AIは人間に無力感をもたらすのではないか。
AI将棋が圧倒的に強くなり、プロ棋士を負かしてしまう。
おそらく、数十年のうちにプロ棋士の存在意義が問われるようになるだろう。全ての対局は簡単に分析されるし、打った瞬間に悪手かどうか分かってしまう。
聴衆にその意味が分からなかったとしても、AIの下した判断に多くの人は納得してしまう。それはいわば、プロ棋士の威厳の失墜に繋がる。
そんな時代には、我々の価値観は変わらざるを得ない。
何かがすごい人に人は憧れる。同じように食事をして、同じように下世話な世界を相手にして、同じように人間として生活しているのに、自分と才能の差が歴然としていることは、多くの人にとって畏怖に値する。
しかしその畏怖の感情は、AIが簡単に持ち得るスキルであることが分かるにつれ、だんだん薄れていくであろう。
人でないもの(AI)が、あるスキルを獲得したとしても、それは純粋に工学的現象であり、努力とか才能とかに畏怖するような魔法のような感覚を想起することはない。私たちはそういうスキルを程度の低いものと認識するようになるに違いない。
また、我々がそのスキルを欲しいのであれば、クラウドなどを通して、簡単に手に入れることができる。
そんなことに人は耐えられるのだろうか?
ふとそんな疑問を抱く。
他人を畏怖するような神秘がなくなり、人より優れた判断システムが自分の思い通りに使える世界。私たちは、一度それを使ったらもう手放せないのにも関わらず、その価値をますます低く見積もるようになる。それは人間の感情がなせる技だ。同じことを人でなく、システムが成し遂げてしまえば、それは畏怖の対象ではなくなる。
だから、人はAIが熟達してしまったスキルを自分であらためて習得する気にはならないだろう。
どうやってもAIに勝てないのに、それはAIが優れているからではなく、自分が劣っていることを証明することになってしまうからだ。だから勝ち負けではなく、あくまで自然の力として受け入れるかもしれない。
それでも、世の中のありとあらゆる判断システムがAI化された時、人間が成し得たテクノロジーであったのにも関わらず、人はそれに振り回されるようになる。
このときの無力感は人類をどのような方向に導くか?
しかし、実はほとんどの人は今のテクノロジーを理解していない。
意外と人は、今のように淡々と与えられた人生を生きていくだけなのかもしれない。
すでに、自分の人生は多くのシステムによって翻弄されている。いや、むしろAIシステムは人を幸せにするかもしれない。Matrixのカプセルのように。それなら、我々がそれを忌諱する理由もない。
世の中のあらゆる諸相を知りたいと思うタイプの人たちは限られる。
しかし、そのような人々がいる限り、テクノロジーは発展するし、そうでない人はその果実を享受する。
人類は自分たち自身を間違って滅ぼさぬ限り、AIがあってもなくてもこれまで通り世界は続くのかもしれない。
私たちがこれまで何千年も培っていた匠の技はすべからくAIが習得するのは間違いない。
しかし、それは我々の仕事観の修正を迫るだけで済む、という気もしてくる。
もし、この議論で別の解があるのだとしたら、人間のように振る舞うAIが現れたらどうするか?という議論との関連性から出てくるかもしれない。
この点については、私は強い疑いを持っている。
人のように振る舞うAIは現れない、という強い確信を私は持っている。
なぜなら、人が人として振る舞うためには、人の肉体が絶対的に必要だからだ。形とか性能の問題だけじゃない。生まれてから死ぬまでの身体的変化や、事故や病気、肉親との関係、他人との争いなど、これらを経験して初めて人らしく振る舞うことができる。
それはAIとかいう前に、機械的に不可能だし、そもそも意味がない。
AIは生物的前提を持っていない。だから、ある一面で人間的な判断を示したとしても、全人格的に人間としてみなされるようなパーソナリティは持たないであろう。それが私の考え。
必要以上にAIに不安を感じる必要はない。
興味とビジネスの原則に従い、私たちは順当にAI技術を発展させれば、まあ悪くない未来にはなるんじゃないかな。