2013年10月26日土曜日

夢の自動運転

昨今世の中を賑わせている技術で個人的にかなり興味のあるのが自動運転です。
私は自動運転技術大賛成。ドライブの楽しみが〜、なんて言うつもりはサラサラありません。私には運転すること自体を楽しむといった趣味はありませんので。
確かに、気持ちのいい季節にドライブすることは楽しいこともあるけれど、実際運転のほとんどは目的地に向かうために支払わなくてはいけない犠牲としての時間であり、それなりの集中力をもって行なわなければならないリスクの高い仕事の一つです。

今の日本では、地方都市であれば、自動車は必需品です。
ときどき東京に行くと、地下鉄での人々の多さに面食らい、地方との違いに愕然とします。しかし鉄道が効率的な足になるのは都会だけのこと。
人々が移動する方向や場所が共通でなければ、鉄道による輸送コストは高くなり、結局移動は自動車に頼らざるを得ません。その場合、運転する時間や、集中に支払うコストを考えると、自動運転になることのメリットは大きいと思うのです。

私も技術者の端くれではありますが、自分なりに考えてみても、自動運転って本当に複合的で総合的な技術です。
画像認識はもちろんのこと、そこから様々なセンサー情報と掛け合わせ、数msec単位くらいで最適な運転操作を決定しなければいけないだろうし、そこからハンドルやブレーキ、アクセルなどの操作子に伝達する際にはメカ系の技術も必要になります。

私の想像するに、運転状況の判断にはパターン認識やニューロコンピュータのような学習型のアルゴリズムを使うのではないでしょうか。でなければ、逆に世界のあらゆる道路状況をルールベースでプログラミングしなければならないし、その条件網羅はほとんど不可能なように思えます。
どんな状況でも対応しなければならない自動運転には克服すべき課題も多いですが、そのような複雑な技術だからこそ、技術者としてワクワクするような面白さがあります。また、素人に分かりやすい技術であり、社会的にも圧倒的なインパクトを与えると思うと、開発しがいがある仕事ではないでしょうか。

すでに、この技術がもたらす法的な問題などを指摘する人も多いです。
自動であっても運転できる誰かが乗るべきかどうかとか、事故を起こしたときの責任は誰にあるかとか・・・
しかし、便利さとリスクはどうしてもトレードオフになる部分があるので、私としてはそのようなマイナス面に対してはある程度検討しながらも、そのためにいつまでも導入出来ないというようなことになるべきではないと思います。
まあ、そもそもいろいろな人間が運転している現状の方がリスクが高いともいえるわけですし。


私の想像では、いきなり自動運転の車が発売されて、あらゆるところに自動に行ける、という形にはならないでしょう。
恐らく最初は高速道路のみの利用ではないでしょうか。高速道路なら、運転ルールもシンプルだし、少なくとも自動運転の技術に対する負荷は低いように思えます。
運転者にとっても長くて退屈な高速道路こそ、自動運転で出来たら嬉しいハズ。特に運送業者にとっては大変な朗報だと思われます。

仮に高速道路のみの適用だとしても、意外と社会には大きなインパクトがあるような気がします。
恐らくすぐに自動運転による高速道路専用タクシーが現れるのではないでしょうか。価格設定によっては鉄道の客を大きく奪うかもしれません。車の中はいわば個室なのですからお客さんにとっては快適そのもの。運送業者も人件費が相当安く済むようになるかも。

高速道路のトラフィックが増えると、公共事業として高速道路を作ることが再び盛り上がるかもしれません。北海道などは、もうJRを無くして環状型の高速道路を作ればいいなんて議論が出るかも。
そういう国土の交通インフラについても再考するきっかけになるかもしれません。


2013年10月19日土曜日

一人で生きることとみんなで生きること ─みんなで何かを作る

私たちは日常的に「何かを作る」行為を行なっています。
当然、複数人で何か一つのものを作るということもあります。

複数人で何かを作る場合には、一定のルールを設ける必要がどうしても出てきます。
一つのものをみんなで作ろうとした場合、目に見えないそういったルールや作業分担の仕組みが、作った物の出来映えに大きく影響します。

ところで、私は作曲活動をしていますが、通常作曲は一人で行なうものです。
作曲のアウトプットは楽譜とすると、私は一人で楽譜を作れば良いのです。楽譜を作るためにはテーマを決めて、構成を決めて、音符を配置し、表現を付けて、間違いがないか調べて、見た目を整えて・・・といった作業を行ないます。


例えば,上記の作業を複数人でやったらどうでしょうか。
まず作業をどのように割り振るか考える必要があります。
もちろん一つ一つの作業をみんなで相談しながらやっても構いません。特に最初のテーマ決めは全員が関わりたい作業でしょう。しかし、作業が細かくなるにつれ、同じ箇所をみんなで相談しながら作ると時間ばかりかかって一向に作業が進まなくなります。

ここでいくつか作業の割り振りを決める必要があります。
テーマを決めた後、楽曲を人数分に分割して、それぞれの箇所を一人の人に担当してもらうやり方がまず考えられます。水平分担型とでもいいましょうか。
あるいは、複数人が同時に作業しなくても良いのなら、全体の仕事の分割を流れ作業的にして、まず細かい曲構成を決める人、構成に従って音符を配置する人、音量などの表現を書き込む人、校正・チェックを行なう人、という分担も考えられます。これを垂直分担型と呼ぶことにしましょう。
まあ、作曲の場合、芸術的な要素が強いので、後者の垂直分担ということはまず考えられませんが、実利的な面が強ければ作業内容ごとに分担を分けることは効率的で、アウトプットを均質化します。

上記の作曲の例でいうと、垂直分担型の難しさは非常に分かりやすくなります。
つまり、曲の構造を考えてもメロディは別の人とか、メロディを考えるのと音量を考えるのが別の人とか、まあ正直、こんな方法で作曲を行なうのはかなり難しいです。
それでも敢えてそういう分担を行なうなら、構成担当者とメロディ担当者と音量担当者が、音楽の流れの盛り上がり方や落ち着かせ方の分類を行ない、その相互関係のルールを決めて、表記法や禁則などを文書化する必要が出てくるでしょう。
こう書くと無茶苦茶ヘンテコなお話のように見えますが、話が作曲でなければ、こういうことは日常的に多くの人が行なっていることです。


私は仕事でプログラムを書いていますが、まさに似たような問題にいつも遭遇します。
今でもプログラミングの多くのプロジェクトは水平分担型で仕事を割り振っています。
ところが、よりプログラムが大規模になってくると、OS部分や、表示のフレームワークといったソフトウェアの部品を担当する人が必要になってきます。OS機能は多くの人が利用するので、これはまさに垂直分担型ということになります。

そして世の中は、OSがパッケージングされ、WindowsとかLinuxとか、iOSとかAndroidとか、垂直分担のパッケージがまとまった創作物として確立してしまいました。
このように各層をブラックボックス化すれば、作業の効率は飛躍的に高まるからです。こういった傾向は今後ますます拍車がかかるでしょう。最終的にはソフトウェアがブロック化され、最終商品はブロックを組み合わせることによって作成するようなメタプログラミング的世界がやってくるものと思います。


やや話が逸れましたが、みんなで何かを作る場合、上記のような水平分担か垂直分担かの判断の必要があり、それを統べるリーダーがその分担について自覚的でなければいけないと思います。
人が少ないなら、水平分担が分かりやすいのですが、分担されたものの出来映えにずいぶん差が出る可能性があります。実利的なものを作る場合、それは品質に大きく影響してしまいます。一人一人が芸術家としての矜持を持って対応出来る人たちなら水平分担は適度なライバル意識を刺激して良い結果をもたらしますが、個々人の能力差が無視出来ない場合はむしろ垂直分担を検討した方が良いような気がします。


2013年10月12日土曜日

完璧主義とプロフェッショナル

完璧主義がアダになってイノベーションを阻んでいる、というような言説を良く聞くようになりました。自分が日頃そう思っているから、余計にそういう話題に吸い寄せられているのかもしれません。
自分の身の回りにも、良かれと思ってやっているけれど、本当にここまでの完璧主義が必要なのかと思うようなことに遭遇することが度々あります。

我々日本人は完璧であることを美徳とする性質があるのでしょう。
工業製品の場合、性能が目に見えて良くなっていた時代は良かったのですが、あるところから革新的な変化が起こらないようになると、作り手の関心は完璧であることに移ってきたのではないか、と思うのです。

そしてそれは作り手だけでなく、製品を手に入れる消費者にも同じマインドが波及してきました。
例えば、自分の購入したある製品が思い通りに動かなかったとします。仮にそれが相当な悪条件だったり、特定の限定された状況だったとしても、そんなことは御構い無しにお客さんは販売元にクレームを付けます。
それが製品の性能限界である場合もありますし、使い方が悪いということもあるでしょう。お客さんに直接対するサポートセンターでは何とかお客さんに理解してもらうように務めますが、そういう情報はそのまま商品開発部署に流れてきます。
場合によっては、品質管理の部署にこういう問題が大きくクローズアップされ、「何とかすることは出来ないか?」という依頼が開発部署にやってきます。

本当の重大な不具合なら、上記の情報の流れ自体は全く何の問題も無いのですが、そこで扱われるクレームが現場からすれば性能限界に近いようなものであっても、中盤にいる人たちが感じる完璧主義によって途中ではリジェクトされず、お客さん以上の圧力となって現場に流れてきます。
一つのクレームが治すべきものか、そうでないのか、という判断は非常に難しいものですが、難しいからこそ完璧主義側に振れ過ぎているのが今の私たちの状況ではないかと感じます。


プロフェッショナルであるということは完璧であること、だと思っている人が多いのでしょう。
それは決して間違っているわけではありません。プロフェッショナルである条件の一つの要素であることは確かです。
しかし、それよりはるかに重要なのは、世の中が必要としている(であろう)新しい価値を提供することです。
世の中が必要としている、というのは、企業活動で言えば、その商品やサービスで売り上げが増え適正な利益が確保出来るということを意味します。利益が出るということは、支出より収入が勝っているということです。

完璧でないものを売れば、商品イメージが悪くなり結果的に売り上げが減っていくでしょうが、市場が要求する以上の完璧を求めると、完璧であることのコストが増大していき、今度は支出が増えていきます。
金勘定になると生々しい感じがしてしまうし、利益追求で品質をおろそかにするな、という批判を言う人も出てくるでしょう。しかし、過剰な完璧主義は作り手の自己満足に陥るという側面も持っていると私は感じます。

もう一度、プロフェッショナルであるということはどういうことか、本質から考えてみたいのです。
世の中に必要とされていることとのバランスを取る、ということは、プロフェッショナルであることの大きな要素です。
必要とされていないものを作ることは、言ってみればアマチュアリズムです。
プロフェッショナルであれ、ということは、世の中に必要なモノを提供し続けることであり、それは適正な利益を出せということであり、そして自己満足に陥りやすい完璧主義に落ちないようにするバランス感覚を持てということなのです。

まあ一般論として納得してもらえても、個別案件となればまた話が違ってくるのが、世の常。それは結局、プロフェッショナルとしてのセンスの問題なのでしょうけれどね・・・。

2013年10月7日月曜日

一人で生きることとみんなで生きること ─ネット発信と個人力─

IT化はますます個人を丸裸にし、個人と集団の距離感も変えていきます。
そんな時代に私たちはどう行動していったら良いのでしょう?

毎日のようにTwitterやFacebookで自分の思ったこと、感じたこと、日々の出来事をネットに書き込めば、どんなに匿名を装っても、個人を特定することは難しくないと思います。少なくともこれからビッグデータの解析技術が飛躍的に高まれば、少ないキーワードで個人を特定することは可能になっていくような気がします。
つまり日々ネットで発言することは、自分をさらけ出し、世界の誰にでも自分が何ものであるかを表明しているようなものです。
これからは、そういう覚悟を持った上で然るべき発言が出来る人がネットで力を持つことでしょう。

そういう感覚を知ってか知らずか、世の中にはまだSNS的なものを嫌悪し、そういうものとは自分は関わらないという人たちも結構います。
個人的には、その考えは今どきヤバいだろう、と思いつつも、そういう人たちの考えを変えることは不可能だと思うので、適当にスルーしています。
しかし、個人が特定されることで不利益が生じるのなら、確かにその考えもあながち間違ってはいないわけです。SNSをやれば個人情報が漏れることによる不利益もあるでしょうし、そもそもそんなふうにバカなことをネットに書き散らしている自分が世界に晒されるのは耐えられない、という気持ちもあるでしょう。
その辺りは、負の感情による自尊心と無縁の私とは、全く性向が異なっているわけですが。

いずれにしろ、このような両極端の人々がいるのなら、その溝はどんどん深まっていくことが予想されます。
日頃から全てを曝け出そうとしている人は、いろいろと失敗もするでしょうが、それを通して自分を曝け出すスキルも増していきます。
その一方、ネット世界に生息せず殻に閉じた人々は、リアルな付き合いのみで成り立っているような集団に吸い寄せられるように帰属して生きていくでしょう。

現実的には、こういう現象は世代間ではっきり分かれています。
当然若い世代ほど、ネットでのコミュニケーションスキルが高く、そういう世界が前提の生活をしているはずです。そして中高年になると、その比率がだいぶ変わっていきます。
今の40代くらいでも、ネットでバリバリ発信している人はそう多くはないと思われます。そう考えると、全世代がネットで発信当たり前になるにはまだ30年くらいはかかるのではないでしょうか。
とはいえ、世の中の流れを考えれば、個人がネットで情報発信する方向にシフトすることは明白に思えますが、それでもネット内で有名になれる人はごく僅かであり、そういう現実を目の前に、敢えて自分を晒さないという選択をする人はこれからも一定数はいるのではないかと思います。


ネットでの発信度が高いほど、個人が自立していて、集団に帰属する存在理由は減っていきます。
恐らく集団というのは、一人で生きていけない人たちの相互扶助の装置なのであり、そのメリットと引き換えに、生活に何らかの制約が課せられます。

誰もがその制約から逃れたいと思い、一人で生きていきたいと考えます。
そして、それが本当に出来る人たちは僅かな人々です。
そういう世の中の構造が、これから少しずつ明瞭になってくるのでしょう。

私たちの選択は、頑張って一人で生きていけるだけのネット発信力を身に付けるか、そこそこの発信力と縛りの弱い集団の帰属か、あるいはネット発信せずに拘束力の強い集団に属するのか、そういうことが問われるようになるのではないでしょうか。