2010年11月29日月曜日

演奏会にプロジェクターを使う

一週間後に迫った我がヴォア・ヴェールの演奏会にて、今回初めてプロジェクターを使用します。
以前、こんな話題を書いたとき、結構コメントが盛り上がったりして、いつかやりたいとは思っていたのです。
今回、千原英喜の「お伽草子」をやるのですが、練習の最初の段階で「紙芝居にしたら面白いよね」みたいな話をしたら、じゃあやってみようか・・・みたいなノリで一気に決定。
演奏会場は決して新しいところではないのですが、ホールに相談してみたらスクリーンもプロジェクターも借りれるということで、思っていたより機材に苦労せずに出来ることが分かりました。

しかし、プロジェクタ投影ってあまりにも可能性があり過ぎて、逆にプレゼ側のセンスが非常に問われると思うのです。何を投影するか、ということだけでなく、どれだけ切り替わるかとか、字の大きさとか、配色とか、そういうことが見た印象を大きく左右します。
仕事の場でも、びっちり文章が書いてあって、読む気が失せるようなパワポ資料を良く見ます。グラフなんかも小さな字で余計なことがたくさん書いてあって、どこを見たらいいか一瞬では分からなかったりすると、やはり作り手のセンスを疑います。
今回は「紙芝居」が一つの目的だったので、絵もあんまりダサいものにするわけにはいきません。近場で書けそうな人が思い付かなかったので、実は今回こんなサイトで絵を描く人を募集したのです。
お金は多少使いますが、ある程度こちら側で人を選べますし、知らない人だから多少はビジネスライクに事を運べます。おかげさまで、なかなかいい絵を描いて頂くことができました。絵は当日のお楽しみ。

「お伽草子」以外は基本的に、歌詞か、訳詞か、曲の説明です。いずれも、なるべく文章が長くならないよう気をつけました。画面一枚、というと、本当にTwitterと同じ140文字くらいがちょうど良いのです。それじゃあ十分な説明が書けない、と思う人もいるでしょうが、読む側からすれば、短くてなおかつ的確な文章であればそれで十分。
また、休憩時には団員の一言(これも140文字以内)や、各パートの写真などを投影する予定です。

今回は、歌詞も曲説明もプロジェクターで行うので、その代わり大幅に印刷するプログラムの内容を減らしました。お客さんに配るプログラムは、本当に演奏する曲名程度の情報しかありません。
いちおうオペレータとは投影について何回か打ち合わせしましたが、実際にやってみると思いもしなかった問題点などがあるかもしれません。お客さんからいろいろ意見を頂ければ、また次回気を付けることも出来ますから、そうやって回数を重ねてノウハウを貯めていきたいと思っています。

まだまだ演奏会ではこういう仕掛けは主流ではありませんが、お客さんが楽しんでもらうことが第一ですから、個人的にはどんどん新しいことをやってみたいです。
この次はネットで演奏会の様子を生中継・・・なんてことも、必ずしも夢ではなくなってきました。こういう仕掛けをセンス良く、上手に使えるような団になりたいですね。

2010年11月25日木曜日

楽譜を読むー一寸法師(お伽草子)

千原英喜のお伽草子より、ヴォア・ヴェールの演奏会では2曲演奏します。
2曲目は「一寸法師」。意外とストーリーを覚えていない昔話。鬼退治に行く昔話は、金太郎とか桃太郎とかぐちゃぐちゃになっていて、どれがどれだか分からないもんですね。
で、一寸法師も鬼退治なのです。
しかし、オリジナルの一寸法師は上昇志向の強い、ややあくどいとも思えるキャラクター。なのに、最後に背は高くなるわ、金銀財宝を手に入れるわ、美しい姫と結婚するわで、おおよそ道徳的とは言い難いストーリーに思えてしまいます。

さて、この曲でまず目にとまるのは冒頭、一寸法師のテーマのアーティキュレーション記号の多さ。スタカート、アクセント、メゾスタカート、がたくさんついています。それほど、このフレーズにこだわりがあるのかは、ちょっと疑問。私は、たくさん付けること自体が目的のようにも思えます。つまり、テーマとしてフレーズに特徴を持たせようといった意志です。
この曲も紙芝居的にいろいろなフレーズが現れてきますが、そのような音楽に構造性を持たせるには繰り返しを強く意識させる必要があります。そのため、特定のフレーズを際立たせるため、わざと過剰な表情を付けさせるというのは、理にかなっているわけです。

もう一つ、細かいこだわり。練習番号7の微妙な音価の設定は何でしょう。普通考えれば「タッカ」のリズムなので、「付点八分+十六分」で書けばいいのに、わざわざ「八分+十六分休符+十六分」で書いています。行進曲風にとあるように、よほど柔らかく歌われるのが嫌だったのでしょう。間に十六分休符を入れることによって、心理的に音が硬くなるように歌うはず。ですから、何も考えずにここを「タッカタッカ」で歌ってしまわないように気をつけるべきです。

和声的には相変わらずのドライなほどのシンプルさ。だから、凝った音使いにはことさらに注意が向きます。例えば、26ページ頭の辺りの「くらわんとー」。変な音程は実は単なる半音進行。こういうところは変にしたいだけなのだから、それほど音程にこだわる必要もありません。
しかし、練習番号18の「どう、どう」は珍しく非常に多声に分かれ、旋法的な音の塊を作ります。このハモりはきれいだし、音程を外したくないところ。しかし、div.が多くて練習ではなかなかハモらず、苦労しています。

その後、大事なところはユニゾン、という千原節がここでも豊かに展開されます。
あぁ、この大胆さはとてもかないません。アカペラでこんなにユニゾンをうまく使える作曲家は、もう千原氏しか考えられません。同じようにやったら真似にしかならないし・・・
こういうユニゾンは、いわゆる教会音楽をやるような繊細さは必要ないかもしれません。聴き手を圧倒するような語り口こそ、求められます。

あと、ちょっと戻りますが、練習番号13からのアップテンポのフレーズも千原氏独特で気持ちいい。「おらしょ」にも出てきますが、男声と女声が掛け合いになり、男声内、女声内で反行形を作ります。適宜、男声のみ、女声のみ、同時に全員などを織り交ぜて変化を付けていき、クライマックスに向けてテンポと音域を高めていきます。シンプルな音使いだからこそ仕掛けが明瞭になり、効果が高くなります。

何度も言っていますが、千原英喜氏は現在の邦人作曲家で今私が最も尊敬する人です。大胆さと芸の細かさ、曲全体の構想と、シンプルかつ効果的な表現が、実に巧妙に織り上げられているのです。
12/5の演奏会では、どこまでうまく表現できるか分かりませんが、精一杯歌わさせて頂きます。

2010年11月21日日曜日

未来型サバイバル音楽論/津田大介+牧村憲一

Twitter伝道者である津田大介と80年代、90年代の音楽界仕掛け人?である牧村憲一の対談による日本の音楽業界論。
ここで述べられていることは、こういうことに興味ある人ならたいていは知っている内容なのですが、それがとてもシンプルに整理されていて、ここ十年くらいの音楽を取り巻く状況が俯瞰できるのが本書の嬉しいところ。また、実際に新しい取り組みをしているレーベルやアーティストの実例がたくさん挙げられているのも、大変興味深く読めます。

もちろん本書の中身は純粋な音楽論ではありません。音楽ビジネス論です。
しかし、芸術の有り様というのは「お金」の話抜きに語れないと、最近私は思っているし、だからこそ、音楽家、芸術家がもっとビジネス的な視点で自らの芸術家活動を行うべきなのです。
そして、本書もこれからのミュージシャンにそういう事業家としての視点が必要であることを説いています。

牧村氏からは「一人1レーベル」とか「村作りの発想」というアイデアが出されます。ネットで広く発信できる現在だからこそ、逆説的なのですが、閉鎖的なコミュニティを指向した方がむしろこれからは有利なのでは、とのこと。
これは大変、示唆に富んだ話です。グローバル化して市場がとてつもなく広くなったからこそ、方向性や嗜好が狭くなってもビジネスが成り立つということ。逆に広く売れようと思うと無個性的になり、芸術そのものの力が無くなってしまう、というような状況を言っているのだと思います。

この本を読んで思ったのは、今は大変な変革時期だというのは確かなのだけど、そもそも音楽業界自体が十年単位くらいでその有り様を変えていたのだと言うこと。
特に70年代、80年代までは、音楽の再生装置(オーディオ機器)がまだ高価な時代で、レコードを買って音楽を鑑賞すること自体が贅沢な趣味だったのは、思わず忘れかけていた事実。そんな時代と90年代以降の市場性は違って当然でしょう。
思い起こせば、私が高校生の頃、親に「ステレオ買って〜」とねだって20万もするようなセットを買ってもらったっけ。でも、レコードなんて全然買わずにレンタルばかりでした・・・
そして、90年代はCDがとてつもなく売れた時代。そして自分自身もCDを買いまくっていた時代です。そう考えると、音楽ビジネスってそもそも全然安定して無くて、10年単位くらいで常識が変わってるんですね。だからCDが売れなくなった、なんてほんとは大した話ではないのかも、という気がしてきました。

まあ、いずれにしても、音楽を作ったり流通したりする手間が極限まで下がったおかげで、アーティストが自分の力だけで世界に発信することが可能になっています。こういった時代に、新たに生まれるべき音楽ビジネス、あるいはビジネススキルとは何なのか、そういうことがしばらく暗中模索されるような時代になったと言えそうです。
そんな時代にちょっとばかり自分もプレーヤとして参加してみたくなってしまいました。

2010年11月17日水曜日

PD合唱曲に「練習曲」シリーズ開始

Twitterですでに紹介してますが、PD合唱曲内に「練習曲」というコーナーを設けました。
今のところ「超絶練習曲」と題した楽譜を三つほどアップしています。これも、少しずつ書き足していって、シリーズ化したいと考えています。
こちらから辿ってください。

なかなか大きな作品を作る余裕も、要求も無いので、今私が出来ることは、小さなものを小出しにすることかな、と考え始めています。PD合唱曲という形で、小品も書き足しているのだけど、それとは全然別の形で、作品として歌うのでなく、レッスンとか、気分転換とか、ソルフェージュの練習とか、そういう形で使えるのもいいかなと思い付きました。

ややおふざけ感も漂わせつつ、合唱の多面的な表現を開発するようなそんな一連の曲を作ってみたいと思ってます。手拍子とか、ステップ付きとか、かけ声とか・・・あんまり真面目に練習曲であることを極めるつもりも無く、いろいろ面白い楽譜を作りたいと思ってます。

皆さんのこんなのが欲しい、こんなのどう?とかいったアイデアがあれば、Twitterで @hasebems 宛までお寄せください。やりとりの中で何らかの形に発展するかもしれませんし、面白そうなアイデアなら即採用するかも。そんなコラボっぽいこともしてみたいです。

2010年11月14日日曜日

楽譜を読むー阿波踊り(三善晃「五つの日本民謡」)

私の指揮ではないですが、ここ2年ほどウチの団で練習しており、今度の演奏会でもちろん演奏いたします。
歌う立場から見れば、特に練習を始めた頃は、あまりの音の難しさに衝撃を感じたものです。練習を重ねるほどに音程が正確に・・・と言いたいところですが、まあいろんな意味で歌い慣れました。

それにしても、この曲の音程のハチャメチャぶりは何と言ったらよいのでしょう。
この曲の面白さ、スゴさを理解するには、このスケール外のとんでもない音程の数々の意味を考える必要があります。まあ、私なりの結論としては、いわゆる祭りの喧噪、躍動感のようなものをワイルドに表現するためのものと捉えています。そういう考え方をするのなら、これらの複雑な音程を完全に正確に歌わなくてもワイルドさが感じられれば良い、という曲作りの方針になるでしょう。

しかし、仮に私が、作曲前に全く同じアイデアを思いついたとしても、このような形で完成させることは不可能だったでしょう。まさにこれこそ、三善晃という天才のなせる技ではないかと思うわけです。
例えば、冒頭のページのアルトパート。長い音価の音はスケール外の音が多いのだけど、必ずスケール感を漂わせる音を点在させているのが分かります。また、あくまでメロディは半音階的で、祭りでのかけ声を旋律的にもじっており、とてつもなく前衛っぽいというわけではありません(例えば、十二音技法のモチーフとは全然違う)。
アルトと同じリズムで補助をするテナーパートは、アルトの非スケール音を決して仲間はずれにしないように、完全五度の音で補強していたりします。
つまり、とびきり現代的な非和声音を使っているように見えて、ヘンテコな旋律をハモりの力学で何とか繋ぎ止めているのです。

実はベースを歌っていると、その感覚はさらに強まります。このような非スケール音が乱舞する音楽の中にあって、ベースだけはとてもベース的な役割を捨てていません。強拍では、ほとんどスケール外の音が現れないし、トニック感、ドミナント感を一手に担うような音程が連続して現れます。

こんなにヘンテコな音を多用しているにも関わらず、誰が聞いても曲の雰囲気を理解出来るのは、こういった最低限の和声的な骨格を確保しているからなのです。
なお、非スケール音は和音の音とぶつかってしまうので、この曲ではほとんど和音がなりません。民謡の旋律とベースとヘンテコな音のお囃子、これだけ。各パートが同じEであっても、全く気にせず。
こういった大胆な作曲は出来るようでなかなか出来ません。それ故に、この曲は数多の合唱曲の中でも圧倒的に個性的であり、人々の興味を引きつけて止まないのだと思うのです。

2010年11月10日水曜日

PD合唱曲に混声合唱曲「わが背子は待てど来まさず」追加

��年半ほど前に途中まで作曲していて放置されていた断片を発見。
実際音を出して聞いてみると、結構悪くない感じ。なぜ途中でやめてしまったのか、今となっては全く思い浮かびません。そんなわけで、残りの部分を作曲し(というか前半部分を繰り返し、最後の5小節だけ新規に作曲)、表情の追加と歌詞割りを行って、完成させてみました。

テキストは万葉集から。詩人名は書いてないですが、恋人を待っているが現れない悲しさが歌われています。同じ頃作った「この月は君来まさむと」と、一緒にテキスト選びを行いました。

やや種を明かすと、断片の状態には全く歌詞割りが書かれておらず、音符と音節数が全く合わなくて、びっくり。恐らく当時の私のスタンスは、詩の抑揚よりも音楽のモチーフを強調した曲にしたかったのでしょう。
従って、後で歌詞を入れる際には、随分メリスマっぽく音節を引き延ばしてみました。なるべく自然になるように考えてみたところ、2年前の自分もきっと同じように考えていたのでは、というスイートスポットに収まった感じがしています。不思議なものです。

「オリジナル作品紹介」→「PD合唱曲シリーズ」→「混声合唱」のページの一番上にあります。楽譜はコレ。いつものようにMIDIファイルも置いてありますから、電子音で音を確認できます。楽譜を見ながら聴いてみて下さい。
またPublic Domain扱いですから、自由に楽譜をコピーして歌って頂いて構いません。

2010年11月8日月曜日

楽譜を読むーPater Noster(J・スヴィデル)

12月の演奏会の曲紹介シリーズということで、スヴィデルの「Pater Noster」の紹介をしましょう。
スヴィデルは1930年生まれのポーランドの作曲家。80歳ですから、もうかなりの高齢ですね。この人の曲からも私好みの論理的構築性、メカニカルな音の運びが感じられて、何作か曲を聴く度にどんどん好きになっていきました。

今回のステージで取り上げる作品「Pater Noster」は、ポリフォニックな要素が多い作品。
一般的にポリフォニックな音楽は古典和声的な世界の上に成り立つものですが、スヴィデルは現代的な響きと、ポリフォニックな構成をうまくブレンドさせています。こういう手腕は、情緒的というよりは極めて理知的な作業。
特に冒頭3ページは和声というより、旋法的な感覚で作られていて、その中で縦の響きに破綻をきたさないように作るのは、パズルを解くような楽しさだったかもしれません。16分音符の同音による小刻みのビートと四分音符ベースのフレーズの対比がとても面白く、演奏の際には二つのモチーフの性格をきちっと歌い分けたいものです。

その後、曲はffになって音量的な頂点を迎えます。この力強くかつ繊細な和声の流れもとても素晴らしい。でも、そんなにディヴィジも多くなくて、テンション音を多用しているわけでもありません。こういう和声展開って邦人曲ではなかなかお目にかかれない美しさだと感じます。
その後の andante のポリフォニーがまたメカニカル。きちんと和声のアナリーゼをすれば何らかの流れは見えてくるかもしれません。ちょっと面倒でそこまではしてませんが、響き的には減七和音の連続をベースに作られている感じはします。この緊迫感を持続させる音楽の展開は、この作曲家の真骨頂と言えるかもしれません。

それまでの厳しい雰囲気から、C-durの優しい響きに変わるところ(11ページ)、恐らく Pater Noster のグレゴリオ聖歌ではないかと思われる部分も美しい。ベース下とソプラノ下の対旋律の掛け合いが天国のような幻想を感じさせます。

全体として厳しい雰囲気の音が多く、どこまで緊迫感を湛えながら演奏できるか、というのが演奏の成否の鍵を握るのではないかと思います。細かい音程のズレが、曲の仕掛けを崩してしまいかねないので、曖昧な和音にならないよう、ピッチにも十分気をつける必要があるでしょう。

2010年11月2日火曜日

楽譜を読むー浦島太郎(お伽草子)

12月のヴォア・ヴェールの演奏会で私が指揮して演奏する予定の「浦島太郎」(千原英喜作曲「お伽草子」より)の楽譜を読んでみましょう。

ページ数はそれほど多くないように見えますが、1曲演奏すると6分を超える結構ヘビーな曲。
この曲は明らかに、浦島太郎のストーリーを追うようにテキストが構成されています。従って、この作品の演奏においては「ストーリーを伝えること」が大きな目的の一つとなるわけです。

そのストーリーを追う鍵は、作曲家が細かく入れたテヌートにありそうです。テヌートをかけたストーリを導きそうな言葉を挙げてみると「むかし」「かめに」「これは」「かたみ」「はこ」「じんせき」「とらふす」などなど。いずれも、ストーリ上の重要な言葉です。その他のテヌートは、フレーズの入りの明瞭さやシンプルなタメを意図しているようです。
このようにアーティキュレーションをざっと見ていても、その場の気持ちだけで付けるというよりは、何らかの法則性を想起させるような知的な印象を感じます。

練習番号2からのアップテンポのフレーズの作り方は、千原節全開という感じ。和声より、鋭角的なメロディと2声程度のポリフォニーでぐんぐん音楽を進めていきます。ズレの成分が少ないので、かえって追いかけっこ効果が良く出るはず。音の美しさより、バタ臭さを出すべき箇所。ここ一番の音域の設定も合唱を知り尽くした感があります。

作曲者のシャレに思えるのが、練習番号8からのメロディ。その後何回か現れ、この曲の中心的な役割を担うのですが、これがなぜか沖縄調(ドミファソシドの音階)。千原氏は竜宮沖縄説を唱えているのでしょうか。日本人からすれば晴れやかな南洋の海をイメージするこの旋律は、やはり沖縄チックな雰囲気を出すべきなのでしょう。

最後の2頁、美しく感動的です。ヴォカリーズに現代的な泣きのコード展開があって、一見古い題材なのにこういった響きが共存しているところが千原英喜の魅力。最後の沖縄旋律の2回くり返しは、楽譜の指示だけ見れば、かなりのアゴーギグを強要しています。旋律がきれいに流れてしまうので、ついついさらさらと演奏しがちですが、ここはしっかりと指示通りのタメを作るべきだと思います。

しかし、歌っている方が頑張っているほど、残念ながら曲のストーリーは伝わっていません。この前、合唱祭で聞いている人にも「ストーリーはわからなかった」と言われました。まだまだ精進の必要があるようです。
どうやったら言葉が伝わり、結果的にストーリーが伝わるのか、その技倆を試される曲だと思います。誰でも知っている昔話ですから、合唱団の表現力を高めるのに、とてもいい教材になるような気がするのです。