上映時間は1時間ほど。70人くらいは集まっていたのではないでしょうか。
今日はFablab浜松の立ち上げということもあり、会場全体いい感じに盛り上がっていたと思います。
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このドキュメンタリーでは、人はそもそも一人一人が何かを作ることが好きなはずで、3Dプリンタなどの技術のおかげで、昔のように再び個々人が自分の好きなものを作るような時代になるはずだ、ということを主張しています。
企業によって工場での大規模な製造でモノが作られるようになったのはせいぜいここ数十年のこと。人々が単調な工場労働で大量に同じものを作る時代をやや揶揄しながら、最近のMakers Movementに対して「作る」ことが民主化され始めている、という表現をしています。
「民主化」というと、日本では政治的な意味をすぐに思い浮かべますが、英語ではもうちょっとニュアンスが違うのでしょう。
特定の人たちしか出来なかったことが、誰でも出来るように解放されることが、このドキュメンタリーの中で語られる「民主化」の意味なのだと思います。
そして私にとって、このドキュメンタリーで最も重要なキーワードは「民主化」だと感じたのです。
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ここで登場した「作る」人たちは本当に生き生きとしています。
ザリガニのオーケストラとか何だか意味不明だけど、バカバカしくて面白い。そういった思いつきでいろいろ作ってしまおうという熱気は、企業の商品開発計画では絶対に作り出せないものです。
そういう意味で、Makers Movementが徹底的に個人の楽しみであるということが、とても重要だと思うのです。さらに「作る」ことがナンセンス化してくることによって、アートにますます近づいていくようにも思えます。
何回か書いていますが、私たちは最後には一人一人が独立したアーティストであるべきなのです。
「作る」の民主化は、人々が自由に何かを作れるようになるという可能性の未来ということだけでなく、一人一人がアーティストとしての矜持を持った個人であらねばならないという厳しい現実を突き付けるかもしれません。
あるいは、もしかしたら「作る」人たちは、実際の人間のごく一部であり、本当に何かを作りたい個人が「作る」人として活躍できるような未来になるのかもしれません。
いくら誰でも作れる未来になっても、本当に作ろうと思う人たちは一握りであるとするなら、Makers Movementはもっと社会的な効率性とか役割分担とかそういう議論とシンクロしていく必要があるでしょう。
実際には私も、誰もが作りたい人、ではないかもしれないと思っています。
それでも、作りたいけれど才能が無いから諦めている、という人たちは作りたい人予備軍であり、作りたい人は意外と多いのかもしれない、という全く別の可能性もあります。
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まだまだ、Makers Movementの結末は誰にも分かりません。
それでも彼の地アメリカでは、多くの作る人が頑張っています。この映画でそれを垣間みて、未来がまた楽しみになってきました。
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