2012年1月31日火曜日

リーダー論とメンバーの意識


組織論っぽいことを最近書いているわけですが、先日もNHKでリーダーシップの番組をやっていたのを観て、組織論とリーダー論は切っても切れない関係にあるなあと感じました。

例えば、日本の政治は二流で、最近は政治家の質が落ち、首相を勤められるような人材がいないなどと良く言われます。
政治が二流なのは認めるけれど、私は政治家個人の質が低いとも思わないし、首相にふさわしい人もたくさんいると思います。何が悪いかはそう簡単な問題ではないのでしょうが、それでも私にはあまりに多くの国民が政治家に過剰な期待をしているのではないかと感じます。
政治家だけではありません。自分たちの組織のリーダーに対しても同じです。今、日本人はリーダーと呼ばれる人たちに対して過剰な期待をし過ぎているのではないかと思うのです。

以前読んだこのブログ記事が秀逸です。
かいつまんで言ってしまえば、リーダーの経験のある人は、自分がリーダーでないときにリーダーの気持ちを理解することが出来るようになり、リーダーの補佐的な振る舞いをするようになります。
当然ながら優れたリーダーの周りにそれを補佐する人たちが集まれば、そのチームは素晴らしいパフォーマンスを上げることが出来るでしょう。
しかし、リーダーの気持ちが分からないと、面倒なことに対して自分の不満の感情のほうが先に立ってしまいます。上から命じられることに不満を感じ、言うことを聞かない人がいれば、そのチームの雰囲気も悪くなるし当然パフォーマンスも落ちてきます。

当たり前のことですが、チームが良い結果を上げるためには、リーダーの力だけでなくチームのメンバーの協力が不可欠です。チームはリーダーの努力だけで作るのではないのです。
最近、テレビのコメンテーターやアナウンサーのコメント、自分の身の回りのいろいろな意見を聞く度に(そして、恐らく私自身もついつい)上に対する不満ばかり言っているような気がします。
有能なリーダーが求められている今の時代というのは、実はリーダーの言うことを聞かなくなった私たちの現状の裏返しなのではないかと感じたりするのです。

そう考えると、今我々が求めるべきはリーダーへの過剰な期待ではなく、自分がチームの中でどういう役割を持ち、何をしなければならないのか自問自答する意識ではないかと感じます。
良くも悪くも日本では、たいていの場合個人の意志に反して組織から排除されることはありません。会社もめったなことでは社員を解雇出来ません。
そういう安住の場所にいられることが、自分の努力よりも他人への過剰な期待を生む結果になってしまったのではないかと感じます。

もちろん、そのような時代にリーダーになった人は本当に難しい舵取りを強いられていると思います。今の時代、良いリーダーと呼ばれる方は本当に尊敬に値する人なんじゃないかと私には思われます。

2012年1月28日土曜日

組織とかモチベーションとか


一般意思2.0の内容もそうなのだけど、最近組織とかチームとか、あるいは国民全体も含めた多人数をモチベーションという文脈で良い方向に持っていく、というようなことを考えます。
恐らく、それは合唱団とか、会社の部署とか、そしてもちろん日本の政治とか、自分の幸福感が自分の所属している団体に依存するからであり、それらを少しでも改善するにはどうしたら良いか、と考えるようになったからでしょう。特に、全ての場所でそういう役割を求められているわけでもないのですけど・・・。

その際、例えばこんな本とか、こんな本でも紹介しましたが、個人のモチベーションという視点は欠かせません。
誰か一人が一生懸命声を大きくして言っても、一人一人がやる気にならなければ組織のパフォーマンスは上がらないからです。
その場合、これまでの人生で自分が「やる気になった」状況、「やる気を失った」状況を思い起こしてみると、それは非常に鮮明になります。
恐らくみんな同じと思うけれど、やる気になった状況は、自分の力を認めてもらった上で何らかの大きな仕事を与えてもらったときです。逆にやる気を失った状況は、自分がよかれと思ってやったことを否定されたときです。
否定は言い方による場合もありますが、やんわりであっても、こちらに気を遣ってくれたとしても、たわいもない理由で自分の努力の成果を否定された場合は、急速にやる気を失います。

私の見るところ、身の回りで一人一人のモチベーションが高い組織はあまり見かけません。いや、現実日本においては、そういう組織作りが非常に苦手だと思います。
例えば、日本ではいろいろな係を順番に行なう、ということが良くありますよね。たいてい皆の意識に、面倒なことはやりたくないから、公平に順番に割り振ろうという考えがあるのだと思います。もちろん、本当に誰もがやりたくない作業というのはあるし、それを公平に分担しようという考えは決して間違いではないでしょう。
しかし、「面倒なこと」「やりたくないこと」であることが前提の仕事に人は情熱を注ぎませんし、それがやや複雑な仕事であれば結果的にパフォーマンスを上げることは難しくなります。本来仕事としてきちんとこなされるべきことを当番制にすることで、パフォーマンスを落としてしまう状況があると私は思っています。
日頃から、がんばって仕事してくれた人の良かった点を具体的に公表し、仕事をしたことに敬意を表するような文化を作っておけば、順番に割り振らなくても「私がやります」と言ってくれる人が増えてくるのだと思うのです。

その場合、前に立つリーダーが何を言うかは本当に大事だと思います。
ちょっとしたことに手を抜くリーダーがいれば、メンバーは簡単に見抜くでしょう。そうすればメンバーも手を抜き始める。もちろんリーダーがしつこくこだわる点をメンバーは気にするようになるし、リーダーが全く拘らない部分は、一部の人が問題だと思っても組織として問題に上がることは無くなります。
良くないことをズバッと指摘し厳しく叱咤するリーダーを良いリーダーだと思う傾向は日本では強いけれど、モチベーションをベースに組織力を上げようとするならそこは非常に注意しなければいけません。
他人を叱咤するなら、その理由の公正さは絶対条件になります。不公平がまかり通れば、あっという間にやる気は失うからです。

だから、私のようなカリスマ性のない人間はむしろ叱咤で人を動かさないほうが良いのです。
その場合、「悪いこと」「直すべきこと」は非常に客観的で、淡白に、機械的に指摘するほうが良いと思います。逆に「良いこと」「賞賛すべきこと」は主観的に、感情的に、全体に対して表現すべきだと思います。
たいていの場合、直すべきことを感情的に表現してしまうことが多く、それが組織やリーダーに対する隠れた不満に繋がっていくのではないでしょうか。

2012年1月26日木曜日

一般意思2.0/東浩紀

ルソー、フロイト、グーグルという副題がなんだかとても気になる本書、いろいろなところで話題になっているので(自分が見に行くところでは、ですが)早速読んでみました。
非常にざっくりこの本の内容を言ってしまえば、ネット/ITの力を使えば、人々のつぶやきを解析してルソーが考えていたところの一般意思を作り出せるかもしれない、そしてその意思は、袋小路になっている話し合いによる民主主義を置き換えることになるかもしれない、という内容です。

誰もが、徹底的に話し合いを重ね、熟慮を重ねた上で物事を決定することが民主主義の最も正統的なあり方であり、理想の意思決定方法だと考えていると思います。
しかし、現実には熟議には多くの時間がかかったり、平行線で全くまとまらなかったり、多数派工作に明け暮れたり、玉虫色な結論になってしまったりと、身の回りでもなかなか理想通りにいかないよね、というような事例ばかりです。だから、人はたまに強力にどんどん押し進めてしまう力強い個人に傾倒してしまったりもします。
かといって話し合いを否定してしまったら、それ以上合理的な意思決定手段が無いじゃないか、と普通は思うことでしょう。
しかしこの本では、グーグルに象徴されるITの力で、人々の無意識を数学的に処理することによって、その意思を表現することが可能ではないかと言っているわけです。

ここにフロイトが絡むことによって、人々のつぶやきの集合は、いわゆる集合的無意識と呼ばれるある傾向を持つであろうことを予測します。ルソーは社会契約論の中で一般意思という微妙な概念を導入しますが、そういった集合的無意識こそが、まさにルソーが表現したかった一般意思ではないかと著者は推察し、ITによって立ち現れるこの集合的無意識を一般意思2.0と名付けたのです。
さらに著者は、一般意思2.0に基づいて意思決定する民主主義のあり方を、民主主義2.0とも表現しています。そしてこれが新しい政治、政府のあり方になるであろうと予想します。

哲学と政治が技術と結び付けられることに、個人的には大変な共感を感じます。
それぞれの学問は、別の学問と交錯することによって、新しい価値観を発揮するものだと思うのです。まるで交わると思えない哲学や政治が、数学や技術と結びつくという発想はスリリングですが、改めて考えてみれば遅きに失した感じさえします。

例えば、この本に書かれた話では無いですが、自動車やバイク、あるいは信号などにセンサーが張り巡らされ、それらが絶えず通信し、その情報が集計されていれば、事故が起きても解析が可能だし、統計的な処理をすれば事故を起こさない対策も簡単に算出されるかもしれません。暴走族の取り締まりや、渋滞の起こらない信号制御も可能になると思います。
これは、IT技術が交通インフラに適用した場合のメリットです。同様に、スマート○○といった文脈で、生活の様々な場所にITを生かして効率的な運用をしたらどうかというアイデアは今や多くの場所で広まっています。

ならば政治も、人々がやって欲しいと思うことをガツガツ集計して、4年に一回の選挙のときだけに民意を反映するのでなく、毎日のように民意を政治の場にフィードバックさせることも可能になってくるでしょう。当然それらは議員の行動に影響を与えるだろうし、政治活動そのものを変えてしまう原動力になっていくと思われます。
もちろん集計の仕方にも問題が出てくるでしょうが、まずは思考実験として、こういう政治のあり方を想像してみることが大事なのです。
一見、荒唐無稽に思えることでも、今のIT技術のスピードを考えると、20年後とか、50年後には全く今からは予想もしなかった未来になっているような気がするのです。
そういった未来から現在を見たとき、「一般意思2.0」のような考え方が時代を先取りしていたと言われることになるのではないかと、私は思います。

2012年1月21日土曜日

組織にどれだけ規律は必要か?


英語で規律のことをDiscipline(ディシプリン)と言います。
聞いたことある単語だけど、先週初めて意味を知りました。
「近所で迷惑だったことがある?」「そういうのどう思う?」みたいな文脈で英会話していたときに出てきた単語。
意外とフィリピン人が近所で迷惑をかけないように規律を持って生活すべきだと言っていたのは印象的でした。それと同時に、日本人はそういうとき「規律」という言葉を使うだろうかと思ったわけです。

私たちはいろんな場所で集団で活動をしています。
職場でも趣味の集まりでも、集団で何かやるにはルールが必要ですし、集団にはルールを課して守らせようとする人々と、ルールをあまり守ろうとしない人々が必ず出てきます。
マンションのように、お互いの交流が薄いような場所では、むしろ見えない相手に失礼が無いようにルールを比較的守る傾向にあると思うのですが、長い間一緒にいる仲間だとついつい甘えてしまい、厳格にルールを守ることが難しいケースも出てくるでしょう。

合唱団などとても良い例ですね。
いつも口うるさく、ルールを守らない人を糾弾する人がいると、まあ言い方にもよりますが、そういう人を良く思わない人も出てくる。しかし、そういう人が口うるさく言うからこそ、ある程度規律が保たれるという側面もあります。
人は他人から怒られたくは無いから、規律が少なく、いろいろなことが自由に出来るほうが心地良いと感じるはずです。しかし、ある程度規律が緩やかになってしまうと、収拾がつかなくなりその団体の本来の目的を達成することが困難になってきます。規律が緩やかだから良かったと思っていたのに、それが結局、集団や組織の活力を奪ってしまっていた、ということになってしまうのです。

人に嫌な思いをなるべくさせずに、集団や組織に規律をうまく浸透させられればそれが一番良いことでしょう。それには、やはりその集団内に圧倒的な魅力を持ったカリスマが必要なのかもしれません。しかし、そのような恵まれた集団というのは滅多に無いものです。

私は比較的集団のルールは守ろうと生きてきたつもりですが、そういう意識が弱い人は少なからず存在し、内心不快さを感じていました。
例えば、どんな集団でも持っている最も一般的なルールは時間です。
時間通りに来ない人というのは、一般的に規律にルーズな人間であることが多い。こういう人が、集団内のいろいろな活動で無意識のうちにルーズな行動を取ることに不快さを感じます。

もう一つ、ルーズさとは別に、規律を守らせる側に反発し、意識的に規律を犯す人たちも存在します。
この人たちは運営側に若干の敵意を持っているか、あるいは運営側をバカにしているため、運営側もあまりきつく言わず放置気味になりがちです。しかしあまり放置していると、なぜ彼らは規律を守らなくても許されるのかと、他の人たちが不満に思い始めます。
例えば、日本の場合年長者に注意しづらいこともあり、集団の高齢者の何人かが意識的に規律を守らないような場合があります。こういうのも腹立たしいですね。どのように柔らかく注意しようとしても、一度相手の逆鱗に触れてしまうと、非常に嫌な思いをするハメになります。

その昔私は、合唱団の各団員が自律的に活動し、緩やかな規律の上で集まっているような団体を夢見ていました。
しかし現実には、規律が緩むと音楽の質が緩むことが多く、そのような自律性を持った人々は、そうそう多く出会えるわけではないことを日々実感しています(でも確実にいますが)。
どのような集団にも、ルーズな人、確信犯的にルールを守らない人がいる、ことを前提に、ある程度の規律を持って集団、組織を運営すべきなのか、気の小さい私はいつも悩んでいるのです。

2012年1月16日月曜日

フィリピン英語留学に1週間だけ行ってみた


5年に一度会社から頂ける特別休暇を使ってフィリピンに行ってきました。5年前の休暇時の話はこちら
しかも今回は観光ではなく、英語留学というハナレ業に挑戦。2歳の子供を連れて家族旅行、という状況が現状では考えられなかったので、最近興味があったフィリピン英語留学に一人で行ってみることにしたのです。
おかげさまで大変楽しい経験をさせてもらったので、今回のフィリピン滞在の様子をトピック毎に分けて書いてみたいと思います。

●学校の紹介
私が滞在した学校は、CNE1というところ。サイトはこちらです
ネットでこのサイトを見つけたのがきっかけですが、このサイト、本当に情報量が多く、初心者が心配になりそうな点について非常に詳しく書かれています。
特に参考になったのは卒業生の体験談。多くの人の体験談が掲載されていて、留学の様子をかいま見ることが出来ます。
また一つ一つの内容から経営されている方の熱い思いが伝わり、一通りサイトを読み終わると、自分にとってもう他の学校を調べる気もないくらいこの学校に魅了されていました。

で実際のところどうだったかというと、確かにサイトにある通り非常にホスピタリティの高い素晴らしい学校だったと思いました。とはいえ、他の学校に行ったことが無いので較べようが無いのも事実ではありますが。
宿泊施設、食事も完備していて、生活に必要なものはたいてい揃っており、近くのショッピングモールでは日用品も買えるので、かなり軽い準備で留学に行くことも可能。掃除、洗濯もすべて学校が雇った地元の方がやってくれます。
フィリピン英語留学の最大のメリットは何といってもコストパフォーマンス。日本で日常生活を送るのとほぼ同じ金額で、生活全体と英語学習がまかなえてしまいます。もちろん、長期滞在ほどお得。
ですから、若い独身の方が自分の将来のために長期に英語を学ぶには、最適の場だと思います。

●私の場合
とはいえ、私は家族持ちだし、会社の休暇は1週間。
CNE1では留学の単位は1週間なので、その最短のコースで留学してみました。さすがに、学校はある程度の長期滞在(1ヶ月〜3ヶ月くらいの人が多かったです)を前提としているので、1週間ではコスト的にもあまりメリットはありません。
しかし、英語そのものを学ぶだけでなく、フィリピン英語留学の背景とか、アジアの雰囲気とか、そこに集まっている人々とか、そういうことを体感する社会勉強のつもりで行ったような側面もあり、そういう意味では大変意義深い留学になったと思っています。

●マンツーマン英会話
英語を学ぶには、やはり一対一で会話をするのが最も効率的です。講師もこちらの理解に合わせて会話してくれるからです。
グループレッスンだと、一人当たりが話せる時間はかなり限定されますし、周りの生徒の目を気にしてとにかく英語でコミュニケーションする、という意欲を育てるのは厳しいです。
フィリピン英語留学の最大のメリットはそこにあります。
人件費の安いフィリピンでは先生と一人一人の会話が思う存分出来ます。
ちなみに私は、月曜日に2時間、火曜から金曜は8時間の計34時間、マンツーマンのレッスンを受けました。一日8時間マンツーマンで英語を話し続けるという経験は、私にとっては生まれて初めてのことで、特に前半はかなり疲れましたが、その効果は必ずあると感じました。

フィリピン人の英語の実力はどうなんだ、と思う方も多いでしょう。
これに関しては、行ってみて私自身の考えが変わりました。人間は一人一人みんな違うパーソナリティを持っています。日本人同士だって、話しやすい人、何言っているか分からない人、滑舌の悪い人がいて、それらはコミュニケーションに影響を与えます。
フィリピン人がどうの、という前に先生の個人差は大きいです。ちなみにCNE1では1日最大4コマで、私は短期間だったのでフルに4コマ受講したので、4人の先生と会話しましたが、それぞれ性格も話し方も発音も少しずつ違いました。
誰が良い悪いのではなく、そのようにいろいろな先生と会話出来ることが自分の英語力を高めることになると感じました。一人の先生で半年グループレッスン、という形より確実にコミュニケーション力を付けることが出来ると思います。

●生徒の方々
この学校に来ている生徒はさまざま。若い人から年配の人まで幅広い年齢層の人がいました。
しかしやはり30代未満の若者が、1〜3ヶ月程度滞在するというパターンが最も多かったようです。長期の休みを利用して来ている大学生はもちろん、結構30歳前後で会社辞めてきている人も多かった。まだ先のことは決めておらず、留学を終えてからどこに就職するか考える、とか言っていましたが、そういう人生のチャレンジのきっかけとして機能しているという側面があると思いました。

あと、このような若者が寝食を長い間ともにするわけですから、そこにはいろいろな交流が生まれます。フィリピン人の講師も年齢が若く、家が遠い人は校内に住んでいるので、レッスン以外の時間でも友人としてどんどん仲良くなります。
学校前の庭は、夜になるとそういった若者たちの溜まり場になります。ギターを弾いて歌ったり、さらに話し込んで理解を深め合ったり、そして男女の間にちょっとばかり恋心が芽生えるかも・・・
週末は、仲の良くなった生徒たちがいろいろな観光地に遊びに行ったりするようです。こういった日常生活は、(特に若い人にとって)やはり留学の大きな醍醐味の一つでしょうね。

●フィリピン事情
とはいえ、やはりフィリピンは日本と較べると貧しい国だと思います。
短期間ですが、講師は自分の境遇とかを赤裸々に語ってくれました。彼らは決してフィリピンの社会は決して公正では無いと思っているし、一部の金持ちが世の中を動かしているとも言っていました。
フィリピン人は親戚同士で一つの集落を作り生活するのが一般的だそうです。プライバシーも無い変わりに、親戚同士が困っている人を助け合うように生きています。50年くらい前の日本の農村のような暮らしです。
それから、人件費が安いのか、ショッピングモールに行っても店員の数がものすごい。機械化するより、人手をかけたほうが安く済むのでしょう。まだまだ人件費が安いこの国では、人手をかけないと出来ない仕事をアウトソースするメリットが非常に高そうです。ビジネスという観点でも、フィリピンを始めとするアジアが大きなポテンシャルを持っていることを感じます。

社会自体はそんな状況ですが、みんな携帯は持ってます。
iPhoneもかなりの人が持っています。これは驚きです。スマホは日本より浸透しているかもしれません。そういう妙なアンバランスさがフィリピンにはあります。

あと、フィリピン人は歌うのが大好きです。
学校の掃除夫も大声で歌いながらトイレ掃除をしています。はっきり言ってうるさいくらいです。食堂では昼食時に数人のフィリピン人講師が、簡単なパーカッションとギターで伴奏しながら、ミニライブをしていました。いつでも彼らは歌手になりきって本気で歌います。フルボリュームです。しかも上手い。
音楽の持つ力を改めて感じたし、まだまだ楽器メーカーが出来ることって山ほどあるんじゃないかと、職業柄思ったりもしました。

●終りに
書き始めるときりがないですが、留学の間、本当に楽しい時間を過ごすことが出来ました。
学校のスタッフの皆様、フィリピン人講師の皆様、そして短期間ですがそこで出会った生徒の皆様、本当にお世話になりました。とても楽しい経験が出来たことを嬉しく思います。
今後も何とか時間を作って、英語の勉強を続けてみたいと思っております。

というわけで、人生もう一段ステップアップしてみたいと思っている若い方々、フィリピン英語留学はお勧めです。ぜひトライしてみて下さい!

<卒業証書を授与された私と4人の講師の面々>

2012年1月7日土曜日

英語への愛憎


英語をしゃべれたり、聞いて理解出来たほうが良いに決まってます。
仕事では、日常的に使うような環境にいるわけでは無いので、たまに英語が必要な場面に出くわすと、何とか話せるようになりたいなあと思ったものです。

一番最初に切実に思ったのは、もう14年も前になってしまったこの出張のとき。
出張先は、ほぼ英語で通すことになったのですが、まあ実際のところ満足な会話は出来てなかったように思います。ちょうどアジア経済危機のときで、現地の人から「日本は大丈夫か?」みたいなことを聞かれて、しどろもどろになったことを思い出します。その仕事はそれほど継続的には続きませんでしたが、英語力の無さを痛切に感じ、それ以来社内の英会話教室で10年近く学んできました。
とはいえ、週に一回1時間半。7〜8人のグループレッスンでは、なかなか緊張感も高まらず、いろいろなことを教わったはずなのに、残念ながらあまり頭には残っていません。

基本的に、自分には語学の能力はあまり無いと感じていますが、それでも今の世の中、英語がどれだけ重要なスキルであるかは身に染みて感じます。ダメなのに必要、という非常に鬱屈した気持ちを抱えながら、漫然と10年近く英語を勉強していたわけです。

その間、私なりに思ったことは次のようなことです。
まず始めに、本当にしゃべれるようになるには、周りがみんな英語を話しているような英語のコミュニケーション無しに生活出来ないという切羽詰まった状況が必要ではないかということ。基本的に日本にいたままでは、そのような状況を作り出すのは難しいでしょう。
次に、学習効率を考えると先生一人あたりの生徒の数は少ないほどいいし、その場で自分の誤りをダイレクトに伝えてくれる状況が必要だということ。一時は、少人数レッスンであるNOVAに行こうかかなり迷いましたが、迷っているうちに倒産してしまいました。
もう一つ、英語はあくまでツールであるので、流暢な発音や大量の語彙、高度な慣用句などよりも、現実的な生活や自分の気持ちを端的に伝える表現さえ身につけば良いと思います。今更、この歳でネイティブみたいな英語話者になることを夢見る必要はないでしょう。

これまでも自分なりに英語攻略についていろいろ考えてきたわけですが、それだけに未だに全然レベルの上がらない自分が情けないと感じてもいました。
というわけで、一念発起、英語への新たなる挑戦をもう一度してみようと考えてみました。
一週間後にまた報告をしますので、お楽しみに。

2012年1月4日水曜日

スティーブ・ジョブズⅠ、Ⅱ/ウォルター・アイザックソン

死去の直後に出版されたスティーブ・ジョブスの伝記本。あまりのタイミングの良さに商魂を感じないわけではありませんが、おかげで出版以来大変売れているようです。Appleファンである私も、もちろん購入しました。その後、なかなか時間が取れず、一巻をちびちび読んでいたのだけれど、大晦日と元日両日に読みまくり、一気に最後まで読んでしまいました。
本自体は相当な分量ですが、ついこの前まで当の本人が生きていたのだから、資料には事欠かない状況だったのでしょう。恐らくこれでも、相当情報を取捨選択したものと思われます。

読む前の私のジョブスの印象は、とんでもなく怖いカリスマで、いくら発想が素晴らしくても一緒には仕事したくないよなあ、といったネガティブな感覚。しかしそれと同時に、いくら一人ずば抜けたカリスマがいても、数万人という社員末端まで彼一人が把握出来る訳も無く、どうやってあのAppleの一体感を作り上げていたのか、とても謎だと感じていました。

読んだ後、実はジョブスの印象がだいぶ変わりました。
確かに彼はカリスマだし、人に対してとんでもなく冷たい振る舞いをします。しかし、ジョブスは慢心とは無縁の人間で、常に良い製品、良いサービス、良い体験を作り出すことだけに執念を持っていたこと、どこまでも偉そうだったわけでなく、他人の批判に傷ついたり、感極まって泣き出したりすることも多かった、というのは意外な事実でした。

そして、全編を通じて理解出来たのは、彼の周りにはイエスマンが集まったのではなく、才能のある人間が集まったということ。
だから側近でも、ジョブスと派手にやり合う。毎日、そういう日々を送れるタフさは必要ですが、ジョブス自身も自分と張り合えるような才能を持った人間しか引き上げない。
だから、イエスマンしか回りにいない独裁者には絶対ならないのです。
そしてそれが、Appleという会社の強さであるというのが、とても良く理解出来るようになったのです。

後半に何度も書いてあることだけれど、ジョブスは素晴らしい製品を作り出したことより、そういうものを作り出せる組織を作り上げたことに誇りを持っていました。Appleという会社自体が、ジョブスの最も偉大な作品であるのです。

伝記はあくまで伝記ですし、特にこの伝記はジョブスのいい点だけを書いている訳ではないのですが、いろいろな角度から教訓を得ることが出来ます。
組織で大きな仕事を成し遂げるために何が必要なのか、その一つの例が克明に描かれており、その内容は企業経営者だけが参考になる訳ではありません。むしろ集団で芸術作品を作る、といった人たちにもいろいろ示唆に富んだ内容となるのではないでしょうか。
この本,いろいろな読まれ方が可能ですが、それでも多くの人に読んでもらいたいと思います。日本的な価値観からはとことんかけ離れていますが、だからこそ日本人が読むことで得られることは多いのではないでしょうか。

2012年1月1日日曜日

ケリーミュージックのサイト開設


Googleのみんビズというサービスを使って、ケリーミュージックのサイトを作ってみました。
ケリーミュージックは、私の合唱作品の楽譜や、私が作ったiPhoneアプリを扱っている屋号です。事業主はいちおう私じゃありませんが、サラリーマンの週末起業って可能なのか実験のつもりで遊ばせてもらっています。

今のところ直販とかをする訳でもないし、商品がどんどん増える訳でもないので、まだまだ利用価値が高くは無いのですが、形だけでもサイトがあると気合いも変わってくるかもしれません。
また、みんビズの仕組みを使うと、比較的簡単にページも作れるしアクセス解析なんかも簡単に出来て、とても便利。
こういった個人事業をサポートするネット上の仕組みもどんどん増えていきますし、これからは初期コストも限りなく安く済むようになっていくでしょう。そしてその先には、真にコンテンツの内容が問われていくはずなのですが、その土俵にまず乗るためにもこういったサービスを早いうちから使っていくことは大事だと思います。
これからも、楽譜でも、アプリでもない別の商売を思い付くかもしれないし、そのときの実験の場として使えたら良いですね。

とはいえ、私の本業とは関係ないし、作曲活動ももう少し活発にしていきたいので、この事業活動そのものを増やしていくつもりは今のところありませんが、とりあえずはケリーミュージックの紹介ということで、お暇なときにでも覗いて頂けると嬉しいです。