2006年11月29日水曜日

今年も全国大会ばい。その2

というわけで、今年の演奏の印象など。
ちなみに今年は2団体聞き逃しただけで、あとは全部聞いたんですが、風邪気味なためか興味ない演奏時にはほとんど気絶していました。
個人的には、2年ほど前にヴォア・ヴェールで振ったG2の「The Coolin」に思わず聞き耳を立ててしまいました。ところが、大学の部で連続したG2はまるで葬式のような暗さで、あまりの生気の無さにがっくり。そんなにもったいぶった曲作りはいけません。一般の部で聞いたMODOKIのG2が個人的には1番良かったです。

それにしても、今回の全国大会は選曲の傾向に大きなターニングポイントがあったように感じます。
一言でいえば、合唱のエンターテインメント性を追及する演奏がとても増えたのです。これは、昨年の合唱の祭典の後から私もこのブログで再三言ってきたこと。そういう意味では、何とも嬉しい方向性です。しかし、あまりに多くの団体が同じ方向を向いたのは、それはそれでちょっと奇妙な感じもしたり。
要は、ステージの質を競うならば、音楽の技術だけではなく、ステージトータルの訴求力まで吟味すべきであり、各団がエンターテインメント性を競えば競うほど、各団体の芸術的プロデュース能力が問われるようになるわけです。声楽技術だけでなく、総合芸術としての合唱パフォーマンスを競う、そんな大会に変わっていったら良いと思います。もちろん、単なる演芸会のようなダサダサの演出なんかも出てくるでしょう。そういうのは、容赦なくこき下ろせば良いのです。

個人的に印象に残った演奏、曲は:
1.新潟大学室内合唱団の自由曲、コスティアイネンのミサですが、これがなかなかかっこいい曲。
2.ゾリステンアンサンブルの自由曲もかっこいい! 早速パナムジカに楽譜を買いに行ったら、何と去年の合唱の祭典で購入済だったことが判明。なんだ、持ってたんじゃん。それにしても、この団体の音楽傾向は私の趣味とシンクロします。
3.合唱団まいの「ほら貝の笛」。これはすごい演奏。いささか過度な緊迫感が要求されるけれど、メリハリの利いた音楽作りで、圧倒的な印象を残しました。指揮者独特の世界観が際立っていました。
4.岡崎混声は、昨年に続いてウィテカー作品。鳴り物も派手になりましたが、作品が描写する情景を完璧に再現していた演奏技術にも脱帽。
5.合唱団あるの「アレルヤ」も面白かった。楽譜を買いましたが、無茶苦茶難しい曲。これ、普通の団体にはとても出来ません。作品の持つ世界観には共感するものの、もう少し難易度を下げて作曲するべきだと私には思えます。

今回は審査員も大変だったと思います。
鳴り物付き、振りつき、非楽音の連続、倍音唱法、指パッチン、手拍子、足拍子・・・。今までの声楽技術だけで審査するコンクールで無くなりつつあります。こうなると運営側も少しずつ変わっていくことになるのでしょうね。
例えば、このままだと、ほとんどの自由曲は現代曲だけになってしまいます。ルネサンス・バロック、古典・ロマンなどの音楽的なジャンル分けも必要になってくるでしょう。だいたい、大学、職場、一般なんて分け方は音楽的には、何の意味も成さないのですから。

2006年11月28日火曜日

今年も全国大会ばい。その1

熊本で行われた全日本合唱コンクールに今年も行ってきました。
今年は24日に休みを取って23日に出発し、コンクールの前に2日ほど長崎観光してきました。しかし、23日の長崎の雨がとても寒くて、風邪をひいてしまうという失態。のどが痛くなった後、声がガラガラになった状態で熊本入り。まったく、こんな声で合唱コンクールに来るなんて、何という不届き者でしょう。それとも、コンクールに参加する人の分まで風邪をひいてあげることによって、合唱人の原罪を一身に引き受けたということなのか・・・なんのこっちゃ。

さて、去年の朝日作曲賞の表彰式が1日目の終わりにあったため、今年もそうだと思った方が何人かいたようです。今年はなぜか2日目の終わり、最後の最後に表彰式がありました。てなわけで、お話したかったけどお会いできなかった人が何人かいました。残念。おまけに風邪でマスクしてたので、ちょっと私だと認識しづらかったと思います。挨拶した雨森さんにもスルーされそうになったし・・・。
それからカワイ出版のH氏といろいろ雑談。非常に興味深い業界情報などを聞けましたが、正直言ってちょっとショックな話もあり。要は、出版社は慈善事業じゃないわけで、売れないものは作らないわけです。朝日作曲賞だからといって、誰も買ってくれなければそれは売れない商品と同じこと。

��日目の夜は、一般Aで参加した浜松ラヴィアンクールの打ち上げに参加。以前も書いたように、県大会では私が振っていたので、全く今回の大会は他人事ではなかったのですが、今年は全国までコマを進めた大変飛躍のあるコンクールだったと思います。さすがに全国一般Aの中ではちょっと見劣りしたけど、まだまだ団として開発の余地はあるなあ、と感じました。
打ち上げは、相変わらずの盛り上がりでしたが、どこかで「泣きスイッチ」が入ったのには驚きましたよ。全国出たんだし、そういう感傷も大事だなあと、まるで他人事のように感じてました(殴らないでー)。

今年の佳作の方は石黒晶(さやか)さんという男性のかた。楽屋裏でいろいろお話できて楽しかったです。神戸女学院で音楽を教えておられる、まさに本職のかた。こんな方と肩を並べるのは本当に恐縮なのですが、その一方、ちょっぴり嬉しかったり。昨年の山内さんといい、朝日賞の応募にベテラン作曲家の方が増えているのは、賞の権威も高まっていい方向かもしれません。(まあ、応募し続けたという意味では私もベテランなのかも)
審査発表を待っている合唱団の方々には、朝日作曲賞の授賞式は余計なセレモニーだよなあ、と感じつつ、来年は拙作の課題曲をよろしくお願いします。来年のG4は「"U":孤独の迷宮」でございます。

2006年11月22日水曜日

邦人曲の特殊性-ピアノ伴奏

邦人曲が洋モノと何が違うって、やはりピアノ伴奏に対する考え方でしょう。
そもそも洋モノの合唱曲にはピアノ伴奏付きのものがほとんどありません。もちろん全然ないとは言いませんが、一般的に芸術性の高い合唱音楽というのは、アカペラであることがほとんど。オーケストラ伴奏、オルガン伴奏のほうがピアノ伴奏よりもまだ多いくらいかもしれません。また、ピアノ伴奏が付いていても、かなりシンプルな伴奏だったり、合唱パートも簡単だったりで、芸術性の追求というよりはすぐに歌える気軽さを意識しているように思えます。
何か根本的に合唱に対するピアノの感覚が違うのです。

もちろん、音楽文化の違い、というのはあるでしょう。恐らく日本の音楽文化というのは明治以来ピアノ中心に発展してきており、全ての音楽の中心にピアノがある。しかし、他の国は違うような気がします。
もしかしたらピアノというのは、あんまりいい比喩じゃないけど、補助輪付きの自転車のような捉え方をされているのかもしれません。ピアノ一台あれば、音楽の和声感やビート感を表現できてしまいます。歌う側は、音楽の骨組みをピアノにまかせ、あとは自由に表情たっぷりに歌うことができます。
悪い言い方をすれば音楽の基礎はおいといて、とりあえず気持ちのいい部分だけいただこう、という風にもとれます。そういう意味で、ピアノ伴奏で歌った場合、アカペラに比べたらソルフェージュ的な正確さを追求される度合いは薄まることでしょう。未だに多くの合唱団が「ウチはアカペラが苦手なんで~」なんて言うのを聞きますが、それは言い換えれば、まあ気持ちよく歌えればいいじゃない、と開き直っているとさえ感じます。

ピアノ伴奏が、そもそも歌が苦手な人のための補助輪のようなものだとしたら、なぜここまで、邦人合唱曲はピアノ伴奏の重要度を高めてしまったのでしょう。
これまた妙なアナロジーを持ち出しますが、この状況はもしかして、マンガ、アニメとかに通じるものがあるのでは、という気がします。少なくとも、日本以外では、マンガ、アニメはお子様向けのものだった。もちろん、最初は日本もそうだったのでしょう。ところが、なぜか才能のある人がマンガやアニメで素晴らしい作品を作るようになり、日本のマンガ、アニメは世界を席捲するほどになりました。
なぜか、ジャンルの入り口(幼児向け、初心者向けというような)にある場所からなかなか離れることができず、そういっている間に、その入り口そのものをすごいジャンルに発展させてしまう、というような性質が日本人にはあるような気がします。
ちょっと関連する話題を以前書いたことがあります。→ここ
しかし、残念ながら、日本のピアノ伴奏つき合唱曲は世界を席捲するには至っていないようですが。

2006年11月19日日曜日

トゥモロー・ワールド

2027年の近未来を扱っているけど、全然SFじゃない映画。ちょっとSFノリを期待していくと外します。
設定は、2009年に人類に最後の子供が生まれて以来、一人も子供が生まれなくなってしまった世界。ロンドンに住むある男が、ひょんなことからテロリストに協力することになり、そこで妊娠した女性と出会って・・・、というように話は展開していきます。
しかし、そのようにあり得ない舞台設定でありながら、そこで見せ付けられる情景はあまりにリアルで救いようのない殺伐とした社会。テロリストや警官たちによる容赦ない暴力と殺戮の嵐。そして、その陰惨さは思わず目を背けたくなるほどです。これは、正直言って、R-15くらいに相当する暴力シーン、戦闘シーンに溢れていると思うのですが、全然そういう制限がないですね。

リアルな戦闘シーンは、そのままシリアスな雰囲気を映画に与えます。
主人公の元妻でテロリストの親玉である女や、主人公をかくまった良き知り合いである老人があっさり殺されてしまうあたり、悲しみというよりは、もうやり場のない怒りを感じるしかなく、その後の主人公の強烈な行動付けになっていきます。
そして、そんなあまりに陰惨な殺戮の嵐の中だからこそ、一人の妊婦が子供を生む、ということの神々しさが引き立ってきます。赤ちゃんの泣き声が、まるで世界の救いの声のごとく感じられるのです。
全体的に、かなり暗くて陰惨で救いようのない映画。しかし一方で、個々人の宗教観、倫理観、そして社会観を揺さぶる力を持った映画だと思いました。
途中で、キングクリムゾンの曲「クリムゾンキングの宮殿」がかかったのもちょっと嬉しかった。音楽はジョン・タヴナーも担当しているみたい。

邦人合唱曲というジャンル

合唱曲を歌っていて、邦人モノと洋モノでなんでこんなに肌触りが違うのだろう、と感じたりしませんか。
例えば、イギリスの合唱曲とフランスの合唱曲でも、もちろん音楽の雰囲気は違うし、言語からくる音楽の拍節感も変わってくるでしょう。さらに、ハンガリー物や北欧物、ちょっと毛色が変わってフィリピンの合唱曲などなど、どれもがもちろんそれなりの特徴を有しています。しかし、それでも、それら同士の違いよりも圧倒的に邦人合唱曲ってかけ離れているような気がするのは私だけでしょうか。

私は高校時代から合唱団でずっと邦人曲を歌ってきましたから、学生時代は合唱曲とはそういうものだと思っていたし、むしろ海外の合唱曲のほうが取っ付きにくくて近寄りがたい雰囲気を感じたものです。ところが、自分自身で曲を作ったり、演奏活動が充実するにつれ、邦人合唱曲に根本的に足りない何かを捜し求めるように、どんどん洋モノの合唱曲に吸い寄せられるようになって来たのは紛れもない事実。
私が作曲する曲は当然全て邦人曲なワケで、よく考えてみると私自身がこれまで曲を作るために考えたことの多くは、その邦人曲に足りない何かを探すことだったような気がします。もちろん、これは洋モノみたいなカッコ良さへの単純な憧れというわけじゃなくて、邦人曲だってもっともっと魅力のある試みができるのじゃないか、という問いなのです。
こんなことを書くとずいぶんエラそうですが、もちろん自分の試みがうまく行っているなどという自信もないわけで、いつもいつも同じような命題が、まるで振り子が振れるように私の意識の中で放浪しています。
そんなわけで「邦人合唱曲」の特殊性みたいなものを、もう少し具体的に、また論じてみたいと思っています。

2006年11月13日月曜日

またしてもぎっくり

うー、忘れた頃にやってくるぎっくり腰。
土曜の朝、椅子に座っていてちょっと身体を動かしたら、腰に突然の激痛が・・・。別に重いものを持ったとか、全然そういうきっかけじゃなくて、もう予測がつきません。今までの時の話は、これとかこれ。前回は、本当に動けなくなったけど、今回はコルセットを付けて動き回れるくらいだからまだ良かった。
それにしても、そんなときに限って本番があったりします。
昨日はヴォア・ヴェールでとある施設に訪問演奏しに行きました。そんなにシビアなステージではないけれど、もっとノリノリで歌ったり指揮したりしたかったんですがね。礼もままならなくて、やな感じに見えたかも。

2006年11月8日水曜日

ラビリンス/スティング

Stingロック歌手スティングが古楽に挑戦した、というのを聞いて思わず触手がのびました。
古楽と言っても、取り上げた作曲家はジョン・ダウランドのみ(他に1曲だけ違う作曲家の作品あり)。CDのライナーノーツには、スティングがこれまでジョン・ダウランドにいろいろな機会に出会ったこと、そしてついにこのCDを出すに至った経緯が書かれています。スティング曰く、ダウランドは400年前のポップなシンガーソングライターなのです。

しかし、これはなかなか面白い取り合わせです。
だいたいルネサンス物って、オペラ上がりの声楽家が声を張り上げて歌うようなものじゃないのです。ポップ系のアーティストの中でもとりわけ味のあるボーカリストのスティングが、ちょっとハスキーな声で奏でるダウランドは、とても雰囲気があり、イギリス的暗さの漂う音楽になっていました。
実際、ダウランドの曲には物悲しいものが多いのです。ライナーノーツによれば、ダウランドは今風に言えばウツだったらしい。ボーカルとリュートだけによるシンプルな音楽の中に、そういったメランコリーが存分に詰まっています。面白いのは、アルバム全体に何箇所か、ダウランドの手紙をスティングが朗読するトラックがあること。手紙の内容は、ダウランドらしさを良く表すものが選ばれているようです。

合唱好きなら有名な「Fine knacks for ladies」「Come again」なども歌っています。かなりドラマチックな歌いっぷりに、我々も学ぶべきことは多いのではないかと思います。

2006年11月5日日曜日

複雑化の罠

前回の続き。
どうも私の書きたいことって抽象論になってしまいます。興味の無い人、多そうだよなあ、と思いつつ、もうちょっと思うことを書いてみます。
私の言うところの「単純」というのは、難しいことを考えるのを止めて、そんなの省いていこうよ、というのとは違うのです。むしろ、単純とかシンプルとか言うことを、そういう風に捕らえている人は、逆に複雑化の罠にはまります。ものごとが少ない場合は一つ一つ処理しても良いけれど、その量が莫大になったとき、そのままのやり方を適用しても複雑化する一方です。そういう意味で、見通しが甘い人ほど、複雑化の罠にはまるのです。
実際のところ、ものごとをシンプルに捉える、というのは、非常にセンスのいることなのです。ある事象から、その本質を読み取り、抽象的な性質を引き出し、分類して整理し、同様な考え方を参照する、という能力が必要なのです。
ちょっとピンと来ないかもしれません。例えば、これからあなたは溜まりに溜まった電子メールを整理するとします。
いまは、電子メールは全て「受信トレイ」の中に溜まっています。これでは、昔来たメールを探したり、特定の話題の話し合いを時系列で追ったりするのは面倒です(これが複雑な状態)。一般的には、メールを整理するために、メーラーの中で、受信トレイ以外のフォルダを作成し、各メールをフォルダに分配すると思います。
別にフォルダを作ることによって、特定の人や団体、話題ごとにメールをまとめることが出来、後で昔のメールを探すことも簡単になります。
私が単純化と読んでいるのは、自分にとってメーラーのフォルダの分類をどのようにしたら良いか、という作業に他ならないのです。この際メールを、話題ごとに分けるか、送り先ごとに分けるか、単純に月ごとに分けるか、いろいろな方法があるでしょう。それによって、自分がどのようにメールを管理したいか、ということが問われることになります。

なぜ、これが芸術活動と関係あるかって・・・?
音楽だって、どのように音楽を組み立てていくかを考えたら、まず拍、小節、それから楽節、というようにだんだん部分の大きさが変わっていきます。各楽節が複数集まって、曲の一構成部品となり、それらがさらに集まって、一つの曲を成します。組曲の場合なら、複数曲で一つのステージを作るわけです。
音符という莫大な情報をどのように分類し、整理し、部分に分けることで階層化するか、そしてそれらの各部分の意味は何か、どのように表現すべきか、そういうようにアナリーゼするプロセス自体を整理することによって、初めて本当の意味での単純さが生まれてきます。

2006年11月1日水曜日

複雑化と単純化

私はマイコンのプログラムを書くのを生業としています。
コンピュータのプログラムにも、良く書けたプログラムとそうでないものがあります。私の見るところ、下手なプログラマというのは、コードをどんどん複雑に書いていく傾向があるように思います。結果的に複雑になったコードを制御しきれずバグの山に悩まされることになります。逆に、非常に良く書けたプログラムというのは、シンプルで単純化されています。プログラムで処理したい内容の本質を捉え、全体構成と細部のバランスが良く取れているのです。
なぜ下手なプログラマのコードが複雑になるかというと、一言でいうなら視野が狭いからではないかと感じます。いま書いている周辺の部分しか目に入らず、その範囲だけで最善であるように書いてしまうのですが、それが全体から見るとひどくバランスが悪くなったりしているのです。

ちょっと観念的でわかりにくいかもしれませんが、同じような話は何にでも通じるような気がするのです。
人々は「スゴイもの」を複雑なものだと捉えがちです。「スゴイもの」→「スゴ過ぎて自分にはよく分からない」→「分からないと何だかスゴく感じる」というような心理的なスパイラルがあるように思うのは私だけでしょうか。
それを逆手に取り、複雑であることがスゴイという思考でものごとを考える人も多いと感じます。
しかし、それは悪しきプログラムと同様、全体と部分の調和が崩れたヘンテコなものを作り出してしまう危険性があると思うのです。

音楽作りも然り。
局部的な部分にだけにどうしても着目してしまい、部分部分を最適化しようとすると、全体の調和が取れない、不恰好なものを作ることになります。
まずは全体を捉え、最も芯になるのは何か、それを明確にすること。その上で芯を通すために、場合によってはひどく単純化して、すっきりさせること。そういった音楽作りこそ、万人に好まれる本当に芸術性の高いモノになるのだと思います。