2005年1月27日木曜日

構想とはどこまで

とても有名な作家でも、インタビューなどを読んだりすると、小説のプロットがあまり明確ではないまま書き始めたり、書いている途中にいろいろなアイデアが投入されたりとか、要するに素人が思っているほど、きっちりと構想を建てた上で作品を作っていないような感じを受けたりします。
むしろ、ある作品を書く際、徹底的に取材したり素材を集めたりして、構想やプロットを練って、準備万端整えた状態で書き始めるということ自体、一般的でないのかもしれません。
ところが、一般の方の中には、プロならば事前に構想を練るような、きっちりとした仕事の仕方を絶対しているはずだと確信しているような人も見受けられます。作品の全てを制御していることが、優れた芸術家としての証であると感じるからでしょう。
でも、やはり実際はそうではないのでしょう。理知的な作業は時として、爆発的な高揚感とか、ここしか使えない素晴らしいアイデアとかをスポイルする方向に向かわせます。それが、芸術本来が持つパワーを削ぐことに繋がることが多いと私は思うのです。
作曲の場合、相当理知的な作業だと思われるフシがあり、構想が十分練られていることが前提で楽曲分析されていることが多いように思いますが、どうなんでしょうねえ、もっと芸術って不確かで、曖昧で、非論理的な部分に根源的なパワーがあるんじゃないかって気もするのですが。

2005年1月22日土曜日

レイクサイド マーダーケース

昨年は映画趣味にますます拍車がかかり、結局23本の映画を鑑賞しました。基本的にはSF・ミステリー・ファンタジー系に傾いていて、このジャンルでまともな作品がなかなか出ない邦画には正直縁が薄い状態です。
さて、今年最初に見た映画は今日封切られた邦画「レイクサイドマーダーケース」。なぜ見ようと思ったかというと・・・、邦画にしてはなかなか渋そうな設定だということ。あとは、20年以上前にファンだった薬師丸ひろ子がどんなになったか興味があったこと。あと、金八先生の鶴見杉田ペアが夫婦役で出るというシャレ(ちょうど私たちが中学生だった頃に流行ったんで妙な感慨があるわけです)というのも見逃せません。杉田かおるの最近の報道のおかげで映画も注目を浴びたか?
ところが、午前中ということもあったのでしょうが、客席はガラガラ。それに、想像以上に内容が渋くて、こりゃーヒットしないだろうなあというのが率直な感想。
でも、まるで心理劇のような登場人物の閉鎖環境での会話のやり取りがものすごくリアル。人間ドラマがとても良く描かれています。この脚本、これまでの邦画にはないリアリティがあります。それを各役者がうまく表現している。あういうタメの入った演技は、恐らく監督の好みなんでしょうね。テレビドラマのような安直さが無くてとても好感を持ちました。
ただ、邦画全体的な特徴として、監督個人の力が強すぎるのか、「売れる」ために必要な作品の客観性がどうも足りないのです。監督の目指す芸術性と、商業的な成功は一致しない場合のほうが多いのは確かです。しかし、芸術家が売れることより自身の信じる芸術性ばかりを強調するのは、常に健全であるとは思いません。現代音楽の状況などにも似ています。
この映画、かなりいいセン言っていますが、一般にもう少しウケる客観性を持ちえるには、もう少し終結感があるはっきりしたエンディングが必要。最後の最後の怪しいシーン、多義的でちょっと売れセン映画としてはいただけません。あと、いくつかの伏線が解決されないまま残っていたりします。
後は見る側が、流行のスターとかドンパチの激しさだけで面白さを評価しないほど成熟するのを待つしかないでしょうね。

2005年1月17日月曜日

ラス・マンチャス通信/平山瑞穂

LasMaすでに気付かれていることと思いますが、ここのところファンタジーノベル大賞受賞作品を立て続けに読んでます。想像をはるかに超えた様々な異世界を味わいたいと思うなら、この賞を取った作品を読むのが良いでしょう。毎年毎年、いろんなタイプの異世界を持つ作品が続々と生まれてくるからです。そして、本作品、出版されたばかりの昨年の受賞作。
これはすごい!江戸川乱歩のような怪奇幻想世界と、カフカのような不条理世界、そして社会に馴染めず不当な扱いを受ける「僕」の生き様の描写の執拗さは生半可ではありません。ストーリーに一つの大きなテーマがあるわけではなく、「僕」の流浪の生活が各章毎に違う状況で語られます。このあたりの流れをどう読者が感じるかは分かれると思います。情けない主人公の鬱々とした様を延々と読まされるのを嫌う人もいるでしょう。しかし、本来、作者が書きたかったのは、自分なりに正義感と現実のバランスを保ちながら生きているのに、それでも報われない自分、といったそんなリアルな社会的現実ではないかとも思えます。ここで、「僕」を貶める人物は、いずれもこういった内向人間の天敵のような存在です。その描写は実にリアルです。この細やかさは作者の人生観なしに語れないのではとも思います。
もう一つ、この小説に特徴なのは、この薄気味悪い世界に漂うエログロ感。スカトロっぽかったり、SMぽかったり、人形愛みたいなのがあったり。まあ、私は嫌いじゃないですよ。主人公の姉や、由紀子の言動のなかに潜むエロティシズムにも味わいがあります。第四章にある三人暮らしにも微妙な羨望を感じたりして。
ネットでこの小説の記事を見ていたら、とあるところに受賞時から最終章をほとんど差し替えたという記事を発見。思わず、なるほど。感動のラストがありちょっと泣けるのだけど、出版に際し、そんなふうに読みやすく変えていたんですね。

2005年1月16日日曜日

第四間氷期/安部公房

4thK自分では好きな作家だと思いながら意外と読んでないのがこの安部公房。何といっても「砂の女」の面白さが圧巻なわけですが、じゃ他の本はどんな内容だったかというとなかなか思い出せなかったりします。
そんなわけで、久しぶりに安部公房の長編を読みました。小説自体が書かれたのは昭和33年という、はるか昔のこと。この小説、いわばSF小説なのですが、たしかに昔に書かれただけのことはあってSF的要素は古色蒼然という感もあるのだけれど、小説自体が訴えたいことは時代を超えても全く色褪せていないのです。「砂の女」もそうなのですが、あり得ない状況、信じられないような状況をSF的設定で作って、その中で、一体自分とは何者なのか、ということを主人公を通して語るというのが、安部公房の基本的なスタンスのように見えます。
この小説の場合、主人公は「予言機械」の設計者という設定。ある殺人事件などに巻き込まれていくうちに、一緒に開発している部下の言動に疑いを持ち始めます。話の途中までは、そういった謎がどんどん膨れ上がっていきます。しかし、広がり始めた話はむしろ主人公自身の話に収斂するようにどんどん狭まっていき、ついに自分自身を陥れていた張本人として、予言機械内に生成された主人公の第二次予言値(主人公の別人格のようなもの)が現れるにいたって、加速度的に謎が解かれます。そして、全てを知った主人公が殺される寸前で話は突然終わるのです。
安部公房にとってのSFとは単に未来を描きたいというより、主人公をシュールな状況に追い詰めるための道具なのだと思えます。そして、その中で、世界の中でまるで自分ひとりが孤立しているような不安、を執拗に表現しているように感じます。

2005年1月13日木曜日

2005年・・・かあ。。

いろいろな書類に年号を書くときに2005年と書くと、あらためて年が変わったんだなあと思います。去年までは、なんとなく21世紀になった余波でだらだらと年が進んだ感じがするんだけど、2005年って、もう21世紀になって5年が過ぎてしまったんですねえ。
80年代、90年代、と言うのと同様に今を0年代というのなら、もうその半分が過ぎてしまったわけです。改めて考えてみると、この0年代というのはどんな時代なのだろう、と思っても何も思い浮かばなかったり。
私ごとで言えば、何かあったようであんまりなかった5年とも言えます。こうやって、そう大きなことも起こらないまま、これからの年月も過ぎてしまうのでしょうか。
今年はすっごくいいことがありますようにと頼んだ、1月4日にガラガラの神社での初詣の効力に、早くも疑問を感じている今日この頃。

2005年1月7日金曜日

バルタザールの遍歴/佐藤亜紀

050106かなり渋い小説なんだけど、よくよく考えてみると、金と酒と女まみれの堕落した男の話。それでも、格調高い文体や文章の端々に現れる博学な引用に、ただただ眩暈を感じてしまいます。1930年代のヨーロッパを舞台にした話で、いろいろな街の雰囲気や、退廃的な風情がとてもよく伝わってきます。そういった、文章の巧さ、比喩や表現の巧さだけで読めてしまう、そういった感じの小説なのです。
第3回ファンタジーノベル大賞受賞作品。もちろん、ファンタジー要素はあります。主人公は一つの肉体に二人の精神が宿ってしまっているという設定。それでも、これがSF的、ホラー的にならないのは、超常現象であるにも関わらず、主人公や登場人物がいとも簡単にこの状況を受け入れてしまうという作品設定の妙があるわけです。だから、ファンタジーというよりも、単なる退廃的なある男の冒険談として読めてしまう。
こういったデカダン的な身の崩し方に憧れる人もいると思います。そんな方にはお奨めです。


2005年1月4日火曜日

嫌いな技術-横長テレビ-

正月で実家に帰ったら、新しい薄型液晶テレビがありました。最近、薄型が流行ってますから、うちもいつ買おうかなと思っていますが、なかなか値が高くて手が出ません。
この手のテレビ、いまほとんど横長のサイズなんですね。妻の実家にもこの横長テレビがあって、行く度に違和感を感じています。私はどうもこの横長サイズのテレビというのが気に入らないのです。
なぜって、普通のテレビ放送の画面を無理矢理横に伸ばすから、元の画像がすごく歪むじゃないですか。わざわざ上下を少しカットして、両側を少し横に延ばしたりするから、画面の横側に写っている人ほどデブに見えてしまいます。美形の女優さんだってこれじゃ台無しです。
文字が横に流れるようなときに、横長の画面の歪みは顕著になります。両横に文字が写っているとき、文字は横に長くなるんですが、真ん中に行くと、ぎゅっと縮まる。字を見ていると、こんなにへんてこに画面のサイズをいじっているのがわかって、こんな画面でいいのかと突っ込みたくなります。
世の中、技術が進んでテレビの画像などもどんどんきれいになっていくのに、こういうことに無頓着な人が多いのはとても不思議です。だいたい、私だって映像の質にそれほどこだわるタイプじゃありません。だけど、オリジナルの画像の意図を著しく損ねるような横長サイズの画面だけはどうしてもいただけません。
こういう感覚、木を見て森を見ず、というふうに私には思えるのだけど、これだけ世の中に横長サイズのテレビが売れているのを見ると、私のこだわりの方がマイノリティなのか、妙な不安を感じるこの頃。
私のうちは、もちろん横長じゃありません。しかし、薄型テレビで横長じゃないサイズなんてあんまり見た覚えないし、今度買うときには横長を買わざるを得ないんでしょうか。