2011年4月30日土曜日

ウェブ×ソーシャル×アメリカ<全球時代>の構想力/池田純一

特に予定のないGWに読もうと思って買った本その1(って書くとその2がありそうだが、それは分からない)。
帯には「Google,Apple,Facebook,Twitterはなぜアメリカで生まれたのか?」と書いてあります。ウェブの世界で起こっていることを読み解きながら、その背景にあるアメリカ文化について探りつつ、今後のウェブ世界の有り様を考えてみる、というのが本書のスタンス。
著者については私は知らなかったのですが、非常に硬派な内容で、やや学術書に足を踏み入れるくらい洞察が深く、また本質を追究しようとしていて大変好感を覚えました。そのためかやや難解というか、抽象的過ぎる文章もありましたが、総じていえば自分自身が何となくもやもやと思っていたことを、とてもうまく(しかもさり気なく)言語化していて、それだけで感動しました。

冒頭IT世界の有名人、スティーブ・ジョブス、エリック・シュミットの二人を引き合いに出し、二人が作りたかったものが達成されつつある現在(iPad、クラウドコンピューティング)、これからの何十年を占う新しい夢が必要だと主張します。そして、それが例えばFacebookのザッカーバーグのような若い世代が担うだろうという本書の流れを作っています。
では、そのジョブス、シュミットの二人が作りたかったものの源流は何かというと、それが60年代のカウンターカルチャーに遡れるのではないか、という考察。そして当時のカウンターカルチャーとは何だったのか、という解説が続きます。

このカウンターカルチャーを語る際の重要な登場人物がスチュアート・ブランド。
彼はジョブスにも大きく影響を与えた、"Whole Earth Catalog(WEC)"という雑誌を創刊した人物。このWECとは、ヒッピー文化を信仰する若者向けの生活に必要な各種ツールを紹介するカタログ誌。しかし、ツールといっても具体的なモノだけでなく、ノウハウや情報など広範な内容であり、またそうしたツール群に対するレビューも多数掲載されたのでした。つまり、WECは単なるモノの紹介だけでなく、同じ嗜好を持つ人々が集まる場であり、動的なシステム理論の社会的実践としてブランドは捉えていたのです。
WECは西海岸の複数のコミュニティ、つまりアート系、サイエンス・テクノロジー系、それらの間を行き交うジャーナリスト・ライター系の人々を結びつけました。そしてWECは72年に全米図書賞を受賞しています。もちろん、この雑誌の思想がその後のコンピュータ技術の発展の文化的背景になったというわけです。

しかし著者は、カウンターカルチャーだけがコンピュータ・ウェブ世界の背景になったのではなく、さらに遡ってアメリカがその源流に持っている文化が大きく作用しているのではないかと考えます。このあたりのアメリカ文化論は、私は詳しくないですからとても勉強になりました。我々は一括りに欧米というけれど、ヨーロッパと確実に違うアメリカ的なものが何となく分かってきました。

後半の7章から9章までは、今後のウェブ世界を俯瞰するのに重要な概念がいくつも現れます。
このあたりを読むだけでも本書の価値は十分ありです。特に、ウェブはビジネスの世界だけでしか語られないことが多いのですが、ビジネスとは呼べない領域までウェブの持つ特性を解析しています。
まずウェブで行われる活動、及びそこで生成される集団が、どのような特性を持つのか、アメリカ的なものの考察から推理します。そしてアメリカ発の技術や会社がウェブを形作ったように、アメリカ的な組織のあり方が今後のウェブ世界を先導するのに必要だと訴えます。さらにその活動が全球的、つまり全世界的、全地球的な規模のものであることを示唆します。
それから機械と人間との共生について考え、ソーシャルな方向にウェブが向かうことにより、政治、デモクラシーへの影響を示唆します。ウェブでの活動が政治活動になり得るわけです。
また、ウェブ技術はエコ運動の高まりからスマートグリッドや、交通網への応用など新しい技術との結びつきなども考えられ、より広範囲な生活への影響が考えられます。

内容は多岐にわたるので、俯瞰的に本書の内容を伝えるのは難しいのですが、ウェブによって私たちの生活はこれからも益々劇的に変わりうることを実感しました。
前回私が書いた「世界がプログラムで埋め尽くされる日」のようなプログラム全能感は、ますます私の中で強固になり、そして私が考えている以上の力を秘めているような気がしてきました。

2011年4月26日火曜日

世界がプログラムで埋め尽くされる日

プログラムを書くことを仕事にしている私にとって、ますます世の中はプログラムを必要としていて、今私たちが多大な労力をかけている仕事や行動の数々が、コンピュータプログラムで解決できてしまうのでは、という感覚を抱いています。
これは、コンピュータ嫌いの人にとって、むしろ気味悪い世の中に思えるかもしれません。しかし、私たちはすでに多くの恩恵をコンピュータ社会から受けています。世の中の全ての電子機器はプログラムが無ければうんともすんとも言わない。一度、その方向に足を踏み出した以上、その利便性と効率性の追求は、個人がどう思おうとも社会の意志として進んでいくしかないでしょう。

プログラムで解決できることって何、といわれてまず考えられるのがお金の話。
すでにキャッシュカード、電子マネーなどによって、現金が無くても買い物が出来る世の中ですが、それでも多くの商行為はまだ現金で行われています。
しかし、本格的にキャッシュレスになっていけば、商行為は完全にデータ化されます。お店にとって全ての取引がコンピュータの中でデータ化されていれば、帳簿などをいちいち作らなくてもプログラムで自動的に作成可能でしょう。もちろん、そのためには取引の種類などがきちんと定義されている必要があります。
モノを売るお店なら商品にバーコードが付けられています。バーコードを読み取れば、それがどんな商品で、お店がいついくらで入荷したものか、今売られている値段はいくらか、などの情報を呼び出すことも可能です。バーコードから電子タグのような形に変わっていけば、さらに会計はスマートになっていくことでしょう。

オフィスの事務仕事も同様。
仕事でやっている定型的な行為は電子化できる可能性があります。何か高額な取引を行うとき、決裁をする必要がありますが、これも電子決裁にすれば書類はいらなくなるし、データもコンピュータ内に蓄積されていくので、後で決裁全体を分析するときもプログラムで行うことが出来ます。
会社の出勤、退勤などもICカードを利用すればタイムカードなど使わなくても良くなるし、個々人が残業の記録を書く必要だって無いはず。
何しろ、紙で書いている記録は、原理的には全て電子化可能なのです。現在では、すでに多くの仕事が電子化されていると思いますが、それらのデータを集計したりすることをプログラムで解決するまでには至っていないのではないでしょうか。

政府の仕事もかなり多くが電子化可能です。
電子政府などという表現もありますが、現実は相当遅れているものと思います。少なくとも、確定申告とか年金とか各種の分配金、あるいは定期的な税の徴収などもほとんどプログラムで解決できる仕事です。人手を使えばむしろ時間がかかるし間違いも起こる。こういったことを徹底的に進めていけば、今の公務員の半分くらいはいらなくなるかもしれません。それは本来、政府や地方自治体の財政にとって嬉しいはずです。
法律の施行も、プログラムを書けばすぐに行えるかもしれません。もし国民のデータが全部政府内にあれば、例えば何らかの給付金があったとき、該当者が窓口に来ないともらえない、のではなく、全部プログラムで該当者を調べて勝手に給付してしまえばよいのです。

もちろん、上記のいろいろな話には突っ込みどころが満載です。
セキュリティ・プライバシーの問題や、プログラムの不具合の問題もあるでしょう。
しかしそれを解決するために、きちんとプログラムを書く人の育成を行い、セキュリティ対策の技術などにお金を使えば決して解決できない問題ではありません。
公的なものより、市場性のある世界のほうがこのようなIT化は進展します。今は、iPhoneなどをはじめとしたスマートフォンが、私には一気に世の中のIT化を進める原動力になるのではないかと考えています。

2011年4月22日金曜日

MIDIで曲紹介すること

オリジナル作品紹介のページで拙作の多くをMIDIで聴けるようにしてあります。
初演済みのもので私の方で音源を自由に公表できるものは、YouTubeのMyチャンネルで音源を紹介しているのですが、音源の公開の出来ないもの(販売されているもの)や、音源のクオリティが低いもの、そもそも演奏されていないものについては、なかなかアップするわけにはいきません。

演奏されていない楽曲をとりあえず紹介するのにはMIDIが最適です。
楽譜だけ公開しても、ほとんどの人はそれだけで音の雰囲気を掴むことは出来ないし、ある程度楽器などで弾いてみるにしても、長い曲ならばやはり聞くだけの方が嬉しいはず。
作る側からすれば、MIDIはファイル容量も少ないので、自分のホームページの容量を気にする必要もありません。また、何もないところから演奏しないで音を作るには、もっともMIDIが手っ取り早いです。DAWで音楽制作を始めると、それだけでだいぶ労力を使うし、合唱にいたっては歌詞通りに歌ってくれることは不可能なわけで、MIDIと大して差が無くなります。(密かにボーカロイド合唱版を期待しているのですが・・・)

とはいえ、一方MIDIゆえの敷居の高さがあります。
だいたい電子楽器を扱わない人にとって、MIDIなんて何が何だかさっぱり分かりません。MIDIで聴けます、といわれてもどうやって聴いたらいいか分からない。まあ、気の利いたパソコンならクリックするだけですぐに聴けるのですが、Web上で「プラグインが必要です」とか言われるとそれだけでひるんで聴かない人も多いことでしょう。
あと、長い間MIDIを使って人の感想を聞いて思うのは、やはり音のしょぼさ。
自分としては、楽譜の音がすぐに分からないと思うからMIDIを公開して、少しでも音楽の雰囲気を伝えようとしているのに、聴いた後で「変な音」とか、「歌詞が出ないの?」とか、言われる始末。コレなら音源を公開しても、「演奏が下手」とか言われるのと大差はないのだけど、それだけ他人は音を聴くと、結局演奏や音の質までセットで聴いてしまうものなのです。

そういう意味では、ピアノ曲などの鍵盤楽器の曲をMIDI公開するのは、もっとも音像が近くて理想的なのでしょう。
しかし、管楽器はまだしも、弦楽器や声のようなあまりに柔軟な振る舞いをする楽器は、MIDIでの再現が非常に困難です。その分、人の意識はその異質さに向いてしまい、和音やディナーミクだけを抜き出して曲を理解してもらおうなどというのは、実際に難しいものだと感じています。

私自身はMIDIの使い手であるだけでなく、MIDIを使ってくれる人のための製品を開発する側でもあるので、MIDIをもっと理解して欲しいと思う反面、まだまだ表現力の足りないMIDIがもっと良くならないものかとも感じます。
合唱作曲家としての立場で言えば、MIDIデータを打ち込んで、発音情報まで打ち込めば、それなりに電子楽器が歌ってくれる、というのが理想です。
まあ、そういう商品は今まで無かったわけじゃありませんが、そのクオリティは一般の人から見ればオモチャに毛が生えた程度。ボーカロイドは逆に風俗化して、あの機械っぽさが受けているところもある気がします。
もう少しそのあたりの音楽の再現性が高くなれば、MIDIでも合唱曲を紹介することがさらに容易になるはず。楽器側(電子音源側)の問題は、自分のお仕事としていずれ解決したいものです。

2011年4月19日火曜日

震災犠牲者に捧げる合唱曲作曲

以前お知らせしたように、久しぶりに混声の合唱組曲を作曲しています。
全3曲を予定しており、1曲目を作曲したところで、【初演団体募集】と宣伝を始めましたが、残念ながら今のところまだ引き合いはございません。

震災はその1曲目を書いてしばらくしたときに起きました。
幸いにして私の周辺には何の被害は無かったものの、連日の被災地や原発の報道で、日本を取り巻く状況が一変してしまいました。そういう意味では、どこに住んでいるかに関わらず、今回の震災が私たちに大きなインパクトを与えたのは確かなことです。
涙無しには見れない映像や、読むことも辛くなるような記事も目にしました。
そして、その中で私の心に生じた何かを、音楽として表現するべきだと思い続けていました。

今作曲中の合唱曲の2曲目は、「神」を題材にしたテキストです。
17世紀の物理理論書であっても、当時は何事も神無しには語れなかった時代です。宇宙がどのように出来ているのか、それと神はどのような関係にあるのか、そのようなことが綿々と綴られたテキストから、いくつかの文章を選んでいます。
大意はこんな感じです。「神はいつもどこでも唯一である。人の身体のような形がないので、見ることも聞くことも触ることも、そして拝むことも出来ない。私たちにはその観念は理解できても、その実体が何なのかはわからない
このテキストは犠牲者への追悼の言葉としては、あまり適当ではないのかもしれません。しかし、途方もないものに遭遇して、その非情さに神を感じることもあるのではないでしょうか。とてつもなく悲しいことがあったとき、人々が欲するものは"諦める理由"なのかもしれないと思います。神の非情な仕業であることを確認することもまた、犠牲者の弔いになり得るのではと考えました。

いずれにしろ、これは「頑張ろう、日本!」というような前向きなスローガンとは全く別の心象による曲です。私自身の内的な無常観を表現したものです。
何はともあれ、この曲を震災犠牲者に捧げようと思います。
楽譜をこのページに置きました。新曲Pの2曲目が今回作曲した曲です。

曲は主題の提示の後、ルネサンスポリフォニー的な形で始まります。ポリフォニーの中から、二声による力強い旋律が現れた後、耳に馴染む感傷的なメロディが繰り返し歌われます。盛り上がりの頂点で主題が再び現れ、もう一度音楽は落ち着き、最後にアーメンによって終止します。

もともと組曲として構想しているので全3曲完成ののち、全曲初演してもらうのが筋ではあるのですが、この2曲目だけ取り上げ、弔いの場で演奏して頂くことも全く構いません。どのような形であれ、引き続き初演して頂ける団体を募集しております。
まずは楽譜をご覧になり、MIDIで音を確かめてみて下さい。私なりに震災に向き合ったその想いが伝わると幸いです。

2011年4月17日日曜日

楽譜を読むー父の唄(その3)

今年の課題曲になった曲ということで、やや詳しく3回にわたって書いています。この曲については、この3回目で終わるつもり。今回はアーティキュレーションなどの細かいことをいくつか。

声楽の書法は作曲家によってずいぶんクセがあります。
例えばスラー。かなり以前にこんなことを書きました。この「父の唄」を見る限り、この作曲家は同発音のフレージングを示すようなスラーは指示していないようです。具体的には、何カ所かに現れるハミング(m)、日本語の長音(「そうしたように」といった歌詞の「そう」「よう」の部分などにスラーを使っていません。
その代わり、歌詞の付いたフレーズのいくつかにスラーがかかっています。39小節の「とおくゆけ」、53小節の「ときをこえてとおくゆけ」などです。
従って、この曲の場合作曲家が、この言葉はレガートっぽく歌って欲しい、というような意味でスラーを使っていると考えて良さそうです。

スラーが比較的淡泊なのに比べると、クレシェンド、デクレシェンドが非常に多用されているのが特徴です。合唱曲の中では多いほうの部類に入るのではないでしょうか。
普通に歌えばそういう感じになるだろう、というような部分まで書いてあるので、親切と言えば親切なのですが、ここだけはこうして欲しい、というメッセージがやや伝わりにくくなります。このディナーミクの指示の中から、どれが重要な指示なのか、解釈する側のセンスが問われる部分になるでしょう。
また音量の指定(フォルテ、ピアノ)も同様に、時間的に非常に細かい単位で音量が頻繁に変わっています。実際の演奏の場では、そこまで厳密に歌い分けきれないほどです。これも、演奏する側がどこを特に重要な指示と考えるかによって演奏は変わってくるでしょう。

実際にこの曲を歌ってみると、全体を通して非常に一様な印象があります。その理由は、まず詩が有節歌曲的なために歌詞の中に同じ言葉が頻繁に現れること、それから曲全体で拍子やリズムの変化が無く、またコード進行も似た流れが多い、ということが挙げられます。
この一様な曲をそのまま演奏してしまうと、引っかかりの無いのっぺりとした音楽になる可能性があります。まあ、それを良しとする考えもありますが、普通ならお客さんに対してもう少し演奏の印象を残したいものです。
従って、曲の中で何点か印象を残すためのポイントを作るべきです。その際、音量やスラーの指示に加えて、テヌート、アクセントなどのアーティキュレーションの指示がその手がかりになることでしょう。

また、コード展開については、ベースの半音の違いだけで和声感が変わる場所が多いので、ベースのピッチについては、やや神経質に歌う必要があるように感じました。

2011年4月13日水曜日

楽譜を読むー父の唄(その2)

では、今回は主に曲の構造について解析してみます。
合唱曲の曲構造を論ずるときには、まず詩の構造を調べる必要があります。
この詩を見てみて、すぐに分かる特徴は、詩自体が有節歌曲(1番、2番・・・がある形式)を指向しているという点です。しかも、各連の音節のシラブル数まで一緒。こういう詩を書く場合、当然詩人は有節歌曲的な曲が付曲されることを想定していると考えるべきですが、もしかしたら詩人が有節歌曲的な詩を書くという制限を自らに課しただけなのかもしれません。

そのような詩に対して、この「父の唄」は有節歌曲的な作曲をしていないのは明白です。
「とおく行け」のモチーフがかろうじて同じになっている程度(しかも3番は違う)。やや詩の題材も庶民的な感覚を持っていますから、詩情的にも有節歌曲が似合っている気がしますが、敢えて芸術性を強調するような作曲をしているということが特徴的に思えます。

では、この詩の各連が曲の構造とどう関わっているでしょうか。小節数で示してみます。
1番:1〜34小節(計34小節)
2番:35〜48小節(計14小節)
3番:49〜62小節(計14小節)
コーダ(1番前半のリフレイン):63〜73小節(計11小節)

��番と、2,3番の扱いの違いが際立っています。1番は、2,3番の2倍以上。詩の言葉も同じ文章が何度も繰り返されています。ところが、2,3番は、同じ文章は基本的に一回しか使われません。
確かに1,2,3番と同じ位置の歌詞は同じようなメロディの音型を指向しているのですが、この不揃いな詩の扱いが意図的なのかどうか、という点について考えてみる必要があるでしょう。

もう一つ、調構造について解析してみましょう。
この曲はフラットが三つですから、変ホ長調(Es-dur)です。ところが16小節あたりでDesが目立ちはじめ、19小節くらいから完全に変イ長調(As-dur)に変わります。
新しく調が変わったにも関わらず、調号を変えないまま曲は進行します。コーダ途中の66小節までAs-durは続きますが、67小節でまるで思い出したように唐突にEs-durに引き戻されます。全73小節中三分の二ほどの区間は、調号とは違う調で書かれているわけです。

私自身は率直に言うと、この曲の作曲自体にはそれほど綿密な計画があったわけではなく、感性にまかせて自由に作った結果こうなったのではないかと想像しています。もちろん、それが曲の善し悪しに直接結びつくわけではありませんが、そのような作曲上の自由さを、演奏がある程度補正することによってより説得力のある演奏が可能ではないかと考えます。

2011年4月11日月曜日

音楽環境一新

20年使っていた電子ピアノが1年ほど前に故障し、MIDIで別音源の音をしばらく鳴らしながらだましだまし使っていたのですが、ついに新しい電子ピアノを買うことを決意。自分の音楽キャリアのほとんどを共にした電子ピアノで、愛着もありましたが、さすがに古くなり過ぎました。
さて、新しく買う電子ピアノ、いわゆるホームユース系のキャビネット型の電子ピアノか、ステージ系(ライブ系)の電子ピアノを買うか、ずっと悩んでいたのだけど、配置の自由さ、ステージで使うかもという期待、多少の音作りの可能性も考えてステージ系のYAMAHA CP5を選択。
それに併せて、部屋のサイズに合うようにオーダーメイドの机も購入し、部屋の音楽環境が一新されました。どんな感じか、恥ずかしいけれど写真でお見せしましょう。

110411これまで高いところに置いてあったPCを下に降ろしました。どうも作曲などで長い間集中してPCを使っていると頸椎を痛めてしまうようで、ここ一月くらい肩や腕の痛みに悩んでいました。そんなこともあって、楽器購入や周辺家具の環境整備を一気に進めました。おかげで、やや出費がかさんでしまいましたが。

ちなみにYAMAHA CP5は、ピアノ、エレピの音色をライブで使うようなタイプの電子ピアノ。特にエレピに関しては、往年の名器(ローズ、ウーリッツァ)のシミュレーション音色がたくさん搭載され、その筋では評価されているキーボードです。
といっても、私の場合、電子ピアノの買い換えのつもりなので、エレピはほとんど使う予定はありません。ピアノ音色では、YAMAHAのCFとS6という二つのグランドピアノの音がサンプリングされ搭載されています。CFはコンサートグランドで生ピアノの王様といった感じですが、S6はもう少し柔らかい感じの音色で、狭いライブ会場でJazzでも聞くような感じの音色。この二つの音色があれば、ピアノユースでも十分楽しめます。

部屋のあらゆる部分を解体してしまったので、実はまだいろいろなものが行き場を失っています。
モノで氾濫しかかっているので、昔のケーブルや小物パーツなども大量に廃棄する予定。あらためて、自分が昔からいろいろなものを買いまくってエコからほど遠い生活をしていることを実感してます。DATのデッキも今は完全に置く場所が無くなってしまいました。それから、今まで使ってたMIDI音源どうしよう・・・。
まだまだ部屋の整理は途中なのです。

2011年4月6日水曜日

組織はどのように解体するか

個人と組織」で、日本的な組織が瓦解を始める、と物騒なことを書いてみました。
どうせなら、もっと妄想を膨らませて、空想で組織をどんどん壊してみましょう。

実際どのような組織が最も解体されやすいでしょうか。
個性的な個人が活躍することが期待されるわけですから、その手の仕事がまず解体されます。端的に言えば創造力が必要な業務です。古くから、芸術の世界は個人が活躍するのが当たり前でしたが、それと同じようなことが、様々な業界で起きるということです。
芸術に近いものとして、デザイン系が挙げられます。服飾系はもちろん、家具、食器、家電、車、などのデザインを企業内で行うのでなく、有名なデザイナーに頼むことはすでに行われていると思いますが、そういうことがさらに加速するでしょう。

デザインもモノだけではありません。Webデザインとか、ユーザーエクスペリエンスとか、IT化がより進めばそういう部分もどんどん膨れあがります。あとキャッチコピーなどの文章系。広告などはすでに広告代理店が多くを手がけていますが、そういう会社もアーティストの集まりのような集団ですね。

また、デザインは結局、もののあり方自体を問い直すことに繋がり、商品企画そのものがアウトソースされる可能性もあります。商品企画だけを行う個人ベースの集団が有名になれば、そういうところに注文をする企業も増えるかもしれません。

具体的に、私が勤めているメーカーに当てはめて考えてみるとどうなるでしょうか。ちょっと生々しい感じもしますが、思ったことを書いちゃいましょう。
製造業には、会社として必要な人事などのスタッフ系はもちろん、営業、生産、開発などの部門が通常あります。いずれの部門でも定型的な業務と、創造的な業務がありますが、創造的な比率は恐らく開発が最も大きいでしょう。
何かしらのきっかけで、商品開発がアウトソースされ、それが双方にとってメリットのある結果となると、会社全体はそちらのほうに流れていきます。このようなことが常態化していくと、メーカーは自ら開発部隊を持たなくなり、営業と生産という小さな会社では持てないものを持っていることをメリットにしていきます。

しかし、それはいつかコンピュータ業界が経験したことと同じことが、いろいろな業態に起こることを意味します。結局、コンピュータの世界を支配したのは、工場を持っているメーカーではなく、基本ソフトウェアを開発したマイクロソフトだったり、それを動かす基盤であるCPUメーカーのインテルでした。
つまり頭脳に特化した企業が最終的に、業界を支配するようになるのです。最近ならアップルの例だと、彼らは自前で工場を持ちません。またCPUの回路を設計しているアーム(ARM)社は、自前でCPUを作らず設計図だけを売って商売しています。

企業の中でも創造的な部分を担う業務がまずアウトソースされていく、というのが私の推理。
しかし、それはコンピュータ業界が経験したように、大企業は市場をコントロールする力を失い、言われたとおりの設計でモノを作るだけの存在に落ちかねません。そうなると、より安く作れる新興国のメーカーに仕事を取られていきます。そうやって、メーカーは瓦解していくでしょう。

あれ、なんだか暗い話みたいになっちゃった。だったら、創造的な仕事で自立できるようになりたい、と話を進めていかなければならないのですが・・・

2011年4月2日土曜日

楽譜を読むー父の唄(その1)

今年の合唱コンクール課題曲となっている、高嶋みどり作曲の「父の唄」をウチでも現在練習しています。私なりにこの作品の内容について、楽譜から読み取れることを何回かに分けて書いてみようと思います。

まず最初は、音楽の話ではなくて詩のこと。
この作品は組曲の中の一つということで、私は残念ながら組曲の全作品を見たことは無いのですが、出版社の売り文句などから察するに若者向けの合唱作品に思えます。
今回のこの「父の唄」に限定して考えたとき、この作品は本来、誰が歌うべき(誰が歌うことを想定すべき)作品なのかを少し考えてみたいのです。

この曲の詩の内容は父が自分の息子に対して、「おれを越えてゆけ」と語りかけるもの。
当の父親からすれば気恥ずかしくて直接言葉として言えないけれど、でも、心の中で「少なくとも自分よりは立派な人生を送るよう頑張れよ!」と思う気持ちをとてもうまく代弁した、父の世代なら誰でも思いうる感覚。それを平易に、力強い言葉にしたという意味で、さすが谷川俊太郎、と思わせる詩です。
この詩を読んで最も強くその感受性に訴えかけ、そして影響を受けて欲しい人は、他ならない父からのメッセージを受け取る若者です。若者がこの詩を味わうことが、恥ずかしくて直接言えない父の想いを想像することに繋がり、若者へのメッセージとして強力に作用します。
従って、この作品を歌うことを通して、この詩を鑑賞する、ということは教育的観点からすれば非常に理にかなっています。若い世代は、この曲を歌うことと同時に、この詩を鑑賞する主体でもあるのです。

ところが、もう少し視点を広げて考えてみたとき、この作品を聴いている聴衆はどういう立場になるのか、という問題が生じます。
詩を鑑賞している若者をさらに鑑賞している聴衆、とは一体どんな存在なのでしょうか?
子供のピアノの発表会をハラハラドキドキしてみている親の心境? しかし、自分の子供でなければ、ほとんどそんなことを感じる筋合いはありません。
作品が何かを聴衆に伝えるために書かれるのだとすれば、本来この作品の聴衆がこの詩を鑑賞する若者だと考える方が正統的に思えます。つまり、この作品を歌う側は、むしろ若者に気持ちを伝えたい親の立場である、ということになります。

まあ、そんなことどうでもいいじゃん、と思われるかもしれません。
しかし、それは違う、と私は声を大にして言わなければなりません。私たちはこの曲を練習している間、人に聴かせる際にどのようにこの曲の内容を訴えていくかを考えていきます。その際、私たちはこの作品に使われているテキストを、どのような立場で訴えていくかが明確でないと、訴え方も明瞭にならないのです。
ここから先は、各団体、指導者がそれぞれの考え方で曲作りをすれば良いでしょう。音楽の解釈に正解はないのですから。ただし、正解は無いけど、センスの善し悪しはあります。

いずれにしろ、この作品を歌う際、歌う側は詩を鑑賞する若い立場なのか、詩の内容を訴える父の立場なのか、何らかの指針は必要だろうと考えます。(必ずしも二者択一というわけではありません)