というわけで、調号の話の続き。
具体的に例があると分かりやすいですね。と、ここで楽譜棚から三善晃「地球へのバラード」を引っ張り出してみましょう。
ざっと見ると、基本的に全て調号付きで書かれているようです。しかも、かなり頻繁に調号が変わります。この組曲については、その場の調性をなるべく忠実に調号で表す、ということが作曲者の意図のように思えます。これは、恐らく調性内で展開されるメロディがこの曲の魅力であり、作曲者自身が楽譜を通してそれを伝えようと思っているように感じられます。
もちろん、そうは言っても三善晃ですから、「調号なし+臨時記号」で書かざるを得ないようなフレーズはどうしても出現します。例えば、「2.沈黙の名」の中盤「かってわたしが」で、調号なしになります(ハ長調ではない)。それから「5.地球へのピクニック」の中盤「とおいものを~」でやはり調号なしになりますね。いずれも曲が展開され、頻繁に調性を移ろうため、全部臨時記号で対処したほうが良いと判断したためでしょう。これも、そのあたりを気にすることによって、中盤がある種の展開部的な曲想になっていることに気づくことになるはずです。
もう一つ、同じく三善晃の曲で「嫁ぐ娘に」を見てみましょう。
すごいですね~。全く調号なしです。全て臨時記号で対処されています。とはいえ、この音楽は無調音楽とは私には思えません(まあ、いろいろな考え方がありますが)。あくまで、一般的な和声内で解決されている音楽です。
だから部分部分で見れば、調号をつけることが可能な場所も多々あります。
それでも、初志貫徹ということか、この組曲では作曲者は調号を書かないことを選択しました。確かに、トータルで音楽のイメージを考えると、「嫁ぐ娘に」の持つ独特の浮遊感というのがあって、それが調号なし、という書法で象徴的に表現されているようにも思えてきます。
調号を付けても付けなくても、出てくる音には変わりないわけですが、そこには何かしらの意思があります。調号が付くことによって与えられる音楽のイメージもあるし、もちろんその逆もあります。
同じ作曲家でも、作品の性格によって書法は変えますし、それを調べることによって個々の曲で作曲者がどのような意図で曲を作ったのかが明確になってくるのではないでしょうか。
時代をさかのぼると、曲の中で調号を変化させるというのは昔は多くなかったような気がします。ハイドンやモーツァルトのソナタ形式では、第2主題部分で調号を変化させる、ということはまずありません。ハイドンなんか、交響曲のソナタ形式楽章の展開部では結構過激な調変化を行いますが(ある意味で近代和声並みですらある)、滅多に調号を変えませんね。
返信削除ベートーヴェンのピアノソナタで見ると、初期、中期のソナタ形式では、第二主題部分でも調号は滅多に変わりません。一方、後期の作品106の第1楽章(ソナタ形式)を見ると、主調B-durに対して第2主題はG-dur。ここでベートーヴェンは調号をシャープ一個に変更している。この傾向は後期弦楽四重奏でもかなり顕著で、第二主題部分はシャープやフラットが一個しかない近親調なのに調号を変えたり、ソナタ形式の展開部で調号をころころ変えたりしています。
ソナタ形式第2主題の調号を変化させる、ということは、それだけソナタ形式が大規模化し、第2主題部分が占める比重が増加してきていた、ということかも知れません。無論、第1主題と第2主題との調関係が非常に自由になったという背景も重要かも知れませんが。
うぅ・・・ちょっと苦手な世界に話が展開されてしまった。^^;
返信削除しかし、お話を聞く限り、作曲家が慣例から離れて自らの意思で曲中で自由に調号を変えるのって、この頃が走りだったように思えます。そういう意味でもベートーヴェンって革新的?
昔、調号が一定だったのは楽器側の制約もあったのかもしれませんね。