2013年6月29日土曜日

暗譜の苦労

合唱をしていると暗譜の苦労はつきもの。
以前も書いたように、私自身は暗譜を必ずしも良いものとは思っていませんので、私が決定権を持つ場合暗譜にすることは多くありませんが、それでも合唱活動していれば、暗譜せざるを得ないことは何度もあります。

とりわけ、私は人に比べるとどうも物覚えが悪いほうで、学生時代から暗譜には苦労しました。
大学生の頃、本番2週間前くらいにアンコール曲が決まって、それを暗譜せねばならず、歌詞の冒頭の音節だけ抜き出した紙を作って覚えたりとかして工夫したものです。

暗譜が苦手という意識があるので、暗譜に対しては昔から戦略的に(具体的な方法を編み出して)対応します。
私の場合、歌っているうちに何となく覚えるということがあまり無いのです。

カルミナブラーナを暗譜したときは辛かったですね。
特に男声の In Taberna。メロディアスとはとても言えない機関銃のような音符の中に、莫大なラテン語の歌詞が詰まっています。つまり音楽的な暗譜ではなく、ひたすら歌詞を覚えるのが大変な曲なのです。
このときは、歌詞をワープロで書いてプリントアウトして、時間のあるときに何度も何度もそれを唱えるという方法で何とか覚えました。

暗譜の苦労というと、歌詞もそうなのですが、似たようなパターンのフレーズが繰り返されるときに回数を間違わないで歌う苦労というのがあります。
この場合、曲をある程度解析して、この繰り返しが何回、といったことを数えておく必要があります。しかし事前に数を数えておいても、歌っている途中でそれがカウント出来ないと意味ないですから、今度は歌いながらカウントするという訓練が必要になります。

上記のパターンで最も苦労したのが、ジャヌカンの「マリニャンの戦い」。
これを暗譜しようとしたのも無謀でしたが、今では懐かしい想い出です。
この曲の暗譜のために、私はベース専用パート譜を作りました。せっかくなので、ここでお見せしましょう。

まず、長い曲全体を見開き1ページに収めます。
背に腹は代えられず、歌詞はカタカナです(元はフランス語)。繰り返しのところには歌詞は書きません。
同じパターンが繰り返されるところには繰り返し回数を記載し、蛍光ペンで色を付けます。
この楽譜で何度か歌っているうちに、曲全体の構造やパターンが把握出来るようになり、だんだん次に歌うフレーズが頭に浮かんでくるようになりました。

これを暗譜で臨んだ某コンクールのステージリハのとき、ベースが落ちてしまい全くリカバリ出来ず顔面蒼白。おかげで本番は何とか歌い切りましたが、そのときは本当にスリリングな経験をしました。しかしその緊張感のためか、何と入賞することが出来ました。そのときの演奏はこちら

最近だと、松下耕「狩俣ぬくいちゃ」も大変でした。これは手拍子の所作付きなので、譜面台をおかない限り暗譜するしかありません。
しかも、繰り返しで苦労するタイプの暗譜で、マリニャン系の難しさがありました。このときも曲の後半は、自分用にスペシャル楽譜を作りました。

多くの人はひたすら歌って覚えるようですが、物覚えの悪い私は、これまで上記のような工夫をいろいろしてきました。ご参考になれば幸いです。

2013年6月22日土曜日

新しい働き方としての Make

ここのところ似たようなことばかり書いているような気もしますが、今自分が一番気にしていることだから、気にせず書いてみます。

今、私たちの身の回りには多くの工業製品があります。
しかし、1970年代以降から今に至る、量産化された工業製品を購入するという習慣は、これまでの人間の歴史の中ではむしろ異常な事態だったのではないか、という言説を聞いて、なるほどなあと思ったのです。

工業製品が身の回りに増え始めたのは1970年代以降のこと。
それ以前は、多くのモノが必要に応じてそれが得意な個人によって作られ、壊れたら修理して使うというのが当たり前でした。1970年代以降いろいろな工業製品が大企業によって作られるようになると、一般の人はただそれを買うようになり、壊れても自分では修理できず、新しいものを買わざるを得ない、という価値観が当たり前になってきました。
私たちは、技術が複雑になるほど、工業製品は自分では作れないから、そうなるのは当然のことだと何となく思っていました。
しかし、機械を構成する各パーツが部品化されたり、簡単に作れるようになって、また昔のように個人が必要に応じて目的最適化されたものを作ることが容易になってきたのです。

モノ作りが得意な個人はその昔、近所に点在していました。この「近所に」はネット時代になって、近くである必要は無くなりました。
そして、このような環境が整えられるにつれ、工業製品の作られ方において、時代はまた70年代以前のように元に戻るのではないでしょうか。

これは、工業製品を作るのが大企業の仕事になってしまった現在の働き方を覆すことにもなります。
確かに、企業では多くの人が作業分担をし、それぞれの分担において最適化された仕事がされています。
しかし分業化が進み、業務の個別最適化が進むほど、初期投資も大きくなり固定費が大きくなります。これを解決するために、ある程度の数量を確実に売り切る必要が出てきます。

その一方で、昔から個人個人のニーズはそもそもとても多様だったのです。
その多様なニーズを一台でまかなおうとして、多機能な製品が増えてきましたが、それは使いづらい製品を増やすことにもなりました。
自分が使わない機能など、最初から入っていない方がユーザーとしては嬉しいはず。

そう考えれば、少ロットで痒い所に手が届く用な工業製品は、むしろ大企業でないほうが、開発の小回りが効いて有利になる可能性があるのです。

そして、50年前なら機械が得意だったから、街の技術屋さん、修理屋さんになれたような人たちが、これからの時代、ネット上での技術屋さん、修理屋さん、あるいは用途限定の特殊な製品を作っている人たちにまたなっていくような予感がするのです。
それはきっと楽しい未来になるはずです。

2013年6月14日金曜日

「未来の働き方を考えよう」を読んだ



ちきりんさんのブログはいつも楽しみに読んでいますが、そのちきりんさんの新しい本が出たので、早速購入。
しかも、本のテーマは「働き方」。いま私が日々いろいろと思っていることにぴったりの内容です。
結局、私は自分の持っている時間のほとんどを仕事に使っているわけですから、その時間が充実したものであって欲しいし、自分を幸せにしているものであって欲しい。

しかし、なかなか現実はそうもいきません。
その原因は、私にもあるし、社会や時代の問題もあるでしょう。もちろん、何かをなし得て充実した気持ちを感じるときだってあります。しかし、何より自分が今の生活をしている理由というのは、他により良い選択肢が無いと思い込んでいるからです。

この本は、そういった頭の固くなった40代を直撃する、非常に刺激的な提案が書かれています。
世の中の(とりわけ日本の)40代に対する挑戦状みたいなものです。

自分のことを棚に上げて言わせてもらえば、私の周りにいる40代の同世代の人たちはこの本に書いてあることをそうそう肯定出来ないと思います。
この本には、彼らが反論するであろう意見に対する反論まで先回りして書いてあるのにも関わらずです。
なぜかと言うと、その肯定出来ない気持ちは、ロジカルな思考ではなく、身体に深く刻まれた恐怖心に根ざしているからです。
そして、その恐怖心は私自身の心も大きく蝕んでおり、やはり頭で理解出来てもそう易々肯定出来ない私がいるわけです。

その一方で、もう一人の私がささやきます。
一度きりの人生なのに、やりたいことやらなくていいの? 心の中の満たされぬ想いを抱えたままでいいの? 実際のところ、どう生きたってなんとかなるんじゃないの?
それほどスゴい人間だという自負は無いけれど、自分が持っている得意技を組み合わせれば、そんなに悪くないくらいのパフォーマンスは出せるような気もしています。
そして何より、自分にはやりたいことは山ほどあります。


この本に書かれているように、これから数年が大きな変化になるというのは完全に同意します。
(そもそもこれに同意出来ない人も多いですが、それは単に変わりたくないという願望の現れに過ぎません)
特に組織から個人、という流れは相当大きな流れになることでしょう。
そんな流れを知ってか知らずか、今多くの組織はむしろ逆ベクトルにひた走っています。それは、極端なリスク回避指向であり、責任回避指向であり、先送り指向であり、とんがった考えの排除です。
いずれ、その反作用で個人が益々、組織から離れる事態が進むでしょう。しかし、その流れが本格的になってからでは、個人には恐らく遅過ぎるのです。
個人で生きることを支えるのは、Web上に築かれた個人の信用であり、そこには積み重ねがどうしても必要です。すでに多くの先駆者がいれば、後から入ってくる人が成功するのは難しくなるに違いありません。

ここまで、合理的な理由があるにも関わらず、恐怖心がまだ勝ります。
同じ志をもつ仲間がもっとたくさん集まれば、もしかしたら何かが変わってくるのかもしれません・・・。

2013年6月8日土曜日

これから起きること ─ 新しい働き方:組織を縛るルール化からの解放

突き詰めれば、面白い発想とか、素晴らしい技術とか、想いが伝わる話し方とか、人々を感心させるようなことは全て個人の力によるものです。
組織が良いパフォーマンスをするために、「誰がやっても上手くいく」ような仕組みを考えるのか、能力のある個人を適切に処遇し配置するのか、二通りの考え方があるように思います。
そして、時代は明らかに後者を指向しているにも関わらず、多くの日本的な組織はタテマエとして前者を指向しています。

「誰がやっても上手くいく」ような仕組みというのは一つの理想です。
いわゆる属人性の排除ということなのですが、それは実際には難しいことも誰もが理解しています。それでも、いろいろなタテマエを積み重ねると、そうであらねばならないというように誰もが考えてしまいます。

ISO9001みたいに、仕事のやり方をきっちりと規定しましょう、というルールを作ることによって、個人のやり方や能力に依存しない組織を作ろうという取り組みをしているところも多いでしょう。
しかし、ISO9001の導入で、書類が増え、監査もせねばならず、多くの人が書類仕事に振り回されるようになると、これが本当に会社のために良いことなのだろうか、と心の中で疑問を持っている人は多いです。
そもそもこういうルールはパフォーマンスの高い組織を作るために考え出されたものなのに、ルールの枠組みをしっかりしようとするほどパフォーマンスは低くなってしまい、結果的に本来のルールの意図とかけ離れてしまっているわけです。

同様な例として、ソフトウェア開発においてはプログラムを単に書くだけでなく、設計やテストの必要性が叫ばれています。しかし設計のやり方やテストのやり方を厳格に規定すればするほど、ますます多くの時間が取られ、それが本当に効率的な開発の方法なのか、疑問を感じることも出てきます。


とこのように考えると、こういった仕事のルール化の目的は属人性の排除では無いのではないか、という疑いをしてみる必要があります。
残念ながら、個人の能力には大きな差がありますし、人によって得手不得手も違います。そういった人々の能力がどんどん均質化し、誰がやっても同じように出来る、ということを理想とするならば、個人はどこまでもスーパーマン的な人間でなければいけません。
もちろん、そんなことは不可能なので、不可能な目標に向かってただ「頑張る」ことにしかならないわけです。
これが結果的に仕事の非効率性を生みます。

私の思うに、本来仕事のルール化は必要最小限度であるべきで、適用範囲が明確であることが重要です。
つまり、ルール化はパフォーマンスの低くなりがちな部分を下支えすれば十分であり、むしろパフォーマンスの高いところにまで影響を与えるようなルール設計をしてはいけない、と私は考えます。

残念ながら、多くの組織はルール化そのものが自己目的化してしまい、組織運営層は担当者に丸投げして、ウチはちゃんとルールを作っているよ、と言っているに過ぎません。
本来、ルール化は運営者が目指す組織を作るためのツールであり、トップが明確な意志を持ってルール化の方向性を決断しなければなりません。その辺りをきちんと理解しない限り、無駄なルールがどんどん増えていってしまいます。

じゃあ,どうしたら良いのでしょう?
ルールには現場に合わせた柔軟性が必要です。
まず大きな原則や汎用的な内容を一番上の階層で規定します。その大枠に合わせて、その下部組織はルールをもう一段階実務に合わせ込みます。
一度に全ての部署に適用するようながんじがらめのルールを作るのでなく、各部署がその現場に合わせた最適なルールであるべきなのです。
それは別の言い方をすると、現場に(各部署に)権限を与えることです。このような権限委譲を明確に設計することによって、組織はより効率化するように思います。

2013年6月1日土曜日

ボカロ音楽が示唆する未来の音楽

二日前にsasakure.UKというボカロPのアルバムを購入。タイトルは「トンデモ未来空奏図」。おふざけっぽいタイトルだけど、こういう言葉使いは好き。実際に音楽を聴いてみると、いわゆるボカロ系のフォーマットに従っているものの、何か親近感を覚えるようなセンスを感じました。

恐らく、彼はどちらかと言うと、一人で部屋の中で自分だけの世界を育てることに喜びを感じる類いの人で、逆に何人かでバンドを組んでカッコ良く演奏して人前で目立ちたい、というところから音楽を始めた人では無いのだと思います。

こういうタイプの人は、実は表現手段が音楽であること自体、偶然の産物であり、多感な時期に何に触れていたか(sasakure.UKさんは合唱らしい)、それによってその表現手段が決まっていたに過ぎません。
しかし、いずれ何かしら表現の世界に入ることは確実で、もしかしたらそれは小説だったかもしれないし、絵画だったのかもしれません。
実際、音楽活動をしている(た)作家は意外と多いです。彼らにとっては「表現する」ということだけが本質なのであり、音楽か文章かというのはただの手段に過ぎないのかもしれません。

ボーカロイド技術はそのような人々にとって大きな福音でした。
小説、詩、短歌などの文芸、絵画、彫刻などの美術系に比べると、音楽はどうしても演奏する必要があり、いわゆる創作が一人で完結するタイプの芸術ではなかったのです。そういう意味では、ダンスやパフォーマンスとか、演劇とか、映画製作とか、そういうタイプの芸術に近かったわけです。
しかし、シンセサイザーや多重録音技術から始まり、DAWでの打ち込み、そして最後の砦のボーカルが電子的に生成することが可能になったところで、ついに一人の作家が最終成果物まで完成することが可能になったのです。

これはやや極端なことを言うと、音楽史においても大きなインパクトになり得る事態ではないでしょうか。
音楽はすでに、ここ百年くらいのオーディオ技術の進歩によって鑑賞が複数から個人的なものに変化していました。
そして、ここ10年くらいのデジタル技術の進歩は、音楽製作そのものを個人的な活動に変化させてしまいました。
つまり、これで作家から消費者への一対一のダイレクトな伝達が可能になったのです。これは、音楽が美術や文芸などと同じレベルの鑑賞方法に変わったことを意味します。

恐らくこれから音楽は二つの方向に分かれるのだと思います。
作家から個人への一対一の伝達である音楽と、演奏家のパフォーマンスを観客が楽しむタイプの音楽の二つです。
結果的に、前者は文芸的世界を益々指向するようになるでしょう。
表現はもっと過激になり、内容も専門的、内省的になり、主義主張も明確になり、より鑑賞する側を限定するようになるでしょう。

そして、一対一音楽と、多対多音楽は、最初のうちは未分化ですが、これがいずれ交わらなくなるほど分化し、一対一音楽はライブで演奏されなくなる方向になるのではないでしょうか。
他対他もパフォーマンスが中心になれば、そのライブ感が楽しみの中心となり、記録した映像を観れたとしても、やはり演奏する場に人々が集まることに価値を置くような方向にどんどん進んでいくはずです。

やや余談ですが、映画も近いうちにより音楽と近い状況が生まれるだろうと思います。つまり一人の作家がたった一人で映画を作ることが可能になるのです。二次元的なアニメではもうそれはほぼ可能ですが,最近では3Dアニメの部品をネットで入手すれば、実写レベルとはまだ程遠いけれど、ある程度の技術さえあれば、それらのキャラを動かして一人で映像作品を作ることも可能です。

ボカロにしても、まずはアニメ的なところから始まっています。これはデジタル技術との相性が良いということもあるのでしょう。
より技術が発展し、データも増えていけば、ますますリアルな歌声を生成することは可能になるし、いずれ本当の演奏と見分けがつかなくなるレベルに到達すると思います。

そんな未来には、そもそも私たちは音楽で何を伝えたいのか、そういう根本からいろいろなモノゴトを考え直す必要がありそうです。