2021年6月6日日曜日

静的な音楽、動的な音楽

 ちょっと前に「演奏に参加する音楽」というタイトルで文章を書いたけれども、似たようなことをもうちょっと別の視点で言うことが出来そうな気がする。

表現はもう少し変えたほうが良いかもしれないけど、タイトル通り「静的な音楽」「動的な音楽」という分類。

静的とは、すでにオーディオに録音されてしまい、ひたすら再生するしかできない音楽。

準静的な音楽としては、楽譜通りに書かれた音を生演奏する、という場合も含まれる。

それに比べて、動的とはその場で生成されて、二度と同じ音が鳴らない、その場限りの音楽。既存の音楽で言えば即興、インプロビゼーションに近い。


なんだけど、動的な音楽がいわゆる即興だけかと言うと、そうではなくなるかもしれないと言う話。

例えば、テレワークでバックミュージックをかけるとする。

知っている曲だとかえって気が散ってしまう。だから、あまり聞いたことがないけれど、それほど気持ちに引っかからない環境音楽的なモノを聴きたくなる。

その割には、暗めの曲、明るめの曲、アコースティック、ダンスミュージック、などなど、人によっては好みはあるはず。

これらの変化する聞き手の好みに合わせて、その場その場で最適な音楽が選択される。それは単純に既存の音楽から選ばれるというよりは、むしろ、その場で音楽自体が生成されるほうが好ましい場合もある。


普通に、音楽を再生しているのに、即興演奏でもないのに、その場でリアルタイムに生成されている音楽、というものがこれから現れるのではないかと思う。

個々の人生は、個々の人々にとって唯一のドラマだ。

そのドラマには、個々のバックミュージックがいつも鳴っている。それは借り物ではない、自分だけのオリジナルな音楽だ。それは常に、私たちの気持ちに寄り添い、最適なフィーリングのものが生成されるべきだ。だからこそ、より自分を主人公とした、自分だけのドラマだと感じることができる。

むしろ、ここで大事なのは音楽そのものというより、生成アルゴリズムであり、未来の音楽家の役割は音符を書いて演奏するだけでなく、アルゴリズムや音色をセットにした自動生成システムを提供することになるかもしれない。

いや、それはすごい確信を持ってそうなるような気がしている。


2021年5月16日日曜日

未来のマインドセット

 未来予測というよりは、未来のマインドセットの予測。


例えば、著作権。

今は過剰な権利意識が浸透しすぎて、そもそも著作権が何を守っていたのか、良くわからなくなっている現状。

本来であれば、売れるはずのものがコピーで鑑賞する人が増え、売れなくなってしまうのがI番の問題なのに、自分の著作物にほんの少しでも他人のものが載るだけで、著作権違反などというのはバカバカしいにもほどがある。これが一体、誰の経済的損失を引き起こしているのか?

この傾向はしばらく変わらないとしても、実際のコンテンツ販売の現場がサブスクになり始めたり、恐らく寄付的なものに変わっていくので、クリエータやアーティストは、作品から直接収入を得なくても良くなり、そうなると著作権という概念自体が無くなっていくだろう。

ただ、これにはもう20年は最低かかりそう。


リアルとバーチャル、モノとサービスについて。

会わないと出来ないことがどんどん減っていくはず。少なくとも今は会議は、それなりに出来るようになった。体験もだんだんネットの情報量が増えれば、バーチャルで良くなるものは増える。むしろバーチャルの方が、質の高い体験を得られる。

リアルとバーチャルの違いは、そこからすぐにExit出来るかどうか、なのだと思う。体験の中身というより、そこからすぐに出られる気楽さは、常に人をエンターテインし続ける必要に迫られる。

リアルにそこにいれば、人は簡単にそこから脱することは出来ないから、多少の我慢を強いることができる。だからリアルな体験はこれからも無くならないし、リアルならではの良さは今後、逆にさらに開発されると思う。

そして、PCやスマホがどんどん置き換えていくモノの世界も、モノでなければいけないモノ、PCやスマホアプリで良いモノ、の仕分けが進んでいくだろう。今とは思いもよらぬものが、専用化しまたその逆も起こる。

どちらかというとPCやスマホはどんどんバーチャル化し、SF的なホログラフみたいなものになっていくのかもしれない。ヘッドフォン、マイク、メガネ、指先などがどのようにクラウドに繋がるかは考えてみると面白そう。

いずれにしても、未来のマインドセットは、モノに対する執着がどんどん減っていく。お金持ちになったら、アレが欲しい、コレが欲しい、と思うのは今は普通のことだけれど、おそらく未来はそう考えないだろう。というか、モノを買わないのならお金に執着が無くなってるのかもしれない。

このマインドセットの変化は大きい。


自分の人生の豊かさは、結局のところ自分の能力、スキル、そしてその結果である地位や資格に依存することがどんどん明確になり、ある意味、それは身も蓋もない世界であり、底辺から抜け出す難しさが誰にでも明白である社会であると言える。


SDGsが誰も取り残されない、と言っているけれど、恐らく、分断はどんどん激しくなるのだろう。賢い人は同じ場所にどんどん集まるから、分断のスピードはますます早くなる。

今はそれを避けることが正しいこととされるが、いつの間にか、その分断は正当化されるようになるような気がする。でなければ、人類は進化していくことができないから。

しかし、そのとき我々が獲得するであろうマインドセットは、ちょっと怖いような気もする。


2021年5月4日火曜日

演奏に参加する音楽

 音楽を楽しむには、作曲、演奏、鑑賞という三つの局面がある。

また鑑賞の中にも、座って聞くだけ、何かしながらヘッドフォンで聞く、音楽に合わせて踊る、といった違いがあるだろうし、演奏でも、練習を重ねて演奏会を開く場合、歌いながら仕事をする、歌いながら祈る、といった違いもあるだろう。

そういう意味では、音楽の楽しみ方は、作曲、演奏、鑑賞に明確な区切れ目があるというわけでもなく、限りなく中間に近い楽しみ方も存在する。


もちろん、音楽を鑑賞する側から、演奏したり作曲したりする側に向かうにはそれなりの訓練や、学習が必要である。それゆえに、人口比で言えば、圧倒的に鑑賞する側にいる人が多かったのがこれまでの状況だ。

人が獲得できるスキルや知識のレベル、または楽器を変えるだけの経済的余裕、楽器を置く場所が確保できる居住スペース、など、過去ほとんどの人類の歴史においては音楽活動を続けるためのハードルも高かった。

例えばレコードが生まれる前は、音を記録することも出来ず、音楽は常に一過性のものだった。演奏家は今の我々にとっての音楽再生装置と同じ立ち位置にいた。多分、今の音楽家よりも演奏の機会は多かったかもしれないし、演奏家の役割ももっと機械的なものだったかもしれない。

当時は、全ての音楽は生音楽で、その場でのみ共有される体験だったのだ。


ところが、レコード発明以降、そのバランスは崩れた。

しばらくオーディオセットは高価なものだったが、今では誰でも安価なヘッドフォンステレオで音楽を聞くことができる。それはコンサートに行くよりも、圧倒的に低コストだし、何度でも好きなだけ繰り返して聴くことができる。

このような環境においては、今の演奏家は、レコード以前の演奏家の役割とずいぶん違っていて然るべきだろう。

コンサートでさえ、もはや生演奏かどうかは分からない。コンサートは、カリスマ的なアーティストと同じ場を共有するためのものか、まだ見たこともないパフォーマンスを見るためのものと化していると思う。


音楽を楽しむ敷居が圧倒的に下がった。

とすれば、ただ鑑賞しているだけでは飽き足らなくなる人も現れる。次には、自分が音楽をコントロールしたい、そういう欲求が起きてくるのではないだろうか。

とはいえ、既存の楽器を演奏するスキルはない。

幸か不幸か、音楽はデジタルととても相性が良くて、ここ数十年で人がリアルに演奏しなくても十分に音楽は聴けるようになった。

録音したデータは何度でも再生できるし、MIDIを使えばキーを変えたりテンポを変えたりすることもできる。人が介在しなくてもインタラクティブに楽しめる要素がどんどん増えている。

電子楽器的な文脈で言うと、左手でコード指定して自動伴奏を自在に操作することも出来るし、さらにそれを外部からプログラミングで制御することもできる。

AIの出現で、フレーズそのものの生成も不可能ではないし、そもそもAIを使わずともある程度の生成アルゴリズムは音楽なら可能だろう。


こういった環境の高まりは、明らかに音楽の楽しみ方を変えるきっかけになるはずだ。音楽はただ鑑賞するものから、参加して干渉するものに変わっていく。


もしかしたら、こんな考えはずっと昔から多くの人が考えていたのかもしれない。だからこそ、ただの思索ではなく、具体的なものを作ることで、きちんと可能性の一つとして提示してみたい。面白くなければそれまでのこと。その探求そのものが新しいアートへの取り組みと言える。

とりあえず、いま考えていることを整理して書いてみたつもり。


2021年1月2日土曜日

リバタリアニズム、続き

 特に考えがまとまっているわけではないけれど、、、もうちょっと思いついたことを書いてみる。

未だ、ハイエクは読書中。といっても原著ではなくて、新書でハイエクの思想を紹介している本。言っていることは一貫していて、ひたすら計画的に経済を回すことは、特定の人を利することになり、社会は良くならないということ。

福祉でさえ必要最小限にし、期間も限定にしないと簡単に既得権益化してしまう。そのように公的にもらうお金は、その職種、業界を独り立ち出来ないようにさせ、結果的に消費者のためにならない。


全くもって納得なんだけれど、最近の世の中の論調をみる限り、全く逆の方向に人々の思いは向かっているように見える。

新自由主義が格差を招き、多くの人が貧乏になった。だからお金のある企業や個人からきちんと税金を徴収し、それを分配すべきだと。また、行きすぎた資本主義を見直すべきだと。人々が儲けを求める限り、過剰な生産や消費が止まらないと。そして、それが限りある地球資源を無駄にすることに繋がると。


ところが、そのような競争を否定するほど、ハイエクの主張とは逆の方向性に向かい、計画経済を思考するようになる。

私はむしろ逆に、今は市場経済性がまだまだ足りないようにさえ思える。もっと一人一人が儲かる方向に行動すれば良いのにと思うことは結構ある。

もう一つ思うのは、私企業は市場の中で利益を追い求める主体ではあるけれど、企業という法人にとって市場経済的に振る舞っても、その企業内で働く人々は、集団の中では全く市場経済的には振る舞うことが出来ない。むしろ、そこには軍隊的な決定論的な行動規範が人を縛っている。

海外ならば、労働市場がもう少し開かれているが、日本ではとても市場とは言い難い。これが本当に市場になれば、日本の労働環境もだいぶ変わってくると思うのだけれど、もうこれは何か、日本中が談合して労働市場を大きくしないようにしているとしか思えない。


市場経済が、個々人の目で見た時に、一消費者の立場だけでなく、生産者の立場としても成り立つような感じが必要なのではないかと思う。

そして、その考えを進めれば進めるほど、大きな組織は解体され、個々人がプロジェクト的に離合集散を繰り返すといった世の中になっていくことになる。

これぞハイエクのいう、自由な社会そのものではないだろうか。