2012年2月28日火曜日

意地悪な鑑賞法 その2


合唱団ではまだまだ暗譜することが多いですし、舞台にのる以上、絶対暗譜ということが常識化してしまっている団体もあることと思います。

暗譜を課している団体の演奏をよく見てみるのは面白いのです。
まず一人一人の歌っている様子を見てみて下さい。口や身体の動き、目線など。暗譜のおぼつかない人はいないでしょうか。
大きい団体ほど、暗譜の怪しい人はいそうです。その人数によって、その団体の普段の練習の出席率などが推し量れます。あるいは、その曲がどの程度の練習量で舞台に臨んでいるかも多少の想像がつくかもしれません。
もちろん練習量は演奏の出来から推し量れる部分もありますが、発声などはすぐに良くなるわけでもないし、音楽の細かい詰めは指揮者のセンスによっても異なってしまうので、推理するには難しそう。
高校生などは、時間もあるし上級生の目もあるから、暗譜が十分でないなんてことは無いのですが、これが一般団体になってくると、なかなか強制するのも難しく、その分普段の団の雰囲気などが見えてくるわけです。

あと、ほとんどの人が暗譜なのに楽譜を持っている人がいる、という演奏が時々ありますね。
こういうときなど、私は思いっきり何が起きているか想像を逞しくさせてしまいます。少なくとも、そういう団では指揮者が見栄えを重視していないことは確か。演奏さえ良ければ問題無いというドライな態度を持っているかもしれません。
しかし、それにしても団全体で暗譜と決めたのに、彼らはどういう特権で楽譜を持てるのか。
一つには、持っている人は非常に歌がうまい可能性があります。不公平だと思う以上の演奏上のメリットがあるということです。
もう一つは、持っている人は文句を言えない人である場合。これもその人が歌っている様を見れば、何となく分かりますね。すごく怖そうな高齢者とか・・・。
でも、こういうことを放置しておくと団内の統治が乱れますから、本来は許したくないもの。逆に言えば、一部の人が譜面を持っていることは、団の統治の弱さの現れであると言えるかもしれません。

「うちの団はなかなか伸び伸び、楽しそうに歌ってくれなくて・・・」という不満をいう指導者が時々います。
こういう状況は確かに演奏を聴けば一目瞭然です。身体が硬直していて、もう歌わされているという感じ。高校合唱団や児童合唱団はこういう事態に陥り易いのですが、これは申し訳ないけれど、ほぼ指導の問題です。
練習が楽しくないから・・・では無いのです。むしろ、こういう団では指揮者が一生懸命練習を楽しくしようと悲壮なほど笑顔で指導していたりします。
私の思うに答えはシンプルで、歌に自信が無いからです。あまりたくさんの曲を練習したり、非常に難しい曲を練習しているとどうしても演奏に自信が持てません。出来れば身の丈にあった、それほど難しくない音楽を使って、音楽の表現を深く掘り下げてみて欲しいのです。的確に指導者が音楽の魅力を伝えていけば、歌う側はだんだんとその曲を、伸び伸び楽しそうに歌うようになるのではないでしょうか。

2012年2月25日土曜日

意地悪な鑑賞法 その1


他人の演奏から学ぶべきことは多い、とは言うけれど、単に「上手かったね」という感想を持つだけでは学ぶことも少ないのではと思います。例えば、合唱祭のような玉石混淆状態であっても、様々な演奏からその合唱団の雰囲気や内情を察することは可能だし、そういうところから他山の石となるように学ぶべき点もあるのではないでしょうか。

実際の演奏の善し悪しから、その音楽の中身について良かったか悪かったか論じるだけでなく、合唱団がステージ上に現れてから消えるまでの様子をつぶさに観察することによって、合唱団がどのような雰囲気なのか、どのように内部統制を行なっているのか、指揮者と団員の関係とか、普段指揮者がどのような指示をだしているのか、とかそういうことを想像してみるのは面白いことです。
いくつか例を挙げて考えてみましょう。ただし、以下はあくまで一般論なので、特定のどこかの団のことではありませんよ!

まずは指揮者です。指揮者は本人が望む望まないに関わらず全身から音楽性が漏れ出てしまいます。
どのような振り方をしているかを見るだけで、指揮者だけでなく合唱団内のいろいろな状況を察することが可能だと思います。
例えば、ピアノ伴奏がある場合、どう聴いても音楽の主導権をピアノ伴奏者が握っているような演奏をみかけます。これは、フレーズの入りや、テンポの変化の様子を見れば分かります。明らかに指揮者の指示があまいと伴奏者が好きに音楽を作り出します。指示があまい指揮者はそもそも音楽を統率できていないので、その伴奏に合わせて指揮をするようになります。
ところが、自分で全て統制したいと思っている指揮者の元では、伴奏者は必死に指揮者を見つめ、特にフレーズの開始、テンポの変化では一生懸命食らいついていこうとします。
これは、演奏を見れば上記のどちらの状態か一目瞭然であり、まずその点において、指揮者の力量が計れるのと同時に日頃の団の練習の雰囲気も推し量れます。

ピアノ伴奏者が音楽を主導するような団では、たいてい指揮者は高齢者で、また団員も高齢であることは多いです。それほど難しくない曲を演奏しているのであれば、生涯学習的なサークルとしての側面が強い団と言えそうです。
たまに20〜30年前に流行った往年の名曲を大振りで演奏されている団体もあり、微笑ましくは思うものの、率直に言ってそういう団では音楽的な満足感を得るのは難しいでしょう。

実際、指揮者がきちんと音楽の主導権を持っている場合は、選曲などもある程度現代的な場合が多いです。
ただしそれがあまりに統制し過ぎている場合、今度は合唱団全体に生気が失われるという現象が現れることがあります。
人は叱られてばかりいると積極的な行動を取らなくなります。合唱団の練習も同じ。指揮者が上から目線であれダメ、これダメという指示ばかりしていると、合唱団員から積極性が失われ、結果的には非常に縮こまった薄い演奏になってしまいます。
またそれに指揮者が腹を立て、団員が悲愴な顔で大音量で歌っているのも、演奏を見れば察することは可能でしょう。こういうところが、演奏から普段の練習風景が見えてくるという所以です。

こういう見方を意地悪な鑑賞の仕方と思うかもしれませんが、結果的にそこから現れる音楽が良いものかどうか、と照らし合わせて考えれば、自分自身が同じ轍を踏まないための反面教師にはなり得るのではないでしょうか。

2012年2月22日水曜日

もう無責任ではいられない


前回、オープンとクローズのせめぎ合いについて書きましたが、もう我々がどうあがこうとオープンな世界に突き進むしかないと私は思います。
そんなとき社会はどうなっていくのか、ちょっと実例を元に考えてみたいのです。

私たち一般人は、通常芸能人でも政治家でも警察官でも裁判官でも、ましてや大学の教授でもありません。自分たちは自分たちのことを無知で非力なか弱い子羊だと思っています。だから、理論武装も何もしなくても許されるし、逆にどのような場でも言いたいことが言えてしまったりします。それは自分が公の立場で話さなくても良いからです。

何を言いたいかというと、例えば、昨今で言えば、沖縄の基地問題や原発瓦礫問題、その他、多くの住民の反対運動のようなものは全国にたくさんあるはず。
昔の成田抗争のように武力闘争みたいなことは無くなりましたが、国や自治体が説明集会を開いた際、ほとんど議論とは言えないような激しい応酬になることがあります。

公を背負っている人と、背負っていない人では、大きく立場が違います。
公を背負っている人たちが怒ったり、力でねじ伏せようとしたり、バカにしたような発言をしたりすれば、話はこじれ、まとまるものもまとまらなくなります。従って、どこまでも低姿勢であることが求められます。
ところが、反対意見を言う側は、どれだけ強く主張したかが問われるので、ややきわどい発言や、怨嗟の声さえ許されるように見えます。その様子は中立的な立場から見れば、双方の非対称さが目立ち、随分不毛な話し合いに見えてしまいます。

ここでもっと世の中がオープンになったらどうなるでしょうか。
住民代表であっても、政府や自治体代表であっても、ネットで発言することが増えてくるでしょうし、そう言った人たちのパーソナルな情報と彼らの発言は常にセットになっていくことでしょう。
住民代表であっても、その人がどのような職業で、普段どのような政治信条を持っているか、もちろん名前やら何まで分かってしまいかねません。
そんなとき、テレビなどの公開の場で不適切な発言をすれば、ネット上で激しい報復に遭うかもしれません。
これはもちろん、公にいる側も同じこと。いろいろな情報がオープンになればなるほど、発言と個人が紐付けされ、全ての発言に個人の良識が問われるようになっていくはずです。

人は丸裸にされて、自分自身の意見を言え、と言われると案外言えないものです。
常日頃、自分の意見だと思っているものは、自分の信頼する他人や知識人の意見だったりします。だから、自分の全く知らない事例について何らかの判断を求められると、他人の判断が参考に出来ず、全く対応できなくなるのです。
世の中には、自分の意志で自分の意見を比較的はっきり言える人がいる反面、他人の意見を聞いてそれを自分の意見のように言い換える人もいます。後者の人はちょっと議論をすると化けの皮が剥がれますが、こういうことがネットのようなオープンの場で起きてくると、自分の考えを持たない人はますます発言できなくなっていくことでしょう。

それは自分の意見にどこまでも責任を求められる厳しい世界です。
世の中がオープンになるに従い、自分の意見をしっかり持っている人だけが発言力を持つようになり、無責任な発言をする人は、今より益々疎まれるようになるのではないでしょうか。
それは良い世の中のように見えて、結構シビアで生きづらい世かもしれません。

2012年2月18日土曜日

オープンとクローズのせめぎ合い


ITの世界ではオープンか否か、というところが多くの人が議論するポイントになっていると思います。
ビジネスの世界だけではなく、個人の活動であっても、オープンかクローズかは重要な問題です。
我々は、毎日の多くの活動にPCを使うようになりました。例えば、友人との連絡や、ショッピング、旅行の計画、ニュースの閲覧・・・こういったことは、webを使って簡単に出来ます。webでなければ、WordやExcelでいろいろな資料を作ったり、写真や動画を管理したり、音楽を管理したりしています。
こういった活動は、全て個人のプライベートな活動ではあるものの、今のIT技術を使えば、今自分がやっていることがwebを介して外に出てしまうことはあり得ます。

それは考えてみれば、恐ろしく気持ち悪いことです。
PCを使っているあらゆる作業が、世の中に漏れる可能性があるわけです。中にはちょっと恥ずかしいこともあったり、特定の他人には見せたくないものもあるでしょう。様々な情報を自由に得ることが出来るようになった結果、自分が行なっている行為もそういった情報の一つになってしまう可能性を持っているわけです。

逆にそれを利用しているのが、FacebookといったSNSの世界です。
例えば5年前の今頃何していたっけ、とか思ったときに、当時の自分がやったことは簡単に分かるようになります。ライフログというようなアイデアです。
もちろん、PCの無かった時代、我々は記憶だけで人生を乗り切っていたわけですから、便利になるとはいえそれが必要なものなのかは微妙な問題。

しかし、自分のために情報を取っておくのではなく、人に知らせたいという欲求も少なからずあります。
というのも、これからの世の中、個人と個人が直接結びつくような組織に縛られない活動がだんだん拡がっていきます。こういった世界では、自分自身がどのような人間か、ある程度公表しておく必要が出てきます。自分の趣味や嗜好、性格など、そういったものが外に対して明確になっているほうが、これからの自分の活動にとってプラスになっていきます。
あまりにクローズドにしたり、そもそもweb世界に何も発信していなければ、この世界での存在感が薄くなり、自分自身の活動の幅も広がっていきません。極端な言い方をすれば、発信しなければ世界にいないことと同じです。
つまり、自分がSNSなどで積極的に情報を発信すればするほど、自分の存在が大きくなっていきます。そういう世の中に我々が移行しつつあるのです。

今自分の情報が知られて怖いと思う人は、恐らく自分の情報をあまり発信していない人だと思います。
まだwebの世界が世の中の全ての活動に占める割合は、絶対的に多くはありません。しかし、その割合が多くなればなるほど、web世界で発信する人が有利になります。オープンを恐れて発信しない人は、世の中の活動に取り残される危険性が出てきます。

そんな時代には、どこまで自分の情報をオープンにすべきなのか、そして何を守らなくてはいけないのか、そういうことを個人が常に考えなければならない、難しい世の中になってきました。

2012年2月13日月曜日

CC合唱曲に「これはフーガ」追加


CC合唱曲シリーズに「これはフーガ」を追加しました。
楽譜はここから直接見れます
また、MIDIはこのページで再生可能です

歌詞はTwitterでもつぶやいてたとおり、ちょっとギャグ風な詩を自作しています。
冗談系の詩なので、歌詞を自由に作り替えても構いません。替え歌をすれば、それなりに歌うほうにも親近感が高くなるというもの。

もともとはフーガを歌いながら、各パートが自分の主題の中で自己紹介的な歌詞を余興っぽく演奏できる曲、というアイデアから作曲を開始しました。絶対にフーガと分かるように、各パートの歌詞は「これはフーガ」で始まります。
あまり曲が長いとシャレでは歌えなくなるので、発展しそうなのをこらえて4ページで1分30秒程度の長さで終えました。しかし終りは、やや無駄に派手です。

そんなわけなので、ちょっとした小さなコンサートや、内輪のアンサンブルなどでウケ狙いで歌ってもらえると嬉しいです。

2012年2月11日土曜日

創作家が成長するということ


ほとんどの人にとって、創作家・芸術家とは自分とは無縁のすごい人々のことで、何か人間的にもずば抜けた知性と判断力を兼ね備えているなどと考えているようです。
だから、ある創作家がその人生の中で作風を変えていっても、そこには常人の及ばない思考の果てに起きたことのように感じるのかもしれません。

しかし、創作家とて人間であり、特殊な技能に若いうちに習熟しただけだと考えれば、驚くほど普通の人と変わらないのではと私は感じています。
実際、創作家にとっての人生の転機は普通の人の人生の転機とそう変わらないと思うのです。大事な人との死別とか、住む環境の変化などはもちろんのこと、仕事をやめたとか、子供が生まれたとか、子供がグレたとか、組織で昇進したとか、表彰されたとか、奥さんと喧嘩したとか、若い子に手を出してバレたとか、全然モテないくせに好きな人にふられたとか、お気に入りの家具を買ったとか、友人に裏切られたとか、侮辱を受けたとか、そんなものです。

創作家は、自分の人生の中でも少しずつ作風が変わっていくものです。
そしてそれは普通の人の人生の流れとそう変わるものでもありません。例えば若い頃は理想主義的です。感受性が高いので感情の高ぶりも強く、たわいもないことを大きく感じてしまう傾向があるものです。また、自尊心も強いので、他人の想いや世間の要求よりも自分の想いや夢が前面に出てきます。

若い世代をちょっと過ぎると、少し世の中が分かってきます。理想だけでは世の中は動かない。現実的な方法や生き方が必要になります。自らの作品を広めたいと思うなら、誰でも世の中はどのような作品を求めているのか考えるようになります。自分のやることを客観的に分析するような態度は、無闇に自分を表現したいという若い頃の衝動とはちょっと異なるはずです。

さらに歳を取ると、世の中を回す世代に入ります。どのような専門を持っていても社会・経済の仕組みと無縁ではなくなります。場合によっては、現実的な政治的メッセージを発信する場合もあるかもしれません。
老年期に入るとどうでしょうか。私はまだそういう境地は分からないのですが、ある種の達観と諦念を持った緩やかな作品が多くなるように思います。

人によっては上記のような区切りが、その人の生き方によって前目になったり後ろ目になったりはしますが、まあだいたいこんな感じになるものではないでしょうか。
また、若い頃にブレークしてしまった人は、中年的な創作態度への移行がうまくいかないことが多くなり、歳をとっても若作りな態度を要求され、自滅していく人も多いと感じます。むしろ、中年以降に有名になる創作家は息が長い活動が出来そうです。

どの世代の創作物が素晴らしいという問題ではありません。
一般的に創作家の作風が変わっていくことは、創作家が成長している、というように思われるかもしれませんが、必ずしもそうとは言えないと思うのです。
若い頃しか持ち得ない感性が作り出したものは、それだけで大きな魅力があります。もちろん、創作家の世代毎にそれぞれ持ち味や魅力があります。鑑賞する側にとっては、それぞれの魅力に自分の感性が揺さぶられればいいだけのことなのです。
また、自分の生きてきた人生の変遷と比較しながら、創作家の精神的変遷を感じてみるのも、また一つの作品の鑑賞の楽しみと言えるのではないでしょうか。

2012年2月8日水曜日

創作活動は無視との闘いである


作曲でも、小説を書くのでも、絵やイラストを描くのでも、たいていの場合、需要より供給過多です。
正確に言えば、ある一定レベルの品質をクリアしていないと需要の対象にさえなりません。一握りの有名人ばかりに需要が集中し、その対象にならない人は供給の列にさえ加えさせてもらえません。残念ながら世の中には、敢えて刺激的な言葉で言えば、クズのような創作物で溢れています。

子供が学校で書いた絵とか詩は、まあ普通はクズとは言われません。
みんなが一生懸命書いたのだから、一般的に言えば教育的配慮からそのようなことを言えるはずもありません。
学校で芸術活動させるのは、何かモノを作る経験をさせることにあるのでしょうが、それでも、作品の質からいえばほとんどの作品は取るに足らないものです。

普通はそこで自分の普通さ加減に気付き、やっぱり私は芸術家には向いてないわ、と諦めるのでしょうが、ときどき逆側に振れてしまう芸術家気質の人たちが一定数います。
気質と能力はたいていの場合別のものであり、気質を持った能力の無い人たちが、むなしい芸術活動を始める悲劇がそこから始まります。

そんな人たちはどうやって生きていったらいいのでしょう?
気質がある以上、作らずにはいられません。でもそこから先はいばらの道です。世間からはたくさんの成功した芸術家のサクセスストーリーが聞こえてきます。聞こえてくるどころか、Twitterで直接生の声さえ聞くことができます。
自分の作る物と、有名な人の作るものを比べて、大して違わないと感じたり、なぜこんな作品が世にもてはやされるのかと憤ったり。草クリエーターはいつも、自分にはとてもかなわない有名クリエーターの作品を批評・批判し続けているのです。

世の中で有名なことと、実際の実力は比例しないことは確かなことです。
偶然何かの拍子で有名になってしまった人たちも実際には多い。J-POPの世界でいえば、音楽的に本当に優れている人はごくわずかで、むしろ彼らにとって重要なのは舞台におけるカリスマ性とルックスと、あとは歌詞の中身でしょう。
とはいえ、自分が認められないことは誰のせいでもありません。ほとんどの創作家は認められないまま生涯を終わります。宮沢賢治は死後認められましたが、これとてラッキーな例だと思います。

こういった事実を創作家は受け入れなければ、自らが作り続けることはできないのです。
それは壮絶な世間からの無視との闘いです。100人中99人は無視されたまま消えていきます。しかし、それを当然のことのように受け入れ、無視されても作り続け、万に一つの可能性にかけて生涯かけて作り続けること、これが芸術家気質を持ってしまった創作家の宿命なのだと思うわけです。

2012年2月5日日曜日

静岡県ヴォーカルアンサンブルコンテスト出場


たまには我々の団の活動のことなど。
昨日の土曜日、静岡県ヴォーカルアンサンブルコンテストが島田にて開催されました。
ウチの団は現在20人を超える団体なので、いつもアンコンには2チームで参加しています。ここ数年は、若手中心のプチ・ヴェールと、残りものの集まりの本体ヴォア・ヴェールの2団体で参加。両方とも混声。ちなみにプチ側にはヴォア・ヴェールの団員でないメンバーも入っており、完全に一つの団体が二つに割れて出ている、というわけでもありません。
今回ヴォア・ヴェールは私の指揮でH.バディングスのMissa Brevisを歌いましたが、おかげさまで金賞受賞(金賞は9団体中3団体)で、3月に福島で開催される声楽アンサンブルコンテスト全国大会に出場することになりました。

団全体のことを考えると、団として練習したい時間が取られてしまうことが嫌だったので、実はアンコン専用の練習はほとんどしなかったのです。プチはもともと別枠で練習していたし、ヴォア・ヴェールの曲は(演奏会でも歌うので)団全体で練習していました。
本当に出場するメンバーだけで練習したのは、本番前の金曜練習に1時間と当日の1時間だけ。それまでなかなかソプラノのメンバーが揃わなかったり、ということもあり、練習のかなりの時間はソプラノの音を揃える作業に費やすことになりました・・・

今回のポイントは、ミサ曲を歌ったという点。
私自身、宗教曲はあまり自分の指揮では避けてきた、ということがあります。本質的にはその考えは今でも変わってはいないのですが、少人数できちんとしたブレスや発声を磨くためには、どうしても宗教曲的な雰囲気を持つ楽曲が必要だと考え、昨年来、そういう選曲をしています。

ですので、いかにも合唱、というようなレガートを徹底的に求めるような練習を自分では進めてきたつもりです。どうしても現代系の曲や、邦人曲では息の長いフレーズを歌うことが少なくなり、合唱的な旋律線の太さがおざなりになることが多いように感じます。
アクセント、スタカート、マルカートなどの細かいアーティキュレーション指定や、ややこしいリズム、音形というのはレガートに歌うことより、一音符毎の表現に注意しがちです。
これまで自分でもそういう選曲が多かったという反省もあり、敢えて合唱的なレガートを求めるためにミサ曲を選んでみたというわけです。

音を取るまでが大変、という練習から、音を取ってからが大変という練習をしていかないと説得力のある演奏が出来ません。難易度の高い曲は得てして練習がソルフェージュ中心になりがちですし、指導側もそれで指導している気分になってしまうことが往々にしてあります。
久し振りに合唱の基礎的な指摘を中心に行なうことで、自分がこれまでこういう表現をちょっと犠牲にしてきたのかなという反省を感じました。実はそういう意味で、自分にとっても今回のアンコンの練習は良い経験になったと思いました。

全国大会の練習も、なかなか専用の練習はしづらい状況ですが、少ない時間で何とか良い演奏が出来るように頑張るつもりです。お近くの人がいましたら、聞きに来ていただけると大変嬉しいです。