2013年7月27日土曜日

面白いと思う声部の動き

演奏家が練習を通して「なるほどね〜」といった感じで曲に感心する力を持つことは大事なこと。
たとえそれが作曲としてわずかな工夫であって、音楽を聴いた聴衆にはほとんど気が付かないようなレベルであっても、そういうことに丹念に気を付けている作曲家の姿を意識することによって、必ず演奏にもいい効果が現れると期待できます。

今回は、合唱で複数声部がどのような相関関係を持っているか、ということをいくつか挙げて、楽譜を深く読む取っ掛かりを探ってみようと思います。

1.反行
ある声部が上がっているときに、ある声部が真反対に下がっているような音形です。
ほとんどの場合、これは作曲家が意識的にやっているはずです。
これも上がる方が順次進行なら、下がる方も順次進行、というように上げ下げの具合が同じほど反行であることが明瞭になります。




なぜ、作曲家が反行する声部を書こうと思うのか、いろいろな理由が考えられます。
一つは音響の立体性。一度に二つの相反する動きがあることによって、音空間に立体感が生まれます。
次に、楽譜が視覚的に膨らんだりしぼんだりする形を見せるため、何らかの意味を象徴している可能性があります。クレシェンドの形にも似ているので、音形そのものがクレシェンドを反映している、というような感じです。
さらに、これを複数回連続的に使ったりすることで、よりフレーズを印象的なものにする作用もあるでしょう。複数パートの動きを主題にしてしまう、というような使い方です。

2.同じ音+そこから上行 or 下行
例えば二つの声部が同じ音を歌っていて、片方はそのままで、もう片方が上あるいは下に動き始める、というようなパターンです。



これももちろん意図的なものを感じるはず。
場合によっては、1の反行よりも拡がりを感じさせます。両方とも動くと二つの音の相関関係を感じるのはやや難しいですが、最初が同じ音だと、明らかに二つが分離して拡がっていく感じが得られます。
やはり一本の線から始まって、何かが拡がっていく、という感じを音楽的に表現している場合が多いと思われます。
さらに複数声部で同様なことをすると、楽譜が幾何学的にも面白くなり、多少クラスタ的な音がしても非常に特徴的な音響を表現出来る可能性があります。

3.平行五度、平行四度
言うまでもなく、和声学的には禁則なわけですが、禁じられていると使いたくなるというのが人情というもの。


もちろん、敢えて使おうと言うのですから、それなりの効果を狙っているはずです。
四声体の中の二声がこうなっていると、和音の連結が美しくなくなりますが、二声のみで歌うのなら、その空虚さを強調させることが出来るはず。
あるいは、二声の平行音程+他の二声は別の動き、というようなことも出来るかもしません。

この響きをどのように使うか、という点において、作曲家の意図を汲み取ることが出来ると思います。
一つには、和声的で豊かな楽想に対して、別の楽想を提示したい場合が考えられます。これによって曲想にバリエーションが与えられます。
それから、曲全体が粗野で土俗的、素朴な感じを音楽的に表現したい場合もあるでしょう。いずれにしろ空虚な響きを、曲の中でどう生かしているか、という点に注目すれば曲を紐解く鍵になるはずです。

ひとまず、今回はこんなところで。

2013年7月20日土曜日

感動的な歌を歌うということ

合唱の醍醐味の一つは、みんなで感動的な歌を歌うことにあります。
大自然の壮大さを表現した音楽、悠久の歴史を表現した音楽、大切な人との死別をテーマにした音楽、戦争や災害などを扱った人間ドラマ、こういったテキストを感動的に歌い上げることは、自分の人生においても大切な経験になることは間違いありません。

感動的な音楽を大人数で歌い上げれば圧倒的な高揚感が得られますが、感受性が豊か過ぎる人にはあまりに心を揺さぶられ過ぎて、演奏の舞台の上でも歌えなくなるくらい、こみ上げてくる場合があります。私もずいぶんそういう経験をしてきました。
感受性の強さは人によって違いますから、むしろ音楽作りはより多くの人を感動させる方向に向かっていきます。感動的な作品は、それ故になるべく多くの人を感動させるべく、より派手で高揚感の高い音楽を志向することになります。
それを首尾よく行なえば、多くの人々の心に残る演奏会になることは間違いありません。
一般的には、多くのアマチュア演奏家の興行はこのような演奏会であることを目指そうとしているように感じます。

その一方、音楽を専門的に勉強すればするほど、音楽そのものの魅力、演奏家としての力量、音楽が作られた歴史的背景など、ややレベルの高いコンテキストを共有した人たちと相互理解を深めたいと考えるようになります。

プロの演奏家であれば、音楽の魅力で勝負する音楽家でありたいと思うし、それに見合ったレベルの高い聴衆に聞いて欲しいと考えているはずです。
ところが、単純にコンサートでの音楽鑑賞を市場としてみた場合、圧倒的多数の人々が音楽に感動を求めており、そこには常にプロと大衆の意識の乖離が発生してしまいます。

プロである以上、自分たちが食べていくために市場に向き合う必要があります。
そういう意味で、プロの人たちの生き様、向かうべき音楽性を眺めてみると本当に興味深いものがあるわけです。
例えば、合唱作曲家で言えば、アマチュア合唱団向けの感動的な作品をコンスタントに書ける作曲家は、一般での知名度も高く、いわゆる売れっ子という扱いになります。
その一方、敢えてそのような感動的な世界観を避け、純粋な音構造や、芸術的興味に根ざして創作活動をする作曲家もいます。

どちらがいいなどとは私には判断出来ないし、一人の創作家が二つの側面を持っていても全然構わないと思います。
むしろ、創作家である以上、常にこの二つのバランスを保つ必要はあるとは思っています。どのような芸術作品であっても、他人に理解してもらわなければ意味はないですから、プロであっても大衆と向き合うという感覚は忘れるべきではないとも思います。

ただ、逆にアマチュア演奏家の方々には、もう少しこういう感覚にセンシティブであって欲しいと思います。
感動的な作品ばかりを歌い続けると、むしろ感動に鈍感になるような気もします。また、音楽そのものの面白さとテキストによる感動を混同してしまうことにもなりかねません。
もとよりコンサートに足を運んでくれる聴衆は、感動的な音楽ばかりでなく、リズミカルな曲や、エンターテインメント性のある曲なども求めています。

感動的な音楽は私たちの感性を育みます。
しかし、安易に音楽に感動を求め過ぎることによって、その感性さえ萎えさせる可能性もあると思います。音楽をやる以上、音楽そのものの面白さにも十分意識を払って音楽活動に取り組んで欲しいと思います。


2013年7月14日日曜日

歳をとった自分への戒め

さすがに40代後半にさしかかったオジさんを「若い」という人はいないでしょう。
就職時にバブルを経験したバブル世代の私たちは、世界的に不穏な経済状況の中で、いろいろ微妙な立ち位置にいます。当然、それなりの年齢なので若い人たちを指導したり、マネージしたりする必要もある一方、採用を抑制したおかげで若い人が少ない状況が続き、自分自身が最前線のプレーヤである場合も多いことでしょう。

しかも年齢を重ねると、体力的、精神的にも変化が現れます。
自分は自分のままでいるつもりでも、周りの同世代の人々を見ていると、なんか変わったなあ、とか感じる人もいるし、もしかしたら自分もそう思われているのかもしれない、という恐怖を感じます。
今回は自分への戒めのため、こんな中年になりたくないと思うことを、いくつか挙げてみます。

1.説教オヤジになる
どこから説教になるかは微妙なところですが・・・、私の基準は例えば以下のようなパターン。

1-1.「歳を取ればわかる」「何年経てばわかる」と言う。
私も言われたことがあるけれど、これ最悪。なぜかというと、これを言われたら反論出来なくなるから。もちろん、本人は反論されたくないからいうのだけれど、これでは上から目線に立ちたいだけの気持ちが丸見えです。常にきちんと論拠を示す態度が必要だと思います。

1-2.耐えること、根気を持つことを強要する。
確かに人によっては、明らかに諦めやすい人とかいるのでしょうけれど、こういう人は説教したって変わらないので、言っても無駄。
「耐えること」を強要することは、間接的に「黙っていうことを聞け」といっているに過ぎないのです。

1-3.自分の実績を自慢する。
傍から聞いていると何ともサモしいのに、こういうことを話したいと思う欲望に打ち勝つのは難しいです。謙虚な人はこういうことは言わないですので、性格にもよるのでしょうが、私など気が付くと言ってそうでコワい。
しかし難しいのは、然るべきところでは、ある程度脚色を込めてでも自分の実績を表現しないといけないときもあるとは感じます。


2.面倒なことを若い人にやらせる
これも難しいところですが、明らかに雑用は若者に振ればいいと思っている人はいるし、これはあまり良いことではないと思います。
組織的に仕事をしていれば、本来役割というものがあるはずで、それぞれの役割の中でやるべきことかどうか適宜判断すべきなのです。雑用であっても自分がやるべき仕事なら、それは自分がやるべきなのです。
人に振ることで「自分はやりたくない」という意識が見えてくると、この人が何かを成し得るとは下の人は思わなくなることでしょう。


3.細部へのこだわりを失う
立場が高くなれば、より俯瞰的にものを見るようになる場合も出てくるでしょう。そうすると、そもそも細かいことを考えることが面倒な人は、ますます考えないようになります。
もちろん、担当が広くなっても何から何まで自分でやれとは言わないけれど、昔こだわっていたときの気持ちを忘れずに、そういうところをこまめに指摘していかないと、その心を周りの人に伝えることは難しくなります。
何しろ、大ざっぱな感覚では、正しい判断は出来ないはずなのです。


4.若い人と主従関係であろうとする
上のいくつかと関連しますが、そもそも自分の心持ちが、常に若い人を家来のように扱うような人は少なくとも影では嫌われていると思います。
こういう振る舞いは儒教的感覚の強い日本ならではことで、年齢の上下や、入社年度、入団年度などでヒエラルキーが出来るなどというのはもはや幻想です。これからの時代、全ての年代の人と平等に接する態度が必要になってくると私は感じます。
もちろん、集団の指揮系統として上下関係が生まれれば、それはそれに従うのが当然ですが、そのときでさえも相手への敬意を忘れずにしたいものです。

こんな大人になれたらカッコいいのにね。

2013年7月6日土曜日

コンピュータ音楽 歴史・テクノロジー・アート

13000円もする本を買ってしまいました!

厚さもすごいし、装丁も結構大きめな本なので相当な存在感です。
もちろん、この本を端から端まで読み切ろうなどということは考えていません。何というか、一種のお守りのようなものだと思っています。きっと困ったときには何か役に立ってくれるかもしれない・・・みたいな。

なので、今回は本を読んだ感想ではなくて、本の目次の紹介です。中身はまだほとんど読んでいません。

まず、この本には何が書いてあるかというと、ざっくり言えばコンピュータを利用して音楽を作るのに必要な知識の一覧と、プログラミングの方法が書かれています。
明らかに大学の教科書になるべき本を目指しており、音楽とデジタル処理に絡む内容を一通り網羅しています。逆に数学的、物理的にあまりに専門的にならないよう配慮している、と序文にはありますが、私には遠慮なく難しいことを書いているようにも見えました。

第一部では、デジタルオーディオとコンピュータ技術の導入部分です。
第1章はデジタルオーディオ、第2章はプログラミングの基本的な話。さすがに私にはどちらもほぼ既知の内容ですが、デジタルオーディオに詳しくない人には(サンプリング定理とか)第1章は大変有益かもしれません。

第二部は、デジタル音合成に焦点を当てています。
第3章はシンセサイザーの基本的な仕組み、第4章はサンプリング、加算合成による波形生成、第5章は多重波形テーブル合成、地表面合成、細粒合成(この辺は聞いたこともない)、そしてフィルターによる減算合成などの話。
第6章はリング変調、FM音源などの変調合成。第7章は物理モデリングとフォルマント合成。第8章は波形セグメント合成、図式合成、確率合成(どれもまるで聞いたことが無い)だそうです。

第三部はサウンドミキシング、フィルタリング、ディレイ効果、残響、音像定位の操作といったテーマ。各章の内容は割愛。

第四部は音の分析を扱います。第12章ではピッチとリズムの検出を、第13章はスペクトルによる音の分析について扱います。

第五部は、音楽家とのインタフェースの話題。
第14章は概論。第15章はコンピュータの各種演奏用ソフトウェアの種類、第16章は音楽用エディタへの入力方法、第17章は音楽用に開発された各種言語についての説明、
第18章はアルゴリズム作曲システムとありますが、作曲援助、あるいは自動作曲の試みのようなものだと思います。そして第19章ではそのアルゴリズム作曲のいろいろな技法を紹介しています。

第六部は、音楽スタジオを自力で作る際の機器類の接続や、各種ツールの基礎知識について書かれています。DSPやMIDIの扱いもここです。

第七部は、音響心理学です。
いわゆる人間の音楽の知覚についての話題です。これはコンピュータが奏でる音楽、と言う文脈ではなく、人間に関する研究にどのようにコンピュータが関わっているか、という意味でこの本の中に書かれているのだと思われます。
いわゆるラウドネス曲線とか、マスキング効果とかの話題が書かれていますが、量はちょっと少なめです。

自分が本全体の中身を理解するために、少しずつページをめくりながら、目次をあさってみました。
正直言うと、私の日頃の業務に直結するような内容ばかりですが、自分がこういった内容に精通しているかというとかなり怪しい部分もありました。
少なくとも技術的な領域でコンピュータによる音楽を人様に啓蒙していこうとする立場に立とうとするのなら、とりあえずこの本を書棚に飾っておくのが最低レベルではないかと思った次第です。