2004年8月31日火曜日

日本人の外国語

もう十年来、英会話に苦しめられ、今なお英語の苦手意識から逃れられない私ですが、まるで逆に吸いつけられるように、ここ十年ほど英語の合唱曲ばかり指揮しています(例:ラター「Five Childhood Lylics」、ホルスト「5つのパートソング」、そして今、バーバー「生まれ変わり」)。まるで、指揮者の立場から英語に復讐しているような気持ちですが、そんな具合だと歌う側はたまらないかもしれませんね。

やはり合唱の場合、外国語の発音としてはラテン語が最もとっつきやすいのだと思います。イタリア語は、独特なアクセント感覚が身に付けば、それほど怖くないでしょう。やはり合唱の中では、英語、ドイツ語といった子音が多い言語が日本人の不得意とするものになるのではないでしょうか。
ドイツ語の場合、逆に語尾子音などをきちっと指導する指揮者も多いのですが、英語となると下手に学校で習っていたりするので、各自に妙なクセがついていて中々、ほんとうの英語っぽくならないのです。

以前、こんな話を書きましたが、やはり外国語と日本語との感覚の違いとして、「長音」「促音」「撥音」の問題があるような気がします。
日本語のリズムでは、これらの音はいずれも一拍分の長さを与えられます。ところが、ローマ字にして外国人に読ませても、日本人と同じ感覚では読んでくれません。
例えば、「きょう、がっこうへいった」とローマ字で書いて、外国人に読ませると
「きょ、がこえいた」みたいな感じで、詰まって発音することが多いのです。これは外国人の場合、延ばす音(長音)、跳ねる音(促音)が一拍分の長さとして感じないために起こることです。これは逆に言えば、日本人の英語が英語っぽく聞こえない理由は、日本語の長音、促音、撥音に似た発音に時間を割いてしまう傾向があるからではないでしょうか。

私の最近のブームは撥音に関する注意で、これを直すだけでかなり英語っぽい感じが出てくるように感じられます。英語で撥音といった場合、具体的には「n」「m」といった発音が語尾子音にある場合ということになります。
例えば「and」という単語があったら、なるべく「n」に時間をかけないように注意します。場合によっては、ほとんど「n」を歌わない程度にしてしまいます。そうすると、何となく英語に近くなった感じがしてきます。それほど、日本人は「ん」という発音に時間をかけすぎているように思えるのです(もちろんケースバイケースなので、あくまで一般論ということで)。
この場合、リエゾンをうまくしていけばさらに良い感じになりますが、実際には指示しないと歌い手はリエゾンしてくれないことが多く、細々とうるさいことと思いながらも、ついつい練習で突っ込みを入れてしまう私なのでした。

2004年8月23日月曜日

やっぱりプロは違う

先週もプロ合唱団について書きましたが、今日は本物のプロ合唱団、東京混声合唱団の掛川公演に行ってきました。
県内の合唱愛好家が集うかと思いきや、観客のほとんどは妙齢の女性ばかり。しかも、よく見てみたらそういう観客層をとても意識した選曲になっているわけです。地元の合唱団と合同ステージもあり、典型的な地方巡業コンサートでありました。
東京に住んでいれば、東京混声合唱団の意欲的な選曲の数々を聞くこともできるのでしょうが、なかなか地方に住んでいると、こういったあからさまな地方巡業公演くらいしか耳にできないのが悲しいところ。それでも、そういうスタイルの中で、最大限お客様に楽しんでもらえることを配慮した、別の意味でのプロらしさを感じた演奏会でもありました。

やっぱりプロ合唱団は声が違う。当たり前ですが。
どんなに素人が一生懸命練習したって、素材が違っているのだから仕方ありません。一人一人がまず圧倒的な声楽的素質を持っています。それに、一頃の東混のイメージと違って、発声もくせがなくパート内の音色もよく揃っています。こういうのはやはり指揮者が、少しずつ指導していった成果なのかなと思えます。以前聞いたときより(かなり前ですが)団員も若い人が多く、それがアンサンブルの精度の高さに貢献しているように感じました。

唯一の東混らしい現代曲は「追分節考」。しかし、これもある意味、合唱を知らない人もいろいろな意味で楽しめる曲なんですね。
やっぱり自分のすぐ横で、バカでかい声で歌われたら、そりゃ面白いですって。音楽自体もいつ何が起こるか分からない緊迫感がある。何かあると、聴衆がすぐそちらのほうを向いて、「あっ今度はあっち」みたいに囁きながら聞いているのをみると、これも中々良い選曲だなあと感じます。
ただ、私はこの曲、初めて聞いたのですが、想像の範囲を超えるほどスゴいとも思えなかったのが正直なところ。
例えば「俗楽旋律考」を朗読させる意味、というのは実演で伝えることが不可能です。今日もそこまでプログラムに書かれていなかったし、聞いている側としてはただ、わけわからん音響の素材でしかないわけです。そういうことで作曲家としてはいいのか私には疑問が残りますが、実際のところ、演奏する側がウケの良い前衛曲として重宝している以上の意味を感じられませんでした。

後は、愛唱曲といいながら、シェーファーのガムランがあったりするあたりは良いサービスです。「ヤコブの息子」あたりもこの手のレパとしては良いかもしれません。「島唄」のアレンジも東混ならではの演奏でなかなか映えていました。

それで、今回ほとんどのオバ様たちが何に満足して帰ったかというと、やはり指揮者、大谷氏の華麗なステージングだったと思います。うまいですよ、大谷さん、お客を笑わすのが。合唱指揮者というとマジメな感じがありますが、こういう軽薄な笑いが取れる指揮者というのは、プロ合唱団にとって必須だと思いました。下手な曲目解説よりも、きっちりとこれから演奏する曲の内容を伝えていたと思います。私は、シリアスぶる指揮者より、こういう洒脱さがあるほうが、結果的に音楽的にも奥行きのある演奏ができるのでは、と思っています。

演奏会自体は、プロを感じさせるなかなかのものでしたが、こういう団体がもっともっと一般的になるにはどうしたらよいのでしょう。
私のようなマニアは、もっと純粋な合唱曲を、しかもアカペラで、きっちり歌ってくれるような演奏会を期待してしまいますが、それだとやはり合唱マニアしか喜ばないのですよね。実際、定期演奏会ではそういったプログラムばかり歌っているわけで、東混のメンバーも地方巡業と定期演奏会のレパートリーの落差には気持ちの切り替えに苦労しているのではと思いますが、実際どうなんでしょう。
最近私は、編曲ステージでももっとオリジナリティのある、創造的なステージができると思っています。そういう方向性もプロには是非真剣にトライしてもらいたいのです。

2004年8月16日月曜日

もし、プロ合唱団を作るなら その2

前この題で話(ここ)を書いた後、合唱団のことをほとんど書いてないことに気付きました。
だいたい、前のとき鼓童のことをなぜ書いたかというと、彼の音楽もさることながら、その活動方法に驚いたからです。
彼らはほとんど毎日を、同じ楽団員と一緒に生活しているようなものです。一年の 2/3 は演奏ツアー。残りは佐渡島で、次のツアーに向けての練習です。もちろん、そういう形で興行として成り立っているから、というのもありますが、しかしそれを実現させたのも彼ら自身の力のはずです。
一般的なクラシックの演奏なら、一部の超有名演奏家以外は演奏で食べていけるわけはないので、副業を持ったりしなければなりません。副業を持てば、同じメンバーでの練習時間は減ります。
例えば、プロ合唱団を作ることを考えた場合、その合唱団に所属するだけで食べていけなければ、アマチュア合唱団の指導とか、個人の演奏活動とか、他の団体にも所属するとか、声楽の先生になるとか、そういう副業をせざるを得ないものと思われます。(かなり勝手な想像ではありますが)
結局のところ、そういった別の活動をしなければいけないから、合唱団に関わる時間が少なくなります。一緒に練習する時間が少なければ、それは演奏の質になって現れます。そうなると、耳の肥えた聴衆からは批判の声が増えてしまうわけです。

それで私は思うのです、ならば、もっと毎日のように練習するようなプロ合唱団というのはあり得ないものかと。ある程度、声楽的な資質を持った人が長時間一緒に練習すれば、パート内で音色も揃ってくるだろし、団全体のグルーブ感も出てくるでしょう。そして、もっと自由自在な表現が可能になったりしないでしょうか。そう考えると、佐渡島のような田舎にこもるというのは、一つのやり方なんだなと思うのです。ここなら、他の活動なんてやりようがないですから。
以前、某プロ合唱団の演奏会で、本当に本番前に数回しか合わせてないような演奏を聞いて、残念に思ったことがあるのです。ルネサンス曲で恐らく音取りも簡単だったというのもありますが、音楽がほとんど練られていないのは聞いていてよくわかりました。スケジュール的に厳しい、という事実もあるでしょうが、これでは人の心を打つ個性的な団体には永遠になれないでしょう。

確かに、寝ても醒めても同じ人たちと一緒にいて、そういうメンバーでアンサンブル団体を作ろうというのは、プロっぽくない発想かもしれません。しかし、新しいタイプの合唱団を作って、合唱のイメージを変えるようなグループを作ろうと思ったら、そのくらいの気合は必要だと思います。
アマチュアの世界でさえ、イベント型合唱団や、自治体の村おこし的オケ付き合唱演奏会の単発型合唱のほうが気楽に参加できていい、という人もいるのですから、これでは中々演奏の質は上がらないわけです。当たり前のことですが、時間がかかっても同じメンバーで(もちろん遅刻・欠席なし)長い練習時間をかけることが良い合唱を作る条件だと私は思います。それが実際には、ほとんど実現されていないのです。

2004年8月9日月曜日

変なオペラ 魔笛

今日、浜松市民オペラの公演でモーツァルトのオペラ魔笛の演奏会に行ってきました。
ちなみに、浜松市民オペラの前回の話はこちら。ここ2回は、創作オペラということで個人的にも興味があったので見に行ったのですが、今回は特に魔笛に惹かれたというわけではなく、妻が役をもらって出演しているので見に来いという指令が出たので?応援がてら見にいったというわけです。ちなみに妻の役は「第一の少年」でした。
合唱団やオーケストラなど知り合いも多く、そういう意味では楽しみながら聞かせていただきました。主要キャストは、実力派の歌手を揃えたのか、どの役もなかなか上手で、地方で開催されるオペラとしてはそれなりにレベルが高かったような気がします。しかも、どの役も声質、体格、演技などのバランスが絶妙で、それぞれはまり役だったのではないでしょうか。笑いを取る部分の演技も良かったと思います。
舞台全体は比較的セットが少なく、シンプルな感じです。演出全体は市民オペラということもあり過激なものではありませんが、舞台のシンプルさはなかなかのセンスを感じました。場の後ろに度々現れる三角形は、このオペラ全体で意識されている「3」という数字に由来しているものだと思われます。木のシルエットが、椰子の木に見えたのは、この舞台が南国であるという設定なのでしょうか。と思ってパンフを見たらエジプト・・・

それにしても、この魔笛というオペラは、良く言われるように本当に変なストーリーですね。
まず基本的にストーリーが破綻してます。どうも最初に予定していたストーリーを製作途中で変えたという話もあるらしい。しかも、その変えたストーリーと言うのが秘密結社フリーメーソンの教義に基づくものになっているわけです。
それが、実際にオペラを見ていると、新興宗教にはまってしまったようななんとも怪しい雰囲気です。ああいう風に見せられて、ザラストロが偉大な人物に見えるでしょうかね。あれじゃ、教祖様じゃないですか。
それに細かい部分も、何かその場その場が面白ければいいという感じで作られた感じで、なんだか筋が通っていません。そもそも三人の少年は何者なのか?パパゲーノは結局、試練を乗り越えたのか?乗り越えてないのならなんでハッピーになれるのか?それに、与えられた試練って結構ちゃちいなあ。死んでしまうかもしれないとか脅していたくせに、笛を吹きながらドアから入って出てくるだけじゃないですか。
あと全体を覆う女性蔑視的な表現もなかなか笑えます。女というのは、男を誘惑し徳のある人間になるのを妨げるとでも言いたげなフレーズがありました。その割には、タミーノとパミーナ、パパゲーノとパパゲーナが結ばれてそれなりに祝福されてしまったりします。この辺りは、時代背景もありますし、単純には言えない部分ではありますが。

まあ、いろいろと突っ込みを入れても、もはやこの作品はそんなレベルで語るような存在ではないというのが一般の正しい認識でしょう。
モーツァルトが死ぬ年に書かれた最後のオペラであり、レクイエムと平行で書かれており、街のしがない興行師などとなぜ手を組んだのか、といったような晩年のモーツァルトに関わる謎とこのオペラが密接に繋がっているということが、人々の関心の元になっているのだと推察します。それほど、つまりモーツァルトは偉大だということなのです。恐らく、オペラ単体の魅力というよりは、モーツァルトが書いたという属性によって有名になったオペラなのではないでしょうか。
もちろん、ここで書かれているモーツァルトの音楽は一級品には違いありません。それぞれの立場の人が、それぞれの気持ちを同時に歌うような重唱の場面は、さすがモーツァルト!という感じがします。

2004年8月2日月曜日

韓国ドラマブーム

ウチでもはまっている人がいて、最近この手のドラマばかり見てます。HDレコーダに録画されているタイトルも、気が付くと「冬ソナ」とか、そういうのがずらっと並んでます。まあ世の中これだけブームなのだから、わざわざあれこれ言うのもなんですが、それにしてもどうも私にはいただけない感じがしてます。^^;

だいたいですねー、事件多すぎです。
この手のドラマにありがちな、交通事故、記憶喪失、出生の秘密、白血病、禁断の愛・・・などなどの定型的な事件のオンパレード。毎日がこんなに派手な事件の連続だと、普通の人は生きちゃいけませんよ。
それに、毎回のように涙を流す主人公たち。会えば泣く、会えなければ泣く、怒れば泣く、悪口を言われて泣く、おいおい、そんなに毎回泣いてたら、なんか涙の価値が下がってしまいませんか?
主人公たちが、芸能人だったり、ピアニストだったり、会社経営者だったりと、普通じゃない人たちばかりなのも気になります。まあ人気のありそうな職業を選んでいるのでしょうが、会社経営や芸術関係の人たちばかりというのは、いかにもという感じでリアリティを感じないのです。

繰り返し流される主題歌なども、なんか不思議ですね。これって、ものすごく日本の歌謡曲とかに似ています。しかも二十年くらい前の。
このまま日本語の歌詞を付ければ日本の歌謡曲として成り立ちそう。(中森明菜も歌っているらしい)
そういうところが、日本人の心を捉えているのだろうけど、なんか微妙に日本の歌謡曲がパクられているような気がして、どうも素直にこれらの音楽を聞けません。

なんてことを書き連ねると、世の中の多くの韓国ドラマファンを敵に回しそうです。
確かに過剰な設定、過剰な演出は目に付くものの、日本のドラマに足りなかった何かが恐らくこれらの中に潜んでいるのでしょう。私が感じるのは、登場人物の純朴さ。性格とか行動とか、そういうのじゃなくて、単純にファッション、風俗の感じ方とかが日本より少し素朴なのです。それが、若者の風俗の行き過ぎに若干の懸念を感じている三十代、四十代の人々に受ける理由になっているのでしょう。

あのドラマを見て、例えば韓国人は涙もろいんだ、とか、なるべくそういう感想を私は持たないようにしています。それこそ、韓国人はあのドラマを韓国の等身大の姿だと思われたくないと感じているでしょうから。
逆のことを考えてみてください。日本のドラマを外国で放送して、ああ日本ってこんな風俗なんだ、なんて思われたくないでしょう?所詮ドラマはドラマです。
むしろ、なぜ日本でこういうドラマがウケてしまったのか、というのは分析する価値はあるかもしれません。