仮想楽器のためのアンサンブル第9番を作曲。
例の楽譜付き音楽の動画をYouTubeにアップしました。
今回も変奏曲的な構成となっていますが、あまりきっちりとした感じではなく、やや自由な形式になっています。
それから、今までに比べると少し曲全体を短くしました。全体で7分程度。ある程度聴きやすさを考えるなら、短い中で印象的な音楽を作るということも大切な要素ではないかと思っています。
主題は何となく中世風?な旋律。前半はちょっと地味に変奏していきますが、中盤で現代的なリズムの上で盛り上がっていきます。
YouTubeにアップした音楽ですが、今回のアンサンブルは弦楽五重奏にしています。
音源は例のHalion Symphonic Orchestra。全体的には非常にきれいに鳴る音なのですが、ソロの弦楽器の生々さまで要求するのはやはり厳しいか、といったところ。でも、トータルで見れば十分鑑賞に耐え得る音だと思います。
時間がありましたら、ぜひ聴いてみてください。
2008年9月28日日曜日
2008年9月21日日曜日
アキレスと亀
北野武監督モノの映画は、実は今まで全然観たことが無かったのですが、今回は「売れない(自称)芸術家」の話ということで、身につまされる思いでついつい見に行ってしまいました。
ただ、ここで書く内容としてはめずらしく批判的です。
シリアスともギャグともつかない表現は、ビートたけしの漫才にも通じる世界を感じて今ひとつ感心せず(作中の絵と、ビートたけしの顔のペインティングと感性が通じていたり)。今回は主人公の画家を少年、青年、中年と三人の役者が演じているのだけど、その三つの繋がりにも違和感があります。
個人的には青年のエピソードが最も(自分には)痛々しくて、興味深かったのですが、少年、中年の部は今ひとつ。
特に少年時のストーリーは富豪のお坊ちゃまからいじわるな叔父の元で暮らすはめになる転落人生を描いているのだけど、その表現が全体的にチープに感じてしまいました。出てくるキャラがいかにも、という感じで逆にリアリティを感じないというか・・・。このようなありがちな設定にするのなら、少年期はもっと尺を縮めてしまった方がバランスが取れるような気がします。
青年期は芸術仲間との思索の日々が描かれているのだけれど、やっていることの真剣さとバカバカしさの対比がうまく、そこから生じる悲劇と仲間に生じる精神的衝撃の表現がグサリときます。
ところが、中年で監督自身が主人公を演ずるようになると、話がだいぶふざけ始めます。それまで芸術一途だった人生だったはずなのに、画商の一言に影響を受けすぎるのはおかしいでしょう。自分を信じる気持ちがあるからこそ、その年まで売れない芸術に身を投じてきたはずなのですから。
北野監督の映画が特にヨーロッパで人気の高い理由の一つとして、死の表現方法というのがあるのだと思います。確かに、人の死に対して日本の映画は優しすぎて、そこに生温さを感じることは確か。アメリカ映画でさえ、情を抜きにして死を語ることは難しいのです。
それに比べると、ヨーロッパ映画の方が、あるいはヨーロッパの芸術全般が、表現の一つの極致として倫理の一線を踏み越えようとするベクトルが強いように感じます。
そういう意味では北野武の死の表現は、情を廃した上で、徹底的に死を記号化しているように感じました。今回の映画では、芸術に身を捧げるあまり、陰惨な場も、死体でさえも、デッサンの対象になるという倫理規範の危うさを表現しています。なるほど、こういう表現は(目を背ける人は多いけれども)独特の感性を感じて感心しました。
死の記号化、という点では、邦画では中島哲也監督の「嫌われ松子の一生」なんかを思い出しました。
ただ、ここで書く内容としてはめずらしく批判的です。
シリアスともギャグともつかない表現は、ビートたけしの漫才にも通じる世界を感じて今ひとつ感心せず(作中の絵と、ビートたけしの顔のペインティングと感性が通じていたり)。今回は主人公の画家を少年、青年、中年と三人の役者が演じているのだけど、その三つの繋がりにも違和感があります。
個人的には青年のエピソードが最も(自分には)痛々しくて、興味深かったのですが、少年、中年の部は今ひとつ。
特に少年時のストーリーは富豪のお坊ちゃまからいじわるな叔父の元で暮らすはめになる転落人生を描いているのだけど、その表現が全体的にチープに感じてしまいました。出てくるキャラがいかにも、という感じで逆にリアリティを感じないというか・・・。このようなありがちな設定にするのなら、少年期はもっと尺を縮めてしまった方がバランスが取れるような気がします。
青年期は芸術仲間との思索の日々が描かれているのだけれど、やっていることの真剣さとバカバカしさの対比がうまく、そこから生じる悲劇と仲間に生じる精神的衝撃の表現がグサリときます。
ところが、中年で監督自身が主人公を演ずるようになると、話がだいぶふざけ始めます。それまで芸術一途だった人生だったはずなのに、画商の一言に影響を受けすぎるのはおかしいでしょう。自分を信じる気持ちがあるからこそ、その年まで売れない芸術に身を投じてきたはずなのですから。
北野監督の映画が特にヨーロッパで人気の高い理由の一つとして、死の表現方法というのがあるのだと思います。確かに、人の死に対して日本の映画は優しすぎて、そこに生温さを感じることは確か。アメリカ映画でさえ、情を抜きにして死を語ることは難しいのです。
それに比べると、ヨーロッパ映画の方が、あるいはヨーロッパの芸術全般が、表現の一つの極致として倫理の一線を踏み越えようとするベクトルが強いように感じます。
そういう意味では北野武の死の表現は、情を廃した上で、徹底的に死を記号化しているように感じました。今回の映画では、芸術に身を捧げるあまり、陰惨な場も、死体でさえも、デッサンの対象になるという倫理規範の危うさを表現しています。なるほど、こういう表現は(目を背ける人は多いけれども)独特の感性を感じて感心しました。
死の記号化、という点では、邦画では中島哲也監督の「嫌われ松子の一生」なんかを思い出しました。
2008年9月20日土曜日
アカペラの面白さとは5
人の声は千差万別。だから、その複合体である合唱団のサウンドもまた千差万別です。一つとして同じ音色を出す合唱団はありません。
厳密に言えばもちろん楽器とて同じ話なのでしょうが、例えば鍵盤楽器の一つの鍵盤だけを押すのなら、人間が押しても猫が押しても同じ音が出ます。その再現性の高さこそが、鍵盤楽器の汎用的な能力を物語っているわけですが、音色に対する味わいは人の声ほどの多様性は持っていません。
声は音が出始めてから消えるまで、全て人のコントロールの内にあります。
音の立ち上がりも、もわっとした感じから、非常にアタックの強い歌い方までいろいろあるし、声の伸び方、そして消え方も同様に様々な音色や表現が考えられます。もちろん、それらは歌い手にしっかりコントロールされている場合もあるし、無意識になってしまっていることもあるでしょう。
特定の指揮者のもとで長く歌っていれば、合唱団全体もその指揮者の好みのサウンドに変わっていきます。鳴らすことを優先する指揮者、リズムを立てるのが好きな指揮者、アゴーギグの変化が好きな指揮者、端正な表現が好きな指揮者・・・。
指揮者が意識的に、あるいは無意識のうちに要求する音楽に対して、アカペラ合唱という音楽形態は特に過剰に反応するように思えます。良くも悪くも合唱団の持っている性質が増幅されてしまうのです。それは声という、非常に表現の幅の広い楽器を使用していることの副作用とも言えるでしょう。
具体的な例として、ある特定の曲を複数の団体が演奏したとき、本当に同じ曲なのか、と思うくらい違っていることがあります。テンポだけの話でなく、音楽を聴いたときの総合的な印象の違いです。
演奏する場所にも大きく影響されます。アカペラは人数の割には音量が出ないので、演奏に残響は必需なのですが、その残響の多さによっても曲が与える印象はずいぶん変わります。
アカペラという表現形態は、そのような表現の幅の広さを持っているからこそ合唱団や指揮者の音楽性が露骨に現れるし、演奏を聴けば普段どのような練習しているかといったことまでが透けてきます。同じ音符を演奏しても、無限に演奏のバリエーションが生まれ得るその多様性もまた、アカペラ合唱の魅力の一つではないでしょうか。
合唱はほぼアマチュア主体なため、実力面で何を大事にして、何をおろそかにしているかが分かりやすく、だからこそ力のある人にとっては、合唱団作りが何よりもやりがいのある仕事のように思えてくるのでしょう。
厳密に言えばもちろん楽器とて同じ話なのでしょうが、例えば鍵盤楽器の一つの鍵盤だけを押すのなら、人間が押しても猫が押しても同じ音が出ます。その再現性の高さこそが、鍵盤楽器の汎用的な能力を物語っているわけですが、音色に対する味わいは人の声ほどの多様性は持っていません。
声は音が出始めてから消えるまで、全て人のコントロールの内にあります。
音の立ち上がりも、もわっとした感じから、非常にアタックの強い歌い方までいろいろあるし、声の伸び方、そして消え方も同様に様々な音色や表現が考えられます。もちろん、それらは歌い手にしっかりコントロールされている場合もあるし、無意識になってしまっていることもあるでしょう。
特定の指揮者のもとで長く歌っていれば、合唱団全体もその指揮者の好みのサウンドに変わっていきます。鳴らすことを優先する指揮者、リズムを立てるのが好きな指揮者、アゴーギグの変化が好きな指揮者、端正な表現が好きな指揮者・・・。
指揮者が意識的に、あるいは無意識のうちに要求する音楽に対して、アカペラ合唱という音楽形態は特に過剰に反応するように思えます。良くも悪くも合唱団の持っている性質が増幅されてしまうのです。それは声という、非常に表現の幅の広い楽器を使用していることの副作用とも言えるでしょう。
具体的な例として、ある特定の曲を複数の団体が演奏したとき、本当に同じ曲なのか、と思うくらい違っていることがあります。テンポだけの話でなく、音楽を聴いたときの総合的な印象の違いです。
演奏する場所にも大きく影響されます。アカペラは人数の割には音量が出ないので、演奏に残響は必需なのですが、その残響の多さによっても曲が与える印象はずいぶん変わります。
アカペラという表現形態は、そのような表現の幅の広さを持っているからこそ合唱団や指揮者の音楽性が露骨に現れるし、演奏を聴けば普段どのような練習しているかといったことまでが透けてきます。同じ音符を演奏しても、無限に演奏のバリエーションが生まれ得るその多様性もまた、アカペラ合唱の魅力の一つではないでしょうか。
合唱はほぼアマチュア主体なため、実力面で何を大事にして、何をおろそかにしているかが分かりやすく、だからこそ力のある人にとっては、合唱団作りが何よりもやりがいのある仕事のように思えてくるのでしょう。
ラベル:
合唱
2008年9月17日水曜日
アカペラの面白さとは4
よく音楽の三要素などと呼ばれるのが、メロディ、ハーモニー、リズム。
以前は、音楽をこんなに単純に割り切ることは出来ない!とか、マジメに思ってましたが、なんだかんだ言って大雑把に音楽を捉えようと思えば、こういう切り口はなかなか便利なものです。
さらに、この三つの要素を無理矢理、人間の体に当てはめてみると、メロディは顔、ハーモニーは上半身、リズムは下半身って例えはいかがでしょう。今どきの音楽の作られ方を良く象徴しているとは思いませんか。
確かに音楽が発展する過程は、音楽の持ついろいろな要素が上記の三つに分化する過程であったのかもしれません。
ある意味、メロディ、ハーモニー、リズムという三要素を最も意識して作られている音楽は、ポピュラー音楽ではないかと思います。中でも、この三つの要素をそれぞれ分解して、とことんまで探求しているジャンルはジャズではないでしょうか。インプロビゼーションは究極のメロディ性の追求とも言えるし、複雑なテンションを持つコード理論はハーモニーの追求。リズムもスイングを基調としながら一聴しただけでは分からないような手の込んだパターンも良くあります。
ピアノ伴奏+メロディといった音楽は、ピアノが体の例で言えば顔以外の要素を作ってしまいます。ピアノ伴奏付き合唱の場合でも、せいぜい合唱部分は「顔」と「手」くらい。胸から下はピアノが担当しているといってもいいかもしれません。
これがアカペラとなると、全てのパートがあるときはメロディであり、ハーモニーであり、リズムです。体で例えれば、音楽全体が頭から足の先まで声という楽器で表現されるわけです。
逆にポリフォニーの場合、全パートがメロディとなります。これはまるで頭だけが四つある状態(ちょっと気味悪い)。バリ島のケチャなんかだと、全パートがリズムと言えるかも。(ということは四つの下半身・・・?)
つまり音楽の機能がメロディ、ハーモニー、リズムに分解される前の、未分化で原始的な状態の音楽にも成りうるし、そういった表現が逆に全く新しい表現世界を作りだす可能性だってあります。
ちょっと論点が広がってしまったけれど、伴奏楽器の無いアンサンブルはそれぞれのパートが様々な音楽機能を担当することになります。特定の機能だけに習熟するのもそれは重要なことではあるのだけど、音楽の様々な機能を一つのパートが担当しうるそのスリリングさは、やはりアンサンブルの醍醐味の一つのように思います。
これは主に演奏する側の楽しみなのかもしれませんが、あるときはメロディ、あるときはハーモニーの一部、そしてあるときはリズミックに音楽全体を先導する、といった音楽の多面的な楽しみをアカペラ音楽では体験できるのです。
以前は、音楽をこんなに単純に割り切ることは出来ない!とか、マジメに思ってましたが、なんだかんだ言って大雑把に音楽を捉えようと思えば、こういう切り口はなかなか便利なものです。
さらに、この三つの要素を無理矢理、人間の体に当てはめてみると、メロディは顔、ハーモニーは上半身、リズムは下半身って例えはいかがでしょう。今どきの音楽の作られ方を良く象徴しているとは思いませんか。
確かに音楽が発展する過程は、音楽の持ついろいろな要素が上記の三つに分化する過程であったのかもしれません。
ある意味、メロディ、ハーモニー、リズムという三要素を最も意識して作られている音楽は、ポピュラー音楽ではないかと思います。中でも、この三つの要素をそれぞれ分解して、とことんまで探求しているジャンルはジャズではないでしょうか。インプロビゼーションは究極のメロディ性の追求とも言えるし、複雑なテンションを持つコード理論はハーモニーの追求。リズムもスイングを基調としながら一聴しただけでは分からないような手の込んだパターンも良くあります。
ピアノ伴奏+メロディといった音楽は、ピアノが体の例で言えば顔以外の要素を作ってしまいます。ピアノ伴奏付き合唱の場合でも、せいぜい合唱部分は「顔」と「手」くらい。胸から下はピアノが担当しているといってもいいかもしれません。
これがアカペラとなると、全てのパートがあるときはメロディであり、ハーモニーであり、リズムです。体で例えれば、音楽全体が頭から足の先まで声という楽器で表現されるわけです。
逆にポリフォニーの場合、全パートがメロディとなります。これはまるで頭だけが四つある状態(ちょっと気味悪い)。バリ島のケチャなんかだと、全パートがリズムと言えるかも。(ということは四つの下半身・・・?)
つまり音楽の機能がメロディ、ハーモニー、リズムに分解される前の、未分化で原始的な状態の音楽にも成りうるし、そういった表現が逆に全く新しい表現世界を作りだす可能性だってあります。
ちょっと論点が広がってしまったけれど、伴奏楽器の無いアンサンブルはそれぞれのパートが様々な音楽機能を担当することになります。特定の機能だけに習熟するのもそれは重要なことではあるのだけど、音楽の様々な機能を一つのパートが担当しうるそのスリリングさは、やはりアンサンブルの醍醐味の一つのように思います。
これは主に演奏する側の楽しみなのかもしれませんが、あるときはメロディ、あるときはハーモニーの一部、そしてあるときはリズミックに音楽全体を先導する、といった音楽の多面的な楽しみをアカペラ音楽では体験できるのです。
ラベル:
合唱
2008年9月12日金曜日
アカペラの面白さとは3
アカペラ女声合唱の定番と言えば、小倉朗の「ほたるこい」。
合唱を普段聴かない人が初めて聴いても、きっと面白いと思ってくれることでしょう。もちろん、この曲の場合ある程度残響のある場所も必要だし、当然訓練された美しい発声も必要でしょう。それでも、曲自体が持つ何ともいえない不思議な雰囲気が人々の心に大きな印象をもたらすのだと思います。
しかし、譜面はいたってシンプル。ちょっと意地悪な言い方をすれば、作曲家が心に描いた効果以上のものを作るのに成功してしまった希有な例と言えるのかも。聴いて気持ちの良い箇所は、単に三つのパートが一拍ずれているだけなのですから。
それにしても、この気持ちの良さは何なのでしょうか?
無論、詩の内容ではないし、和声の面白さでも無いでしょう。敢えて言うなら音響的な美しさとでも言いましょうか。
しかし、逆にこの美しさは歌詞を持った合唱だからこそとも言えます。器楽で三パートに分かれてこの曲を演奏してもそれほど印象に残らないのではないかと想像します。それは、楽器ではあまりに音色が均質だからです。
歌は歌詞があることによって、常にその音色を変化させます。だから、演奏者がそれほど意識しなくても言葉によって旋律の抑揚がよりはっきり浮き立ってきます。そのため、対位法的に書かれた音楽を非常に際立たせることが可能なのです。
ポリフォニー、カノン、フーガといった時間軸上のずれを伴った音楽が、アカペラ合唱では非常に印象的に響く可能性があります。こういった音楽は、すでにルネサンス時代に様々な可能性が追求されているわけですが、今の時代でも、もっと今風のやり方で新しい音響を追求することも出来るかもしれません。
合唱を普段聴かない人が初めて聴いても、きっと面白いと思ってくれることでしょう。もちろん、この曲の場合ある程度残響のある場所も必要だし、当然訓練された美しい発声も必要でしょう。それでも、曲自体が持つ何ともいえない不思議な雰囲気が人々の心に大きな印象をもたらすのだと思います。
しかし、譜面はいたってシンプル。ちょっと意地悪な言い方をすれば、作曲家が心に描いた効果以上のものを作るのに成功してしまった希有な例と言えるのかも。聴いて気持ちの良い箇所は、単に三つのパートが一拍ずれているだけなのですから。
それにしても、この気持ちの良さは何なのでしょうか?
無論、詩の内容ではないし、和声の面白さでも無いでしょう。敢えて言うなら音響的な美しさとでも言いましょうか。
しかし、逆にこの美しさは歌詞を持った合唱だからこそとも言えます。器楽で三パートに分かれてこの曲を演奏してもそれほど印象に残らないのではないかと想像します。それは、楽器ではあまりに音色が均質だからです。
歌は歌詞があることによって、常にその音色を変化させます。だから、演奏者がそれほど意識しなくても言葉によって旋律の抑揚がよりはっきり浮き立ってきます。そのため、対位法的に書かれた音楽を非常に際立たせることが可能なのです。
ポリフォニー、カノン、フーガといった時間軸上のずれを伴った音楽が、アカペラ合唱では非常に印象的に響く可能性があります。こういった音楽は、すでにルネサンス時代に様々な可能性が追求されているわけですが、今の時代でも、もっと今風のやり方で新しい音響を追求することも出来るかもしれません。
ラベル:
合唱
2008年9月7日日曜日
アカペラの面白さとは2
前回の話とは全く別方向になってしまうけれど、声の持つ多彩な表現を利用しようとすると、ときにそれは非楽音になることもあるわけです。非楽音というのは、普通の音符で記譜できない表現のこと。
例えば、言葉をそのまま語る場合もあるでしょうし、叫んだり、笑ったりすることだってできます。ポルタメントさせたり、声を出している間に音色を変えたり、打楽器のマネをしたり、かけ声をかけることだってできます。
おおよそ、声は人間活動のあらゆる局面において使われるものであり、声を使った芸術では、そういった表現から色々な要素を取り込むことが出来るはずです。
それは声がもっとも原始的な発音体であり、感情の直接的な表現に適しているからではないでしょうか。
であるなら、合唱はそういった多面的な声の表現を、非楽音として音楽に取り込んでいくことに躊躇う必要は無いでしょう。もちろん、実際、そういう合唱音楽は世の中にたくさん存在します。
そういう曲は、一見、現代音楽的な扱いを受けてしまうこともありますが、ごく普通の曲の中であっても限られた範囲で使うことによって、さらに効果的になるに違いありません。
もちろん、この話もアカペラに限定されるわけではないけれど、伴奏楽器というのは音楽全体に秩序をもたらすことになるので、伴奏付きの合唱曲には、より声による非楽音が使われにくくなると思います。オーケストラ伴奏ともなれば、合唱はほとんど器楽に近い扱いを受けるようになります。そう考えると、やはり声の多彩な表現を効果的に使うには、アカペラがもっとも適しているのではないでしょうか。
エンターテインメント性を持った合唱音楽を作ろうと思えば、非楽音的な声の表現も使いたくなるものです。
残念ながら、日本の合唱団は、そういう音楽以外の表現を苦手とする人たちが多そうです。どうしてもやらされている感じが拭えなくて、もっともっと殻を破ってみようよと私は言いたくなるのですけど。
例えば、言葉をそのまま語る場合もあるでしょうし、叫んだり、笑ったりすることだってできます。ポルタメントさせたり、声を出している間に音色を変えたり、打楽器のマネをしたり、かけ声をかけることだってできます。
おおよそ、声は人間活動のあらゆる局面において使われるものであり、声を使った芸術では、そういった表現から色々な要素を取り込むことが出来るはずです。
それは声がもっとも原始的な発音体であり、感情の直接的な表現に適しているからではないでしょうか。
であるなら、合唱はそういった多面的な声の表現を、非楽音として音楽に取り込んでいくことに躊躇う必要は無いでしょう。もちろん、実際、そういう合唱音楽は世の中にたくさん存在します。
そういう曲は、一見、現代音楽的な扱いを受けてしまうこともありますが、ごく普通の曲の中であっても限られた範囲で使うことによって、さらに効果的になるに違いありません。
もちろん、この話もアカペラに限定されるわけではないけれど、伴奏楽器というのは音楽全体に秩序をもたらすことになるので、伴奏付きの合唱曲には、より声による非楽音が使われにくくなると思います。オーケストラ伴奏ともなれば、合唱はほとんど器楽に近い扱いを受けるようになります。そう考えると、やはり声の多彩な表現を効果的に使うには、アカペラがもっとも適しているのではないでしょうか。
エンターテインメント性を持った合唱音楽を作ろうと思えば、非楽音的な声の表現も使いたくなるものです。
残念ながら、日本の合唱団は、そういう音楽以外の表現を苦手とする人たちが多そうです。どうしてもやらされている感じが拭えなくて、もっともっと殻を破ってみようよと私は言いたくなるのですけど。
ラベル:
合唱
2008年9月2日火曜日
アカペラの面白さとは
アカペラの魅力について、もうこれに尽きるというところから言ってしまうと、やはり人の声のハモリの美しさなのだと思います。
もちろん、美しいハーモニーを奏でるには、それ相応の努力と、センスと、そして結局のところ人材が必要なわけですが、そういう美しい演奏を聴いたときの感動は格別です。
私の経験で言えば、キングスシンガーズやアヴェソルやオスロ室内、そしてBCJなど、生で聴いたときの感動は本当に忘れられません。いくら美辞麗句で表現しようとしても、生演奏のあの響きを伝えることはできません。
そういったプロ級のレベルは別世界なんだと思ってはいけません。
声楽家を集めたからって、いい演奏になるとは限らないし、アマチュアの団体だってコンクールなどで時折、本当に美しいハーモニーを聴かせてくれることもあります。
めったに出会えない瞬間だからこそ、それを追い求めることが大変ではあるけれど何より尊いことのように思えます。
もちろん、ピアノ伴奏でも美しくハモることを目指すのは可能でしょう。
でも、そこで聴ける美しさの純度がどうしても私には違うように思えます。美しくハモった合唱の和音の上に、あえてピアノのコードを載せるのは野暮というもの。ピアノにはピアノにしか表現できないことがあると思うけれど、合唱の純度を強調するなら、やはり同時に楽器の音は鳴らしたくありません。
楽器の特性という問題もあるでしょう。純正律とか平均律とか音律の話をする人もいますが、それよりも、ピアノが減衰系の音色である、ということの方が問題な気がします。持続するハーモニーの美しさとは、どこか異質な音楽表現を目指す楽器であると私には感じられます。
こうやって考えると、まずはアカペラ曲はハーモニーが美しい必要があるし、その美しさを際立たせるような書法が必要ではないでしょうか。単純ではあっても、長めの音価とシンプルなハーモニーによる音符は、より美しい合唱に近づくと思います。
もちろん、美しいハーモニーを奏でるには、それ相応の努力と、センスと、そして結局のところ人材が必要なわけですが、そういう美しい演奏を聴いたときの感動は格別です。
私の経験で言えば、キングスシンガーズやアヴェソルやオスロ室内、そしてBCJなど、生で聴いたときの感動は本当に忘れられません。いくら美辞麗句で表現しようとしても、生演奏のあの響きを伝えることはできません。
そういったプロ級のレベルは別世界なんだと思ってはいけません。
声楽家を集めたからって、いい演奏になるとは限らないし、アマチュアの団体だってコンクールなどで時折、本当に美しいハーモニーを聴かせてくれることもあります。
めったに出会えない瞬間だからこそ、それを追い求めることが大変ではあるけれど何より尊いことのように思えます。
もちろん、ピアノ伴奏でも美しくハモることを目指すのは可能でしょう。
でも、そこで聴ける美しさの純度がどうしても私には違うように思えます。美しくハモった合唱の和音の上に、あえてピアノのコードを載せるのは野暮というもの。ピアノにはピアノにしか表現できないことがあると思うけれど、合唱の純度を強調するなら、やはり同時に楽器の音は鳴らしたくありません。
楽器の特性という問題もあるでしょう。純正律とか平均律とか音律の話をする人もいますが、それよりも、ピアノが減衰系の音色である、ということの方が問題な気がします。持続するハーモニーの美しさとは、どこか異質な音楽表現を目指す楽器であると私には感じられます。
こうやって考えると、まずはアカペラ曲はハーモニーが美しい必要があるし、その美しさを際立たせるような書法が必要ではないでしょうか。単純ではあっても、長めの音価とシンプルなハーモニーによる音符は、より美しい合唱に近づくと思います。
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