曲の構造とどう関わっているでしょうか。小節数で示してみます。
1番:1〜34小節(計34小節)
2番:35〜48小節(計14小節)
3番:49〜62小節(計14小節)
コーダ(1番前半のリフレイン):63〜73小節(計11小節)
��番と、2,3番の扱いの違いが際立っています。1番は、2,3番の2倍以上。詩の言葉も同じ文章が何度も繰り返されています。ところが、2,3番は、同じ文章は基本的に一回しか使われません。
確かに1,2,3番と同じ位置の歌詞は同じようなメロディの音型を指向しているのですが、この不揃いな詩の扱いが意図的なのかどうか、という点について考えてみる必要があるでしょう。
もう一つ、調構造について解析してみましょう。
この曲はフラットが三つですから、変ホ長調(Es-dur)です。ところが16小節あたりでDesが目立ちはじめ、19小節くらいから完全に変イ長調(As-dur)に変わります。
新しく調が変わったにも関わらず、調号を変えないまま曲は進行します。コーダ途中の66小節までAs-durは続きますが、67小節でまるで思い出したように唐突にEs-durに引き戻されます。全73小節中三分の二ほどの区間は、調号とは違う調で書かれているわけです。
私自身は率直に言うと、この曲の作曲自体にはそれほど綿密な計画があったわけではなく、感性にまかせて自由に作った結果こうなったのではないかと想像しています。もちろん、それが曲の善し悪しに直接結びつくわけではありませんが、そのような作曲上の自由さを、演奏がある程度補正することによってより説得力のある演奏が可能ではないかと考えます。
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