2013年4月27日土曜日

こんなオルガンを作りたい─操作系で思うこと

前回の創作楽器「カマボコオルガン」の続き。

操作系は4つのテンキーで行なう、と説明しました。
これは一つのアイデアではありますが、自分が電子楽器に関わる中で操作系について日頃思っていることから、どのようにしてそのアイデアに到達したか、紹介したいと思います。

電子楽器の操作には、すぐに音の何かを変化させるための動的な操作と、演奏時の振る舞いなどを設定したり、その設定をメモリーしたりといったその場では変化しない静的な設定系の操作に大まかに分類できます。

楽器にとって動的な操作は演奏と直結します。その操作によって音が変わるからです。
従って、そのような操作子は鍵盤などと同じ演奏として絶え得るインターフェースである必要があります。
大ざっぱにいえば、視認性が高く、操作しやすく、壊れにくい必要があるでしょう。

もう一つの設定系の操作はどうでしょうか?
これはそもそも楽器のリアルタイムな演奏とは関係ありません。また、全ての電子機器が一般の人にとって難しく感じられるのは、このような機能がたくさんあるからです。たまにしか使わない機能設定の方法をいつでも正確に覚えていられるなどと思うのは、むしろ電子機器を設計するメーカーの怠慢だとさえ言えるでしょう。

あくまで理想を言うならば、楽器に設定系の操作は必要ないと思います。
電子楽器以前、楽器にはそもそも設定系の操作はなかったのではないでしょうか。パイプオルガンのレジストとか、楽器の調律とか、まあそういう類いのものはありますが、音を変えたければ楽器を持ち替えるし、そもそも繊細な音の違いは演奏時にすぐに制御できなければいけません。

便利さを追究した結果、本質を外れた不便さが蔓延してしまったのが今の電子機器の状況です。それは電子楽器とて変わりません。
一つの機器がいろいろな機能を持ち、全て一台で置き換え可能、という便利さは、むしろ精神的な貧しさの現れではないかとも思えます。
一つ一つの機器が十分安くなり、使いやすくなるのであれば、個別最適化されたそれでしか出来ない機器を必要なだけ持っている、というのがむしろ個人にとって理想的な状況であると思われるのです。

このようなことをつらつら考えていくと、電子楽器から設定系操作を限りなく外す、ということが今後のテーゼとなりうるのではないでしょうか。
その上で、楽器が取り得る音楽的表情をどれだけバリエーションとして持たせるか、それがこれからの電子楽器の工夫の仕方であると私は考えます。


今回、私が考えているカマボコオルガンの操作系は、上のような思想に基づいています。
オルガンである以上、ストップなどの操作によって何種類かの音色が選べる、というのは基本です。しかし、何百種類もの音色がメモリーされている、というところまでいくと、オルガンのリアルタイム操作性とか、そもそもその特定のオルガンとしての音色の特徴が薄れてしまいます。
そこで選べるストップは4つほどに限定。
ただし、せっかくの電子楽器なのだから、アタックやリリースなどのエンベロープも変化させたい。そこで、そのための設定も加えます。
ただし、0〜127まで設定できる、などというメーカーの都合をゴリ押ししてはいけません。最適な設定を2、3個用意するだけです。

というようなことを考え、ストップを4つ。そして各ストップが0〜9の10個の状態に変化するという仕様にしました。
そして、上記のような設定を簡単に操作できる方法として、今の機器で一般的なテンキーを使ったらどうかと考えたわけです。

とは言え、頭で考えたことが思った通りにはならない、ということは良くあること。まずは試作品を作って、それが感覚的に使いやすいかどうか実際にやってみなければ何とも言えませんが・・・

2013年4月20日土曜日

こんなオルガンを作りたい

頭の中で温めているだけでは腐ってしまうと思い、最近考えている新しい電子オルガンのコンセプトを紹介しようと思います。

前提が一つ。
これは実現性を無視してオルガンのあるべき理想的な形を追究したというようなものではありません。
あくまで私が一人で現実に製作することを前提に考えたものです。
従って、試作でも何とか作れる程度のシンプルなデザインや構造の中に、私なりに考える新規性が同居したものとなっています。


というわけで、上の写真のような下手な絵を描いてみました。
もっと上手く描けば印象も違うのでしょうが、美しさの足りない部分については皆さんのイマジネーションで脳内美化させてください。

全体は円柱を半分に切ったような形をしています。
蒲鉾のような形です。従って、この楽器、愛称は「カマボコオルガン」です。英語なら"Kamaboko Organ"(そのまんま・・・)
筐体がオレンジ色なのは、単に私がオレンジ色が好きだからです。

蒲鉾の片方の側から、にょきっと鍵盤が出ています。
絵では3オクターブありますが、両手で弾くなら4オクターブ、あるいは5オクターブの鍵盤があってもいいかもしれません。その場合は、この楽器の横の長さが単に長くなっていきます。
鍵盤は出来れば木製。ピアノの鍵盤よりもサイズは若干小さめにしたいです。


操作子は、鍵盤の前に4つのテンキーがあるだけです。
この4つのテンキーは、それぞれオルガンのストップを表します。下の図の例では、テンキーがそれぞれ、Principal 8'、Principal 4'、Flute 8'、Trumpet 8' のストップを表しています。


ポジティフオルガンなどでは、4つのストップがあれば、スイッチは4つあって、各ストップを入れるか入れないかの二択しか出来ません。
しかし、この楽器ではテンキーを使って、鳴る場合でも9つのバリエーションを選ぶことが出来ます。
テンキーの上下の段は音量を表します。上にいくほど(数字が大きくなるほど)音量が大きくなります。
またテンキーの左右は音の立ち上がり,立ち下がりを表します。一番左は、アタック付きの音です。ハモンドオルガンのアタックドローバーのようなものです。
真ん中は通常のオルガンの音。そして右側は、音の立ち上がりと立ち下がりがユルくなり、ふんわりとした音に変わります。
このようにすることによって、オルガンのセッティングを4桁の数字で表現することが可能になります("8210"とか、"7135"とか・・・)

クラシックで使うオルガンはストップのオンオフしかできません。
逆にポピュラーでよく使われるハモンドオルガンの場合、いろいろなフィートの音を混ぜることが出来ますが、音色は一つしかありません。
そこで、クラシック向けのオルガンとハモンドオルガンの二つの特徴を持たせてみようと思ったわけです。
そこに、だったらテンキーにしたら面白いじゃん!というアイデアが合体しました。
さて,皆さんはこのアイデアについてどう思いますか?

このオルガンのアイデアについてご意見がありましたら、Twitter で @hasebems 宛にでもメンションを送ってもらえると嬉しいです。

2013年4月13日土曜日

アートの力

クリエイティビティが重要だと叫ばれる昨今こそ、アートとは何か、と考えることが重要になると私は思います。
ところが、多くの人々(特にある程度歳を取った男性)は、むしろアートとは距離を取っているように見えます。
何にしろ、「違いの分からない人間」には誰もなりたくないので、分からないものには遠ざかるというのが安全な態度です。ですから、若い頃からアートのことなど考えたことの無い人は、なかなかアートと向かい合う勇気を持ちません。

アート,芸術には相反する二つの側面があると思います。
一つは正解がない自由さ、奔放さを謳歌するような方向性、もう一つはある一定のルールに則ることの美学、一種の様式美のような方向性です。前者を奔放性、後者を様式性とでも呼んでおきましょう。

奔放性とは、感性が中心で、言葉で表現することが難しく、前衛的で斬新であるイメージがあります。何をやっても許されるような前衛芸術のような方向性。
様式性とは、ロジカルに説明が可能で、そのジャンル特有に発達したお決まりのルールの上に根ざした要素。知っているか知らないかで理解の度合いが変わってしまうハイコンテキスト性。伝統芸能のような方向性。

例えば音楽で言えば、クラシックは様式性が非常に高く、ある音楽を理解するためには、どうしても作曲当時の社会状況にまで想いを馳せる必要があります。また、音楽を作るためのルールも大量に定義されており、こういうことをどれだけ知っているかで鑑賞する側の力量も問われてしまいます。
もちろん、ポップスやロックも商業に組み込まれて以降、お約束の多いハイコンテキスト性が高まり、意外と様式性の高い音楽になってしまっている部分もあるかもしれません。
ジャズは奔放性もありますが、それなりにお約束も多いので、様式性も兼ね備えていそうです。

そういう意味では、音楽で最も奔放性が許されるのは、ゲンダイ音楽なのかもしれません。音楽である以上、どうしても最低限のリテラシーや秩序は必要ですが、ときにそれさえも破壊しているものもあります。
しかし、音楽の場合、奔放が過ぎると人々が安心して聞くことの出来ない音楽になってしまう可能性があります。


アートの好き嫌いには、上の二つの要素の組み合わせで考えると分かりやすいような気がします。
アートの奔放性が好きな人、アートの様式性が好きな人、逆にアートの奔放性が嫌いな人、アートの様式性が嫌いな人、というような感じです。

奔放性が嫌いな人は、アートに常にある種のうさん臭さを感じているような人たちです。若い人たちが飛びつくようなカッコ良さとか、ただ単にスタイリッシュに見えるだけなものとか、バカバカしいものにしか見えないものとか。
実際のところ、一時期人々にもてはやされていても、すぐに忘れられてしまうようなものは、中身のないアートなのであって、それを早い時期から気付けるセンスが必要です。奔放性の評価には、知識ベースではなく感性ベースのアートに関するセンスが問われます。このセンスが弱い人は、なにしろアートの奔放性が嫌いになってしまうのです。

次に様式性が嫌いな人は、逆に敷居の高さで入っていけない状況だと思います。
これは多くの人が理解できる気持ちでしょう。例えば私は歌舞伎には詳しくないので、歌舞伎が好きな人が言っている感想や、こだわりを理解することは難しいです。
そうすると、良く分からないから好きでない、という発想になってしまう人も出てきます。どちらかと言うと、自分が詳しくないことをはっきり言って、感想を控える方が紳士的な態度とは思います。

冒頭にも書いたように、クリエイティビティを高める、ということはアートの本質に近づこうとする態度でもあります。
アートの力を高めるために、上記のように奔放性、様式性の両面からアートを捉え、理解していく必要があるのではないでしょうか。


2013年4月6日土曜日

私の中のロジック、アート、マーケット

某有名ブログでこんなことが書かれています。

これを読んだ直後、自分の比率はどうなんだろうと考えてみたのですが・・・時間が経つごとに、ようやく分かってきました。恐らく私には、マーケットが足りない。
ロジックやアートは、他人がどう思うかはともかく、自分の構成要素として十分な領域を占めているのだけれど、どうやらマーケットが最も心もとないようです。

正直、これは性格に起因するところなのでしょうが、自分の欲望を表現し、押し通すようなバタ臭さが自分には足りないのです。どうせ思い通りにならないなら、最初から諦めちゃうか、みたいな性根の悪さがどうも深層心理にありそう。だから、ものごとについついシニカルな対応をしてしまう。
しかし、何かをやり遂げようとするなら、まず自分の欲望に忠実に生きるような生命力というか、強引さが在る程度必要なのでしょう。これは決して、押しの強さとか、カリスマ性とかとは同じものではなく、おっとりしていても頑固に自分の思いを押し通す人はいます。

その一方、自分がこれまで意識して重要視していたのは、ロジックとかアートという文脈で語られる部分だったと思います。

ロジックは、理系&技術屋である以上、言わずもがな。
ロジックを追い詰めることには、人によって得手不得手もありますが、それと同時にロジックをきちんと正しく追い詰めること自体に執着を感じる気持ちはとても良く分かります。
これはまさに研究者のスタンス。金儲けが出来るとかそういう現世的な利益があるわけではないのに、何か真理に近づこうとすることを一生懸命考えることを止められないのです。
しかし、こういう気持ちを持っている人がいたからこそ、人類の科学技術が発展したわけですから、マクロ的に見た場合人間の資質にとして重要な指標であるに違いありません。


三つの中で恐らく最も説明し難いのがアートでしょう。
前衛的なアートを鑑賞した後「こういうのは良く分からないよね〜」とか真顔で、憚りも無く主張出来る人は、アート要素ゼロの人です。残念ながらこういう人は世の中にとても多いです。
「分からない」と憚りも無く主張することによって、自分の世界観とは相容れないと宣言してしまっているのです。

アートは分かりやすいものである必要はありません。
後でじわじわ来る場合もあるし、全く共感しない場合もある。共感出来ればラッキーです。後は多くの人がどう感じるかという積分値で勝手に淘汰されるだけです。

そのように考えれば、もっとアートに対して親近感が湧くと思うのです。
何かを伝えたいという気持ちは誰でも持っています。それをどうやって伝えるか、それがアートの最も苦心する点です。
万人に伝わらなくても、ある程度のセンスのある人に深く伝わるのであれば、それは長い目で見て優れたアートになり得るでしょう。
自分がそのアートを理解できるセンスを持てるかどうかは、その人がどれだけ多くのアートに触れたかに影響されます。
個人が持つアート、芸術の要素を高めるには、日頃から、音楽、絵画、造形、映画、文学など、そういうものに触れ続けることが本当に大事だと感じます。
自慢できるほどでは無いにしても、自分はこれまでそれなりにアートには触れてきたとは言えると思っています。