2010年12月30日木曜日

コダーイ・システムとは何か

そもそも移動ド教育の大御所、コダーイが考えた音楽教育の方法ってどんなだろう、ということで買ってみた一冊。実は随分古い本で、初版は1975年。でも、アマゾンでも入手できるということは、それなりに買う人はいるということでしょうか。

値段の割に薄い本で、全体は100ページ程度。ならすぐに読めるかというと、譜例がたくさんあり、言葉の意味と楽譜の内容を理解しながら読み進めようと思うと、意外と骨が折れます。
また、精神論と技術論がごちゃごちゃになっていて、書物としては必ずしも読みやすいとは言いかねます。
それでも、恐らく国内できちんとコダーイ・システムの内容を知ることのできる唯一の本なので、それだけ価値のあるもの。Twitterでも面白かった一節をいくつか書きましたが、ところどころ膝を打つような面白い文言に出会えます。

詰まるところポイントは、音楽的文盲を無くそう、生まれたときから音楽教育、保育園から民謡を集団で歌わせる、歌・合唱が音楽教育の基本、楽譜を見て音楽が思い浮かぶようになる、楽器に触れるのは後になってから、といった辺りでしょうか。本書ではこれらのテーマが繰り返し主張されていきます。

具体的な移動ドの練習法や、リズムの練習法もところどころ記載されていて、実践にも役立ちます。
正直大人を相手にしたものでは無いので、自分の音楽レベルを高めるのには役立たないでしょう。自分の子供にいかに音楽を学ばせるか、あるいは学校で、児童合唱団などでどうやって音楽能力を高めるか、その方法論を考えている方には大いに参考になると思います。
もちろん、読む者の音楽的リテラシーはそれなりに要求されますし、コダーイが教育に求めているものも、ある程度技術的な能力なのです。しかし日本には、こういうシステムに合致した教材があまり無さそうなので、実際に現場で適用するのは簡単ではないと思われます。

2010年12月28日火曜日

演奏会をYouTubeで公開!

妄想するだけでは飽きたらないのが私。
先日の12/5のヴォア・ヴェール第四回演奏会の様子を、YouTubeにて全曲アップしてしまいました。ヴォアヴェールのチャンネルはこちら

ちなみに、昨年まで私も在籍していたアンサンブルグループ、ムジカチェレステのチャンネルも最近作られました。
たかだか二ヶ月ほど前から公開を始めたのにも関わらず、一部の曲は随分再生されているようです。特に海外の有名合唱曲。私の思うに、世界中の合唱マニアがYouTubeで検索して辿り着いたのでしょう。
ご期待に添える演奏かは保証できませんが、それでも楽譜を手元にした人がどんな音か聞いてみたい、という需要くらいは十分満たせるのではないでしょうか。

よく考えてみたら、私も何かとYouTubeのお世話になっています。良くないとは思いつつも、流行りの歌を手っ取り早く聴きたいと思ったら、YouTubeで検索するのが一番早い。しばらくして削除されるものも多いですが、タダで聴けるというだけでスゴい需要があるはず。コメント欄を見ると「歌ってみた、ばかりで困ってました」なんて平気で書く人もいたりして、もはや違法という意識も無いのでしょう。
まあ、この辺りは常識がどんどん変わる世界ですから、敢えて良い子的意見を書くつもりもありません。実際私を含めた多くの人がお世話になっているわけですから。

ヴォア・ヴェールの演奏会の曲目は、もうちょっとドメスティックで、かつマイナーなものなので、それほど再生回数が伸びるとは思えませんし、団員以上に自分たちの演奏に興味を持つ人もそう多くはないでしょう。
それでも画像をちょっと見るだけで、私たちについていろんなことが分かります。それで、少しでも多くの人が興味を持って頂いたりするきっかけになれば十分なのです。

世の中、情報のオープン化は重要なキーワードだと思っています。オープンしたくない理由はいくらでも探せるけれど、オープンしたものとしないものとでは、社会的認知度は明らかに変わっていきます。早いうちからオープン化戦略を取ることのメリットを実験的に体験してみたいと私は思っています。

こちらにもその一部を貼っておきます。(千原英喜作曲「お伽草子」より「一寸法師」、指揮は私)


2010年12月25日土曜日

Twitterの心理学

Twitterを本格的にやってみて、ここ数ヶ月で自分の心持ちがちょっと変わったかなあ、という気もしないではありません。
やってみなければ分からない、とはまさにこのこと。人によってTwitterの考え方はまた全然違うし、他人に聞いてみても自分に合う答えなのかどうかは分かりません。

私自身の想いを言うなら、Twitterは自分自身を先鋭化させます。
自分の興味あること、自分のふと想ったことが、形になることによって、自分自身に再影響を与えます。そうして興味への振れ幅はより強くなっていきます。
文字数制限により、言葉は短くなります。他人への意見だって、挨拶も出来ない。この不便さは、ますます個人の態度を明瞭にさせます。自分の発言が「反論」なのか、まあ曖昧に済ますのか、すぐに他人に同調するのか、その相手が嫌いな人か、好きな人か、嫌われたくない人か、思わず冷たくしてしまう人か、短さの中にその想いが詰まってしまうのです。
他人のつぶやきを見ても、一人一人がどれだけ違う価値観で違う人生を送っているのか、ということに気付きます。リアルでは決して交錯しなかった人生が、目の前に展開される面白さというのは、時間がたつほどにじわじわと自分の意識を浸食していきます。

私自身は、まあ予想してはいたけれど、あんまりフォロー数を増やさずに見たいつぶやきだけをじっくり見る感じになってきましたが、それでも一般では有名でなくても、その筋の論客のような人たちの発言を見るのは大変楽しいです。
閉塞感が拭えない昨今の日本にも、それぞれの立場で頑張りながら、すごく頭が切れていて、的確な論評をできる人たちがたくさんいる。自分も影響を受けるし、関係する本を読んだり、音楽を聴いてみようという気になります。

iPhoneで気軽に見れる便利さもあって、ついつい時間を潰してしまうけれど、これ以上時間をかけるのは難しいし、付き合い方にはもう少し工夫は必要。
しかし、一度先鋭化してしまった自分はもう元には戻れなくなります。自分に出来ることは多くはないけれど、人生に対する目的意識も少しずつ変わっていくかもしれません。
社会全体が組織から個人主体に移っていく大きな流れを感じます。もともと大規模組織が苦手な私には、望むべき未来でもあるのです。

2010年12月21日火曜日

TRON:LEGACY

ディズニーの3Dの最新SF映画。TRONというと、技術者的には国産OSのことを思い浮かべますが(μITRONにはいつもお世話になっています)、大昔にTRONという映画があったのですね。
今年前半くらいから何回か予告編を見ていて、この手のB級(の匂いを感ずる)SF好きの私としては、密かに興味を感じていました。

ということで、なぜか月曜の夜に映画を見に行ってきました。
率直に言うと、ストーリーは今ひとつ。というか、かなりダメな部類に入るかも。前半のセリフの一つ一つが素人くさくて、かなり幻滅。この手のリアリティのない説明的なSF脚本は日本のお家芸だと思っていましたが、アメリカ製でもやってしまうもんなんですね。
後半以降のアクションでは、それぞれの登場人物が何のためにどこにいるのか、ということが不明瞭。鉄道だと思っていたら、工場だったり、集会所だったり、でもやっぱり宇宙船だったみたいな。もちろん作る方は何らかの想定があるのだけど、ご都合的に脚本を作ると、一度見ただけの観客には理解しづらくなるもの。クリエータ的には反面教師で、勉強になりますよ。

それでも、全体の洗練されたデザインや、映像にはそれなりのクオリティを感じました。全体的に薄暗い中で、白い光とオレンジの光が交錯し、それぞれが明瞭に敵味方を示しているのは映像的に分かり易いです。戦国ものや中国映画なんかでもそんなのがあったような。
人物も漫画的で、女性も人格をはぎとって女性美だけを追求したようなモデル系美人ばかりなのは、電脳空間のイメージをうまく表現していたと思います。ただ、マスクをかぶると誰だか分からなくなる、というのはちょっと失敗だったかも。

ただ、プログラムを擬人化した電脳空間というモチーフ、もっといじりがいがありそうだし、うまく別にテーマ性を持たせたら内容の深い映画になるのになあ、と感じます。そういう意味では、やはりマトリクスは偉大でしたね。

2010年12月18日土曜日

PD合唱曲に「移動ド練習曲」シリーズ開始

先日、練習曲シリーズと題し、PD合唱曲内に、最初から練習用として使う曲をアップし始めました。今回は、そのシリーズ中に、さらに小シリーズ「Movable Do Etude(移動ド練習曲)」というのを作ってみました。

iPhoneで最初に作ったアプリが"MovableDo"、つまり移動ド練習用のアプリでした。もともと移動ド信仰者である私が練習用の曲を作るなら、移動ドによるソルフェージュ訓練用のものになることは、よく考えれば自明な成り行きです。
そう、いつかは私はこれらの一群の曲を作らねばならなかったのです。実は、これまでも何度もソルフェージュ訓練用の曲を作ったらどうか、という考えは持っていたのです。あれこれ曲集の中身を夢想する度に、なにやら壮大なモノになってしまいました。
もちろん、私は専門的に音楽教育に携わっているわけじゃないですし、そういうことをアカデミックに追求したこともないのですが、ソルフェージュ向上の方法については、合唱を始めた頃から大変興味を持っていました。

残念ながらソルフェージュに関していえば、現実の訓練の現場というのは、全然システマチックじゃないし、計画的なものでもありません。なら、ややゲーム感覚で、あわよくば自分の苦手な部分に気付いてくれればラッキー、程度の訓練用の曲で十分じゃないかと思ったわけです。取り上げる方も、多少の気楽さがないとなかなか手にとってもらえません。
そんなわけで、結局衝動的に作り始めました。
こちらから辿って下さい。すでに4曲ほど作ってみたところです。今後もなるべく、曲調、難易度をランダムに散らせて作っていきたいと考えています。
今のところ、各曲は二声で作ってあります。単純にソプラノ/テナーが上の段、アルト/ベースが下の段を歌えばよいでしょう。四声別々のパートだと、前に立つ人が合っているか間違っているか認識するのが難しくなるので、このくらいが妥当ではないかと考えました。

さて、練習で実際に使う際には、以下のような流れがよいでしょう。
1.練習するその日に初めて楽譜を配ります。
2.その場で、数分各自で音符を(歌わずに)見てもらいます。
3.最初の音だけ与え、一度も音符を弾かずにいきなり歌ってもらいます。
4.歌えなかった場所を、各自でもう一度歌わずに確認してもらいます。
5.歌う→歌えない場所確認、を繰り返します。

なお一度練習した楽譜は、それで用済み。曲を記憶してしまうと、ソルフェージュの練習にならないですから。

はた迷惑でしょうが、ウチの合唱団で何曲か実験してみて(歌ってもらって)、またいろいろ方向性を修正します。
これを読んでいる方で興味がありましたら、是非、皆さんの合唱団で試してみて下さい。ご意見ご要望がありましたら何なりとお知らせ下さい。
いろいろなところで使ってもらえるととても嬉しいです。

2010年12月12日日曜日

音楽と同期する演出

演奏会のプロジェクタの投影などの演出ネタ。もう少し考えてみましょう。

映像や照明を音楽に合わせる、という感じで演出してみようと思うと、だんだんシステムが大がかりになります。こういう状況を一言で言うと、演出が音楽と同期する、ということ。この同期システムをどう作るか、を考える必要があります。

まあ、考えるまでもなく、映像担当者と照明担当者が楽譜を見ながら操作するしかないじゃん、と思うかもしれません。いわば人力同期システムです。
今回、我々が演奏会でやった曲進行に合わせた紙芝居も、人力同期システムでした。
舞台で展開されている音楽を同期のマスターと考えれば、その他のものがそれに従属するしかありません。結果的に、それは人力で楽譜を見ながら機器を操作するということになります。

しかし、実際のショービジネスの現場では、曲に合わせた派手な照明・映像の変化は日常茶飯事。これは、担当者が音楽を聴きながら操作しているのでしょうか。
今のポピュラー系コンサートでそういった演出をする場合、恐らくほとんど音楽が同期のマスターになっていないと思います。
つまり、同期クロックは演奏とは別のところから出ていて、舞台上の演奏はそのクロックに合わせて演奏するのです。今どきのドラマーは、ほとんどイヤホンで「ピッピッピッピッ」というクリック音を聞きながら叩けなければ商売出来ません。
オーケストラでも、一昔前の映画音楽は、指揮者が映像を見ながら指揮をしていたそうです。一昔前、といっているのは、今ではオーケストラサウンドも生演奏ではなくコンピュータ上で作れてしまうからです。

もっともポピュラー音楽はほとんどの場合、BPMが一定で、アゴーギグの変化がありませんから、クロックに従って音楽が進行しても、音楽の質にそれほど影響しません。
テンポ感やアゴーギグが重要な音楽性の一つとなるクラシック系音楽では、なかなか同期のマスターが音楽以外にあるという状況を受け容れるのは難しいかもしれません。

それでも、私はそういうやり方ってあり得ないかなと夢想してしまいます。
アゴーギグがある場合そういうテンポの変化も含めて、全て事前に固定してしまいます。指揮者はクリック音を聞きながら指揮し、何度演奏しても同じ時間で演奏できるように指揮者も演奏家も練習します。(それを音楽的でない、と感じないことにするしかありません)
その上で、同期クロックに合わせて、映像機器や照明機器に指示を出すようなシステムを組みます。やろうと思えばプログラムを書いて、人が操作しなくても自動に動作するシステムを作ることは可能でしょう。
恐らく、ショービジネスの世界ではそういったシステムが、技術的にすでに出来上がっているものと想像します。
椎名林檎の08年の「林檎博」のDVDを見ると、オーケストラと指揮者がいるのに、音楽と演出と打ち込みが完全に同期しているのが見て取れます。どう考えても、指揮者がクロックを聴きながら振っています。

もちろん、生演奏は会場の残響やら、人の入りやら、いろんな要素に影響されるから面白いという側面もありますが、やや次元が低いと思われても、少々派手な演出のために音楽の時間軸を固定してしまうというのは個人的にはアリだし、いつかやってみたいという気持ちも持っています。

2010年12月9日木曜日

隠すより、出しちゃおう

ウィキリークスのニュースが毎日のように報道されています。
私なりに考えるならば、彼らにはあまり非がないように思えます。そもそもジャーナリズムって、場合によっては政治や公の場にいる人たちを告発したりすることだってあるもの。そうやって、権力を監視することで、社会の均衡を保っているという役割だってあるはずです。
そういう情報源は結局は内部告発者。それを大々的に、あまりに鮮やかに、莫大な量で公表したというだけのこと。やり方やその量を問わなければ、これまでのジャーナリストがやっていることと大して変わらないように思えます。

尖閣諸島のビデオ流出については、違法性はありそうですが、後になって、海上保安庁の人たちは誰でも見れたと聞くと、さもありなんという感じです。
そもそも社内でイントラネットを使って書類を共有するのは、業務の効率化のためです。みんなが見れるからこそ、昔に比べ情報伝達が速くなりました。
そんな時代「見られなくする」仕組みを考えることは至難の業です。なぜなら、組織内の人をランクで分け、公開の範囲を制御しなければいけないし、秘密文書がある度に、この文書はどのランクまで公開すべきか、個別に考えなければいけません。それだって、漏れさえしなければ何の意味もない作業です。

ネット時代、隠すことは非常に難しい、という教訓を私たちはまざまざと見せつけられました。
今や隠すことは、個々人の倫理観に頼るしか手がありません。しかし、組織に反逆者は付きもの。いつだってリークをしたい人はどこにでもいるし、彼らがその手段を手に入れてしまった以上、もう原理的には物事は隠せないと言えます。

その一方、公開することが力になる事例が増えています。
ソフトウェアの世界では、オープンソースという考えがかなり広まってきました。今や、多くの有名な技術はオープンソースで開発されています。オープンソースとは、プログラムを世の中に公表してしまおうという開発手法です。
公開してしまったら、重要な技術まで赤裸々になり、世間にばれてしまうかもしれません。今でも多くの人はそう考えます。ところが、事実は逆だったのです。少なくとも他人の技術を盗むために、数百万行のプログラムを読む、なんて効率が悪すぎます。どこに重要な技術が眠っているのかなんてわかるわけありません。そして、そんなもの解析しているうちに時間はどんどん過ぎ去ります。
むしろ、オープンソースのプログラムを喜んで読む人たちは、その製品や技術を愛している人たちです。彼らは自分の好きな製品を、もっと良くしたいと思うのです。そして、不具合があると、その不具合の元を調べて開発元に教えてくれます。あるいは、もっと性能を良くしたプログラムを送ってくれる人もいます。
そういう人たちがネット上で集まり、コミュニティを作ることによって、ますますその製品を愛する人が広まり、製品は品質を高め、そして世界的な広がりを得ていくのです。

また別の話。最近、向谷実氏&中西圭三氏がUSTREAMで、レコーディングの様子を全て公表するという試みを行いました。プロのミュージシャンにとって、レコーディング方法なんて企業秘密もいいところ。しかし、それを惜しげもなくさらすわけです。同業者が見るというより、音楽制作に興味を持つ音楽マニアがプロのレコーディング風景を見たがるという需要は確かにあります。それで興味を持った人はその曲を買いたくなることでしょう。曲の制作の様子が分かれば、曲への愛着も湧くというものです。

商品価値のあるものをタダで公表する、というのは一見、もうけを無視しているように見えます。ところが、その結果これまでの10倍、あるいは100倍の人から注目を得るようになり、結果的に大きな商売が出来るようになるという循環です。
何かを為し得たいのなら、世の中に広く知られる必要があるし、そのために多少の損失を覚悟しても価値のあるものをネットで公表してしまう、という方法は、今後いろいろなジャンルで顕在化するような気がしています。

2010年12月8日水曜日

わりと未来の演奏会

無事、演奏会終わりました。私は、今はもうヴォア・ヴェールでしか音楽活動してないので、3年に一度の今度の演奏会は一大イベントでした。なんとか終えてほっとしているところです。

何度もご紹介しているように、今回は舞台右に大きなスクリーンを置いて、いろいろな情報を投影してみるという演出を試みました。
実は我々のリハーサル時の写真が、こちらのブログに出ています。
スクリーンへの投影ですが、実は、本番までにいろいろ大変なことがありました。
一つは、スクリーンの設営がホールのスタッフの予想に反して簡単ではなかったみたい。最終的には、いろいろな詰め物をして何とか固定していたようです。
もう一つは、プロジェクタの設定を変えようとしたら、プロジェクタの状態がおかしくなってしまい、担当していた方は30分ほどパソコンやプロジェクタと格闘していたようです。結局、プロジェクタを初期化して事なきを得たみたい。こういうデジタルものははまると怖いですね。

幸い、今回スクリーン投影については、多くのお客さんから良かったとの感想を頂いています。絵もかわいかった、と好評でした。
一通り何に使ったか紹介しておきましょう。
・開場の間:挨拶、チラシ、注意、を時間で切り替え
・第一部:世界地図や写真を投影してMCで説明、曲中は曲の説明
・休憩:団員の一言、各パートの写真、を時間で切り替え
・第二部:歌詞、紙芝居(「お伽草子」のみ)
という感じです。

プログラムにたくさんの情報を載せても、演奏中は暗くて読みづらいし、舞台のほうを向けません。今回のように舞台の近いところに情報が見えるというのは、お客様にとっても分かり易い方向になったのではないかと思います。
歌詞の場合も、なぜ音楽がこういう表現なのか、歌詞の意味が分かればだいぶ理解してもらえるはず。舞台を見たまま、歌詞がわかるというメリットはかなり大きいのではと思います。

そんなわけで一度味をしめてしまった映像の投影。次の機会にも是非トライしてみたいですね。
そのときは、さらに音楽との同期を深め、お客さんの曲理解の補助に使いたいです。動画などを使えば、休み時間も楽しんでもらえるでしょうし、いっそのことCMを流して広告料をもらっちゃうとか、考えればいろいろネタがあるのではないでしょうか。
とりあえず、こんなことが出来ることが分かったのは収穫。音楽だけではない部分にもいろいろと工夫して、自分たちの演奏会を面白くしたいと思います。

2010年12月5日日曜日

未来の演奏会

演奏会の生中継、なんてキーワードが出てしまったので、自分の演奏会の前日に、もうちょっと妄想してみましょうか。
すごく単純化するなら、今一部のプロでしか出来ない技術が、今後だんだん一般的になっていくという流れになることは否定できないでしょう。

例えば、映像を投影する件。これはスクリーンにしても、プロジェクタにしても、だんだんとホール内に標準で設備化されていくことでしょう。例えば、合唱コンクールだとプラカードで団体名を表示するわけですが、こんなものは真っ先に電子化されるでしょうし、字幕系は軒並み投影可能になりますね。
今テレビ番組で頻繁に流れるようなテロップだって画像投影で出来るし、さらにお客さんが専用メガネをかければ、ARっぽいこととか、ニコニコ動画のように画面にテキストを流すことも出来るかもしれません。
ホール毎に、投影設備は多少は違うのでしょうが、そういうのが標準化されていけば、機材やツールも手の届く範囲に入っていきます。クラシックに限らず、バンド演奏や、カラオケ大会など、あらゆる発表会において、そういう需要はあると思います。

演奏の録画についても、誰かが自前のカメラを使うのでなく、ホールに作り付けのカメラが使えるようになっていくでしょう。複数のカメラを用いてマルチアングルで映像を(リモコンで)撮れるようになれば、その手のプロを一人頼むだけで結構いい感じの映像を作れるようになるのではないでしょうか。
これは、単なる記念のDVDを作る、という用途だけでなく、ネットを通じたリアルタイム生中継までが視野に入ります。不特定多数に見せるなら、なおのこと映像もそれなりに手の込んだものにしたくなるものです。

映像の次は音響。クラシックは生演奏だから関係ない、なんてことはありません。
司会がいればマイクが必要です。また、楽器が入ってくれば、PAで多少の補正もしたくなります。ステレオに落とすにしても、複数マイクで録ってミキシングすればより良い録音になるでしょう。今はまだ専用のPA屋さんが何人か必要ですが、もっとこの辺りの周辺技術が進歩すれば事前音響調整も不要になるかもしれないし、これもプロを一人頼めば出来るようになるかもしれません。もちろん、ここでもCD作成だけでなく、リアルタイムで音声を直接ネットに発信する用途を想定しています。

そして、このように誰でも今のプロ並みのことが出来るようになると、今度はそれを使って何をやるのか、というセンスが問われるようになります。センスもないのに思い付きのようなアイデアの塊で、こういった道具を使うとかなりみっともない結果になる可能性があります。

未来のとある日、ネット上では、例えば、毎日のようにいろいろな団体の演奏が生で流れています。その中で自分の興味のある事柄を検索し、該当する演奏会を自由に鑑賞できるようになっていくわけです。
団体にとっても、世界中でどれだけの人が見てくれたか、ということが再生数で分かります。再生回数の多い団体は、ランキングなどで目立つことになりますし、そうなればさらに世界中の注目を浴びるようになることでしょう。
ネットだとタダで見れるのでお客が減ってしまう、という危惧はむしろ逆で、ネットで評判になれば次の演奏会にはたくさんのリアルなお客が増えると思います。

このように誰でも世界中の演奏会が見れるようになる、というのは、10年くらいの内には認知度は高まるでしょうが、多くの演奏家が積極的にこの仕組みを使えるほど一般化するには、さらにもう20〜30年くらいかかるかもしれません。
しかし、着実に世の中はプロもアマも関係なく、同じような土俵に立つ流れになっています。そして、ますます純粋に音楽の質だけで、善し悪しが語られる、嬉しいような厳しいような世の中になっていくと私には思えます。