2004年6月28日月曜日

誤解の多い楽譜表記

楽譜表記には様々なルールがあって、正直なところ、多くの人が間違った解釈をしているものもあると思います。
楽譜を書く作曲家とて、全ての表記に精通しているわけでもなく、書き方を間違えることだってあります。指揮者、演奏者など何をかいわんやです。かなり怪しい解釈が世の中には横行しているのではないでしょうか。
最近気になった二つの事例を紹介しましょう。

一つは、テヌートとスタカートが同時についている記号。これ、どういう意味か分かりますか。
テヌートは音を十分延ばして演奏するし、スタカートは音を切って演奏します。全く逆の定義と思われる二つの記号が一つの音符に付いているこの記号はどのように演奏すれば良いのでしょう。
この記号を見て、「でも、何となくどう演奏すれば良いか分かるような気がする」なんて、したり顔で言わないように気をつけましょう。
確かに、テヌートは以前も書いたように、裏の意味も多く、必ずしもスタカートと逆の音楽記号とは言い切れない側面があります。しかし、テヌートとスタカートが両方付いているこの記号、そんな微妙な意味を持つ記号なんかじゃないですよ!
名前はテヌート・スタカートでも良いのですが、意味が分かりやすい名前で言えば「メゾ・スタカート」となります。要するに、スタカートが少し弱まったものです。スタカートの場合、ただの点ではなくて、縦長の棒で表現する「スタカーティシモ」もありますので、合わせて覚えると良いでしょう。

もう一つは、「piu f(ピューフォルテ)」という表記です。実は、私も最近まで正確な定義を誤解していました。
この問題、ちょっと前に某合唱団で話題になりました。曰く「普通の f(フォルテ)と piu f ではどちらが大きいか?」という疑問です。さて、あなたは正確に答えることが出来るでしょうか。
私はそのとき、piu は意味を強調するのだから、piu f は f より音量は大きいのではないか、と考えました。恐らく、そのように思う人も多いのではないでしょうか。
確かにそれで結果的には間違いでないケースは多いですが、正確な定義は違います。piu は、「前に比べて、その意味を強調して」という接頭語です。だから、piu mosso (ピューモッソ)は「前より速く」という意味になるのです。前より速くするわけで、前がなければこの記号に意味はなくなります。だから piu mosso が曲の冒頭に置かれることはありません。
それから、f や p は、本来、その場を「大きく」「小さく」させるという非常に即物的な記号でした。それより、piu f は、「前より音量を大きく」という定義になるわけです。
もし楽譜上のある長いフレーズに、「p → piu f → mp」という順番で書いてあったら、このときの「piu f」はその前の「p」より強くするというだけの意味しか持たず、むしろ作曲家の意図としては「p」と「mp」の中間くらいの音量を出して欲しいと考えるべきでしょう。
定義として言えばそうなのですが、実際にはそういう使い方は誤解を招きやすく、「piu f」で突然大きな音を出されかねません。一般には、絶対音量としての通常の f, mf, mp, p などの記号と、相対音量の指定である piu f, mono f などの意味合いが、多くの人から理解されていないように思います。
ですから、実際に、音量で piu や meno が使われる場合は、次のようなパターンが多そうです。

・mp → p → piu p → pp : mp から pp まで段々音量を下げていく。
・pp → meno p → p → mp :逆に meno p は前より弱くせずに、
 つまり大きくして、という意味になる。
・mf → f → piu f → ff : もちろん mf から ff まで段々音量を上げていく。
・ff → meno f → f → mf :上と同じく、meno f は ff より強くなく、
 つまり小さくして、という意味になる。
piu p, mono p が p の周辺で利用され、piu f , mono f が f の周辺で利用されることが多く、そうすれば結果的な意味は間違えにくくはなるものの、そのおかげで本当の定義に気づかれないということが多いのも事実でしょう。

最初の「普通の f と piu f ではどちらが大きいか?」の答えはこんな感じでしょうか。
「f は絶対的な音量指定だが、piu f は相対的な音量指定なので、二つの音量を比べることは出来ない」



2004年6月20日日曜日

ピアノが伴奏なのはいけないこと?

最近、合唱の新作の紹介などで気になるのは、「この作品におけるピアノパートは単なる伴奏ではなく・・・云々」というような記述があること。
まあ、こんな記述が気になるのは私くらいなものかもしれません。一般的には、そのように書かれているほうが、ピアノパートもより音楽的に手を抜かずに書いたんだ、というように理解されているような気がします。

「単なる伴奏」という言葉に過剰に反応するわけではないですが、伴奏って、私が感じる以上に不当に悪い印象を持たれている言葉だなと感じます。それは言うまでもなく、主旋律を音楽のメインと捉え、旋律と伴奏が主従の関係であると考えるところから端を発しているのでしょう。
もちろん、音楽の機能的な観点から言えば主従の関係は出てくるでしょうが、音楽的なレベルの優劣関係はあるはずがありません。ましてや、そういうパートを一段低く捉えるような貴賎の関係では、絶対無いはずです。

伴奏というのは、音楽的にレベルの低い行為などではなく、あくまで音楽の機能上の役割を示したものにすぎません。
ですから、私の感覚からすれば、作曲家は自信を持って伴奏パートとして伴奏パートを書くべきで、中途半端にピアニスティックなピアノパートは、音楽上の機能を不明瞭にさせてしまうような気がします。
伴奏には、伴奏の美学があるのです。それを肯定するならば、もっとシンプルで分かりやすい音楽であっても、強いアイデンティティを持つ音楽は十分作れるはずです。
海外のピアノ伴奏つき合唱曲というのは、そのあたりの割りきりがはっきりしていて、邦人合唱曲に慣れた目から見れば、物足りないくらいに思えてしまいます。しかし、本来、合唱にピアノで伴奏を付けるというのはこういうことを言うのではないか、という原点を感じさせます。

伴奏が必要な音楽形態と、必要ないものの音楽形態とでは、おのずと表現の仕方が変わってきます。
伴奏が必要な場合というのは、一言で言えば旋律をメインに聞かせたい場合であると言えるでしょう。だから、歌曲であるとか、ヴァイオリンソナタであるとか、単旋律楽器とピアノの組み合わせが基本です。
ですから、ピアノ伴奏つき合唱も、基本的にはそういった音楽形態の延長で捉えるのが、最もわかりやすいと私は思います。そこで双方が、対等な関係を主張するような音楽とするなら、ピアノは適当な楽器と思えないし、あまりに双方が非対称すぎます。非対称になる原因の一つとして、声楽側は歌詞として言葉を表現することが出来るというのもあるしょう。
また、対等な関係とは、演奏テクニックで人を堪能させるような協奏曲風の音楽作りを指向するもので、シリアスな表現よりはむしろエンターテインメントを指向するものだと私は考えます。そういう意味でも、現在のピアノの派手な合唱曲は、どこかバランスの悪い感じがしてしまうのです(特にエンターテインメントを指向しているとも思えないので)。

伴奏が必要ないものは、基本的に同属楽器によるアンサンブル音楽のような形態になると思われます。もちろん、曲中では各楽器に対して伴奏的役割や旋律的役割という音楽的機能はあり得ますが、それは常に固定されません。そしてそれこそが同属楽器のアンサンブルの面白さです。弦楽四重奏などを中心とした室内楽がこういった音楽に当てはまるでしょう。
そして、もちろん無伴奏合唱曲というのは、こちらの部類に入る音楽です。だからこそ、各声部がもっとスリリングに拮抗しあう音楽こそ、無伴奏合唱の面白みを表現していると思うのです。

2004年6月14日月曜日

ティム・バートンにはまる

「最近面白かったもの」にも書きましたが、先日観た「ビッグフィッシュ」という映画にいたく感動しました。
映画監督はティム・バートン。そのあと、ティム・バートン関係の情報をいろいろネットで見るうちに、この監督の独特な感性や、映像美の世界に非常に興味を感じるようになりました。

実は、ティム・バートン監督の「バットマンリターンズ」も結構好きな映画で、このDVDは既に持っていたのですが、その後、「マーズアタック」「エドウッド」のDVDを買って、目下、ティム・バートン映画にはまっているところです。「猿の惑星」は劇場で見ました。ただし、名作と言われている「シザーハンズ」はまだ観てません。近いうちに、こちらもDVD購入予定。

それにしても何が私を惹きつけるのか。
もちろん、ファンタジックな感じとか、ブラックユーモア満載とか、カルトへの偏愛とか、そういった要素も面白いし、多くの人が語っているわけですが、そういうことを小道具として、極めて等身大な一個人のリアルな心理を、細やかに表現しようとすることこそ、この人の本質的な特徴だと感じます。

そもそもファンタジーは現実感のないおとぎ話であればいい、というわけではないと思います。
むしろ実態は逆で、いかに現実世界には正視に耐えない厳しい現実があるのか、それを暗示的に表現することこそ、ファンタジーの役目であり、それを表現者が婉曲に告発することが、その痛快さに繋がっていると感じるのです。
もちろん、社会の醜い側面を、非常に正攻法で告発するような表現方法もあります。こういう作品は実に男らしくて雄々しいものです。しかし、現実はそんなに単純ではないのです。誰かが成功すれば、誰かがひどい目に遭うのが世の現実。だからこそ、正攻法での告発は常に矛盾を孕んだものになります。残念ながらみんなが幸せにはなれないのです。
ファンタジーは、恐らくそういった現実を肯定し、世の不条理を告発しつつ、社会全体の幸福でなく、個人のささやかな幸福を描きます。だからこそ、リアルな社会を描いた作品よりも、個人にとってリアルなものとなる可能性があります。

「バットマンリターンズ」は一見、ドタバタなアメリカンヒーロー物の映画のように思われがちですが、そういった外見を取り除くと、バットマン、キャットウーマン、ペンギン男、の哀しさが非常に際立ちます。
むしろ主人公であるべきバットマンはちょっと影が薄く、キャットウーマンやペンギン男のエピソードが異常に哀しく心に響きます。この二人とも、実に自己表現の下手な、小心者なキャラです。普通の映画なら、どんな虐げられた人間でも、きっちり自己表現してテキパキと行動して、「実際にはあんなにうまくいかないよなあ」となってしまうわけですが、ティム・バートンはそういった嘘がつけないのです。
ドギマギしてへんてこなことを口走ったり、すぐにカッとなって暴力を振るってしまったり、それでいて一人になるとそんな自分に自己嫌悪を感じて落ち込んだり、そういった人々の行動をティム・バートンは愛します。私には、監督自身がそういう想いを絶えず感じ続けた人だったと思えてなりません。

こういうベースがあって、ティム・バートンが映画の中にちりばめる小道具が生きてきます。
例えば、悲しい事件はいつもクリスマスシーズン。人々が最も楽しむはずのクリスマスだからこそ、その哀しみは倍化されます。
暴力シーンは、現実感からいつも遊離していて、ファンタジックですらあります。そしてファンタジーだからこそ、容赦ない残酷さで表現できます。「バットマンリターンズ」や「マーズアタック」などでは、自分の前に集まる多くの人々に向かって、突然発砲を始め、バタバタと人々が死んでいくシーンがあります。
それから、奇形な人間、あるいはサーカスなどのモチーフが度々現れます。「ビッグ・フィッシュ」などは、まさに良い例で、身長5mの怪物とか、シャム双生児とか、狼男が率いるサーカス団など、ティム・バートン的世界の住人がたくさん現れます。

ついさっき見た「エド・ウッド」ですが、こちらはシリアスな伝記映画で、ちょっと傾向は異なりますが、自分の夢のために突っ走るB級映画監督エド・ウッドの存在自体がファンタジーに思えて、映画界の現実をコミカルに告発しているようにも感じました。

2004年6月6日日曜日

音楽演奏のモチベーション その2

ある種、閉鎖的ともいえる日本のお稽古系音楽ジャンルは、恐らく以下のような連鎖が進んでしまうのだと思うのです。
1.優秀な演奏家を輩出するために、コンクールが行われる。
2.格付けが欲しいアマチュア演奏家が、コンクールを演奏の上達のモチベーションに感じ始める。
3.上位入賞者の傾向が、それ以降のコンクールの雰囲気を先導するようになる。
4.差がつく部分のインフレーション現象。技術指向、特殊効果などを持つ曲など。
5.聴衆不在の閉ざされた世界観が作られる・・・
もちろん、どんな音楽ジャンルにおいてもコンクールが全てなんてものはないはずですし、合唱でもコンクールに参加しない人はやまほどいます。しかし、それでも合唱音楽に詳しくない人から見れば、全般的には閉鎖的なお稽古系ジャンルと思われてしまうフシはあります。

結局のところ、問題なのは聴衆不在ということなのだと前から思っているのです。
自分たちが演奏会を開いたって、チケットは団員が一生懸命売るのが当たり前。本来なら、プレイガイドに置いておくだけで十分お客さんが集まるというそんな演奏会にしたいものです。
まあ、日本における合唱演奏会では夢また夢といったところでしょう。プロの合唱団だって、主催者側がチケットをさばく努力をしなければ、全くお客が集まらないというのが実態ではないでしょうか。

まずは、演奏者と聴衆の間に市場を作らなければいけません。
そのためには、すでに市場が出来上がっている地方の状況など参考にすべきでしょうが、合唱の場合、本場のヨーロッパとでは歴然とした市場性の違いがあります。
言うまでもなく、欧米において合唱音楽の母体となる場所は教会であり、キリスト教であるという点です。今でも、多くの外国人作曲家が扱うテキストの多くは宗教に由来するものです。欧米人のほとんどは、小さい頃からクリスマスにはキリスト生誕の話を聞いて育ち、キリストの受難と復活を教えられ、文化の隅々までキリスト教文化が浸透していることを肌で感じます。
教会に行けば、聖歌を歌い、ミサを聴きます。荘厳なオルガンの調べと合唱の歌声は、日常の延長にあり、宗教的な敬虔な心理と一体となっていると思われます。
そう考えると、少なくとも日本においては欧米の合唱事情をそのまま持ち込むことは全く不可能のように思われます。

結局、私が考えるのは、そのジャンル発のスーパースター、アイドル的存在が必要だということです。
アイドルなんていうと、若者が追っかけをしてキャーキャー騒がれるようなイメージもありますが、これからの高齢化社会、若者だけでなくもっと高齢の人たちのアイドルがあってもいいじゃないですか。
少なくとも、彼らを見たい人がいるのなら、彼らは労せずしてチケットを売りさばくことができるでしょう。多くの人が見たいと思えば、需要が増え、同じような団体も現れるかもしれません。そうすれば、市場ができます。市場が出来れば、市場に残るための競争が生まれます。
市場という言い方は、音楽の場合、抵抗感を覚える人もいるかもしれません。ただ、私は金銭的な意味だけでなく、演奏者と聴衆の間に生まれた需要と供給の関係について、市場性という言葉をあえて使っています。

だからこそ、現在の合唱界の一線級の演奏家の皆さんには、そのような合唱界を飛び出すスーパーグループにまずなって欲しい、と思っています。そのためには、伝統的な様式に縛られない、もっと現代的な感覚を持ったディレクターが必要です。そういう活動をすると、ときに堕落したなどと言われるものですが、そんな保守的な意見を気にしてはいけません。
有名な合唱指揮者の方々にも、あちこちの合唱団で指導するだけでなく、プロとして通用するスーパーグループを作って欲しい、と私は切に願っているのですが。