2013年8月27日火曜日

もう好きな音楽を共有できない

今どきの高校生が聴く音楽ってどんな音楽なんでしょう?

静岡県では合唱コンクールで審査結果を待つ間、高校生が高校単位でポップスを歌い合うという不思議な行為が流行っています。昨日もそれを聴きながら、ついつい「全部古い曲じゃん」とか突っ込みを入れていました。新しくてもせいぜい10年くらい前に流行った曲。

先生が持ってきたりしているからっていうこともあるのだろうけれど、ヒット曲という概念が無くなりつつある今、音楽の趣味は分断され、友達みんなが知っていて一緒に歌える曲が非常に減っているのではないか、とそんなことを感じたのです。

40歳を超えたおじさんたちは、そもそも流行歌などチェックしませんから、あまりそんなことを気にもしていませんでしたが、今の若い世代はみなが同じ曲を歌うような文化がもはや成り立たなくなってきているのではないでしょうか。


私自身はこの現象を単純に嘆かわしく思っているわけではありません。
だいたい、大勢で歌える曲というのは、前向きで明るい音楽であり、そのような音楽ばかりが好きだというのは、私に言わせればむしろ不健全。
音楽を聴くという行為が、ますますパーソナライズされてくるにつれ、個人は自分の趣味に合った音楽を聴くようになります。人と聴く音楽が違ってくるのは当然のことでしょう。

それでも、小学校の遠足のときにみんなで流行りの歌を歌ったとか、そういった楽しかった記憶を思い出すと、これもまた時代の変化の賜物なのだろうか・・・とやや切ない気持ちになったりもします。
みんなが取りあえず一緒に歌えることができた歌は、別に音楽的に優れていなくても良いのです。歌詞がちょっとくらい意味が分からなくてもいいのです。声を合わせて友達と一緒に歌ったという記憶が懐かしく心地よいのです。
そうやってみんなで一緒に歌っているうちに、気がつくとその歌には想い出が絡まり、郷愁をまとって、忘れられない音楽になっていきます。

音楽の趣味はどこまでも個人的なものだけれど、共有することで、友達同士を繋げた音楽というものも以前は確実にありました。
そういった音楽はこれからどんどん無くなっていってしまうのでしょうか?
無くなった先に新しい文化の芽が生まれるのか、それとも音楽を共有することは人間の基本的欲求の一つであり、いずれまたみんなで同じ音楽を聴くような未来がやってくるのか、まだ私には計り兼ねているところです。

2013年8月18日日曜日

楽譜を読む─プーランク SALVE REGINA その2

プーランクのSalve Reginaについては以前も記事を書きましたが、まさか「その2」と題してもう一度書くことになるとは思ってもいませんでした。ちなみに、以前の記事はこちら

さて、なぜ今回Salve Reginaのアナリーゼその2を書こうと思ったかというと、フレーズの最後に八分音符+八分休符、がある音形について分析してみたからです。

もともと、この点については以前より気にはなっていたものの、適当な解釈をすることで、あまり無理やり法則性を当てはめてしまうのも違うかなというような想いがありました。
その気持ちは今でも変わりませんが、実際にこの曲のパターンを一つ一つ吟味してみると、意外と分析可能なレベルの法則性を見つけることが出来たのです。これなら十分にアナリーゼの結果として紹介出来るのではないかと考えました。


では、解説してみましょう。
Salve Reginaの中で、フレーズの切れ目に八分音符+八分休符となるパターンが散見されますが、このパターンを以下の三つに類型化してみました。
1.連呼型
2.弱強型
3.フレーズ型

まず連呼型です。
これはいずれも繰り返しが二回現れるところで、全部で三カ所あります。一つ目は練習番号1の"Ad te clamamus"を二回連呼するところ。二つ目は練習番号6の"o clemens, o pia"と似た音形が二回現れるところ。三つ目は、最後のページの2段目"Maria"を二回連呼するところです。
繰り返し感を強調するために、一つのフレーズが八分音符で収められ、八分休符が付いている、と考えることができます。
従って、この繰り返し感を強調するような演奏が望まれるのではないでしょうか。

次は弱強型。
これはフレーズの音量が大きくなる直前が、八分音符+八分休符になるところです。
例えば練習番号2の"Ad te suspiramus, "の "-mus"のような箇所。この直後に音量はフォルテになります。他には、練習番号3の"Eja ergo" の "-go"も同様。それから、その3小節後の"misericordes" の"-des"など。
これらは、次のフレーズが突然大きくなるため、その前のフレーズを短めに切っておこうという感じがします。そうすることで、演奏者側も音量の切り替えが容易になるし、聴く側も明確な切れ目があることで、次の変化の予兆を感じやすくなります。

最後にフレーズ型。
これは、フレーズそのものが細切れで発想されているようなパターン。
具体的には、練習番号7以降、2小節ごとにフレーズが八分音符+八分休符で分断されます。プーランクの楽曲にはこのようなフレージングが多く現れ、それが独特のプーランク節を成しています。
これはフレーズそのものなので、具体的な演奏方法まで一般的なモノサシを当てはめることは難しいのですが、それでも厚ぼったいロマン派的な世界観と対比すると、音価を守ることでその歯切れ良さは明確に伝わってきます。

楽譜に現れる八分音符+八分休符のフレーズの切り方を、以上のような三つに分類してみました。
このような類型化を行なうことで、演奏家にとってフレージングの目的が明確になり、より的確な音楽解釈を行なうことが可能になるのではないでしょうか。

2013年8月11日日曜日

人間であることは芸術家であること

先週「これから世界は、全ての人々が芸術家であらねばならないことを要求される社会に移行する」などと書きましたが、その真意などをもう少しまとめてみようと思います。

某ブログでクラウドソーシング関連の話題が書かれていました。
一つ一つはすでにいろいろなところで聞いた話ではあるのだけど、こういう話題をひとまとめにして振り返ると、今の常識との落差に大変驚くのです。
もはや、国内の法律とかが追いつかないくらい、ネット上で世界の平均化が進行していきます。ネットの世界では流行り始めるとあっという間に拡がりますから、いまはまだそこまで行っていなくても、遠くない将来クラウドソーシングが世界中に拡がるものと思われます。

これは、特に日本の会社に良くあるように、生産性が低くても何とかなっていた仕事文化に大きな打撃を与えるはずです。
この打撃というのは、組織への忠誠、隷属とか、目立つことを良しとしない文化とか、コツコツと同じことを実直に続けることの美徳とか、金儲けを嫌う風潮とか、そういう我々のメンタリティに修正を迫るようなことを意味します。

上で挙げた我々日本人のメンタリティは、基本的に全て個人が芸術的に生きることを阻害させるようなことばかりに思えます。
芸術家は組織が嫌いですし、不条理な組織のルールを守ることが耐えられません。
芸術家は自分という人間が広く知られることを願います。もちろん、自分の得意とする分野においてです。
また、芸術家は絶えず新しいことに挑戦し、同じパターンを延々と続けることを良しとしません。
ただ、芸術家はお金儲けは苦手ですし、無頓着だったりもします。

しかし、クラウドソーシングの話は,一つの取っ掛かりに過ぎません。
ネットが世界中に拡がり、世界の情報がいつでもどこでも簡単に手に入れることが出来るようになった未来では、情報の落差でビジネスをするような仕事が減っていきます。
また、公的機関(政府機関)の存在意義がだんだん失われていき、国独自の仕事とか、市場とかがどんどん小さくなっていくことでしょう。

そのように、情報の落差や特定の地方で通用するルールの運用で仕事をしていた人たちが減っていくと、結局最後まで残る最も重要な仕事とは、イノベーションを起こし、絶えず世の中に新しい価値を提供するような仕事です。
そして、それはまさに日常的に芸術家が行なっていることでもあります。


もちろん、世の中から単純作業が全て無くなるなんてことも起きないでしょう。
しかし,そういった仕事は明らかに底辺の仕事であり、高給を取れるような仕事でないことは確かです。
全ての人々が芸術家的な生き方をすることは大変なことのように思えます。
しかし、人には誰でも得意なことがあるはずですし、それを磨くことでクリエイティブな仕事を、フルタイムでないにしても、行なうことは可能ではないでしょうか。

いろいろな反論もあるかと思います。
私自身も、ここで書いたことにロジカルな裏付けがあるわけではありません。
しかしIT技術の発展は、人々から単純作業をどんどん奪うことは確かです。奪われた人々が自分の意志で得意分野を探し、その世界を掘り下げることでクリエイティブな仕事が出来るようになる素地が形成されることは可能ではないかと思います。

人は本来芸術家である、というのも私の信条です。
その心を忘れずに保持し続け、自分をクリエイティブな世界に持っていこうと努力した方には、これから良い世界が待っているかもしれないのです。

2013年8月3日土曜日

芸術を通して伝えたいこととは何か

芸術とは何か、と問われたとき、その根本は「何かを伝える」ということなのだと思います。
人は他人に何かを伝えるために、言語という手段を持っています。そして数千年前に、文字という手段も手に入れました。
単純なメッセージや情報なら、そのことをそのまま言葉や文字で伝えれば良いのですが、伝え方そのものをもっと洗練させたり、同時にたくさんの人に同じことを伝えたり、あるいは言語表現で伝え切れない部分を印象として伝えるために、表現が様式化したものが芸術である、と言えるのではないでしょうか。

ところが、芸術の表現方法が様式化することで、そもそも何かを伝えたいという本質が抜け落ち、様式の追究が行なわれてしまうことが往々にして発生してしまいます。
残念ながら、人は数段先のスコープを見渡せる人と、近場のことしか見渡せない人がいるのです。そして近場のことしか見渡せない人々は、芸術活動を行ったときに、様式の追究だけに陥りがちです。


表現の奥にある伝えたい何か、とはそもそも何なのでしょうか?
もちろん、平和と反戦とか、仲間は大事だとか、苦しいこともがあっても頑張ろう、とか、まあそういった類いの分かりやすい主張を語る人も多いですが、どこか浅薄で借り物っぽい感じを受けてしまいます。
私たちは普段生きている中で、もっと人間として、生物として、どうしようもない激情に翻弄されていて、私たちが本当に望んでいることはもっとドロドロとしたマグマのような本能的なものではないか、という気もします。フロイトの言うところの"es"です。

そもそも、自分が芸術を通して伝えたいことが、たった一言で語れてしまうようであれば、そんなまどろっこしい方法で表現しなくても良いのです。
ただし、芸術活動を通して、やや具体的な政治的主張を表現したい場合もあるでしょう。日本ではあまり一般的ではないですが、ある政治的主張をするために、他人の心を揺さぶるために芸術的表現を借りることは有効な手段であると思います。
それでも、私たちが本当に伝えたいことは政治的に正しい倫理的主張だけではない、と私は信じています。


では、私なら何を伝えたいのだろう・・・とちょっと自問してみましょう。
恐らく20代くらいまでは、私はある種の理想社会(それは退廃的な世界観とも円環的に繋がっている)や、理想的な恋愛対象に対する憧れを表現したかったような気がします。若さゆえの理想の追求です。
30代以降、いわゆる理系的性向と合わさることで、宇宙、生物といった先端科学の中に、世の中の基本定理や、神の存在などを見出だそうとするような方向性が追加されてきました。理想の追求がより普遍的、抽象的になってきたのかもしれません。
もちろん、これは具体的な作品名や、作曲で選ぶテキストの話にとどまりません。ごく一般的な詩を使って曲を書いたとしても、私自身のそういった傾向が曲中に盛り込まれていると思っています。

例えば、30代以降、フーガっぽい表現を使うことが多くなりました。
これはある種、複雑なものを秩序で統括したいという意識の現れであり、音楽的効果だけでなく、フーガという形式そのものが論理性を要求し、高度な知性を要求する、といったような世界観を目指しているように感じます。

こうやって自問自答してみると、必ずしも私の芸術的主張は明確な社会的主張を持っていないのだけれど、私でしか表現出来ない何かを追究しているようにも思えます。
このように全ての表現者が自分は何を表現したいのか、を考えてみることは大事だと思うし、それは結局自分自身の存在意義を再確認する作業でもあると思います。


これから世界は、全ての人々が芸術家であらねばならないことを要求される社会に移行する、と私は本気で思っています。
芸術の世界に身を置く人たちは、そういう意味で最先端の場所にいます。だからこそ、最先端に居続けるためにも、自分とは何かを常に問い続けるべきだと思います。