クラシック音楽の中で、誰でも知っているというくらい有名な曲といえば、やはりこのドヴォルザーク交響曲第9番「新世界より」ではないでしょうか。逆に相当なクラシックマニアからはあまりにベタな曲すぎて、分かりやすくて大衆的というようなレッテルを貼られ、音楽的な価値が高くないと見なされるようなことがままあるように感じます。
大体、ドイツ音楽的な音の徹底的な構築性を重んじるような価値観からすれば、チャイコフスキー、ドヴォルザーク、グリーグなどの有名曲は、泣きのメロディで大衆を惹き付けているだけの俗っぽい音楽と思われているようです。
名曲とは何か、と言われたとき、どうしても上記のような見解の相違というのが現れます。つまり、一般に大衆に良く知られた曲は確かに名曲とは言われるけれど、一方で低俗的だと考えられ、実際の音楽的価値はそれほど高くないと主張する人たちが出てくるのです。
超大衆曲を音楽的に大して価値がないと言い切るのは、どうもスノビズムの匂いを感じて、個人的には良い気はしませんが、そういう自分も実は同じような判断をふと漏らしてしまうこともあるような気がします。(合唱曲で言えば「大地讃頌」とか「海の詩」とかそういう感じでしょうか^^;)
それにしても、そういった超名曲にはそう足らしめる要素があるわけで、私たちはそれから学ぶべきことはたくさんあると思うのです。
この「新世界より」も非常に微妙な評価を得ている曲だと思います。私は、交響曲の良き聞き手でもないし、ドヴォルザークの人そのものについても詳しくないので、これから書く内容には若干の心配がありますが、今の気持ちを正直に言うと「新世界より」には名曲足らしめる条件が見事に揃っているのではないか、と私には思われるのです。
この曲は、交響曲としての格調高さ、壮大さと、その一方で、分かりやすい旋律、大衆性が、モザイク状に配置されていて、その微妙な配置加減のおかげで、両方のおいしい部分をしっかり堪能できるようになっている、と私は感じます。
この曲の一般的な評価の中には、例えば展開部の展開技法や対位法的、和声学的な実験精神を賞賛するようなものはまずないでしょう。交響曲としての「新世界より」の特徴は、恐らくかなり凡庸で、典型的な交響曲の枠を飛び越えるものではありません。しかし、だからこそ、交響曲として安心して聞ける、という要素になっていくわけです。
また、この曲の旋律の分かりやすさは、ペンタトニック、あるいは四七抜き、とでも言える旋法に依存していると思われます。これが、普通の交響曲に現れる旋律とかなり雰囲気を異なるものにしているのです。
上記の交響曲としての格調高さを仮に交響曲性、分かりやすい旋律を歌謡性、という言葉で表現しながら、簡単にこの曲を見ていきましょう。
第一楽章は、かなり渋い交響曲性を持った序奏から始まります。だんだんと緊張感が高まり、さあ第一主題だ、となって、コロッと歌謡性の高い第一主題が現れます。うまくやらないと、このギャップが大きすぎてこけてしまう可能性がありますが、このつなぎは非常に自然に感じるのがスゴいと思います。
提示部の各主題は、いずれも歌謡性の高いメロディですが、交響曲性を持った化粧を少しずつ施されます。展開部に入ってから、交響曲性が前面に出てきますが、第一楽章の展開部はそれほど長くありません。そして再現部で、また歌謡性が高くなります。しかしまた、コーダがいかにも交響曲といった壮大な雰囲気になっていきます。
第二楽章は超有名なあの旋律。「遠き山に日は落ちて」ってやつですね。何がすごいかといえば、この主題は、動機(モチーフ)や単旋律レベルの長さでなくて、ほとんど有節歌曲の一番分といえるほどの長い旋律だということです。つまり、普通の歌がまるまる交響曲の一つの楽章の中の主題として収まっているのです。展開を必要とする楽章では不可能なことですが、極端に歌謡性に振れるそういう方向性は、ある意味アバンギャルドな精神なのかもしれません。
第三楽章はスケルツォ。主題は交響曲性が高いのですが、それにサンドイッチされるトリオ部分は、かなり歌謡性が高い旋律です。つまり、ここでも交響曲性と歌謡性が交互に現れます。
第四楽章の冒頭も、かなり有名な部分。これぞ交響曲、という気持ち良さですね。この勇壮さはショスタコーヴィッチの第5番第4楽章の冒頭と同類の感覚です(私にとって)。「新世界より」では、前の楽章の主題が後の楽章で現れることがありますが、この第4楽章では、これまで出てきた主題が次々と現れ、音楽が展開されます。
この方法、実に巧みに感じます。循環主題というほど、きっちりと計画された感じではなくて、本当にうまいタイミングで、前の楽章の主題が出てきて、聴いた人が「そうそう、このメロディなら覚えてる!」と思わず感じるようになっているのです。この感覚は、長大な音楽にとって非常に重要な要素だと私には思えます。
前の主題がいろいろ絡みながら、最後はもういかにも交響曲だ!というエンディングで見事に終わるこの曲、もうどんな素人でも「ブラボー!」と叫びたくなっています。
こういう作りが大衆迎合的と言われるのかもしれませんが、このような微妙な配置、構造性(先週の映画の話を思い出します)こそこの曲の魅力であり、個々の音楽技術でなく、総合的な音楽の構想力、提示力にやはり敬服するのです。
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