会社で契約の講義を受けた。
契約とは、ある意味、他人が絡む全ての約束行為ということになる。
コンビニで何か食べ物を買うことも、契約の一つの形である。
今は、値札が書いてある商品が陳列されていて、好きなものを持って行ってお金を払えば持って帰れる。
でも、それはお金がある社会の話。
お金が無いとはどういうことか。
商品はあるが、それを持ち帰っていいかどうかは、交渉して契約が成立すれば可能となる。一人一人、一商品ずつ、それをやる。
あるモノを欲しい人が、売主に「これが欲しい」と交渉する。
売主は自分にメリットがあれば、この商品を持っていくことを許可する。
前回、ストックが微分値として、個人の信用力を表す尺度になると書いた。
おそらく、その値は1次元ではなく、多次元ベクトルなのかもしれない。
だから、お金のように単純な数値で表現することは出来ない。
買う人のストック値が高い場合、商品を与えることによって売る人のストック値が高くなるとすれば、ストック値の高い人に商品を与えるメリットが出てくる。
コンビニで食べ物を買うといった程度の取引なら、フロー的な方式の方が分かりやすいとは思うが、今の価値観による価格が高いもの、例えば住宅のような買い物の場合、このようなストック値のやりとりによる契約というのは可能性としてあるのではないか。
例えば、Aは新しい住宅を建てたい。
住宅建築のプロであるBに新しい住宅建設の依頼をする。
Bは、Aのストック値が高ければ高いほど、自分の仕事のストック値も上がるので、Aのストック値と要求を判断し、この案件を引き受けるかどうかを決める。
ひとたびBが住宅建築を引き受けたとする。
Bは、住宅を建てるため、いくらかの建材屋や、家具屋、大工、電気工事屋などに部材や専門的な工程を依頼する。
ここでもAがBに依頼したような関係が、Bとその他の業者に対して発生する。この連鎖がお金と同様に、経済システムを成していく。
お金が無いということは、値段が無いということ。
値段が付いているのは、金銭の授受という形で契約を簡略化させるためであり、お金の無い社会は、今の感覚では面倒になりそうな契約をITで簡単に実現することによって成り立つことになる。
このような新しい社会では、人は階級化してしまうのは避けられないかもしれない。
ストック値のランクによっては、永遠に享受できないサービスというのが出てくるだろう。それは貧乏だから、ではなく、自分が社会に与える価値が少ないから、ということになってしまうのだ。