2015年2月28日土曜日

残業代とインセンティブシステム

前回残業代ゼロ法案について書いてみましたが、私自身は政治的な主張というよりは、人がどういうインセンティブで動いているか分析することに興味があります。

ということで、私の浅はかな推論で、残業代が労働者にどのようなインセンティブを与えているかをちょっと考えてみます。


「お金が欲しい」→「残業代が欲しい」→「長時間残業」という図式がまずすぐに思い浮かびます。
もちろんこの意識は、残業代が招く悪しきインセンティブということで、全く否定できない事実だと思います。
俗に生活残業などと言ったりしますが、特に忙しくなくても毎日1、2時間は残業して帰ることが日常になっている人も多いでしょう。
今さら、1、2時間早く帰るよりは、残業代をもらえるのだから少しでも長く居ようという意識が多少は誰にでもあるはず。(これを否定されるとツラいですが)

これをもう一段、抽象化して考えてみます。
長い間、長時間残業が当たり前の環境に身を置くことによって、「お金がもらえる」→「価値がある行為である」→「組織に貢献する」、というような感覚が無意識に心に根付くのではないかと私は思います。
給与額はお金の価値そのものだけでなく、労働に対する評価として機能します。プロ野球の選手が高い年俸にこだわるのは、お金が欲しいという動機よりも、自身のチームに対する貢献を高く評価して欲しい、という意識の方が強いはず。

もちろん、プロスポーツの場合、残業代ではなく純粋にプレー自体の価値、成績とかで可視化しやすい状況にあるので、これは誰でも感覚的に納得できます。
残念ながら、会社の中で完璧に個人の貢献度を可視化するのは難しく、どれだけ組織に貢献したかはその評価者、つまり上司の裁量に寄らざるを得ません。
全ての管理職が自信を持って部下を評価出来ているわけでもなく、そのときの数値化された一つの指標が残業時間、ということになる可能性があります。
特に生活残業とかではなく、非常に忙しい時にかなり時間的に無理して頑張ってくれた、といった場合、作業効率うんぬんよりまず長時間残業してくれたことに感謝したくなる気持ちは私にだって否定できません。


残業代のインセンティブを語る場合、もう一つ、終身雇用的な慣例を切り離して考えることは難しいとも私は思っています。
私がここで言う終身雇用的な慣例とは、同じ人たちと何十年も一緒に働く、という状況です。昨今、非正社員の問題も話題になりますが、実際の現場では非正社員であっても、それなりのスキルがあれば、長い間同じ職場で働くことは珍しくありません。これなど、終身雇用的な意識の表れとも私には思えます。

同じ人たちが、同じ場所で、同じことをやり続ける、という環境において、誰が一番評価されやすいか、ということを考えてみましょう。

端的に言えば、どれだけその環境に貢献しているか、自分のリソースを割いているか、つまり自分の時間をその組織に割いているか、ということが評価につながるのではないかと私には思われます。

この感覚は、残業代でその貢献を表現する方法ととてもマッチします。
つまり、長時間同じ人たちと同じ仕事を続けるといった環境では、残業に対して評価を与えるという仕組みがインセンティブとして非常に効果的なのだと思います。


我々の職場環境もめまぐるしく変わっている現在、上記のようなインセンティブシステムが微妙に崩れつつあります。
人々の意識が変わるのには時間がかかりますが、グローバルに世界経済が繋がった現在、世界と対等に渡り合うには時間が足りないと私には感じます。

であれば、残業に価値を置くようなインセンティブシステムは変えなくてはいけないし、人々の意識を変えていくためにも早ければ早いほど良いと私は考えています。


2015年2月15日日曜日

残業代ゼロ法案はブラックの合法化か

突然の超政治的話題ですが、この件についてちょっと自分なりに思うところを書いてみます。

巷では、ホワイトカラーエグゼンプション、いわゆる残業代ゼロ法案の是非について騒がれています。
要するに、ある程度の頭脳労働、専門スキルを必要とする労働においては、時間給という考え方は適切ではないので、労働時間に関係なく給与額を決定できるようにすべきということだと私は理解しています。

現状では年収一千万円を越えたあたりから適用というような制限で法制化するとのことですが、反対論者はいずれその適用金額が低くなっていくことを懸念しています。

私もいずれその金額は減っていくだろうと思ってはいますが、実は私はホワイトカラーエグゼンプションに基本的には賛成です。
ブラック企業を合法化しかねない要素があるのは確かなことなのですが、この影響は近視眼的に見るだけでなく、もっと働く人のインセンティブ構造にどのように働きかけるかということを複合的に見る必要があると思うからです。


ITの発達により、これからも世の中はどんどん効率化していくのは確かです。恐らく、残業代ゼロ制度もそういう視点とセットで考える必要があるのではないかと思います。

私の考えを端的に言えば、安い賃金で人間を長時間労働させても良いインプットは出ず、結局そのような働かせ方をする企業はリソース配分の仕方が効率的でないため、競争に敗れてしまうでしょう。
なので、短期的にブラック労働が増えたとしても、いずれ淘汰されるため、結果的にブラックな労働環境はむしろ減っていくのではないかと思います。

もちろん時間給が必要な職業は永遠に無くなりません。
そこに多少のクリエイティブな要素はあるにしても、直接サービスを提供するような職種は確実に時間の制約を受けるからです。

その一方で、時間管理が適切でない職業もたくさんあります。
情報収集、調整、判断のような経営者的仕事は時間を束縛しませんし、商品開発のように比較的納期が長期間に渡るような仕事も一時間単位の労働時間管理をする必然性はありません。

そしてまさに上記のような時間管理が適切でない仕事こそ、クリエイティビティが求められており、総労働時間とクオリティが比例しないことが往々にして起こります。
そのような職場で大事なことは、いたずらに人を投入したり、長時間労働を強要することではありません。
適切な人材を適切なタイミングで集め、彼らのモチベーションを高める仕組みを用意しながら、プロジェクト全体の納期を守るためのマネージメントをすることが絶対的に必要です。

私の思うに、そのようなマネージメントは、日本では決定的に欠けていると思います。
具体的には以下のようなマネージを日本でもする必要があります。
1) プロジェクトマネージャー自身が必要な人材を面接し直接雇い入れる権限を持てる。
2) 悪平等を廃し、貢献度が高かったメンバーへの報酬を惜しまない。
3) 担当を決めたら、権限の範囲を明確にした上で、大胆に権限を移譲する。
4) タブー無しな自由闊達な議論ができる文化と、最終的な意思決定権の明確化。
5) 担当者の責任範囲を明確にし、安易に横つながりで勝手に人の仕事を助けない労働文化を作る。
と自分で書いてて、すごい難しいなあという気がしてきました。

特に5)は、日本人的価値観とはかなり相容れないですね。
短期的には誰かを手伝ってなんとか仕事を回したほうが一見効率的なので、どうしてもそのようになってしまうし、他人を手伝わない行為は倫理的に避難されそうです。

しかし、それでもそのような責任の明確化を行わないと、貢献度の評価が曖昧になってしまいますし、結果的にみんなでダラダラと無責任に長時間労働、という世界に戻っていくことでしょう。


私が本当に嫌なのは、責任や権限を曖昧にしたまま、誰かが「何とかしろ」と日々怒りながら、みんなが嫌々ながら長時間働いているような環境なのです。

しかも高齢化が進んだ日本では、高齢者の雇用を守るために若者を非正規で安い賃金で雇うことが半ば常識化してしまっています。このようなことは早晩続かなくなるのは確かです。

いずれ、成長企業が効率的なマネージメントで、有望な人材を根こそぎ持っていくような事態が生まれるようになれば、他の企業も変わらざるを得なくなるでしょう。
そのような時代には、やはり労働を時間管理で行う非効率さはいずれ淘汰されるのではないかと私には思えるのです。