曲を書けば、なんとか演奏して欲しいもの。
合唱はまだしも、器楽となると生演奏の機会はそうそうありません。その昔からDTMみたいなことは好きでやっていたんですが、最近もうちょっと力を入れて音楽制作みたいなことをやってみたくなりました。つまり、生演奏されないなら自分でPC上で作ってしまえ、というわけです。
そんなわけで、オーケストラを買いました。もちろん本物でなくて、PC上で鳴らせるサンプリング音源です。
最近かなりリアルなオーケストラのサンプリング音源が出ています。候補で考えていたのは Vienna Symphonic Library の Standard Edition(VSE) と、Halion Symphonic Orchestra(HSO)。
VSLは超ハイスペック、プロ御用達の音源で、VSEはその抜粋版のようなもの。最初はかなりVSEに傾きかけていたのだけど、さすがに職業音楽家でもないのにこれだけのクオリティは必要なさそうだし(全部揃えるとすごい値段!)、ストレス無しに鳴らすにはPCのスペック的にも厳しそう。
結局、オーケストラ音源としては比較的マイナーなHSOを購入しました。(一般的には、ガーリタンとか、QLSOと呼ばれているのが売れ線みたい)
HSOにしたのは、ホストアプリがCubaseなので同じ会社で相性も良いだろうし、操作性も見た感じ良さそうに思えたからです。もっとも、今持っている昔のDTM音源から比べたらどれを買ってもリアルさは雲泥の差ですけど。
まだ、十分触ってないけど、やっぱりリアルですね。アンサンブルになれば、これは相当雰囲気が出て来そう。いろいろ触っていたらオーケストラの曲でも書いてみようか、という気分になってきました。
楽器単体では、そばで鳴っているような臨場感というより、きれいに整頓された音色って感じで、一般性の高い作りになっているような気がしました。
打ち込みでの実際の表現付けのところでは、真面目にやればそれなりに苦労しそうですが、人に聞かせるには十分なクオリティがあると思います。(昔のDTM音源だと、「音が変」とかすぐ突っ込まれたし)
ただ、音色や奏法の種類の把握、コントロールの仕方、セッティングしたデータの管理方法など、使いこなすにはもう少し時間がかかりそう。ある程度把握できたら、室内楽っぽい編成からトライしてみる予定です。
2008年6月29日日曜日
2008年6月21日土曜日
プロコフィエフ ピアノ協奏曲第2番/ユンディ・リ&小澤征爾&ベルリンフィル
ちょっと前にNHK BSでやっていた小澤征爾とユンディ・リの番組を見て、とても面白かったので買ってみました。
若手ピアニストとして注目されているユンディ・リの激しくも繊細な演奏も心動かされたのだけど(中国ではアイドル並みの人気だとか)、それよりもプロコ好きであるにも関わらず、ピアノ協奏曲第2番って実は聴いたことなくてその音源が欲しかったというのが主目的。
プロコフィエフがピアノ協奏曲第2番を作曲したのは、22才のとき。その前衛的な響きに当時はほとんど理解は得られませんでした。その後、この楽譜はロシア革命の混乱の中で失われてしまい、約10年後にプロコフィエフが記憶を元に新たに復元改定。もちろん、現在残っているものはその復元版です。
聞いて思ったのは、何しろ全編プロコ印で溢れていて、これぞプロコフィエフという楽想の連続。確かに他の協奏曲と比べて旋律のキャッチーさが無いので、それほど一般的には有名ではないのかもしれないけど、プロコフィエフの鋭角的な旋律や不思議な和音感覚が好みなら、この曲はおおはまりすると思います。
恐らく、10年後に書き直したっていうのも、実は良い方向に向かっているように思います。もっとも、20代前半でこんな曲を書いたこと自体、とんでもないことですけど(私的には)。
プロコの何がいいって、私にとってはクラシックというよりロック的というか、もっと音楽の持つ原始的な激しさのようなものがたくさん詰まっていること。ある意味、貴族的とか、サロン的とか、教養的とかそういう世界と対極にある価値観なのかも。
時代が変わっても失わない反骨心のようなものが背景にあって、冷静な攻撃性というか、奇形に対する偏執的な愛情というか、そういう要素をふんだんに持っているのです。
もう一つは曲全体のメカニカルな雰囲気。こういう硬質な音楽が好きなんですね、私は。ぐにょぐにょにテンポを揺らす演歌的価値観の対極でもあります。
若手ピアニストとして注目されているユンディ・リの激しくも繊細な演奏も心動かされたのだけど(中国ではアイドル並みの人気だとか)、それよりもプロコ好きであるにも関わらず、ピアノ協奏曲第2番って実は聴いたことなくてその音源が欲しかったというのが主目的。
プロコフィエフがピアノ協奏曲第2番を作曲したのは、22才のとき。その前衛的な響きに当時はほとんど理解は得られませんでした。その後、この楽譜はロシア革命の混乱の中で失われてしまい、約10年後にプロコフィエフが記憶を元に新たに復元改定。もちろん、現在残っているものはその復元版です。
聞いて思ったのは、何しろ全編プロコ印で溢れていて、これぞプロコフィエフという楽想の連続。確かに他の協奏曲と比べて旋律のキャッチーさが無いので、それほど一般的には有名ではないのかもしれないけど、プロコフィエフの鋭角的な旋律や不思議な和音感覚が好みなら、この曲はおおはまりすると思います。
恐らく、10年後に書き直したっていうのも、実は良い方向に向かっているように思います。もっとも、20代前半でこんな曲を書いたこと自体、とんでもないことですけど(私的には)。
プロコの何がいいって、私にとってはクラシックというよりロック的というか、もっと音楽の持つ原始的な激しさのようなものがたくさん詰まっていること。ある意味、貴族的とか、サロン的とか、教養的とかそういう世界と対極にある価値観なのかも。
時代が変わっても失わない反骨心のようなものが背景にあって、冷静な攻撃性というか、奇形に対する偏執的な愛情というか、そういう要素をふんだんに持っているのです。
もう一つは曲全体のメカニカルな雰囲気。こういう硬質な音楽が好きなんですね、私は。ぐにょぐにょにテンポを揺らす演歌的価値観の対極でもあります。
ラベル:
音楽
2008年6月18日水曜日
ザ・マジックアワー
テレビで激しく宣伝している三谷幸喜監督の最新映画。前回の三谷作品の感想はコチラ。
相変わらずの笑いのセンスに、今回も涙を流しながら笑っていました。本当に楽しめます。これがフジテレビ製作ってのがクヤシいくらいです。
三谷作品の場合、やはりどうしても芸術論的な話をしたくなってしまいます。
というのは、本質的に日本の芸術に欠けているものをこの人はふんだんに持っているような気がするからです。
今回は、特にその人工的とも言える世界観が非常に印象に残りました。時代設定もあやふやにしてしまうようなレトロな街並み。そこにいる人たちも、衣装や雰囲気がレトロ。だけど、時代背景はやはり現代なんですね。
古きギャングの話にリアリティを持たせるために、セットや美術まで含めて全部ゼロから作り上げてしまう、そういう細部にわたる世界観をきちんと作り上げるだけの溢れんばかりのクリエイティヴィティがあります。今の日本の映画では本当に珍しいことです。
思うに、三谷幸喜の凄さというのは「想像力の正確さ」なのだと思います。
誰しも学生時代などにちょっとした寸劇をやったり、舞台で何か踊ったりしたような経験があると思います。演出などを自分たちで考えていると、そのときはスゴいいいアイデアだと思ったのに、いざやってみると、かなりすべっていたり、あまり評判が良くなかったり・・・。なんか、合唱団のサムい演出を思い出してしまいます・・・。
モノを作り上げる、創造する、という行為には、作り上げたらどうなるのかと「想像」することがどうしても必要です。頭の中で思い描いた「想像」が独りよがりのものでなく、誰が見ても納得できるようなものになっていたか、そして製作側が意図していた通りに受け取ってもらえたのかが大事なのであり、そこまできちんと製作段階で読み切る想像力こそが、クリエーターとしての重要な資質に思えます。
そういう意味で、この映画、非常に複雑なシチュエーションが設定され、その虚構の中で繰り広げられる台詞の一つ一つが非常に精度が高く練られていて、その想像力に舌を巻きます。思いもよらぬ展開に観客はただただ三谷的想像力ワールドのジェットコースターに乗って振り回され続けます。
卓越した人間観察力、そして事態の先を読む力、それがこの想像力の正確さをより高めています。
想像するだけなら誰でも出来る。問題はその正確さ、質の高さということなのです。
相変わらずの笑いのセンスに、今回も涙を流しながら笑っていました。本当に楽しめます。これがフジテレビ製作ってのがクヤシいくらいです。
三谷作品の場合、やはりどうしても芸術論的な話をしたくなってしまいます。
というのは、本質的に日本の芸術に欠けているものをこの人はふんだんに持っているような気がするからです。
今回は、特にその人工的とも言える世界観が非常に印象に残りました。時代設定もあやふやにしてしまうようなレトロな街並み。そこにいる人たちも、衣装や雰囲気がレトロ。だけど、時代背景はやはり現代なんですね。
古きギャングの話にリアリティを持たせるために、セットや美術まで含めて全部ゼロから作り上げてしまう、そういう細部にわたる世界観をきちんと作り上げるだけの溢れんばかりのクリエイティヴィティがあります。今の日本の映画では本当に珍しいことです。
思うに、三谷幸喜の凄さというのは「想像力の正確さ」なのだと思います。
誰しも学生時代などにちょっとした寸劇をやったり、舞台で何か踊ったりしたような経験があると思います。演出などを自分たちで考えていると、そのときはスゴいいいアイデアだと思ったのに、いざやってみると、かなりすべっていたり、あまり評判が良くなかったり・・・。なんか、合唱団のサムい演出を思い出してしまいます・・・。
モノを作り上げる、創造する、という行為には、作り上げたらどうなるのかと「想像」することがどうしても必要です。頭の中で思い描いた「想像」が独りよがりのものでなく、誰が見ても納得できるようなものになっていたか、そして製作側が意図していた通りに受け取ってもらえたのかが大事なのであり、そこまできちんと製作段階で読み切る想像力こそが、クリエーターとしての重要な資質に思えます。
そういう意味で、この映画、非常に複雑なシチュエーションが設定され、その虚構の中で繰り広げられる台詞の一つ一つが非常に精度が高く練られていて、その想像力に舌を巻きます。思いもよらぬ展開に観客はただただ三谷的想像力ワールドのジェットコースターに乗って振り回され続けます。
卓越した人間観察力、そして事態の先を読む力、それがこの想像力の正確さをより高めています。
想像するだけなら誰でも出来る。問題はその正確さ、質の高さということなのです。
2008年6月12日木曜日
芸術論〜尖ることの難しさ
芸術とはちょっと離れますが、メーカーに勤めていると、どうやったらヒット商品が出来るのか、という話題に触れることがあります。
生活必需品がほぼ家庭に行き渡った今、売れているモノというのは、それしか持たない個性や、凛とした哲学、ある種の尖った佇まいを持っているものです。以前もちょっと書いたのですが、商品にも芸術性が求められる時代になってきたような気がします。じゃあ、そういう商品を企画すればいいじゃない、となると、ことはそう簡単には進みません。
同様に、芸術には何かしら尖ったものがあるハズです。
逆に言えば、どのように尖っているのか、ということが芸術が持つ価値と密接に繋がっているように思えます。個性的とか、唯一性とか、オリジナリティとかそういう言葉は、その尖り具合から来ているものなのでしょう。
尖ったものは一見すると、新規性と間違われます。確かに、何か新しいからこそ尖って見えるし、個性的にも見えます。しかし、新規であることを目標にしてしまうと、全くセンスのない勘違いなものを作ってしまうことになりかねません。私には多くの前衛芸術がそのようなスパイラルに陥っているように思われます。
実は人は想像以上に保守的だと感じたりします。
保守的なまま、尖ったものを作ろうとすると、単なる表面的な新規性に走ります。しかし、時代を切り開く尖った感性というのは、常識を少しだけ外れたところにあって、それは往々にして人々が目を背けたり、侮蔑したり、嘲笑したりするものだったりします。
そういう意味で「尖ったもの」の対極にある価値観というのは常識の権化である学校教育じゃないか、とも感じます。変な言い方をすれば、学校では教え(られ)ないことに尖ったものの芽があるのかもしれません。
生活必需品がほぼ家庭に行き渡った今、売れているモノというのは、それしか持たない個性や、凛とした哲学、ある種の尖った佇まいを持っているものです。以前もちょっと書いたのですが、商品にも芸術性が求められる時代になってきたような気がします。じゃあ、そういう商品を企画すればいいじゃない、となると、ことはそう簡単には進みません。
同様に、芸術には何かしら尖ったものがあるハズです。
逆に言えば、どのように尖っているのか、ということが芸術が持つ価値と密接に繋がっているように思えます。個性的とか、唯一性とか、オリジナリティとかそういう言葉は、その尖り具合から来ているものなのでしょう。
尖ったものは一見すると、新規性と間違われます。確かに、何か新しいからこそ尖って見えるし、個性的にも見えます。しかし、新規であることを目標にしてしまうと、全くセンスのない勘違いなものを作ってしまうことになりかねません。私には多くの前衛芸術がそのようなスパイラルに陥っているように思われます。
実は人は想像以上に保守的だと感じたりします。
保守的なまま、尖ったものを作ろうとすると、単なる表面的な新規性に走ります。しかし、時代を切り開く尖った感性というのは、常識を少しだけ外れたところにあって、それは往々にして人々が目を背けたり、侮蔑したり、嘲笑したりするものだったりします。
そういう意味で「尖ったもの」の対極にある価値観というのは常識の権化である学校教育じゃないか、とも感じます。変な言い方をすれば、学校では教え(られ)ないことに尖ったものの芽があるのかもしれません。
2008年6月9日月曜日
芸術論~さらに抽象論
オリジナリティとか個性という言葉はある意味、とても危険です。
抽象的な議論をすればするほど、こういう言葉は空回りし始めます。表面的に捉えれば捉えるほどゲテモノを生んでしまうことも良くあります。単なる表現方法のカタログ化にしかならないこともあります。
ある程度その道を極めた人は、そういう「個性」という言葉の危険性を良く知っていて、だからこそ、今度は逆に保守方向に気持ちを振ってしまいます。今、世にあって、多くの人に支持されている価値観をどれだけ極められるか、そちらだけにしか興味を持たなくなってしまいます。
要するに、個性というのは外面だけで判断しないこと、その胡散臭さに目を背け保守的態度をとらないこと、が大事なのではと私は思います。
外面だけで判断しないというのは実は案外難しい。なぜなら、内面は見えないからこそ内面であり、内面を知るには外面から判断するしかないからです。つまり外面を見るしか判断する手段がないのです。だから、その外面から、外面だけを繕っているのか、内面から自然に発露した外面なのかを判断する目を持つ必要があります。
行動が奇矯だったり、見た目が変わった人を「個性的」と呼ぶことがあります。なかなか普通の暮らしをしていて、普通の格好をしている人の普段の言動から「個性的」と呼ぶのは難しい。だけど、芸術にはそういう要素が必ずあると思います。
保守性に関して、これは新しい価値観を追い求めることを放棄してしまうような態度です。
残念ながら人は年を取るほど、社会的地位が高くなるほど、そして人から信頼を得れば得るほど保守的になっていきます。誰もが認めた価値観をもっとも効率的に、そして完璧に表現してみせることは、世渡り上手な芸術家のすること。しかし、新しい価値観を提示できない人は、本質的に芸術家、クリエータの資質に欠けているのではないかと私には思えます。
もちろん、「新しい価値観」という言葉の胡散臭さをひとまず置いといた話ですけれど。
抽象的な議論をすればするほど、こういう言葉は空回りし始めます。表面的に捉えれば捉えるほどゲテモノを生んでしまうことも良くあります。単なる表現方法のカタログ化にしかならないこともあります。
ある程度その道を極めた人は、そういう「個性」という言葉の危険性を良く知っていて、だからこそ、今度は逆に保守方向に気持ちを振ってしまいます。今、世にあって、多くの人に支持されている価値観をどれだけ極められるか、そちらだけにしか興味を持たなくなってしまいます。
要するに、個性というのは外面だけで判断しないこと、その胡散臭さに目を背け保守的態度をとらないこと、が大事なのではと私は思います。
外面だけで判断しないというのは実は案外難しい。なぜなら、内面は見えないからこそ内面であり、内面を知るには外面から判断するしかないからです。つまり外面を見るしか判断する手段がないのです。だから、その外面から、外面だけを繕っているのか、内面から自然に発露した外面なのかを判断する目を持つ必要があります。
行動が奇矯だったり、見た目が変わった人を「個性的」と呼ぶことがあります。なかなか普通の暮らしをしていて、普通の格好をしている人の普段の言動から「個性的」と呼ぶのは難しい。だけど、芸術にはそういう要素が必ずあると思います。
保守性に関して、これは新しい価値観を追い求めることを放棄してしまうような態度です。
残念ながら人は年を取るほど、社会的地位が高くなるほど、そして人から信頼を得れば得るほど保守的になっていきます。誰もが認めた価値観をもっとも効率的に、そして完璧に表現してみせることは、世渡り上手な芸術家のすること。しかし、新しい価値観を提示できない人は、本質的に芸術家、クリエータの資質に欠けているのではないかと私には思えます。
もちろん、「新しい価値観」という言葉の胡散臭さをひとまず置いといた話ですけれど。
2008年6月8日日曜日
芸術論〜漠然とした主張
いい音楽って何だろう?という素朴な疑問について。
あんまりにも漠然としすぎて、素人ほど断定調に自らの思うところを語ってしまいがちだけど、音楽活動を継続的にしている人は、一生かけて追い求めるテーマなのだと思います。
もちろん、いつだって最良の、最高の音楽が出来たなんて思えないのだけど、それでも自分の中で何らかの理想像を持っていなければ、よい方向に持っていくことすらできません。
つまり、「いい音楽って何だろう?」という疑問は、そのままそれに答えようとする人の音楽の理想像を示すことに他ならないと思うわけです。
ところが、理想像がもし特定のアーティストの特定の演奏をイメージしているのなら、それは違うと私は思います。当面の目標ではあり得ても、音楽活動する人の最終目標では無いはずです。なぜなら、それは結局のところ他人の真似でしか無く、真似をする以上、目標となる対象には永遠に近づけないからです。自分は誰でもない自分自身であり、本質的に他の誰の真似も完璧には出来ないし、逆に他の誰も自分を真似することは出来ないのです。
芸術である以上、ある一定の技術力が必要なのは確かですが(もちろん、それを極めるのもとてつもないことですが)、それと同時に自分であることの唯一性、独自性、オリジナリティが、特に技術的レベルが高くなるほど求められるし、誰にも出来ないことをやるからこそ、そこに価値があるがあるはず。
オリジナリティという言葉をどれだけ真に咀嚼し、明確な形で示すことが出来るのか、それこそその人に取っての「いい音楽」のセンスが試される部分であり、最後に人の心にその音楽を残せるのかどうかの判断の分かれ目となるのだと思います。
あんまりにも漠然としすぎて、素人ほど断定調に自らの思うところを語ってしまいがちだけど、音楽活動を継続的にしている人は、一生かけて追い求めるテーマなのだと思います。
もちろん、いつだって最良の、最高の音楽が出来たなんて思えないのだけど、それでも自分の中で何らかの理想像を持っていなければ、よい方向に持っていくことすらできません。
つまり、「いい音楽って何だろう?」という疑問は、そのままそれに答えようとする人の音楽の理想像を示すことに他ならないと思うわけです。
ところが、理想像がもし特定のアーティストの特定の演奏をイメージしているのなら、それは違うと私は思います。当面の目標ではあり得ても、音楽活動する人の最終目標では無いはずです。なぜなら、それは結局のところ他人の真似でしか無く、真似をする以上、目標となる対象には永遠に近づけないからです。自分は誰でもない自分自身であり、本質的に他の誰の真似も完璧には出来ないし、逆に他の誰も自分を真似することは出来ないのです。
芸術である以上、ある一定の技術力が必要なのは確かですが(もちろん、それを極めるのもとてつもないことですが)、それと同時に自分であることの唯一性、独自性、オリジナリティが、特に技術的レベルが高くなるほど求められるし、誰にも出来ないことをやるからこそ、そこに価値があるがあるはず。
オリジナリティという言葉をどれだけ真に咀嚼し、明確な形で示すことが出来るのか、それこそその人に取っての「いい音楽」のセンスが試される部分であり、最後に人の心にその音楽を残せるのかどうかの判断の分かれ目となるのだと思います。
2008年6月1日日曜日
Beyond Standard/上原ひろみ
上原ひろみのニューアルバムが発売されました。
これまでオリジナルオンリーだった上原ひろみがスタンダードに初めて挑戦したアルバム。スタンダードといっても、ジャズ的な意味でのスタンダードではなくて、様々なジャンルから曲が選ばれているというのが特徴です。
例えば、ドビュッシーの「月の光」、デュークエリントンの「キャラバン」、坂本九の「上を向いて歩こう」、ジェフベックの「レッドブーツ」など。
何をリスペクトして、自分は何者であろうとするのか、アーティストのそういう方向性がこういったカバーアルバムでは、より鮮明に見えてきます。そういう意味で、選曲そのものが興味深いですね。クラシック、ロック、ジャズ、何にでも影響を受け、いいものはいいんだ、というシンプルかつ、自分の感覚を信じる強い信念みたいなものを感じます。図らずも編曲の話題の後なので、やはり上原ひろみはレベルが違うなあ、と改めて思ったり。
サウンドは率直に言えば、オリジナルが無くなった分、攻撃的で技巧的なテーマやフレーズが減り、表面的にはややおとなしくなった印象。ジャズマニアから見れば、オリジナルをどのように料理したか、という別の興味があるのでしょうが、私はまだそのレベルには達してはいないかも。
ただ、「月の光」はいささか無理やりジャズのフォーマットに持っていこうとして、それはそれで興味深いのだけど、もっと他のアプローチはないかな、とは思いました。
とはいえ上原ひろみの場合、ライブになるとCDでは聴けない激しさや、表現の幅の広さを見れるので、生演奏を聴くとまた一曲一曲のイメージも変わるかもしれません。
また、機会があればコンサートに行ければいいのだけど。
これまでオリジナルオンリーだった上原ひろみがスタンダードに初めて挑戦したアルバム。スタンダードといっても、ジャズ的な意味でのスタンダードではなくて、様々なジャンルから曲が選ばれているというのが特徴です。
例えば、ドビュッシーの「月の光」、デュークエリントンの「キャラバン」、坂本九の「上を向いて歩こう」、ジェフベックの「レッドブーツ」など。
何をリスペクトして、自分は何者であろうとするのか、アーティストのそういう方向性がこういったカバーアルバムでは、より鮮明に見えてきます。そういう意味で、選曲そのものが興味深いですね。クラシック、ロック、ジャズ、何にでも影響を受け、いいものはいいんだ、というシンプルかつ、自分の感覚を信じる強い信念みたいなものを感じます。図らずも編曲の話題の後なので、やはり上原ひろみはレベルが違うなあ、と改めて思ったり。
サウンドは率直に言えば、オリジナルが無くなった分、攻撃的で技巧的なテーマやフレーズが減り、表面的にはややおとなしくなった印象。ジャズマニアから見れば、オリジナルをどのように料理したか、という別の興味があるのでしょうが、私はまだそのレベルには達してはいないかも。
ただ、「月の光」はいささか無理やりジャズのフォーマットに持っていこうとして、それはそれで興味深いのだけど、もっと他のアプローチはないかな、とは思いました。
とはいえ上原ひろみの場合、ライブになるとCDでは聴けない激しさや、表現の幅の広さを見れるので、生演奏を聴くとまた一曲一曲のイメージも変わるかもしれません。
また、機会があればコンサートに行ければいいのだけど。
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