2009年12月31日木曜日

AVATAR(アバター)

毎年年末には「今年見た映画」を一覧にした記事を書いていましたが、今年は6月に子供が生まれてから、予想通り映画鑑賞が激減。
なので一覧は止めて、年末に何とか時間をとって見てきた映画の感想を、今年の最後の記事にしましょう。

ジェームスキャメロン監督の、タイタニックから12年ぶりの新作。しかもフルCG、3Dと技術の粋を集めた衝撃の映像などと言われると見に行かないわけには参りません。
舞台は22世紀。地球に似た?衛星パンドラに住む原住民ナヴィと、その星で資源を採掘しようとする人間との衝突と戦いを描くSF作品。ナヴィは青い身体で、人間より一回り大きいのですが、その描写は未開民族そのもの。そして、人間対ナヴィの構図は、大航海時代のヨーロッパ人とアメリカ原住民、あるいはアボリジニの歴史を彷彿とさせます。当然ここでは、人間側が好戦的で傲慢に描かれ、自然とともに生きるナヴィに観客の共感を与えるストーリー展開になっています。
率直に言えば、ストーリーそのものは既視感のある、それほど斬新なものではありません。宮崎アニメにも似たテーマです。また自分が他の肉体で力を得、その力に磨きをかけ、そして選ばれし者になるというパターンはマトリックスにも似ています。

しかし本作品の白眉は、空想の理想郷、衛星パンドラのCGによる描写にあります。
もちろん、そこに現れる動物や植物もまた、全て創作されたもの。しかし、それはアニメではなく、まさに実写の世界として表現されています。今更CGの技術云々を言うつもりはないけれど、全くの空想の世界を、実写のような映画で表現できるようになった、という事実は、今後の映像芸術に大きなインパクトを与えると思います。

もう一つ、映画をビジネスとして観た場合、3Dによる上映も大きな意味があったのではないでしょうか。
これまで3Dというと、USJやディズニーとかのテーマパークとか、科学博のようなイベントで観るイメージがありました。2時間を超える商業映画、しかも一般の映画館で3Dを観る、というのは私にとって初めての体験。
実際、偏光メガネをかける煩わしさ、またどうしても視界は暗くなるということに何となく抵抗はあるものの、まさにこれは映画館だからこそ出来る体験です。しかも、予告編を見ると、どうもこれから大量の3D映画がリリースされるようですね。
これまで映画を観ない人が、DVDを借りればいい、とか、そのうちテレビで放映されるから、とか言っていても、3Dとなるとそことは明らかに娯楽の次元が違うわけで、3Dはそういう人たちを劇場に向かわせるだけの魅力となります。そこには、テレビとの差別化戦略というのが垣間見えますし、アメリカ映画が他国の映画を凌駕しようと競争心も見えてきます。

とはいえ、SFアクション系ならともかく、何から何まで3Dということもないでしょう。それはそれでうるさい感じです。これから娯楽としての映画がどう変わっていくのか、そういうことも考えさせる映画であるのは確かです。

2009年12月30日水曜日

辞世九首を全曲アップ完了

全曲アップしてしまいました。
こちらからも直接各曲にアクセスできるようにリンクをはっておきます。

1.阿倍仲麻呂

2.菅原道真

3.静御前

4.一休宗純

5.豊臣秀吉

6.細川ガラシャ

7.八百屋お七

8.大石主税

9.十返舎一九

ちなみにこれらのテキストには、詠んだタイミングとして辞世とは呼べないもの、本人の作品か疑わしいものもあります。ただ、各人の人生を象徴した歌であるのは確かです。
歴史ブームを背景に、それぞれの生き様に想いを馳せながら歌ってもらえると嬉しいです。

2009年12月29日火曜日

iPhoneのヘッドフォンを変えてみる

iPhoneのヘッドフォン、ずっと純正のものを使っていたんですが、実は左側の音がかなり小さくなっていて、そろそろ音楽を聞くにも我慢の限界だなあと思っていたんです。
そもそも、純正品だと低音も弱く、どうせならちょっと高めでもいいか、というつもりで新しいヘッドフォンを買いました。条件としては、iPhoneのリモコンやマイク機能が付いていること。

本当はいろいろ音を聴いてからと思ったんですが、元々あまりオーディオに対するこだわりはないし、値段がちょっと高ければ悪いことは無かろうという気持ちでやや安易に選んだのは、v-moda vibe duoというやつ。色はフラッシュクロム(要するに銀色)。デザインもiPhoneと割と合ってます。(むしろ純正品のほうが合ってない)

音にこだわりは無いんですが・・・最初に聴いてみて正直、かなりモコモコした感じがしました。今までが相当スカスカしてたんでしょう。まだちょっと違和感はありますが、きっとそのうち慣れます(と信じる)。
ちなみに、私のiPhoneには、J-pop、洋物Rock、ジャズ、アカペラ、合唱、ニューエイジ、クラシック(ピアノが多い)とまあ、多種多様なジャンルが突っ込まれており、ジャンルによってヘッドフォンの印象が微妙に違うのも面白いです。

これは、いわゆるカナル型というやつで、かなり周りの音が聞こえなくなります。
これってちょっと危険ですね。ヘッドフォンしながら歩いていたら、車が近づいてきても気がつかないかもしれません。
ということで交通事故に遭わないように気をつけようと思います。

2009年12月28日月曜日

IT社会の行く末─国が崩壊する

だんだん妄想の度合いが加速していきます。

最近思うのは、もう国という統治形態そのものが非効率なんじゃないか、ということ。
だって、これだけ多くの人を等しく幸せにするなんてどだい無理な話。いろんな意見を言い合っているうちに事態は益々悪化していきます。

それなら気の合う仲間で集まりゃいいじゃん、と私は思うわけです。
ネットではSNSなど仮想的な場所で趣味の合う人たちが日夜、コミュニケーションを交わしています。趣味や嗜好が似ている人が集まれば、話題はますますコアになっていき、世界はさらに深まります。
それが高じれば、いつか仮想的にでなく物理的に集まろうということになります。その昔、Niftyでのオフなんてのにも参加しましたっけ。
そして最終的な形は、同じ志を持った人たちが一緒に暮らす、ということになりはしないでしょうか。

一方、国の政策の遅さ、融通の利かなさに呆れ果て、地方の首長が特徴ある街作りを始めます。
ある都市は工業都市、ある山村は農業で、そしてある街は学問で、あるいは芸術で、商業で、と特徴のある街作りを始めれば、同じ趣味、スキルを持った人が集まってくるでしょう。
それは、自治体が人工の流動によって競争するような社会です。中には会社が倒産するがごとく(人口が減って)破産する自治体もたくさん出るかもしれません。
今はまだ自らの生まれ育った土地に対する愛着が強いですが、それよりも政治信条、趣味、スキルによって、自分を生かせる場所に移り住むということに抵抗がなくなれば、こういう世の中になるかもしれません。

国の縛りがますます弱くなり、法律や政治や暮らしの常識が都市レベルで違っている未来。
人々は自分の好みの都市に自由に移り住みます。そのうち、ほとんど国の意味が無くなって、人々の帰属意識は都市にあるようにならないでしょうか。
なんか、それって中世・近代ヨーロッパみたいな感じかも。

2009年12月26日土曜日

IT社会の行く末─メーカーが崩壊する

合唱の話題を期待されている中、不評かと思いつつも、構わずこのシリーズ続けてみます。

今の不況、メーカーはどこも厳しいですよね。確実に安いものしか売れなくなってます。
高いものは開発費がかかるのに、売れないので、その開発費を回収できません。従って、益々高額商品の開発に腰が引けていきます。
こんなことを考えているうちに、もし、メーカーが個別の部品を外販するようになれば、ガレージメーカーのようなところも商品開発出来るのではないか、そして高額商品はそういった開発のほうが向いているのではないかというアイデアに思い至ったのです。

例えば、車で考えてみましょうか。
エンジンや、サスペンションや、あるいは座席や、そういったものが部品単位で買えるようになったとします。
社員10人程度のガレージメーカーが、自ら設計し、車体を作って、そういう部品を買い集めて、例えば500万円くらいの車を作ったとします。もちろん、大量生産は無理ですが、逆に世界に数十台しかないことが希少価値となり、それなりに売れるかもしれません。
元々、大企業が商品企画を考えるより、そういったガレージメーカーのほうが好き者がやっているので、マニアックで個性的なものが出来る可能性が高いです。しかも希少性があるなら、意外と高い値段でも売れるかもしれません。

ちなみに私の部屋のパソコンラックは、やや値段は高めですが、オーダーメードのものを購入しました。サイズもぴったりだし、見た目もいいので気に入っています。ニトリで数千円のものを買うより、気分的にも満足。

もし、こういう高額商品のあり方が一般的になれば、大企業は低価格、量産品を作り、個人企業のような小さなメーカーが高額で希少性、独自性のある商品を作る、というような社会になるかもしれません。
IT化は部品の標準化を促しますから、そういった流れはだんだん加速すると思います。電子制御系も Googleのアンドロイドが、携帯だけでなくて組み込み機器を席捲する可能性を持っています。
テレビも冷蔵庫もラジカセも、そして電子楽器も、中身はGoogle携帯・・・なんてことになれば、もう大企業で無くても開発が容易に出来ちゃうかも。

でも、個人的には結構そんな世の中になったら面白いと思ってます。その過程で低価格競争で負けてツブれる大企業も出てくるでしょう。
それでもこだわりのある持ち物というのは、希少性があって欲しいし、個性的であって欲しいです。逆にこだわりがないものは安い既製品で十分。一般の人がそれを望んでいるのではないでしょうか。

2009年12月23日水曜日

辞世九首をYouTubeにアップ

11/7に伊豆の国民文化祭で初演しました拙作「辞世九首」ですが、現在出版の準備中です。
出版に先立って、出版元であるケリーミュージックの協力の下、この楽譜と初演の演奏を動画にしてYouTubeにアップいたしました。
まずは、9曲中3曲アップしていますが、残りの曲も順次アップする予定です。
演奏は必ずしも上手とは言えないかもしれませんが、曲の雰囲気はつかんでもらえるかと思います。会場も意外と残響は少なかったようですね。

この動画で曲に興味を持って頂けるようでしたら、楽譜の購入を是非ご検討ください。
下にも動画を貼っておきます。



2009年12月20日日曜日

IT社会の行く末─ハッカー倫理

先日紹介した「フリー」の中に書かれてあった面白かった話題をもう一つ紹介します。
70年代、80年代のサブカルチャー的なコンピュータオタクが考え出した「ハッカー倫理」と呼ばれるものです。ハッカーとは能力の高いコンピュータプログラマの俗称。
以下の七条からなります。

1.コンピュータへのアクセス及びその使い方を教えるあらゆるものは、無制限かつ全面的で無ければならない。
2.常に実践的な命令に従うこと。
3.すべての情報はフリーになるべきだ。
4.権威を信じるなー非中央集権を進めよう。
5.ハッカーはその身分や年齢、人権、地位などインチキな基準でなく、そのハッキング能力によって評価されるべきだ。
6.コンピュータで芸術や美をつくり出すことは可能だ。
7.コンピュータはわれわれの生活を良いほうに変えられる。


もちろん、本の中では特に3番のフリーの条文に反応するわけですが、他の条文も私にはとても魅力的です。
1条の無制限、かつ全面的とは、例えばLinuxのようなオープンソースの世界では当然ですが、WindowsにしろMacにしろ、全ての技術が公開されているわけではありません。公開してしまったら優位性が失われてしまうし、公開する場合も知的財産として保護しようとします。この条文はそういうことを完全に否定しています。
2条は、理論的興味を探求するより、現実を良くする仕事をしようということでしょうか。
4、5条はアンチ権威。アンチ押し付け。政治の否定とも言えます。
6、7条は本当にコンピュータが好きでなければ、なかなか言いづらい言葉。しかし、世の中の多くの場所にコンピュータが使われるようになるのであれば、そういった理念を持ってコンピュータ技術を発展させなければ、決して人間に優しい世界にならないでしょう。

私はハッカーと呼ばれるにはまだまだ微妙なレベルの技術屋ではありますが、上記の条文の精神性には深く納得させられます。
こういった哲学こそが、未来の思想の重要な潮流の一つになるのではないかと思えたりするのです。

2009年12月16日水曜日

フリー/クリス・アンダーソン

FreeIT社会の行く末と題して、いろいろなことを書いてきました。
特に、ネットの世界ではタダであることが普通になっていくという話も書きましたが、この点についてとても詳しく解説された本を入手。これは面白いです。もし、あなたがIT的なビジネスで一旗あげたいと思っているなら必読です。どこまでを無料にして、何を有料にするのか、そういった戦略が非常にこれから大事になることが良く分かります。

またビジネスに興味が無くても、ネットの世界で文章、音楽、イラスト、動画などで自分を表現しようと思っている人にも深い示唆に富んだ内容だと思います。ネット社会においては、人々に認められ評判になることに幸せを感じ、それが自己表現のモチベーションになります。そして、そのような社会になるにつれ、人間はより創造的になる必要があるのです。

とはいえ、基本的にこの本はビジネス書です。経済論とも言えます。
タダが回りまわってお金をどう生むのか、その理屈を解説します。フリーには次の4種類があると言います。
<その1>直接的内部相互補助
「DVDを一枚買えば、二枚目はタダ!」みたいなヤツです。タダのもので釣って、他のものできちんとお金を払わせようというやり方。
<その2>三者間市場
一番分かりやすいのはテレビ。テレビを私たちはタダで見れます。放送局はCMの収入で番組を作ります。CMのスポンサーは広告効果で儲かります。結局私たちはCMを見たことが、何かの商品を買う動機になったりします。
<その3>フリーミアム
無料会員と、さらに特典が多い有料会員で分けるやり方。この本では、95パーセントが無料会員でも、ITの世界ではやっていけると謳います。
<その4>非貨幣市場
まさに、評判や関心であり、それによって満たされる個人の喜びが報酬。つまり、全くお金は回りません。ただし、そこで評判になった人は、おかげで出版が出来たり講演の依頼が来たりして、別から報酬があるかもしれません。

そんなこんなで、タダということをとことん考察しています。
まさに、今このとき、常識はどんどん変わりつつあります。お金にまつわる常識もすごい早さで変わりつつあることを、この本を読んで実感できます。

2009年12月13日日曜日

「銀河鉄道の夜」は理不尽なのか?

新聞の記事で「銀河鉄道の夜」を読む、といったコーナーがあり、読者の投書として「死を美化している」とか「結末が理不尽だ」という意見が掲載されていました。確かに夢の中で幻想の銀河旅行を旅した後に訪れる友人カムパネルラの死、それもイジメっ子のザネリを助けようとして結果、と聞くと奈落の底に突き落とされたようなショックを受けるのは確かです。
無論そのような結末にこそ、この物語が伝えたかったことや、賢治の神髄が現れていると私は思うし、それ故にこの作品が名作である理由なのでしょう。

そもそもこの世は理不尽なことだらけです。
腹黒い人間が世を跋扈し、才能の無い人間がはやし立てられ得意気になっている。そう思う人も多いでしょう。まあ、私もそう思います。
確かに一般論として皆が納得してくれたとしても、個別の事例に対峙すると人の意見は分かれます。何を持って特定の人を腹黒いと思うか、何を持って誰々に才能が無いと判断するか、その同意を皆から得るのは基本的に不可能なのです。

「銀河鉄道の夜」は終始主人公であるジョバンニの視点で語られます。
物語を読み進めるにつれ、読者はジョバンニに共感し、カムパネルラを心強い友と感じ、ザネリに憎しみを感じます。しかし、それはジョバンニ視点で見た物語の世界です。そもそも、この世はそれを見る主体によって全く違った解釈をされるものです。例えば、ザネリを悪いやつと思わない視点だって十分あり得ます。
仮にカムパネルラにとっても、ザネリが憎むべき存在だとしたら、彼は川に溺れたザネリを助けるべきではなかったのでしょうか? 人を助ける、助けないという判断が、自分が好きな人間か、そうでないかによって左右され得るものでしょうか。

私たちは、良い人と悪い人を、自分の好きな人と嫌いな人の判断と混同しがちです。
世の多くの宗教はそういう狭量をこそ、克服すべしと言ってきたのだと思います。「汝の敵を愛せよ」という言葉は象徴的です。賢治が法華経に傾倒していたことも、こういった価値観と無縁ではないでしょう。
だからこそ、そのアウフヘーベン(止揚)として、分け隔てなく人を愛し、奉仕をすることに賢治は美徳を感じました。そして、この作品はそのような思想の結実として現れたものだと私は思うのです。
宮沢賢治については、以前こんな話や、こんな話も書きましたね。

2009年12月10日木曜日

IT社会の行く末─ミスが簡単に広まる

IT社会の特徴について、しつこく思うところを書いています。
最近の報道で、政府が発表したGDPの数値に間違いがあった、というニュースがありました。原因は担当者の数値入力ミスだそうです。
これを聞いて、皆さんは担当者を責めますか? もし現場で起きていることが単なる担当者への注意なら、同じ過ちは何度でも繰り返されるでしょう。この対策で必要なことはチェック体制を作るということです。

上記は政府の発表なので、ニュースになりますが、最近は雑誌やちょっとした印刷物でも、誤変換・誤植などのミスが多いように思います。ネット上の文書など何をか言わんやです。
その昔、印刷物の原稿が手書きで書かれ、誰かが活字を拾い、印刷所で物理的にレイアウトされていた頃、時間も手間もかかっていたのと引き替えに、多くの人の目に触れ、おおやけになる前に間違いが直される機会がありました。
ところが、IT化で人を介することが大幅に減っていきました。何のチェック機構も設けないと、最初に作った人の間違いがそのままパブリックに流れるという事態が簡単に起きるようになります。

せっかくIT化でコストが下がったのだから、わざわざチェック機構なんか作りたくないというのが人情。でも、人間だから間違いは誰だって犯します。まだ、そこに多くの人が思い至っていません。

私のようにプログラムを書く人は切実な問題です。
さすがにプログラムにおいては、間違いをチェックしなければならない、という考えは当たり前になりました。しかし、家庭用の電子機器ならまだしも、自動車や飛行機、電車などのインフラも今では多くのプログラムで動いています。そういえばたった一行のプログラムの不具合で東京の地下鉄が数時間完全ストップした、ということもありましたっけ。
プログラムのバグで人が死ぬことだってあり得ます。書いた本人にそんな意志はさらさら無くても、結果の大きさに、不具合を出した当人はいたたまれない気分になることでしょう。

IT化で便利になった分、人の能力が丸裸になると同時に、人のミスも丸裸にされます。
そういうことが「あってはならない」のだと思うのなら、万全のチェック体制を作らなければなりませんが、この不景気のご時世、簡単にチェックのためにコストは割けないでしょう。私は、不景気になればなるほど、こういったミスが増えるような気がしています。

2009年12月8日火曜日

IT社会の行く末─丸裸にされる能力

ツールが充実して、いろいろなことが出来るようになった時、それを使いこなせる人と使いこなせない人が生まれます。
前回書いたように、ツールそのものの使い方が難しいとか、それを使いこなすのに必要な知識が要るとか、そういう側面ももちろんあるでしょう。

しかし、もう少し別の面もあるような気がします。
例えば私がPhotoshopで画像の編集をするとします。頑張って、いろいろな機能の使い方を覚えたとしましょう。しかし、それは必ずしも私がPhotoshopで作った画像が良いものであることを保証しません。残念ながら絵心の無い私には、いいツールがあっても良い絵を作れそうもありません。
結局良い絵を描くには、どうしても個人の資質が必要です。才能のある人が良いツールを使って益々良い作品を作れるようになる一方、そうでない人にはそのツールも宝の持ち腐れです。

音楽で言えば、数十年前にはウン百万もしたようなスタジオの機材と同等の機能が、今ではたった一台のパソコンで実現可能です。
もし、作曲やアレンジが出来て、楽器も演奏できて、エフェクトやミキサーも使いこなせて、マスタリングの知識も持っていれば、CD並みのレベルの音楽を作ることは可能です。
使い手に能力さえあれば、ほんのちょっと投資をするだけでプロ並みの音楽を作ることが出来るのです。そして出来ることが多くなればなるほど、それを作り出す人のセンスや能力が益々クローズアップされます。

経理をやるにも、ちょっとエクセルで数式を書いたりVBを書ければ、そういった事務作業もずいぶん楽になると思います。残念ながら、一般の方がプログラムを書くというのはまだまだ敷居が高いですが、遠くない将来、プログラムを書ける人と書けない人で、事務作業の能率の差が桁が違うくらいになって現れることでしょう。
たかだか、会議のプレゼンテーションの資料を作るにも、絵や視覚効果、全体構成のうまさ、文字や配置などのデザイン等々、うまく作る人とダサいものしか出来ない人の差は今でもはっきりわかってしまいます。

IT化に伴って、ツールが充実すればするほど、個人の資質や能力が丸裸にされる厳しい社会になっていくような気がします。社会で求められる人材も、少しずつ変わっていくかもしれません。

2009年12月5日土曜日

IT社会の行く末─本当に便利になった?

パソコン、ネットの普及で、数十年前には考えられなかったことが誰でも出来るようになりました。
ところがこういった言い方は現実を良いように解釈した場合のこと。実際の現場で起きていることを考えると、便利になったと簡単に言うのは憚れるような気がしています。

例えば、マイクロソフトのワード。ワープロとしての機能盛りだくさんで、ちょっとした印刷物の版下に十分耐えうる品質のものを作り出すことが出来ます。
しかし、ワードについては多くの人が使いづらいと感じていないでしょうか。出来るはずの機能もどこを触ったらよいかなかなか分からないし、標準で余計なお世話な機能が勝手に動いてくれて、それを外すことすらままなりません。
ワードを使いこなせれば、本当に便利です。定型的な設定を全てスタイルに登録すれば、文章を書くことに集中することが出来ます。しかし、それは機能を全て使いこなせた場合のこと。
現実に起きていることはその逆で、思考が邪魔されるような余計な動作が多すぎるのに、それを理解する手間がかかりすぎるのです。

これは使いこなせない私の問題であるのかもしれません。
しかし、ワードの使い勝手が悪いからかもしれません。そもそも、いろいろな使われ方をするのに、それを一律一つのソフトで解決しようとするのがいけないのかもしれません。
パソコン化、IT化には、常に「使い方を覚える」という作業が付きまといます。それもバージョンが変わると、使い勝手が変わったりします。そうやって私たちは年がら年中、使い方を覚える日々を暮らさねばなりません。

家電も同じ。多機能になったおかげで、使いこなすのにとても苦労します。たかだか、時計を買っても、ラジカセを買っても、思うように動かせないのはかなり腹立たしい。
それは決して、私たちだけの問題ではなく、すぐに使うことができないような操作仕様になっているメーカーの責任でもあると思います。(結局自分の身に降りかかる)

2009年12月2日水曜日

ヘヴン/川上未映子

Heaven広告とか見て気になっていて、ついつい本屋で見つけたときに買ってしまいました。
帯に書いてある文句とか、雰囲気から察していた内容と、正直かなり違っていて、とんでもない本を読んでしまった、というのが率直な感想。
同じクラスでイジメられている主人公とコジマという二人が手紙で交流を始め、その仲が発展してゆき・・・というところまで読んでいると、ほんわりした感じで二人の交流が進んで、心が通い合った二人に悲劇的な結末が・・・みたいな感じで話が進むと思われたのです。

しかしその想像は二重にも三重にも裏切られます。
そもそも、コジマはコジマでとても狂信的な思想で満ちていて、それを「僕」にも求めるのです。それがかなわないとき、コジマは「僕」を見限ってしまいます。彼女が目指しているのは、(イジメに耐えることを人生の目的とする)とてつもなく求道的な生き方でした。
それから「僕」はなんと、いじめっ子の一人百瀬と対峙し、自分への仕打ちを糾弾します。しかし、百瀬は実に饒舌に、そしてロジカルにイジメ側の論理を語るのです。「この世に意味なんてない」とか「みんなは決定的に違う世界に生きている」とか、恐ろしくシニカルで厭世的な哲学。
中学生とは思えないような、思想的、哲学的な会話。しかしそれでいて、リアルで凄惨なイジメの現場。直視できない痛ましさ。こういう事柄を平然と並べ、そしてストーリはエンタメ的な大団円を決して迎えません。

しかし、ラスト数行は感動的な言葉で締めくくられます。密度の濃い、畳み掛けるような文体は、読者に対して暴力的な感動を強要するのです。
痛々しくて、怖くて、忘れがたい印象を刻み付ける小説です。そういうのが嫌な人は読まないほうが良いかもしれません。