2019年9月29日日曜日

お金の回り方

大局的に見れば、自分の考えは筋が通っているとは思うけれど、結局、世の中がお金で回っている以上、それをうまく集められる人たちが力を持つことは避けられない。

だから、お金の回し方を変えていくか、そもそもお金を放棄するしかない。

私がずっと夢想しているのは、後者のお金を放棄する方法だ。

対価は欲しい人から与える人に直接届けられる。そんな、とてもシンプルなやり方が、今のお金では不可能になっていると思う。
お金を扱うときには、債権や証券のような仕組み、それを扱う金融機関が必要で、ルールに則った企業会計がきちんと管理され、それに従ってお金は回る。
お金は常に仕組み、システムの中で管理されており、そのシステムを回す(権限のある)立場の人たちにお金は流れる。

必要なモノを作ったり、サービスを提供したりする末端の労働者と、それに対価を支払う末端のお客様の間には、直接な価値のやり取りは存在しない。必ず、企業の売り上げに計上された後に、給料として労働者にお金は配られる。

お金である以上、この流れは当面変えようがない。

ただし、お金でないものであれば、全く新しい価値循環の方法をゼロから考えていけばいい。もっと今の時代に即した形で。
だからこそ、お金のようなものではない新しい物差しに、私は期待してしまう。


仮想通貨も基本はお金のアナロジーだ。
ただし、使っているうちにお金でなくなる可能性は秘めている。

もっと今のお金ではない何かは何か?
ちょっと前、個人に投資するようなサービスができたけれど、あういうのがより洗練されたような感じ。
多分、株が個人に適用されるようなものなのだと思う。

ただし、それを売り買いして儲けるとかそういうことではなく、どちらかというと、個人の評価システム的なもの。ちょっと考えると、超ダークな社会になりかねない話だけれども。

でも、そういう仕組みがなければ、今のままではスキルのある人に直接お金が届かない。そこが今後の大きな問題だと思う。

先日の、ファブ地球社会コンソーシアムで、スキルをバッジしたらどうか、というアイデアが出てきて、とても面白いと感じている。うまく運用していけば、これこそお金のない世界での、新しい世の中の回し方になってくれれば嬉しい。

2019年9月22日日曜日

アート主義の時代と私がやってきたこと

2012くらいからmakeにはまった。
合唱はそれからまだ3年ほどはやっていたけれど、2015年にやめた。
その間、これでビジネスできないか、ずっと考えてきた。もう7年も。
これだけ長い間、同じようなことを考えて何も行動していないのだから、きっと私はまだ10年も同じことを繰り返しているに違いない。
本当はどこかで行動が必要なのだろうけれど、全く勝算がない行動はどう考えてもとれない。

アート主義の時代がいつ来るのか、その見極めが大事だ。
今の資本主義は当然、そう簡単には終わらない。しばらくはアート主義と並存する期間がある。少なくとも20-30年くらい。

それでも、数年くらいのうちにアート主義が立ち上がる、という楽観的な見通しの上で、自分の計画を立てるしかない。

アート主義はどんな形で立ち上がるのか?
GAFAMに代表される巨大ITプラットフォームが世界帝国化する。彼らは納税義務さえ軽々飛び越え、利益を出し続け、先端テクノロジーに投資し続けるだろう。
その一方、ほとんどの企業は才能を吸われ、抜け殻のようになり、プラットフォームにしがみつくしか生きる術がなくなる。

国よりも強くなったITプラットフォームは、便利さで人を操作する。
法律よりも強く人の行動を制御できる力を持つようになる。
中国は国家権力で、EUはGDPRなどで対抗する。どこが勝つかは分からない。
意外と中国かもしれない。その可能性は常に心の片隅に置いておく必要がある。

なぜなら、中国ほどオープンソースの精神が進んでいるところもないからだ。ITプラットフォームも依然として大事な技術は抱え込む。しかし、SDGs的な価値観からいえば、優れた技術は囲い込むのではなく、公開すべきだ。そのためには、自分たちが儲ける、という価値観を越える必要がある。

GDPRについては、いまひとつ筋が悪いと思う。
倫理的なルールで人を縛るのは無理だ。人の欲望を使って、人を制御するべきだ。

データをどう扱うのか、そのあたりの展開は注意する必要がある。それにより、ゲームを先導する主体が変わってくるからだ。
できれば、ITプラットフォームでもなく、国家でもないほうがいい。オープンソースをべーすにしたものであってほしい。

つまり、自分のデータはどのプラットフォームからもオープンなフォーマットで吸い出すことができるようになっていればよい。技術的に難しくても、誰かが簡単にできるようにしてくれる。
例えば、Gmailが嫌になったから、別のメールシステムに乗り換えたいとき、Gmailを全てオープンフォーマットで吸い出せればよい。(今でもできるとは思う)

そういう仕組みが無ければ、そのサービスが廃るような価値観になってくれれば、ある程度自分のデータを自分で制御するすべは手に入ると思う。

で、アート主義にどう繋がるかはまた別途。


2019年9月14日土曜日

さらに資本主義の終焉について

同じことを何度も考える。

地球上にフロンティアが無くなった時点で資本主義は終了する。
イースター島で起きたことと同じことが、世界全体で起きる可能性がある。だからこそ、SDGsが叫ばれる。でなければ、人間社会がどこかで文明崩壊する。

もう一つ、資本主義の限界の理由の一つとして、時間差、距離差が極限まで小さくなっていることが挙げられるかもしれない。
時間差や距離差があるからこそ、富の偏在が発生する。ある人は持っていて、ある人が持っていなければ、それを交換して両方がハッピーになる。これこそが資本主義の大元の原理だと思う。

ところが情報は瞬時に世界を駆け巡り、モビリティや運送の発達で、世界は非常に狭くなった。まだ文化や言語の壁はあるが、それらは少しずつ少しずつ崩れていくことは間違いない。
時間差、距離差が無くなることで、モノは瞬時に世界に流通し欲しいものを誰もが手にできるようになった。全てはコモディティ化し、珍しいものがなくなることで、価格は極限まで下がる圧力を受けるようになる。

逆にそのような社会ではコモディティにならないことが大きな戦略の一つとなる。
コモディティは博打のようなもので、当たらなければ大きな投資が無駄になる。だから誰もが買うような必需品は大きな会社が大規模な製造手段と流通手段で世界に販売し、薄利多売を目指す一方、ほとんどの小さな会社はコモディティにならないもの、よりアート性の高いものを販売するようになるだろう。

資本主義的な発想なら、たくさん売って利益を出すことが正義だけれど、たくさん売れなくても、自分を支持してくれる世界中の少数のファンが自分に必要な分だけ投資をしてくれればいいということになる。
自分の活動に世界中の人が投資、というより寄付してくれるような世界。これこそがポスト資本主義な世界だ。

アーティストであることが一番価値のある社会。
芸術作品を作ることだけがアートではない。人へのサービスにもアート性は宿る。というより、全ての人の行為には常にアート性が宿っていて、どのような職業であっても、そのようなアートセンスが必要とされるような社会になっていく。

このような社会のことを何と呼ぼうか。
ポスト資本主義でもいいけれど、とりあえずアート主義の時代とでも言うべきか。

アート性の高い人が評価され、そのような人はいろいろな職業で優遇されるようになる。
人の流動性は高まり、必要とされる人とそうでない人の格差は高まる。ただ、その格差は貧富の差というより、人間力の差だ。
貧者が富めるものに使われる時代から、少しずつ愚者が賢者を祀り上げる時代になっていきそう。

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そういう時代には、そもそもお金がいらなくなる。
お金こそ、資本主義の象徴だ。
お金は、数量を増やすことを肯定する。お金は持っている人ほどお金がさらに集まりやすくなる。お金で時間差や距離の差も買うことができる。

ところが増えることが難しくなり、誰もが時間差や距離差を克服できる時代、お金を人間活動の唯一のものさしにするには都合が悪くなってきた。
アート主義の時代には、アート性の高い人が評価されなければならない。
現状では、そういう人にお金は流れない。

アート性の高さは、まさに評判を客観的に数値化して評価するしかない。数量では評価できない。
評判の数値化、これこそが未来の貨幣だ。と言いつつそれはもはや貨幣ではないのだろう。なぜなら、貨幣みたいに交換したくても評判は減らないからだ。むしろ、株価のようなものだ。
そういえば、個人を株式化するようなサービスがあったっけ。何となくわかる人にはわかっているのだと思う。