日本人について論ずることが良くあります。多分、私の中でかなり興味あることなのでしょう。それで本屋に行っても、ついついその手の本を手にとってしまうのです。たいていは人生指南書的なものがほとんどで、内容的にはたいしたものがないのが常です。そうした本を見るにつけ、もっと学術的に日本社会を論じたものはないのか、という気持ちが私の中で感じていたところでした。
さて、この本「タテ社会の人間関係」は、まさにそういった学術的な観点から日本人を論じたもので、この手の日本人論の古典的名著と呼ばれている本なのです。これを読まなきゃモグリというほどのものらしく、今までこの本を知らなかったことを全く恥じるばかりです。ちなみにこの本が最初に世に出たのが1967年。その反響の大きさからその数年後には英訳版、仏訳版も出され、日本人を知ろうとする外国人にもすでに広く読まれている超ロングセラー本です。
学術的といっても難解な言葉で書かれているわけでなく、非常にわかりやすく、時にあえて俗っぽく書かれており、一般書として十分読める文章です。また、図解も多く、なぜかa,b,X,Yとか表現することが多く、ぱっと見ると数学書と思える部分もあり、もしかしたら結構理系的な本かもしれません。
さて、この本の具体的な内容ですが、なにしろ目から鱗の連続で、私がこれまで断片的に感じていたことが体系的に述べられており、まさに座右の書と呼べる本であったといえるでしょう。著者自身がそのような日本的社会に疑問を感じているのが明白で、自らは学術書といいながら、なかば自虐的に日本人を論じているあたり著者の気持ちがとても出ていて、面白く感じました。
この本の中ではいくつかのキーワードがあります。
一例を挙げますと、集団構成の原理として「資格」「場」の二つがあるということ。「資格」による集団とはその人が持つ能力や資質の共通性によるものであり、「場」による集団とは一定の場所、共通の機関など同じ場所を共有しているものを指します。そして日本は、「場」による集団意識が非常に強いのが特徴なのです。著者によると、最も対極的なのがインドで、こちらは極端に「資格」に重点が置かれています(カーストが象徴的)。中国や欧米はどちらかというとインドよりですが、それほど極端ではありません。
そして、そのように「場」の共有が中心になると、「資格」の違いがあるものを一つの集団に抱え込むことになります。もともと「資格」の違いは人間的な性向や能力の違いであり、そのような異質の人間をたくさん内包することにより、その集団結集力をより強力にする必要が出てきます。そして、それは「そのグループの成員である」というエモーショナルなアプローチによることが非常に多くなるのです。これは何を意味するかというと、絶えざる人間同士の接触が必要ということであり、この傾向が強くなるにつれ個人は生活のほとんどをその集団に捧げる結果になります。
そのように生活の多くの部分において集団に関わるようになると、自然と公的なものと私的なものの区別がつかなくなります。会社を離れても仕事がついて回ったり、逆に会社の中でも私的な楽しみがあったりするのは誰でも心当たりがあるでしょう。また、他の社会に比べても極端に社内結婚や同じ村内での結婚が多いことを著者は指摘しています。
この話だけでも、論理的に集団を論じているのがおわかりになりますでしょうか。
この他、日本的集団の排他性、それに伴う個人の非社交性、それから集団内の序列(集団に関わる期間の長さに比例-私が談話などで書きましたね)、人間平等主義、日本的リーダーのありかた(頭が切れるより、部下を盛り立てる力が必要)、契約精神の不在、などが論じられています。
いずれも著者は、ささいなところで発見できる日本人的な部分を紹介し、それが国際的な場でいかに奇異にうつるかを描いています。著者自身が、そういうことを自分の活動の中で強く感じていることの現われでしょう。それから、著者が女性である、ということはこの本の成立に大きく関わっているのではないか、と私には感じます。もし、この本を男性が書いたのなら、その人は集団内の自分の地位が危なくなるんじゃないでしょうか。学問の世界でさえ日本的社会は浸透しているわけで、まだまだ仕事場では男性社会が中心だった当時だからこそ、女性の手で始めてその現状を糾弾することができたと思えるのです(学術調査団内の人間関係など思わず納得)。
ところで、この本を読んで、今まで自分が感じていたことをうまく表現されていることの快感以上に、日本人に対するある種の救いのなさに襲われたのは事実です。先に言ったように、この本は人生指南書ではありません。したがって、未来に対してこうすべきだなどという提言は全くされていません。ひたすら日本人社会を分析しているだけです。じゃあ、我々はどうしたらいいのか?これは難しい問題です。
確かに、日本人的社会では良い点もたくさんあるのです。人間平等主義は「出来ない」者でも受け入れられ、そういう人たちに絶えざる努力を促します。また、生まれながらの資格に左右されないので、身分や階級の違いがほとんどないわけです。しかし、その一方徹底的な序列により、若い能力の芽を摘んでしまうようなことが往々にしてあり、それが努力より発想が重要な分野において大きく立ち後れる原因にもなっています。
まずはこの日本的な序列(上下関係)と能力主義をどのように折り合いをつけていくのか、これが取りあえずの日本人の課題なのかもしれません。