2004年5月30日日曜日

音楽演奏のモチベーション

エレクトーンはご存知の通り、今や電子オルガンの代名詞ともなっているヤマハの電子楽器製品です。このエレクトーンを取り巻く世界って、ちょっと合唱にも似ているなあ、と思ったのが今回の話題。

エレクトーンはヤマハ音楽教室を中心としたシステムの中で使われる、いわばお習いごと系の楽器として、広く日本中に知られています。過去にヤマハ音楽教室で学んだ子供たちが大人になり、その中でエレクトーンの魅力にはまり演奏に熟練した人たちがまたエレクトーン講師となって、子供たちを教えます。こういった世代循環を音楽教室というシステムで作り上げながら、一定のタイミングで新製品を投入し、顧客を維持する方法こそ、何十年にも渡ってヤマハが作り上げたビジネスモデルです。

エレクトーン愛好家がエレクトーンを弾きたい、習いたい、と思うのは、もちろん二段鍵盤、足鍵盤で音楽を一人で自由に作り出せるエレクトーンという楽器の魅力もさることながら、グレードと呼ばれる演奏熟練度を認定するシステムや、エレクトーンコンクールといった、音楽教育システムの環境という点も見逃せません。事実、多くのエレクトーン愛好家がグレードの認定試験や、コンクール出場のために、一生懸命演奏の練習をしているわけです。
日本では、10万円を超えるようなキーボード類などほとんど売れていない現状において、100万円近いエレクトーンが新商品発売後にたくさん売れるのは、この世界を知らない人にとって驚くべき現実です。

こういった事実を見ると、音楽演奏におけるモチベーションにおいて、演奏の格付けみたいなことが、いかに日本人の気持ちをくすぐるのか、ということを考えずにいられなくなります。
もちろん、正直なことを言えば、演奏にウマイ、ヘタはつきものだし、良い演奏を目指して切磋琢磨することは大事なことです。またコンクールにおける序列は、参加する人さえ必要悪だと思っているし、その評価も絶対的だと信じているわけではないでしょう。それでも、なおかつ、自分の演奏の格付けに人々がこだわるのは、日本の音楽事情に非常に特徴的のように思えます。

理由はともあれ、演奏がうまくなるために努力することは良いことなのですが、その一方それに対する弊害もあると思います。
一つは、誰のために演奏するのか、ということです。自分の演奏の格付けというのは、他人を必要としない自己実現の世界であり、そこにはどうしても聴衆の存在が見えなくなることが多くなりがちです。その音楽世界に市場性があるとすれば、それは楽器あるいは楽譜の供給者と、演奏者の間にしか成立しません。演奏者と聴衆の間に市場がなかなか成り立たないのです。市場が成り立たないというのは、端的にいえば需要と供給のバランスが取れていないということです。
もう一つは、演奏の序列化を明確にするため、演奏に対する技術的要素の占める割合が高くなる可能性があります。難曲を演奏できることこそ、演奏家の能力の証として分かりやすいことだからです。もちろん、そうでない評価をする人もいるでしょうが、そういう評価が一般的になるのは難しいことでしょう。

聴衆不在で、技術指向になれば、世界は閉鎖的になりがちです。その音楽世界が広がるには、よりもっと大きな視点が必要になってくると思います。
エレクトーンに関しては、仕事の関係であまりヘタなことは言えませんが^^;、その環境に閉鎖的体質があるのは確かで、もっともっと一般的な楽器になるための施策が必要だと思われます。そして、合唱もまた然りでしょう。

といっておいてなんですが、そのエレクトーンの宣伝です。
新型エレクトーン"Stagea"が発売されました!!エレクトーンに興味を持った皆様へ、サイトはこちらです。

p.s. エレクトーンコンクールの審査員に西村朗が名を連ねているんですね。

2004年5月23日日曜日

さらに構造について

「楽譜を読む」でも書いたように、芸術作品の様々な要素の組み立て方として、マクロ構造と、ミクロ構造という二つの視点があると思います。

ミクロ構造とは、時間単位としては非常に小さく、その作品の最小構成単位をどのように配置するか、そしてそのための技術、というようなものを表しています。文学で言えば、文法的な問題、語彙の問題、文章のスタイルの問題なんかでしょうし、映画で言えば、カット内のアングルや照明効果や色調とかでしょうし(もちろん専門家の意見は違うかもしれません)、音楽で言えば、和声法であり対位法であり、管弦楽法といった技術的側面を指します。

その一方、マクロ構造とは、芸術作品全体の構成のことを意味します。ある作品を構成するいくつかのパーツをどのように配置し、またそれぞれのパーツにどのように関連性を持たせるか、なおかつそのような工夫をすることによって、最終的に作品をどのような方向性に仕上げていきたいのか、というような考え方です。
ミクロ構造が、それぞれの芸術ジャンルにおける個別な技術的側面にフォーカスするのに対して、マクロ構造とは、様々な芸術に共通のもっと一般的な芸術的センスのようなものを扱うというイメージがあります。
私たちは、様々な芸術において、その道の専門家になるにつれ、その道の技術的な鍛錬を重ね、それぞれの技術に長けていくわけです。従って、技術的で専門的な話題を扱おうとすればするほど、その話はミクロ構造に向かっていくように私は感じます。また同様に、技術力や専門性を誇示したいアーティストほど、ミクロ構造に彼の執念を注いでいきます。例えば、なぜロマン派の音楽に比べると現代音楽のほうが曲の時間が短いのか考えてみれば、こういった考察はそれほど間違っていないようにも思えます。

しかし、誰もが感じているように、どのジャンルにおいても芸術性の高さを持っているアーティストは、芸術一般におけるセンスそのものを持っており、そのようなアーティストは無意味に難解なミクロ構造指向は持っていないものです。
そして、そういう才能を持つ人ほど、マクロ構造の方面に多大な才能を発揮しているように感じます。
先週の談話はそういった一つの象徴として、敢えて超有名な「新世界より」について書いてみました。この曲について書くこと自体、いささかルール違反な気もしますが、メロディの甘さや和声的な凡庸さをあげつらって技術レベルが低いというような指摘に対して、なぜこの名曲が、多くの人が愛するに足るほどの名声を勝ち得たのか、それについて反論してみたいという気持ちがあったわけです。

残念ながら、音楽の世界においては、マクロ構造を楽しむようなそういう作品は最近は作られなくなりました(というか一般には知られていません)。ポップスの影響などもあり、一曲の長さは短くなり、芸術領域の創作においてはミクロ構造に注力するほうが大多数のように思います。
その一方、小説に関しては、エンターテインメント性の高いものがたくさん現れ、昨今は非常にレベルの高い小説が次々出ています。映画の世界でも、邦画はいまいちですけど、多くの人が興味を持っており、そのような芸術性の高さを楽しむことができる貴重なジャンルの一つになっていると思います。

それぞれの時代において、最も大衆に愛された芸術ジャンルに才能を持ったアーティストは集まります。
そして、それぞれの芸術を読み解くために、マクロ構造は、芸術に対するアーティストの根源的なモチベーションに触れる大切な鍵なのかもしれない、と私には思えます。
だからこそ、芸術に触れる多くの人にも、細かい技術的な側面だけでなく、作品が持つ一般的な芸術性にもっともっと気が付いて欲しいし、そういうことに言及していって欲しいと感じます。

2004年5月16日日曜日

ビッグ・フィッシュ

はっきりいって無茶苦茶泣けました。
監督のティム・バートンといえば、バットマンなどが有名。実は、バットマンは私の結構好きな映画で、どうもこの監督の作品とは波長が合いそうです。SF、ファンタジー的なストーリーが必ず基調になるという点、そして独特のユーモアセンスが特徴的な感じがします。
この映画、従来のこの監督の作品とは系列が異なるように思えますが、とんでもない、バリバリのファンタジー作品です。しかし、微妙に現実とファンタジーが交錯しているところがこの作品の独特のところかもしれません。

筋を簡単に紹介しましょう。
ホラ話が大好きな父さん(エドワード)と絶交状態にある息子(ウィル)が、父の危篤の報を聞いて、久しぶりに父のもとに帰ります。二人は再会しますが、相変わらずホラ話が大好きな父。
そして、実際、映画のほとんどの話は父のホラ話が中心になっていきます。故郷の英雄になる父。不思議な街での経験。母(サンドラ)との出会いとプロポーズ、そして結婚。軍隊時代の冒険、セールスマン時代の冒険談など。
父と息子の確執は続き、息子は父の話の一体どこまでが本当なのか疑念を持ちますが、ついに父の最期のとき、あれほどホラ話を嫌っていた息子が、今までの父のホラ話をまとめて、逆に父にホラ話を語るのです。

何しろ、次から次へと出てくるエドワードの冒険談がとても面白い。ある種、ハチャメチャな展開ともいえるのですが、それがストーリーをシュールにさせ、ますますファンタジーの度合いを深めていきます。
個人的には、何回か出てくる詩人役がとても面白かった。過去に名を成した詩人と、不思議な街で出会うのですが、そのとき詩人が書いていた詩のあまりの幼稚さが笑えます。しかも、その詩人、銀行で再会したとき、「今、何の仕事してるの?」と聞くと「銀行強盗さ」といって、いきなり銃を出す、そのナンセンスさ。そして、エドワードはその銀行強盗をいきなり手助けする羽目に。
一つ一つのエピソードに、必ずひねりの効いたユーモアが現れ、そのセンスに非常に共感を感じます。

そして、感動するのは、何といってもラストシーンのウィルのホラ話です。
その伏線は、エドワードが小さいとき魔女に自分の死に様を教えてもらったが、その死に様自体は誰にも話したことがない、という形で張ってあります。
一体その話を、いつエドワードがしてくれるのか期待しているうちに、エドワードは危篤になってしまうわけです。そして、エドワードの死に様のホラ話を息子ウィルがすることによって、ホラ話が大好きだった父の生き様を、ウィルはようやく肯定できるようになるわけです。
そして、そのホラ話の中では、これまでの登場人物がエドワードを川で出迎え、そしてウィルによって川に流されたエドワードは「大きな魚」に変身して、川の中に消えていきます。
・・・・うーん、やられた!という感じ。この大きな魚は、映画冒頭のエピソードで出てくるのですが、あんまりにもファンタジーな、きれいなラストじゃないですか。各エピソードの中に出てきた、登場人物全てが、エドワードの最期に集まるというのも泣けてきますね。
そんなわけで、すっかり私はこの映画に、はめられてしまったわけです。

最近、談話で映画の時間軸上の構造の話などしましたが、やっぱり、いい映画はしっかりした構造を持っているなあ、とあらためて実感。ファンタジーだから何でもアリ、で設定をメチャメチャには絶対しません。細かいところだけど、前にあった同じ場所のシーンの中で同じ小ネタが使われていたりとか、後々重要になる事柄を最初の方でわざと強調した映像にする、といったような構造的な仕組みがキチンと出来ているのです。

名曲の条件 -「新世界より」の場合-

クラシック音楽の中で、誰でも知っているというくらい有名な曲といえば、やはりこのドヴォルザーク交響曲第9番「新世界より」ではないでしょうか。逆に相当なクラシックマニアからはあまりにベタな曲すぎて、分かりやすくて大衆的というようなレッテルを貼られ、音楽的な価値が高くないと見なされるようなことがままあるように感じます。
大体、ドイツ音楽的な音の徹底的な構築性を重んじるような価値観からすれば、チャイコフスキー、ドヴォルザーク、グリーグなどの有名曲は、泣きのメロディで大衆を惹き付けているだけの俗っぽい音楽と思われているようです。

名曲とは何か、と言われたとき、どうしても上記のような見解の相違というのが現れます。つまり、一般に大衆に良く知られた曲は確かに名曲とは言われるけれど、一方で低俗的だと考えられ、実際の音楽的価値はそれほど高くないと主張する人たちが出てくるのです。
超大衆曲を音楽的に大して価値がないと言い切るのは、どうもスノビズムの匂いを感じて、個人的には良い気はしませんが、そういう自分も実は同じような判断をふと漏らしてしまうこともあるような気がします。(合唱曲で言えば「大地讃頌」とか「海の詩」とかそういう感じでしょうか^^;)
それにしても、そういった超名曲にはそう足らしめる要素があるわけで、私たちはそれから学ぶべきことはたくさんあると思うのです。

この「新世界より」も非常に微妙な評価を得ている曲だと思います。私は、交響曲の良き聞き手でもないし、ドヴォルザークの人そのものについても詳しくないので、これから書く内容には若干の心配がありますが、今の気持ちを正直に言うと「新世界より」には名曲足らしめる条件が見事に揃っているのではないか、と私には思われるのです。

この曲は、交響曲としての格調高さ、壮大さと、その一方で、分かりやすい旋律、大衆性が、モザイク状に配置されていて、その微妙な配置加減のおかげで、両方のおいしい部分をしっかり堪能できるようになっている、と私は感じます。
この曲の一般的な評価の中には、例えば展開部の展開技法や対位法的、和声学的な実験精神を賞賛するようなものはまずないでしょう。交響曲としての「新世界より」の特徴は、恐らくかなり凡庸で、典型的な交響曲の枠を飛び越えるものではありません。しかし、だからこそ、交響曲として安心して聞ける、という要素になっていくわけです。
また、この曲の旋律の分かりやすさは、ペンタトニック、あるいは四七抜き、とでも言える旋法に依存していると思われます。これが、普通の交響曲に現れる旋律とかなり雰囲気を異なるものにしているのです。

上記の交響曲としての格調高さを仮に交響曲性、分かりやすい旋律を歌謡性、という言葉で表現しながら、簡単にこの曲を見ていきましょう。
第一楽章は、かなり渋い交響曲性を持った序奏から始まります。だんだんと緊張感が高まり、さあ第一主題だ、となって、コロッと歌謡性の高い第一主題が現れます。うまくやらないと、このギャップが大きすぎてこけてしまう可能性がありますが、このつなぎは非常に自然に感じるのがスゴいと思います。
提示部の各主題は、いずれも歌謡性の高いメロディですが、交響曲性を持った化粧を少しずつ施されます。展開部に入ってから、交響曲性が前面に出てきますが、第一楽章の展開部はそれほど長くありません。そして再現部で、また歌謡性が高くなります。しかしまた、コーダがいかにも交響曲といった壮大な雰囲気になっていきます。
第二楽章は超有名なあの旋律。「遠き山に日は落ちて」ってやつですね。何がすごいかといえば、この主題は、動機(モチーフ)や単旋律レベルの長さでなくて、ほとんど有節歌曲の一番分といえるほどの長い旋律だということです。つまり、普通の歌がまるまる交響曲の一つの楽章の中の主題として収まっているのです。展開を必要とする楽章では不可能なことですが、極端に歌謡性に振れるそういう方向性は、ある意味アバンギャルドな精神なのかもしれません。
第三楽章はスケルツォ。主題は交響曲性が高いのですが、それにサンドイッチされるトリオ部分は、かなり歌謡性が高い旋律です。つまり、ここでも交響曲性と歌謡性が交互に現れます。
第四楽章の冒頭も、かなり有名な部分。これぞ交響曲、という気持ち良さですね。この勇壮さはショスタコーヴィッチの第5番第4楽章の冒頭と同類の感覚です(私にとって)。「新世界より」では、前の楽章の主題が後の楽章で現れることがありますが、この第4楽章では、これまで出てきた主題が次々と現れ、音楽が展開されます。
この方法、実に巧みに感じます。循環主題というほど、きっちりと計画された感じではなくて、本当にうまいタイミングで、前の楽章の主題が出てきて、聴いた人が「そうそう、このメロディなら覚えてる!」と思わず感じるようになっているのです。この感覚は、長大な音楽にとって非常に重要な要素だと私には思えます。

前の主題がいろいろ絡みながら、最後はもういかにも交響曲だ!というエンディングで見事に終わるこの曲、もうどんな素人でも「ブラボー!」と叫びたくなっています。
こういう作りが大衆迎合的と言われるのかもしれませんが、このような微妙な配置、構造性(先週の映画の話を思い出します)こそこの曲の魅力であり、個々の音楽技術でなく、総合的な音楽の構想力、提示力にやはり敬服するのです。

2004年5月9日日曜日

映画の面白さについて

映画の構造性の話、もう少し書いてみます。
実は、私、最近かなり映画を見に行っています。数年前、浜松のTOHOシネマズが自宅から歩いて10分くらいのところに出来て、暇なときふらっと見に行くようになりました。シネマイレージの会員になると、鑑賞履歴がネット上で見れるのですが、それによるとここ一年で20本は見てます。もちろん、超映画マニアから見れば、少ないほうではありますが。

さて、私が先週構造性と呼んだものについて、もう少し具体的な例を示した方が良いかもしれません。
端的に言えば、構造性とは、ストーリーのメリハリであり、映画を見た人が論理的に納得するための仕組みのようなものです。例えば、序盤で作品の背景、状況、世界観をいかに自然に、かつ丁寧に伝えるかというような点、中盤で、クライマックスに達するまで、どのように緊迫感を盛り上げていくか、あるいはどういう順序でストーリーを展開させ、子ネタ(伏線張り)を散らばせておくか、という点、そしてクライマックス自体をどのように作るか、映画全体の納得感をどうやって感じさせるか、そして何よりどのように終わらせて、観客をどういう気持ちにさせたいのか、という点などが挙げられます。
ただし、こういった映画の流れはエンターテインメント性の高い映画に特徴的であり、ジャンルで言えば、SF、サスペンス、アクション、ホラーといった作品にとって重要な要素です。実は、こういったことが当てはまるのは、ほとんどアメリカ、つまりハリウッド映画なのですね。

目をハリウッド映画から転じてみると、他の国の映画などでは、若干、構造性が希薄になる様な気がします。一カットが長くなったり、映画の主題からそれるようなセリフやシーンがあったりなどします。また、人を驚かすような効果音、音楽も少なくなります(これ逆に振れると最悪←キャシャーンなど^^;)。もちろん、扱う話題も上記のようなジャンルからちょっと離れてきます。例えばフランス映画なら、退廃的な恋愛映画のようなジャンルが面白いし、日本映画なら、やはり人情モノのようなストーリーが安心して観ていられます。
そういったハリウッド映画以外のところで、ハリウッドを真似た映画を作ろうとすると、上記のような構造性の追及が甘くなり、非常に中途半端な作品になってしまいます。レンタルビデオで、フランスのSF映画なんか見たことがありますが、これもかなりトンデモな代物でしたね。やはり、根本的にそういう文化が足りないのでしょう。
もちろん、ハリウッド映画以外のところでは、自分たちの得意領域をもっともっと切り開いて、安易に流行りものに追随しないほうが良いとも思えるのですが、それでも正直言うと、同じ映画制作者として、もう少し何とかならんのかなという気持ちもあったりします。

アメリカ映画でないのに、逆に極端に構造性を追及した映画が昨年ありました。「最近面白かったこと」にも書いた中国映画「HERO」です。ここで書いた私の文での構造性とはもっと狭い意味で使っていますが、話が入れ子構造になっているという点において、この映画では構造性そのものを前面に押し出しているのです。もちろん、入れ子構造は、一般的に回想シーンなどであり得ますが、映画のほとんどが複数の回想シーンで出来ている、というのは滅多に見られません。
さらに、この入れ子構造が二重になったりすると、もはや見ている人はワケが分からなくなりますが、さすがにそういう映画に出会ったことはありません。実験精神の旺盛な人に、是非一度そういう映画を作ってみてもらいたいものです。

ハリウッド映画を批判する人も多いと思います。私も、あまりに勧善懲悪なアメリカ的な発想に辟易とすることがありますが、それでも、映画作りのきめ細かさはさすがだなあ、と素直に感じます。

2004年5月2日日曜日

映画から構造について考える

音楽作品の構造の問題について、これまでも何回か書いてきました。

実は、今回の話は音楽とは全然関係ないところから始まります。
一般的にいえば、日本の映画はやはりハリウッド映画にはどうしてもかなわないのです。特にSF映画。だからこそ、何としても面白い日本のSF映画に出会いたくて、ついついいろいろ見に行ってしまうのです。
先日、話題の「CASSHERN(キャシャーン)」を見に行ってきました。俳優陣もすごいし、予告編を見ると結構面白そう。世紀末的な世界観にも惹かれるし、宇多田ヒカルのダンナが監督というのもちょっと気になる、ということで公開前から興味は持っていたのです。

さて、感想はというと、正直に言えば見事なくらいはずしたという感じ。邦画の面白くない一典型を垣間見た気分なのです。
まあ別に大して良くなかった、というくらいならこんな文章は書かないのですが、この面白くなさには、非常に語るべき何かがあるような気がするのです。芸術作品としてのこの映画の問題点を、反面教師としてちょっと考えてみたくなるような、そんな気分なのです。
もちろん、この映画を楽しんで見た方もいらっしゃるでしょうから、面白くなかったのはあくまで私自身の個人的な意見ということを承知してください。

結局のところ、この映画の問題点とは構造性の欠如ではないかと思うのです。
全編、プロモーションビデオを作るような感覚で出来ていて、とにかく特殊映像技術のオンパレード、バックミュージックのオンパレードです。全てに力が入りすぎたせいで、逆に全体が平坦になってしまっているのです。おかげでストーリーの起伏が無くなってしまい、表現の力点が伝わってきません。どのシーンももったいぶった作り方で(山場で使われるような技法)、ストーリーのテンポ感も悪く、かなりダレてきてしまいました。
何度か繰り返される反戦メッセージも、メインのストーリーとどうも遊離している感じがするし、取ってつけた感じがしないでもありません。ここで見せられる戦争のおぞましさの表現も、どこかステロタイプな気がします。

大きな作品には必ず構造が必要だと何回か言ってきました。これは、映画であっても音楽であっても同じことだと思います。
一発アイデア的な作品なら、小さい作品、短編のほうが絶対映えるはずだし、逆に小さなアイデアをただたくさん積み重ねて大きなものを作ってしまうと、かなりいびつなものになってしまいます。
大雑把に言えば、面白くない邦画というのはたいていこの構造性が欠如しているような感じがします。場面場面でまるで思いつきで作ったように話が展開していき、ストーリー全体が一貫していなかったり、論理的に破綻していたりこともしばしば。ハリウッド映画ならB級映画であっても、もう少し気の利いた伏線の張り方をしています。
この構造性の欠如はもしかしたら、日本人の特性とも思えるのですがいかがでしょう?

さて、映画のキャシャーンですが、もちろん悪いことばかりではありません。
ハイテクと重化学工業がミックスしたような独特な機械デザインとか、アジア的な雰囲気、町並みや情景の作り込みなど、洋画のSF映画を凌駕する出来だと思います。小物はとてもよく出来ているのです。