2009年4月28日火曜日

日本語を伝える-撥音の割り当て

日本語の三大特殊音韻ということで「長音」「促音」と来れば、最後は「撥音」にも触れずにはいられないでしょう。
「撥音」とは「ん」のこと。これも合唱をやっていると、いろいろ気になることがあります。
一つの音符に「ん」が与えられる場合など、鳴りが弱くなってなかなかきれいな旋律になりません。逆に一つの音符に「あん」のように撥音付きの音節が書かれていると、どのタイミングで「ん」にしたら良いのか迷ったりします。
これももちろん正解なんて無くて、練習の中でどう歌ったら最も日本語としてきちんと聞こえるのか、という判断基準で考えていくしかないのだと思います。

作曲する立場からいうと「ん」だけに一音符を与える場合と、与えない場合の違いは、本当に微妙な差だけれど、歌い手に感じて欲しいと思います。
例えば「何千年という年月・・・」という詩があったとします。(まあ、実際に作曲したんですが)
最初の「何千年」に6つ音符を書いて「なんぜんねん」を割り当てるか、あるいは3つ音符を書いて、下に「何 千 年」と書くか(ひらがなで「なん ぜん ねん」でもいいですが)、その書き方によって演奏の効果が若干変わってくるはずです。
当然、日本語としての自然な感じは後者になると思われます。が、その分メロディは言語の束縛を強く受けることになるでしょう。逆に、音符が細かく(音価が小さく)メロディの運動量が大きかったりする場合には、前者のほうが向いているように思われます。
そういった音楽のイメージの違いによって作曲者は撥音への音符の割当を変えていますし、撥音の割り当て方にも作曲家によって差が出ています。そのような視点で楽譜を見ると、その作曲家が何を大事にそういう判断を下しているかも何となく分かってきます。そして、その作曲家の日本語に対するスタンスも何となく理解できてくるのではないでしょうか。

ちなみに昨今のJ-POPでは、細かい音符であるのにも関わらず、一音符に「なん」「ぜん」「ねん」を突っ込んでしまう歌詞割りが増えています。ラップ調のようなヒップホップ系なんて、わざとそういう割り振り方をしたりしているように思えます。
これは、日本語をやや外国語っぽく感じさせる効果があり、若者にはクールに感じられるのでしょう。年配の方は眉をひそめそうですが、意外とこういった歌詞割りが、日本語の今後の変化の方向を暗示しているのかもしれません。

2009年4月25日土曜日

アンサンブル第11番をアップ

おなじみの「仮想楽器のためのアンサンブル」シリーズ、第11番をYouTubeにアップ
あらためてこのシリーズの説明をすると、具体的な楽器を指定せずに音域さえ合えばどんな楽器で演奏してもいいよ、という趣旨で作曲しています。
楽器を特定すれば、その楽器に特有な奏法や、特徴的な音色を想定して作曲することになります。逆に楽器を特定しないことによって、音響よりも音組織に重きを置いた曲を作りたいと考えました。ですから、このシリーズを演奏するには音色の統一が取れている同族楽器のアンサンブルが好ましいと考えています。(詳細はコチラを参照
もう一つ、私がこの一連の作曲で考えていること。
それは、現代のクラシック系の器楽曲の作曲の現場が、おおよそ一般の人には聞き慣れないような音楽ばかりであることに対するささやかな抵抗です。平たく言えば、妙なゲンダイ音楽より、良く聴かれる音楽をベースにしたほうが気持ちいいよねっていうこと。
もちろん、(私にとって)やや実験的な音使いもすることもありますが、基本は普通の人が聴いて気持ちいい、ということを忘れないように、というのが私のスタンスです。

さて、今回の11番。
大きな特徴は、楽曲形式です。今回はソナタ形式に挑戦しました。これまで変奏曲的な構造が多かったのですが、変奏曲では音楽がカタログ的に、また断片的になります。今回は、楽曲全体にもう少し大きな物語が作れないか、ということで大規模な形式を選んでみました(厳密にはややルール違反なソナタ形式ですが)。結果的にトータルで9分強と、少し長めの曲になってしまいました。
簡単に構成を説明しましょう。
序奏無しで、まずいきなり第一主題から始まります。同様のメロディを繰り返した後、6/8の第二主題。展開部は、第一主題の要素を使って動→静という流れを作った後、第二主題に第一主題の要素を絡めて次第に大きく盛り上がります。再現部は、冒頭をほぼなぞって、第二主題の後シンプルなコーダで曲を締めくくります。

それでは聴いてみてください。



2009年4月22日水曜日

日本語を伝える-促音の扱い

長音のことを書いたので、促音についても思うことなど書いてみましょう。
促音とは「っ」のこと。音が一瞬消える詰まる音のことですが、これは外国語の子音が二つあるような場合(-kk-とか、-tt-といった綴り)と一見近いように思われます。事実、促音をローマ字表記する場合、同じ子音を二つ繋げて書きますね。
しかし、小さい「っ」は、欧米系の言語の詰まった音より確実に詰まる時間が長いというのが特徴だと思われます。他の音節の長さと同等の感覚(モーラ)があるからです。従って、歌の中でも外国語よりもかなり明瞭に音が切れることになるわけです。

しかし、私の思うに多くの合唱団の歌の促音は詰まり過ぎではないかと思っています。
なぜ多くの人が必要以上に詰まるかというと、しゃべり言葉と同じように歌ってしまっているからと感じます。音が切れている時間をもっと短くした方が、言葉も明瞭になるし、ボリューム感も増します。何より、メロディの流れが良くなると思います。
歌なのだから、もう少し時間方向に冗長にする必要があります。例えば、「振りかえって」という歌詞があったら「えっ」という場所で、「えーっ」のように少しだけ「え」の長さを延ばしてあげるのです。このほうが音楽として私には自然に感じます。

その他にも、促音を歌うとき、どのように切って、どのように次の音節を歌いだすのか、この辺りもセンスの差が出るところでしょう。たいていは、息の流れを止めて促音を表現してしまいますが、なるべく息の流れを止めないで、音の鳴りの制限だけで促音を表現した方がきれいな歌になるのではないかと思います。

2009年4月15日水曜日

合唱名曲選:大地讃頌

よもや、私からこんなベタな題材が上がろうとは・・・。
とはいえ、日本の合唱風景を語るのにこの曲の存在は欠かせません。ならば、この音楽の特性について考察しておくのも何かしら意味があることだろうと思われるのです。
それにしても、あらためてこの曲の音符をなぞってみると、その壮大なイメージとは裏腹に、非常にシンプルな作りであることに驚かされます。ピアノ伴奏も、ほぼ左手はオクターブ、右手は三和音の展開形の連打というパターン。合唱も基本はホモフォニックで、今どきなら十分平易な曲と言っていいでしょう。
しかし、そのような音楽上のシンプルさとは対照的に、宗教的とも言える荘厳な詩と、それに付けられた端正で力強いメロディ、そして愚直なまでに重々しいワンパターンな伴奏で奏でられたその楽想とが、見事に噛み合った希有な曲と言っていいのではないでしょうか。こんな曲は絶対狙って作れないと私には思われます。

その特徴をいくつか考えてみましょう。
この曲の大きな特徴の一つに、調の選択が挙げられます。ロ長調は、ある意味シンプルさからはほど遠い調と言えます。その分、日頃聞き慣れない斬新な響きを感じ、それが神秘感を醸し出します。
この曲がハ長調だったらどうでしょう。曲構造のシンプルさが逆にマイナスに向かってしまう気がします。和音が丸裸にされた恥ずかしさ、とでもいうような。
次に、シンプルであるが故に数少ないポリフォニーが良い効果を上げています。ベースの大好きな「ひとの子らー」とか、中盤の男声「われらーひとの子の」が女声と対比を成している部分など、音響的に分かり易いが故に、伝える力も強いのです。
あとは何と言っても、最後のフレーズの神秘的な和音展開。コードで書くとこんな感じでしょうか。
B -> G7/D -> C#m -> G#7/D# -> D -> F#7/C# -> B/D# -> E
この流れは私には非常に独創的に思えます。分数和音の低音の動きも絶妙。遠隔調への飛び方が、何度歌ってもゾクゾクとさせるほどの気持ちよさを感じさせてくれます。

シンプルであっても各要素のその絶妙なバランスが、多くの人の心をつかみ、そして名曲とさせているのだと思います。私には作曲する態度を真摯にさせてくれる、とても大切な曲のようにも思われるのです。

2009年4月10日金曜日

日本語を伝える-長音の発音

昨年のNコンの課題曲「手紙」の演奏をちょっと聴いたとき、冒頭の「拝啓」という言葉の扱いが大変気になりました。
「はいけー」と「け」のe母音をそのまま延ばした歌い方が、どうも今ひとつ日本語としてきれいな感じがしなかったのです。じゃあ、「はいけ」と最後を明確に「い」と歌えば良いかというともちろんそれもおかしい。
恐らく、最も自然な音色は「え」でも「い」でもない、その中間にあるのだと思います。いかに言葉の響きとして自然か、という観点で歌おうとするならば、もっと母音の音色を柔軟に、そして微妙に変化させる必要が出てきます。

日本語にはこういった長音が結構多くて、合唱をやっているとその扱いに迷うことが多々あります。
「えい」は「えー」なのか「えい」なのか、「おう」は「おー」なのか「おう」なのか。練習では、ついつい「え」にしましょう、とか「い」にしましょう、とか明確に決めてしまうことも多いですが、でも本当はどちらでも無いどこかに最も気持ちの良い発音があるはずです。
同じ母音が完全に続く時でさえ(例えば「かあさん」の「かあ」とか)、単純に同じ母音を延ばすより、少し母音の色を変えた方が言葉の輪郭が出る場合があると思います。

もちろん長音の歌い方に正解なんて無いのでしょうが、それでも発音がてんでバラバラというわけにもいきません。前に立つ人が何らかの方向性を示して、ある美的価値観の元で統一していく必要はあるでしょう。
歌い手一人一人も、どういう母音の色の変化が日本語の歌として自然なのか、もっともっと考えながら歌って欲しいのです。そのように意識を高めていくだけでも随分、伝わる日本語の演奏になっていくと思います。

2009年4月4日土曜日

日本語を伝える-意味に拘らない

言葉を伝えようとするなら、言葉の意味(シニフィエ)よりもまず、言葉そのものの音(シニフィアン)を伝える必要があると私は思っています。
しかし、多くの人は最初に意味に拘ってしまっているような気がするのです。この文章はこういう意味だから、こういう表情で歌いましょう、みたいなやり方。もちろん、それはマクロ的に見れば間違っていないのだけれど、ミクロ的に見れば、決していつでも正しいわけでは無いと思います。
それ以前に、ミクロ的にやるべきことは言葉の「音」をまず伝えることだと思うのです。

本来、意味を伝えるのは大変難しい作業です。曲の構造の解釈や、作品の持つ世界観を表現するのと同じレベルの話なのです。自分たちの演奏に一生懸命意味を込めたとしても、それが伝わらなければ独りよがりの演奏にしかなりません。
その難しさに気付かずに、意味だけにとても拘っているのはやや芸術的センスに欠けた行動に思えます。本来、芸術が伝えたいことは簡単に言語化出来ない微妙な感情だったり、イメージだったりするからです。それを「悲しい」とか「嬉しい」とかいうシンプルな意味に変換してしまうと、作品そのものの力が矮小化され、「悲しい」「嬉しい」の周辺にある形容し難い印象を消してしまうことになりかねません。
逆に言葉の音がきちんと伝わっているならば、意味は聴衆の脳の中で構築されます。まずは、その効果に頼るのです。その上で、曲全体から醸し出されるイメージが、聴衆の脳内で構築された意味を補強するものになれば、そこでようやく詩が持っている意味が何とか伝わったことになるのだと思います。
つまり言葉の意味はミクロ的(文章のような単位)に伝えるのではなく、マクロ的(テキスト全体の主張として)に伝えるべきなのです。

ですから、まず私たちは言葉の音そのものをきちんと表現すべきであり、きちんと聴き取れるような明瞭な発音と、日本語の持つ音色や音量の変化を演奏の中で実現する必要があるでしょう。