自分自身もずっと合唱を続けてきて、そんな活動の中で曲を書いていると、あ~こんな風に書くと歌う人は嫌がるだろうな、なんて想像出来てしまいます。なんだかんだいって歌う側は、自分のパートにメロディがあるのが嬉しいわけです。だから、シブい和声の穴埋め処理に追われたり、ひたすら同じフレーズを繰り返したり、同じ音程をずっと続けたり、ハミングしかなかったり、なんていう曲があると不満を隠さない人も多い。
合唱作曲家もその辺りを妙に心得ていて、各パートにきちんとおいしい箇所を散らせてあげたりなんかするし、盛り上がりの場所でも全パートが気持ちよくなるような音域や動きになっていたりします。実際、こういう曲は歌い手の評判は高くなるのだけど、果たして聴く側はどうなのか?
先日の世界合唱の祭典でも、自分が聴く側になったときの気持ち良さって、歌う側の気持ち良さとは違うんじゃないかと思ったのです。
例えば、大賞賛を浴びたオスロ室内合唱団。会場内に一人一人が散らばって歌ったときは、私も近場の人の声を聴けました。ある曲の中では、各自が同じ音程をずっと小音量で歌い続けるのですが、それが合唱全体になると素晴らしい音響を作り出すのです。まず同じ音程、音量をずっと保つその発声の技量に驚いたのだけど、歌手にとってみればマシーンに徹するようなそんな表現は必ずしも嬉しくはないはず。
しかし考えてみると北欧の合唱音楽というのは、歌い手に非常に厳しい発声技術を求めるストイックなタイプの曲が多いような気がします。半音でぶつけたままロングトーンで延ばすとか、クラスター的な密集和音の曲とか、高音でも小音量を求めたりとか……。しかし、そういった表現は、発声がよく訓練された歌手の演奏にかかると、何ともいえない神秘的な美しさを表現することが出来るのです。
アマチュアの場合、それほど高い声楽的性能を持っていないのは仕方がないけど、所詮合唱で人を感動させるのは人の声なわけで、それを際立たせようとする曲作りこそ、本来求められるべきだとは思います。しかしながら、アマチュア全盛の日本においては、歌い手が嫌がる曲というのはなかなかメジャーにはなれないような気がしてしまいます。
2005年9月30日金曜日
2005年9月26日月曜日
マタイの字幕操作をするの巻
以前こんな記事を書いてしまったせいなのか、ある演奏会の字幕操作係の役を頼まれることになりました。
その演奏会とは、浜松バッハ研究会創立20周年記念演奏会であるバッハの「マタイ受難曲」。いまさら言うまでも無いバッハ畢生の大作、そして最も字幕をつけて聴きたいと思われる合唱音楽であります。
今回はアクトシティ浜松の中ホールに、ホール奥のパイプオルガンを覆い隠すほどの大きなスクリーンを出し、パソコンでパワポの書類を表示する、という形です(まさに、私が以前書いた話)。パワポの書類自体は団員の方が作成したので、私の役目はその構成に従ってパソコンのカーソルキーを押すことでした。もちろん、事前に資料は頂いていたので、通し番号を自分の楽譜に全部書き写しておきました。驚くなかれ、パワポは全部で441枚。全曲で約3時間とはいえ、この切り替えは結構忙しかったです。楽譜を追いながらですから、気分は演奏家みたいなものでした。
私がいた場所は、ホール後方にある映写室。窓から会場全体は見えるのだけど、ナマの音声は完全にシャットアウト。音は全てモニターです。それからプロジェクターが熱を持つせいなのか、部屋は冷房で相当冷やされていました(意外とつらかった…すぐトイレ行きたくなるし)。
ナマの音声でないのがやりづらかったのは、意外な盲点でした。
モニターの音量も十分でなく(本番ではモニタースピーカを追加してもらった)、ステージの息遣いがいまいち私まで伝わらないのです(しかもプロジェクタのファンの音が結構うるさい)。視覚はナマでも、音声が電気を通しちゃうと、その場所はどうも演奏とは別世界になってしまい、自分が会場全体に字幕を見せているんだというリアリティがとても薄く感じられてしまうのです。ホール内にいないので映写室で一人、カーソルキーを叩いても、どこからも反応がなく、すごく不安になります。でも、世のPA屋とか放送局とかの人たちってそういう状況できっと仕事しているんですよね。
さて、肝心の字幕操作ですが、正直言いましょう。三箇所間違いました。_ _;
そのうちの二箇所はほとんど気付かれていないようでしたが、一箇所、バラバを赦免するくだり、エヴェンゲリストのセリフを楽譜一段分(3小節くらい)早く出してしまった・・・。後で何人かに指摘されました。ごめんなさい。
個人的には、字幕を出すタイミングをいろいろ考えたつもりでしたが、あんまりみんな意見してくれなかったなあ。自分が思っているほど、そんな微妙じゃないのでしょうか。
私は、曲頭では指揮者より先走って出さないように、逆にエヴェンゲリストが歌う聖書句の部分は、映画の字幕っぽいタイミングを心がけたのですが…
演奏会は、お客もかなりたくさん入っていたようです。演奏はいくつか事故はありましたが^^;、なかなか熱い演奏だったのではと思います。私も、なかなか体験できないことをさせてもらい、楽しかったです。ありがとうございました。
その演奏会とは、浜松バッハ研究会創立20周年記念演奏会であるバッハの「マタイ受難曲」。いまさら言うまでも無いバッハ畢生の大作、そして最も字幕をつけて聴きたいと思われる合唱音楽であります。
今回はアクトシティ浜松の中ホールに、ホール奥のパイプオルガンを覆い隠すほどの大きなスクリーンを出し、パソコンでパワポの書類を表示する、という形です(まさに、私が以前書いた話)。パワポの書類自体は団員の方が作成したので、私の役目はその構成に従ってパソコンのカーソルキーを押すことでした。もちろん、事前に資料は頂いていたので、通し番号を自分の楽譜に全部書き写しておきました。驚くなかれ、パワポは全部で441枚。全曲で約3時間とはいえ、この切り替えは結構忙しかったです。楽譜を追いながらですから、気分は演奏家みたいなものでした。
私がいた場所は、ホール後方にある映写室。窓から会場全体は見えるのだけど、ナマの音声は完全にシャットアウト。音は全てモニターです。それからプロジェクターが熱を持つせいなのか、部屋は冷房で相当冷やされていました(意外とつらかった…すぐトイレ行きたくなるし)。
ナマの音声でないのがやりづらかったのは、意外な盲点でした。
モニターの音量も十分でなく(本番ではモニタースピーカを追加してもらった)、ステージの息遣いがいまいち私まで伝わらないのです(しかもプロジェクタのファンの音が結構うるさい)。視覚はナマでも、音声が電気を通しちゃうと、その場所はどうも演奏とは別世界になってしまい、自分が会場全体に字幕を見せているんだというリアリティがとても薄く感じられてしまうのです。ホール内にいないので映写室で一人、カーソルキーを叩いても、どこからも反応がなく、すごく不安になります。でも、世のPA屋とか放送局とかの人たちってそういう状況できっと仕事しているんですよね。
さて、肝心の字幕操作ですが、正直言いましょう。三箇所間違いました。_ _;
そのうちの二箇所はほとんど気付かれていないようでしたが、一箇所、バラバを赦免するくだり、エヴェンゲリストのセリフを楽譜一段分(3小節くらい)早く出してしまった・・・。後で何人かに指摘されました。ごめんなさい。
個人的には、字幕を出すタイミングをいろいろ考えたつもりでしたが、あんまりみんな意見してくれなかったなあ。自分が思っているほど、そんな微妙じゃないのでしょうか。
私は、曲頭では指揮者より先走って出さないように、逆にエヴェンゲリストが歌う聖書句の部分は、映画の字幕っぽいタイミングを心がけたのですが…
演奏会は、お客もかなりたくさん入っていたようです。演奏はいくつか事故はありましたが^^;、なかなか熱い演奏だったのではと思います。私も、なかなか体験できないことをさせてもらい、楽しかったです。ありがとうございました。
ラベル:
合唱
2005年9月17日土曜日
音楽の生存価/福井一
音楽そのものについて考察する場合、これまではどうしても哲学的、社会学的、心理学的といったような人文系アプローチが主でした。しかし、こういったアプローチは論ずる者の嗜好が強く反映されてしまったり、科学的な検証が必要な場合に不適当なデータ処理をしてしまうなど、問題が多かったのは事実です。また、芸術は崇高なものであり、その神秘を剥ぐことに抵抗を感じる、というような芸術至上主義が音楽愛好家には根強く存在し、音楽そのものの研究が偏見無く行われることは難しいのは確かでしょう。
この本では、まずそういった現状に対し、強い口調で非難します。そして、今こそ科学的視点から音楽を解きほぐそうと主張します。
実は著者の方向性は、私の感覚とおおむね同じです。私は、いつでも真理を知りたいし、適当な段階で神様を持ち出してそれで良しとはしたくないのです。その結果、この著者は進化心理学に興味を感じ、その学問が人間と音楽について何かしらの解答を引き出してくれるのではと期待しているようです。私も以前、進化心理学について、こんな談話を書きました。
そんなわけで、この本、音楽の価値をいかに「科学的」に解明するのか、それを論じた本なのです。
著者は音楽が人間の生存にとって、無くても良いもの、などではなく、人類進化の過程で必要があって生まれたものだという考えを持っているようです。そして、その考えを証明するために、様々な研究を続けています。
ただし、中盤以降、本の内容は脳科学中心になり、正直かなりしんどくなりました。
それでも、なかなか面白いネタはありました。例えば、男性ホルモンの一つであるテストステロンは、音楽と非常に関係が深いらしいのです。男性の場合、テストステロンが多いほど(男性的であるほど)音楽の能力は低くなり、逆に女性はテストステロンが少ないほど(女性的であるほど)音楽の能力は低くなります。つまり、一般的に、音楽家の男性は女性的でおっとりしていて(そういえばカマっぽい人も多いかも^^;)、女性は男勝りであることが多い、ということになります。さて、皆さんは納得しますか。
進化心理学の話が出た割りには、本のほとんどは脳科学を扱っており、若干肩透かしを食らった気分でしたが、全体的にはなかなか面白い本です。この分野の研究がすすめば、いずれ何故人は音楽に熱狂するのか、あるいはどんな音楽が人々を熱狂させるのか、そういったことがわかってくるのかもしれません。
この本では、まずそういった現状に対し、強い口調で非難します。そして、今こそ科学的視点から音楽を解きほぐそうと主張します。
実は著者の方向性は、私の感覚とおおむね同じです。私は、いつでも真理を知りたいし、適当な段階で神様を持ち出してそれで良しとはしたくないのです。その結果、この著者は進化心理学に興味を感じ、その学問が人間と音楽について何かしらの解答を引き出してくれるのではと期待しているようです。私も以前、進化心理学について、こんな談話を書きました。
そんなわけで、この本、音楽の価値をいかに「科学的」に解明するのか、それを論じた本なのです。
著者は音楽が人間の生存にとって、無くても良いもの、などではなく、人類進化の過程で必要があって生まれたものだという考えを持っているようです。そして、その考えを証明するために、様々な研究を続けています。
ただし、中盤以降、本の内容は脳科学中心になり、正直かなりしんどくなりました。
それでも、なかなか面白いネタはありました。例えば、男性ホルモンの一つであるテストステロンは、音楽と非常に関係が深いらしいのです。男性の場合、テストステロンが多いほど(男性的であるほど)音楽の能力は低くなり、逆に女性はテストステロンが少ないほど(女性的であるほど)音楽の能力は低くなります。つまり、一般的に、音楽家の男性は女性的でおっとりしていて(そういえばカマっぽい人も多いかも^^;)、女性は男勝りであることが多い、ということになります。さて、皆さんは納得しますか。
進化心理学の話が出た割りには、本のほとんどは脳科学を扱っており、若干肩透かしを食らった気分でしたが、全体的にはなかなか面白い本です。この分野の研究がすすめば、いずれ何故人は音楽に熱狂するのか、あるいはどんな音楽が人々を熱狂させるのか、そういったことがわかってくるのかもしれません。
ラベル:
本
2005年9月11日日曜日
チャーリーとチョコレート工場
映画「チャーリーとチョコレート工場」を見ました。
ティム・バートン節炸裂って感じです。ティム・バートンが悪ノリして、やりたい放題作ることが出来た映画。「マーズアタック!」もそういう映画でしたが、あまり興行成績が良くなくて(おふざけが過ぎたのか)、その後好き放題に作らせてもらえなかった、という話も聞きます。「猿の惑星」「ビッグフィッシュ」と手堅く来て(それでも「ビッグフィッシュ」は十分バートン世界だったけど)、今回、はじけましたって感じ。
なので、人によっては若干眉をひそめたくなるような悪趣味と写るかもしれません。でも、このナンセンスさ、シュールなお笑い感覚がやっぱりティム・バートンの真骨頂。ブラックな味わいが好きなら、この映画はウケると思いますよ。
では、この映画、マニアックであまりウケないかというと、そうでもなさそうです。昨日の初日より結構人が入っているし、内容そのものはわりと手堅く作ってある感じ。途中で脱落していく子供たちも典型的なやなタイプで、見る人の共感を得そう。最後に、ビッグフィッシュとシチュエーションが似た泣かせの場面もあります。
それでもねぇ、あの途中で入るウンパルンパ(?)の歌が、バートン的バカバカしさの極致。なんだか途中でミュージカル映画を見ているような気になりましたよ。あの曲だけ売りだしたら意外と売れるかも。
ティム・バートン節炸裂って感じです。ティム・バートンが悪ノリして、やりたい放題作ることが出来た映画。「マーズアタック!」もそういう映画でしたが、あまり興行成績が良くなくて(おふざけが過ぎたのか)、その後好き放題に作らせてもらえなかった、という話も聞きます。「猿の惑星」「ビッグフィッシュ」と手堅く来て(それでも「ビッグフィッシュ」は十分バートン世界だったけど)、今回、はじけましたって感じ。
なので、人によっては若干眉をひそめたくなるような悪趣味と写るかもしれません。でも、このナンセンスさ、シュールなお笑い感覚がやっぱりティム・バートンの真骨頂。ブラックな味わいが好きなら、この映画はウケると思いますよ。
では、この映画、マニアックであまりウケないかというと、そうでもなさそうです。昨日の初日より結構人が入っているし、内容そのものはわりと手堅く作ってある感じ。途中で脱落していく子供たちも典型的なやなタイプで、見る人の共感を得そう。最後に、ビッグフィッシュとシチュエーションが似た泣かせの場面もあります。
それでもねぇ、あの途中で入るウンパルンパ(?)の歌が、バートン的バカバカしさの極致。なんだか途中でミュージカル映画を見ているような気になりましたよ。あの曲だけ売りだしたら意外と売れるかも。
三つ子の魂百まで…
ただいま、部屋の物置と化しているクローゼットを整理中。
高校、大学時代の教科書、ノートなどがぼろぼろのケースの中にしまってあったので、ホームセンターで収納ボックスを買ってきて、中身を入れ替えていました。
そんなとき、思わず中に入っているものをつい懐かしく読んでしまうもの。その中に、大学の合唱団で、私が一人で執筆して団内で発行した「合唱のための和声学」なんて冊子が見つかりました。うーん、懐かしい。そんなこと、やってたんですねぇ。恥ずかしい部分も無いわけではないけど、意外と十九年前の私、良くやってるじゃないですか!難しくて誰も読まないよーと当時も言われましたが、確かにヘビーです、これをまともに読もうとすると。
冊子の内容は、最初に三和音の構成音とその連結の説明、それから四和音の説明、そして後半は愛唱曲の和声分析を何曲もやってます。書いてあることが、実は、恐ろしいほど今の自分の考えと同じで、ちょっと驚き。これは喜んでいいものなのか?おまけに取り上げられている愛唱曲も今でも私が好きな曲ばかりだったりするんですね・・・
三つ子の魂百までと思い知らされた出来事でした。
高校、大学時代の教科書、ノートなどがぼろぼろのケースの中にしまってあったので、ホームセンターで収納ボックスを買ってきて、中身を入れ替えていました。
そんなとき、思わず中に入っているものをつい懐かしく読んでしまうもの。その中に、大学の合唱団で、私が一人で執筆して団内で発行した「合唱のための和声学」なんて冊子が見つかりました。うーん、懐かしい。そんなこと、やってたんですねぇ。恥ずかしい部分も無いわけではないけど、意外と十九年前の私、良くやってるじゃないですか!難しくて誰も読まないよーと当時も言われましたが、確かにヘビーです、これをまともに読もうとすると。
冊子の内容は、最初に三和音の構成音とその連結の説明、それから四和音の説明、そして後半は愛唱曲の和声分析を何曲もやってます。書いてあることが、実は、恐ろしいほど今の自分の考えと同じで、ちょっと驚き。これは喜んでいいものなのか?おまけに取り上げられている愛唱曲も今でも私が好きな曲ばかりだったりするんですね・・・
三つ子の魂百までと思い知らされた出来事でした。
2005年9月7日水曜日
合唱エンターテインメントを作曲の立場で考える~みんなシリアス好き?
やはり日本人って、芸術というとシリアスでなきゃいけない、という感覚が強いんじゃないでしょうか?
あらためてそう言うと納得してくれる人は多いのだけど、いざ自分たちが何か演奏しようという段になると、みんなやっぱり芸術って高尚じゃなきゃいけない!って感じてるんですよね。もう何百年も前の作曲家なんて神様みたいに崇拝しちゃうし、宗教音楽だけを好んで歌うのもそういう意識があるからだと感じます。
そして邦人曲の場合、メッセージ性の強いテキスト、あるいは内向的で哲学的なテキスト、それに派手なピアノ伴奏を持った劇的な音楽か、ビート感の薄い起伏の少ない音楽がつけられ、深い精神性を持った曲として広く歌われたりする場合が多い(どんな曲が当てはまるか、具体的に想像してみましょう^^;)。
そういった楽曲を否定するつもりは全くありません。音楽芸術のあり方として、創作家が理想を追い求めた結果の一つであることは確かです。
しかし、それが深い考え無しに(見せかけの)芸術の高尚さを有難がる人々の要求に答えたものだとしたら、私はあまり嬉しくない。いつしか創作家自身が、そのようなスタイルの中で高尚な芸術家を気取り始めていくことになるでしょう。しかし、それは部外者からみれば滑稽に見えるだろうし、創作家の態度としてある意味、安易と言えます。
そんな今こそ、エンターテインメントの意識を持って人々を楽しませるという目的で書かれた音楽が必要だと思います。本来、芸術というのはそういうものではなかったでしょうか。新しくて楽しいものが人々に受けるのです。古い価値観の人には受け入れられないかもしれない。しかし、新しい流れが一般化され、その一方人々の興味から次第に外れてしまった芸術は、古典芸能化していくのみなのです。
常に、聴衆に向き合い、コンテンポラリーであり続ける努力が、創作家には必要ではないかと私は考えています。
あらためてそう言うと納得してくれる人は多いのだけど、いざ自分たちが何か演奏しようという段になると、みんなやっぱり芸術って高尚じゃなきゃいけない!って感じてるんですよね。もう何百年も前の作曲家なんて神様みたいに崇拝しちゃうし、宗教音楽だけを好んで歌うのもそういう意識があるからだと感じます。
そして邦人曲の場合、メッセージ性の強いテキスト、あるいは内向的で哲学的なテキスト、それに派手なピアノ伴奏を持った劇的な音楽か、ビート感の薄い起伏の少ない音楽がつけられ、深い精神性を持った曲として広く歌われたりする場合が多い(どんな曲が当てはまるか、具体的に想像してみましょう^^;)。
そういった楽曲を否定するつもりは全くありません。音楽芸術のあり方として、創作家が理想を追い求めた結果の一つであることは確かです。
しかし、それが深い考え無しに(見せかけの)芸術の高尚さを有難がる人々の要求に答えたものだとしたら、私はあまり嬉しくない。いつしか創作家自身が、そのようなスタイルの中で高尚な芸術家を気取り始めていくことになるでしょう。しかし、それは部外者からみれば滑稽に見えるだろうし、創作家の態度としてある意味、安易と言えます。
そんな今こそ、エンターテインメントの意識を持って人々を楽しませるという目的で書かれた音楽が必要だと思います。本来、芸術というのはそういうものではなかったでしょうか。新しくて楽しいものが人々に受けるのです。古い価値観の人には受け入れられないかもしれない。しかし、新しい流れが一般化され、その一方人々の興味から次第に外れてしまった芸術は、古典芸能化していくのみなのです。
常に、聴衆に向き合い、コンテンポラリーであり続ける努力が、創作家には必要ではないかと私は考えています。
2005年9月6日火曜日
マトリックス on DVD
��年前に公開された映画マトリックスリローデッドとレボリューションズ。当時の感想はこちら。ここで最後に言っているように、ようやくこの3部作のDVDをついに購入。といってもセットでなくて、安くなっていたので結局バラ買いすることに。
あらためてマトリックスを見直すと同時に、ネットでマトリックスの説明をしているサイトなどを見て、ようやく内容が見えてきました。
それにしても、こんなセリフがややこしかったり、思わせぶりだったりしたら、理解しろというのが無理ですよ。そもそも製作側は理解させることを目指していないのだと思います。物語の裏に潜む設定を、なるべく表面に出さずに、わざと多義的に残しているのです。こういったやり方は、どうも日本のアニメの影響のようだけど、個人的にはあまり感心しません。
結果的に、素人目には、マトリックスはシリーズを追う毎に面白くなくなっているように見えます。いろいろな意味で、新しいモノを提示したのが最初のマトリックス。結局、そのインパクトに後の二つは勝てなかったのではと思えます。
しかし、それでも、リローデッドから提示されているマトリックスの世界というのは、興味深いものがあります。マトリックスは仮想現実空間であり、全てはプログラムによって記述されています。従って、登場人物も全てコンピュータ上で動作するプログラムなのです。マトリックスでは、あらゆる現象がプログラムの動作のアナロジーとして表現されます。そういった世界観にソフトウェアエンジニアの私としては、惹かれる部分があるのは確か。
結局、ネオの役割はソースに行って、マトリックスをリロードすることです。実際、ネオの5人の前任者も同様にしてきました。そうすることによって、マトリックスは新しくバージョンアップされるのです。これがシステムの設計者(アーキテクト)、及びオラクルと呼ばれる預言者が考えたマトリックスのシステムです。
このシステムには、役割を終え、削除されるべきプログラム(オブジェクト)なのに削除を拒んでいる者、すなわち漂流者(エグザイル)がいます。キーメーカーも、スミスもその一人。これあたりは、お行儀の悪い書き方をしたプログラムが、RAMをどんどん使っていって解放しない感じをうまく表現しているように見えますね。
コンピュータシミュレーションの仮想現実が、ほとんど現実と変わらないほどの完成度に達したとき、まさにマトリックスのような世界が生まれるのでしょうか・・・
あらためてマトリックスを見直すと同時に、ネットでマトリックスの説明をしているサイトなどを見て、ようやく内容が見えてきました。
それにしても、こんなセリフがややこしかったり、思わせぶりだったりしたら、理解しろというのが無理ですよ。そもそも製作側は理解させることを目指していないのだと思います。物語の裏に潜む設定を、なるべく表面に出さずに、わざと多義的に残しているのです。こういったやり方は、どうも日本のアニメの影響のようだけど、個人的にはあまり感心しません。
結果的に、素人目には、マトリックスはシリーズを追う毎に面白くなくなっているように見えます。いろいろな意味で、新しいモノを提示したのが最初のマトリックス。結局、そのインパクトに後の二つは勝てなかったのではと思えます。
しかし、それでも、リローデッドから提示されているマトリックスの世界というのは、興味深いものがあります。マトリックスは仮想現実空間であり、全てはプログラムによって記述されています。従って、登場人物も全てコンピュータ上で動作するプログラムなのです。マトリックスでは、あらゆる現象がプログラムの動作のアナロジーとして表現されます。そういった世界観にソフトウェアエンジニアの私としては、惹かれる部分があるのは確か。
結局、ネオの役割はソースに行って、マトリックスをリロードすることです。実際、ネオの5人の前任者も同様にしてきました。そうすることによって、マトリックスは新しくバージョンアップされるのです。これがシステムの設計者(アーキテクト)、及びオラクルと呼ばれる預言者が考えたマトリックスのシステムです。
このシステムには、役割を終え、削除されるべきプログラム(オブジェクト)なのに削除を拒んでいる者、すなわち漂流者(エグザイル)がいます。キーメーカーも、スミスもその一人。これあたりは、お行儀の悪い書き方をしたプログラムが、RAMをどんどん使っていって解放しない感じをうまく表現しているように見えますね。
コンピュータシミュレーションの仮想現実が、ほとんど現実と変わらないほどの完成度に達したとき、まさにマトリックスのような世界が生まれるのでしょうか・・・
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