2011年9月29日木曜日

日本辺境論/内田樹

なかなか刺激的で面白い本でした。
日本人論は結構好きですが、「日本は辺境である」という点で一貫した主張をしている本書は、また大変刺激的。
「辺境である」ということは、日本は世界の中心ではなく、その周辺に位置しているという意識です。常に優れたものは、日本の外にあり、私たちはそれを取り入れなければいけないと思っている。表面的な文化はどれだけかなぐり捨てても、その性向だけは変わることが無く、これがまさに日本人であるがゆえ、ということなのです。
そして我々はこの辺境人であることを利用し、敢えて政治的に思考停止しバカになることによって(子どものフリをして)、実を得るという外交術に長けている、と言います。このあたり、なんだか逆説的に日本政治をバカにしているようにも読めますが、それが日本人の生きる知恵だとすると大したものです。
しかし、これは逆に、日本が率先して国際社会にどう貢献するか、ということを一切考えようとしない国民性にも繋がっています。

辺境人は学びに長けている、といいます。
その理由は武士道に由来する、その無防備性、幼児性、無垢性にあります。武士は小賢しい損得勘定などせず、ある美意識にのみ従って生きようとします。それは極めて純粋だけれど、無防備でもあります。
そのような無防備さ、師に対して完全に「愚」となり外来の知見に対して、真っ白な気持ちで学ぶ態度こそ、「学び」の最も効率よい方法です。ですから、日本人は師匠から便所掃除や廊下拭きを命じられても、そういった無意味な行為さえ感情的に合理化しようとし、正しいこと、やるべきことに変えてしまうことができるのです。
そういった無条件な権威への過剰な追従は、ときとして奇妙な物語を生み出します。
例えばドラマ「水戸黄門」では、ただ印籠を出すだけで、悪人がひれ伏してしまうお馴染みの場面。ご老公が直接印籠を出すのでなく、助さん格さんが印籠をだすことで「何だか知らないけど偉い人」であることがより助長されます。ワルモノは元々、その根拠の無い権威を振りかざして生きてきたので、水戸黄門のさらに大きな権威にひれ伏せざるを得ない、そういう心象が極めて日本的なのです。

最終章、日本人の日本人たるゆえんは日本語にある、という内容。これぞ、まさに我が意を得たりという感じでした。
テレビの討論番組の様子を書いたところが面白い。
議論をしていると、誰が上位者であるかを競うような場となり、そのため誰がその議論にうんざりしているかを競うようになる。そうすると「あのね〜」「だから〜」のように、素人に上位者が口を挟み込む常套句がだんだん増えてくる。
確かに、政治家が記者などに対する横柄な態度は、たいていこういう心持ちから現れます。
日本人の議論では「何が正しいか」よりも、「誰が正しいことを言っている人間か」に議論が流れていき、最終的に上位者であることを勝ち取った者の意見が通るようになります。こうして、不自然に態度が大きい人間が、世の中を牛耳るようになるのです。
これも、日本語というのが、常に話者の相対的関係を規定しないと会話が成立しない、という性質を持っていることに由来します。
たくさんの人称代名詞があり、相手の呼び方次第で会話の上下関係が規定される。そういう関係性があって、日本語は初めて会話が成立するのです。
その他の日本語の話題としては、世界でほとんど唯一とも言える日本語の表意文字、表音文字のハイブリッド表記の特殊性とか、なるほどと思いました。

全体的に言えば、やや日本を卑下した傾向があるものの、常に外来の文化が基準になってしまう傾向、権威主義的な傾向、逆に無垢になって真っ白な状態で物事を吸収しようという態度、さらに日本語による上下関係の明確化、こういったものが全て日本人的である現象をうまく表現していると思いました。

2011年9月25日日曜日

あなたの人生の物語/テッド・チャン

偶然、本屋で手に取ったテッド・チャン著の「あなたの人生の物語」が面白そうだったので買ってみました。面白そうと思った理由の一つはコレ。彼のアルバム名が「あなたの人生の物語」なんですね。これが元ネタだったというわけです。
この本の中には、全部で八編の短編(中編?)が収められています。

早川書房の水色のSF文庫から出ているので、いちおうジャンルとしてはSFということになるんですが、いわゆるSFとは肌合いが違います。
いや、それは私のイメージで言っているだけで、SFというのはこういう表現も出来る懐の深いジャンルなのだと言う人もいるかもしれません。
この短編集はどれも、非常に変わった設定の世界観の中で、人々は何を考えどんな行動を取るのか、そういったことを切々と綴るというスタイル。しかし、その世界観は非常にリアルで、そしてディテールに拘り、また空想世界なのに理論的な整合性をどこまで追求します。この執拗さは半端じゃない。
ストーリーというより、世界観のアイデアを楽しむ物語です。

それぞれの短編は明確な起承転結はなく(もちろんちょっとしたオチはあるのですが)、むしろ異常な世界観の中でひたすらその日常が記述されていくだけ。そういう意味では純文学的な指向とも言えます。
非常に文章の密度が濃いので、読むのが疲れますし、短編によってはその微細なディテールの説明や、飽くなき論理追求にやや閉口してしまったのも確か。
アメリカでは、各種文学賞を受賞しているとのこと、徹底的な論理への拘りが評価の高さに繋がっているのでしょう。

私が気に入った作品は「バビロンの塔」「あなたの人生の物語」「顔の美醜について」。
この三編の特異な世界観の紹介をしてみましょう。
「バビロンの塔」は紀元前、バビロニアで行われていたバビロンの塔建設の時代、という設定。彼らはヤハウェの神を信仰しているので、旧約聖書をベースにしているのでしょう。しかし、塔がどんどん高く作られ、月や星や太陽が横を通り抜け、ついに天頂に到達する、というのはすでに我々の知っている宇宙の姿を否定して、当時信じられていた世界の形をベースにしているわけで、それだけで驚き。そういう発想がスゴいと感じました。

「あなたの人生の物語」は、宇宙人が出てくるのだけど、それ自体が全く話の中心ではなく、ある女性言語学者が産んだ子どもへの想いが切々と語られます。これが泣ける。それでも運命を受け容れるんだ、という彼女の力強さが心に残ります。そして宇宙人は単なる狂言回しに使われるだけという・・・

「顔の美醜について」は本当に面白い!
美男美女とは何なのか、人を美人だと思うとはどういうことなのか、特異な設定を作って、様々な人にいろいろな意見を語らせます。よくまあ、一つの設定でこれだけたくさんの意見を思いつけるなあ、というのが感心のしどころ。作家として社会を見る目、人を見る目の力に全く恐れ入りました。

空想世界の設定マニア的な人にはたまらない面白さだと思います。
私の感性にも無茶苦茶ヒットしました。非常に寡作な作家らしく、この本以外の作品があまり無いようですが、また追っていくべき作家が増えました。

2011年9月22日木曜日

ネットの嫌なところ

SNS、ネットが世界を変える!とか言い続けてきましたが、良い点もあれば悪い点も必ずあるものです。
ネット社会の問題はもちろんいろいろあるけれど、私の視点で二点ほど書いてみようと思います。

一つはスパム問題。
もちろん、スパムメールが代表的なものですが、もう少し適用範囲を広げて考えてみれば、何かを買っただけでしつこく送られてくるDMとか、Twitterで何かのキーワードを口走っただけでフォローしてくる謎の人とか、mixiですぐに儲かるとかなんとかプロフィールに書いている人が足跡を残したりとか、つまり、そういった赤の他人が不特定多数に向けて望まない宣伝行為をすること、全てが私にはうっとうしいです。
なんで、こんなことが起きるのでしょう。
それはネットがタダだから、に違いありません。郵便なら80円は必要なのに、メールを一通送るのにお金はかかりません。1万人にメールを送っても、100万人にメールを送ってもタダです。だから、一人でも引っ掛かってくれるなら送り側の能力のある限り、いくらでも送信すればよいわけです。
PCの作業というのはたいてい自動化可能ですから、こういったスパム的な行為はプログラムを書くだけで、達成することは可能です。それが、ネットの大量のスパムの原因となっているわけです。
だからといって、いきなりネットを有料にするわけにもいきません。
また、どこからが違法でどこまでがセーフかという線引きも難しいので、単純な取り締まりは非常に難しいです。こういった情報のノイズが無視できなくなってくると、ネット社会そのものの価値が低下していってしまいます。

もう一つは、ネットそのものの問題ではないのですが、嫌な人がよけい嫌な人になってしまう怖さがネットにはあります。
ネットはいわば知性のパワースーツなのです。賢い人はより賢くなっていく。ところが、よからぬことを考える人は、より悪い人になっていくし、過激思想の人はどんどん過激さが増していってしまいます。
私は40過ぎの男性なので、顔出し、名前出ししても、ほとんど問題は無いのですが、妙齢の女性ともなればなかなかそうもいきません。ストーカーなどに付きまとわれてはたまりません。
一度悪意を育ててしまった人は、とことんネットでその悪意を発揮しようとするでしょう。それで迷惑を被る人も少なからず出て来ます。
これまた、どこからが許されて、どこから許されないか、という線引きが微妙。だから、結局当人同士の問題にしかならない。こういうトラブルが一般化してくると、ネットは何とも薄気味悪い、人間の負の感情の巣窟に思えてきてしまうことでしょう。

人間は(自分にとって)いい人ばかりでは無いのです。より良い未来と引き替えに生ずる、ネットの負の部分をどのように解決していくのか、これもまた、隠れた大きなテーマだと思います。

2011年9月18日日曜日

SNSが変える未来─政治こそネットで

前書いた話題ですでに政治のことに言及しているわけですが、考えてみると政治こそ、どんどんネットにシステムを作ることによって良い方向に向かうんじゃないかという気がします。

例えば我々の政治活動の基本は投票ですが、投票システムなんて、ソフトウェアの仕組みでうまく作れそうな感じがします。とはいえ、なかなか電子投票が本格普及しないのは、まだまだ不具合を克服する環境が整っていないのでしょう。仕様も難しそうですし、何か起きたときの対処法なども考えておく必要があります。それにしても、いい加減誰かが決定的な電子投票システムを作ってくれないかなと思います。
これだけ電子投票がいろいろと話題になっているのにも関わらずなかなか進展しないのは、政治家に保守的な方が多いからではないでしょうか。どこかの国で採用されて、コストメリット、その正確性と迅速性、各種分析が簡単にできるなどの事例が出てくれば、財政の厳しい国はすぐに飛びつくと思うのですが・・・

ただ、電子投票がかりに難しいとしても、ネット上で政治家が自由に活動できるようになれば、もっと政治環境も良くなっていくんじゃないだろうか、という気がするのです。
今は、各政治家がブログを書いて、ツイッターをする程度。そういった各種報告は紙の時代よりも伝わりやすくはなっているけれど、まだまだお堅い感じがして人々が広く読んでいるとは言い難いと思います。
しかし、どんな人でも自分の身の回りのことや、非常に狭い範囲の政治的話題について(著作権とか、高速道路料金とか、相続税とか・・・)思うところもあるはず。そういう自分と同じ信条を持つ政治家を個別政策ごとに応援する、といった支援方法もあるでしょう。
そのようになれば、その政治家は特定の政策についてネット、SNSなどで、役所が持っている各種情報を紹介したり、国の現状について報告したりすれば、非常に効率的に情報をシェアすることが出来るかもしれません。

この流れが出来ていくと、自然と地域への利益誘導型政治家というのはだんだん減っていくのでは無いかと思います。良くも悪くも、生活上困ったことを地域の政治家に頼んで(陳情して)解決してもらう、という方法で政治家と我々はもたれ合ってきました。
ところが、様々な政策が専門化し、そのために高度な判断が必要になるにつれ、政治家には公正で冷徹な判断を下せる人間が必要になってきています。そういう専門的な判断こそ、きっちり専門的な視点でのみ行っていかないと、世の中が回らなくなってきているような気がしているのです。

ネットの得意なことは、場所を共有していなくても同じ志を持った人が語り合える場が作れるということ、もう一つは政治的圧力や、密室による判断ではなく、公開の場で公正に議論が行える場が作れるということです。
これまでの陳情型、人情型の政治では、判断を鈍らせるばかり。専門家がきちんと討論し、その様子が完全に公開されるような場で物事が決まっていく、そういうように世の中は変わるべきだと思います。

2011年9月15日木曜日

音楽のハイコンテキスト性

音楽は世界共通の言語だ、などと言われます。
でも本当にそうなのでしょうか。むしろ音楽こそ、時代、地方、文化に対する依存度が強く、ある共通の価値観を共有したコミュニティでしかその良さを共有できない、いわばハイコンテキストな芸術なのではないか、と最近は思っています。
確かに文学は、特定の言語に依存する時点で、どうしてもその言語圏でしか味わえない部分があるのは確か。それでも表現主義的でなければ翻訳することによって、その意味を伝えることは可能です。
絵画も描かれている具象的内容が文化に依存しますが、逆に抽象画になるとコンテキスト性が低くなり、全世界の人が感じるままに鑑賞することは可能な気がします。

ところが、音楽はなかなかそう一筋縄ではいきません。
その一つの理由が、音楽がそもそも祝祭的な行事と大きな相関を持っていて、特定の文化圏に非常に強く依存しているという点があるでしょう。
音楽の大きな目的の一つは、そこに集まる大勢の人々をハイな雰囲気に持っていくための手段だと思われます。特に近代以前、人々の行動原理が宗教などに大きく影響されていた時代、音楽はその一体感を醸し出すのに重要な一面を担っていました。
それが、教会で演奏されていた宗教音楽であったり、祭りの際に演奏される太鼓や笛、踊りの音楽だったりするわけです。

また、歌詞がある歌の世界では、言語依存度が高まります。
小説のような意味性の高い表現方法では、翻訳しても伝わる部分も多いのですが、音楽にのる歌詞は意味性よりも感情表現を中心としており、その場合特に特定の言語である必要性が強くなると思うのです。
ある歌がどんなに素晴らしくても、外国語に訳して歌うと、たいていの場合原語の音楽が持っていた力は大きくスポイルされてしまい、味わいも随分変わったものになってしまう、といった想いは誰にもあるのではないでしょうか。

歌だけでなく、楽器にも文化依存度は付きまといます。
楽器の音色がまた、ハイコンテキスト性を高める大きな要素となり得ます。
とはいえ、世界共通になりつつある音色セットというのがいくつか思い付きます。例えばオーケストラの音色、あるいはロックバンドの音色。こういったものは20世紀にメディアが発達したことによって、世界に広く知られるようになり、世界的な音色の共通基盤となりました。
しかし、その一方世の中にはたくさんの民族楽器があります。そういうもので演奏され続けている音楽があります。確かにオーケストラ音楽やロック系の音楽はどこの国でも一般的になりましたが、そういう音楽の中にも、様々な民族的なテイストが残っているものです。
またポップスであっても、特定の文化圏での流行りの音などもあり、新しいハイコンテキスト性が再生産されやすい状況もあると感じます。

だから何なの、という突っ込みはあるでしょう。
しかし、演奏家として誰が誰に何を伝えたいのか、ということを考え出すのなら、自らが作り出す音楽のコンテキスト依存度というのを一度点検してみてはどうかと思います。それにより活動の幅も随分変わってくるものだと感じるからです。

2011年9月11日日曜日

合唱演奏で伝えたい何か

本当に伝えなければならないことは、詩の内容のどんなところなのか、なかなかゼロから分析を始めるのは難しそうなので、分かりやすくケースごとに考えてみましょう。

●例えば「大地讃頌」のような曲
ベタな例ですいませんが、誰でも知っている邦人合唱曲の名曲。これこそ合唱の基本的な力を効果的に表現できる希有な曲といっていいと思うのです。以前この曲について書いた記事はこちら
この詩の持つ壮大なイメージには本当に圧倒されます。大地こそ人間の恵みの源である。その大地を愛そう、というメッセージは極めて普遍的で、動物としての根源的なパワーを刺激してくれます。
そう、このメッセージはロジカルなものでなく、政治的主張でもない、内容の具体性は欠けるけれどもエネルギー密度の高い感性の奥底に直接訴える強さがあります。
どんなに言葉を尽くしても、この曲では一言「母なる大地」という言葉を連呼するだけで、歌う側、聞く側にエモーショナルな感銘を与えることが出来ます。
このとき、歌詞を一字一句伝えるべき、と誰が考えるでしょうか。もちろん言葉は明瞭なほうが良いけれど、むしろ追求すべきはこの曲の持つ壮大さ、荘厳さをどのように声楽的に表現するかであり、迫力のサウンドこそこの曲にふさわしいと感じます。

●物語系
さて、上記の例と対極にあるのが、テキスト自体が一つのストーリー性を帯びているような楽曲の場合です。
仮にこのテキストに起承転結のような起伏があったとします。そうすると、音楽もこの流れで作られることになるわけですが、音楽の「転」の箇所にはテキストの「転」もあるわけで、この箇所のテキストをきちんと伝えないと、ストーリーが聴衆に伝わりません。
ここでは絶対的に歌詞を伝えることが必要になります。
そして皮肉なことに歌詞の内容を直接的に伝えようと思えば思うほど、歌詞は音楽に乗せないほうが効率が良くなります。ありていに言えば、話したほうが良く伝わります。
もちろんセリフやナレーションの入った合唱曲もありますが、そういうのはむしろ演出付きの傍流ものというイメージは強い。実際には多くの邦人合唱曲が、ある程度のストーリー性を持った詩においても、普通に音楽が付けられ、聴衆に良く理解されないまま歌われているのが実態ではないでしょうか。
ここで私が言いたい点をまとめれば、ロジカルで具体的な内容を伝えるには、音楽に乗せないほうが分かりやすく、逆にエモーショナルな漠然としたイメージを伝えたいときは音楽に乗せたほうが聴いた者を高揚させるということです。

●宗教曲
宗教曲こそ、合唱におけるハイコンテキストなジャンルの一つと言っていいでしょう。
ハイコンテキストというのは、共通した文化的背景があって始めて相互理解が成り立つというような状況を言います。もちろん、文化的な背景を知らなくても感動は出来る、という指摘もあるでしょうが、それが成り立つことは極めて少ないのが実態だと思います。
合唱を長い間続けてきた人にとって宗教曲は抵抗の無いものですし、たくさんの名曲があるのですから歌わない手はありません。しかし、演奏会で合唱に滅多に触れない一般人の感想を聞けば、その想いが決して伝わっていないように思えます。
キリスト教文化圏において宗教曲を歌うことと、そうでないところで歌うこととは、大きな差があることは否めません。
だからこそ、我々が何故宗教曲を歌うのかということを、もっと積極的に意味付けし発信していくことが必要と考えます。音楽の力だけで感動させる、というのはキレイごと。聞く者にもう少し事前情報を伝えなければ、楽曲の本質的な価値を伝えることは難しいのではないかと思います。

こんな風に考えれば考えるほど、なんだか我々はいばらの道を歩んでいるような気になります。
しかし、自分たちの歌っていることがどれだけ「伝わっていないか」をもっと知るべきだと思うし、であれば逆にもっと伝わりやすい音楽を歌うべきだし、「伝わらない」音楽は淘汰されなければいけません。狭い世界の閉ざされた価値観で物事を考えているうちに、狭い世界そのものが淘汰されかねない、と私には思えてしまうのです。

2011年9月6日火曜日

合唱演奏で伝わる何か

合唱で大事なことの一つは、詩の内容を伝えることです。
ただそのように断言するには複雑な想いを感じる人も多いでしょう。邦人曲でありがちな重い内容の現代詩が、演奏することによって本当に伝わるのか、はなはだ疑問を持つ人も多いからです。
また人によっては、はなから音楽に載っている詩にあまり大仰な意味を感じようとしない人も少なくありません。何人かは曲に付けられた詩はあまり興味ない、と言い放つ人もいます。

だから「詩の内容を伝える」ということは、もしかしたら建前としてしか機能していないのかも、と感じたりします。建前というのは非常にやっかいで、重要だと思うからみんなが取り組んでいるのに、実際には方法論が未熟だから曖昧なやり方にしかならないし、そのため結果的に詩を伝えることも困難になるという悪循環に陥ってしまいます。
このように建前化してしまったものを効果あるものに戻すには、もう一度本質から問題を解きほぐし、なぜ上手く伝わっていないかを分析した上で、現実的な解に落とし込む作業が必要です。

なぜ上手く伝わらないか、を感じるには自分たちの演奏ではなく、他人の演奏を聴くのが最適です。
できれば合唱祭やコンクールのような場で、事前情報一切無しに(プログラムを見ずに)各団体の演奏を聴き、なるべくその演奏からどんな具体的なことが伝わったか、考えてみるのです。

そういう聴き方って、あまり多くの人はしてないと思います。たいていの人は、曲名とかをプログラムでチェックして、後はアンサンブルの乱れとか、発声とか、そういう声の実技的なところしか聴かないからです。楽器を弾いている人だって、自分がやっている楽器の演奏がどれだけ上手いか、ということに焦点が行きがちなのは仕方ないことだけれど、その技術の上で音楽で何かを伝えたいのだから、もっと伝えることにも興味を持って欲しいのです。

私がそのような機会に感じるのは、例えば以下のようなことです。
1)発音(発声)が悪くて歌詞が聞こえない。
2)曲のポリフォニックな処理が複雑で、歌詞が聞こえない。
3)部分的に歌詞が分かっても、全体的に意味を繋げることが出来ない。
4)メッセージ性が強いことは伝わっても、何を伝えたいか結局分からない。

そのような状況に対して、私は自分自身が音楽活動するときに、以下のようにあるべきだと考えます。
1)悲しい歌か、楽しい歌か、最低それは伝えなくてはいけない。
2)複雑なメッセージは、複雑な音楽では伝えられない。詩の力が強いほど、音楽はむしろ簡単にすべき。(作曲する立場から)
3)宗教曲は文化的なコンテキストがあるからその演奏が成り立っている。実はそのコンテキストは、日本ではあまり理解されない。
4)歌の歌詞の半分くらいは具体的な意味が無くても構わない。読む詩と歌う詩の違いは確実にある。

上記のそれぞれについて記事になりそうな深い話題ですので、またおいおい書いていこうと思います。
いずれにしろ、私が上で言及したこととは違うことが、巷でたくさん行われているように見えます。私としては、自分の活動がそうならないために、自分なりに作曲活動、演奏活動を続けていきたいと思います。

2011年9月4日日曜日

SNSが変える未来─階層とは

前回この話を書いたとき、人間の階層構造が出来る、というやや不穏な表現を使いました。もうちょっとこの表現の真意を書いてみたいと思うのです。

階層構造というと身分制度が厳密であった頃の社会を想像するかもしれません。
それは人間に身分という属性がついてまわり、それによって社会的な序列が出来ることであり、その序列によって人々の自由が大きく左右されてしまう状態のこと。もちろん、このような社会に戻りたいワケではないし、戻りたくてももう無理なのではと思います。
私が今階層と言っているのは、専門性のレベルの違いのようなものです。
例えば、経済に詳しい人と詳しくない人がいます。専門教育を受けていなくても、経済のことが好きでよく関連する本を読んでいる人とそうでない人とは知識量はかなり違うでしょう。
私が経済のことを知りたいときに、身の回りにいる経済に精通している人の意見を聞くとします。この精通している人は、経済マニアですが専門家ではありません。彼は専門家のいろいろな意見を聞いて、そういう情報を仕入れるわけです。
このように、経済という観点から想像してみたときに、少なくとも、専門家、好事家、何も知らない人、みたいな三つの階層が考えられるわけです。

社会は絶えず、大きな判断をする必要があります。
その判断はもちろん政治家が行うわけですが、その政治家は選挙権を持つ人によって選ばれます。
しかし、私たちは選挙に出ている立候補者のことを一人一人個人的によく知っているわけでもないし、逆によく知っているとすると選択肢がないと思うかもしれません。自分の意見を託すには、もっと自分が個人的によく知っている人で、その人に判断を委ねても良いと思える人にしたいものです。
ならば、ジャンルごとに自分の判断を友人に委任するような仕組みを考えたらどうかと思うわけです。

もう少し具体的に考えてみましょう。
例えば昨今話題に事欠かない増税問題。一人一人は税金が多いのは嫌に決まっているから、単純に増やすか減らすかと国民に問うと減らすほうが優勢になるはず。けれど、結果的に国家が破産してしまえば元も子もありません。
そういう問題について、自分より詳しく、かつこの人の意見は正しいと思える人に、自分の意見を委任したらどうかと思うわけです。さらに委任された人は、自分の持つ全ての票をさらに自分が信任する人に委任します。
形式的には国民投票みたいな形ですが、一人一人が必ず投票しなくてもよく、自分が信頼する人に投票権を委任します。このような形を取ることにより、中間的な立ち位置にする人たちの言論が活発になり、より議論も深まるような気がします。結果的に、今よりもう少し質の高い判断が出来るようになるのではないかと思うわけです。

たまたま政治の話を書きましたが、万事の意志決定がその通りになっていけば、世の中の意志決定はより効率的に、そして正しくなるのではと私は勝手に予想しています。そのためのツールとしてSNSやネットは最適だと私は思うのです。