2013年3月31日日曜日

何かを作って生きていくということ

創作・表現活動を実際にしている立場として、それ自体が生業になるということは一つの理想ではあります。
当たり前ですが、実際に創作活動だけで生きていくことは至難の技なのですが、私自身の体感からそれはどのような構造であるのか、ちょっと考えてみました。

上の表にあるように、全ての創作・表現活動はアマチュア活動から始まります。いきなりプロから始まるということはあり得ません。
スキルを積み上げ、仕事のクオリティを上げることによって、その人や作品の評価が高まり、対価を得ることが可能になっていきます。
このアマチュア活動から仕事に変わるタイミングはもちろん状況やその人のレベルによって、大幅に差がありますし、そもそも仕事に変えることが出来る人はごく一部の人たちだけの話であり、ほとんどの人は到達することが出来ません。

いわゆる芸術の世界では、新規性や実験性が高いほど、仕事として成り立つレベルはさらに跳ね上がります。
もっと、今ウケていてマスに対して需要があるものであれば、対価を得るためのハードルは下がっていくことでしょう。

この表の一つのポイントは、アマチュアとプロの世界は厳然と分かれるようなものではなく、あるラインからグラデーションのようにその領域が混じり合うということです。
この趣味と仕事の微妙な領域では、対価を得ることもあるけれど、そのための出費も多く、残念ながらその対価だけでは生活をすることは出来ません。


同じことをしていても、お金を払う立場からお金を得る立場に変わる、というのは一見するとおかしなように思えます。
なぜなら、普通の人の感覚では、仕事と遊びは違うものであり、仕事はお金を得られるが、遊びはお金を払うからです。

しかし、私はそれはちょっと違うのではないかと最近感じています。
創作活動だけでなく、一般的な社会の仕事に敷衍して考えてみましょう。例えば、何か趣味でスポーツをすれば通常それはお金を払うことになりますが、その頂点にはプロスポーツの世界があり、プロ選手として対価を得て生活をしている人たちがいます。
それはあまりにもレベルが違い過ぎるので、そのような人たちと結びつけて考えることは普段しないというだけです。

もう少し、地味な世界を考えてみると少しイメージが湧くかもしれません。
家具を作るのは通常仕事です。しかし、自分の趣味でテーブルや椅子を作りつつ、趣味が高じてそれがあるレベルを超え始めれば、他人にそれを売ることが可能になっていきます。
このようなことはこれまでの時代では非常に難しいことでした。
なぜなら、何かモノを売るには宣伝しなければいけないし、展示したり、販売の管理をしたり、配送したりしなければいけません。商売するには作る以外のたくさんの面倒なことがあります。

しかし、IT化はそのような面倒なことの負荷を減らしてくれています。
そうすると、これまで「仕事」と「遊び」、というように二つの感覚が別ベクトルを向いていたものが、だんだんと同じベクトルを向くようになっていくのではないかとそんなことを感じているのです。

創作・表現活動においては、そういう感覚は昔からそれほど変わりなかったのですが、それが社会全般、仕事全般に言えるようになっているのではないか、極端に言えば、多くの仕事は趣味から始めることが出来る、とも言えるのではないでしょうか。

2013年3月23日土曜日

新しい中世が始まる

最近の世の中の流れを「中世」というキーワードで考えてみると、何だかしっくりくるような気がしています。
もちろん私は歴史家でも何でもないので、専門的な知見に基づいた話ではありませんし、そもそも歴史上の中世について正しい認識を持っているかも疑わしいです。
それでも、これからの時代が何かここ数百年の近代化とは逆の方向を向いているのではないかと感じます。

例えば、我々は理想の統治形態を民主主義だと考えます。日本ではきちんと選挙も行なわれ、人々の投票を元に議員が選ばれ、その議員が法律を作っていきます。
しかし、今や日本の政治は凋落の一途を辿っています。政府の力ではどうにもならないことがあまりにも増えてしまいました。

では政府に変わる存在はあるのか、と考えると、それはグローバル企業なのではないかと思うわけです。世界を牛耳る少数のグルーバル企業は、我々の常識を決定し、我々の行動様式を規定します。政治的な強制力はないけれど、私たちが自分の意志で喜んで購入していると思っているものは、実はグローバル企業の巧みな戦略にまんまと嵌っているように思えます。
企業の統治は民主主義ではありません。少数のエリートがビジネスやサービスの方法を決めていきます。グローバル企業が世界を牛耳る世界では、もはや民主主義は通用せず、一部のエリートによる社会の制御が可能になる社会でもあるのです。

さて、近代化の象徴といえば、モータリゼーションや、飛行機などによる人間の移動の活発さです。
しかし、IT技術はテレビ電話を容易にし、人々がある場所に行かなくても用が足りるような環境を作ってしまいました。
交通機関を利用する人が減れば、コストも上がり、交通費が高くなります。エネルギー問題がだんだんとシビアになっていく昨今、燃料費もバカになりません。
そんな未来、人々はだんだんと遠距離移動しなくなくなるのではないでしょうか。
また、社会の効率化が進み、過疎化と都市化が進み、ほとんどの人々が都市部に住むようになれば、そこだけで衣食住の環境が揃い、人々の行動範囲がむしろ今より狭くなっていくような気がします。これも私的には中世的な現象に思えます。

近代は人々を豊かにしましたが、中世には大きな貧富の差がありました。
そして、これからも同じことが起きるのではないかと考えます。世の中のIT化、ソフトウェア化はホワイトカラーの仕事をどんどん奪っていき、機械に出来ない単純作業か、新しい価値を創造する頭脳労働の二方向に職業は収斂していくでしょう。
当然前者は貧乏で、後者は大金持ちです。またこういった格差は世代を引き継ぐことになり、またしても人間は階層社会を作ってしまうことでしょう。
行き過ぎれば、その階層社会を打ち破る人も出てくるのでしょうが、むしろ今は無駄な平等意識が社会全体のコストを押し上げているような気がしてなりません。

世の中の日常品は、大会社の大工場によって作られるのではなく、ほとんどが近場にいる職人によって作られるようになるでしょう。
もちろん、世界中の誰もが使うもので、なおかつコストを低く抑えられるのであれば、大量生産が向いています。
しかし、家具とか電機製品などもデザインで選ばれるようになれば、大量生産品が避けられ、最終的には稀少なモノの方が有利になるような気がします。
メーカーの視点に立つと、プログラムも図面も全てネット上で入手出来る時代、工場を自力で建設するよりも、製造そのものを他社に委託してしまったほうが固定費が削減出来、経営的には嬉しいことと思われます。
そのような時代、結局大会社は瓦解し、一人一人が自らの力で収入を得るということが、より重要なことになっていくものと思えるのです。

2013年3月15日金曜日

楽譜を読む─プーランク SALVE REGINA

プーランクにしては比較的音が簡単で、その割にそこそこの演奏時間になる SALVE REGINA は混声アカペラ宗教曲の重要なレパートリーとして広く歌われていることと思います。
今、私の指揮で取り上げている曲なので、演奏する立場からこの曲の楽譜からいろいろと読み取ってみましょう。

まず、調の関係から曲の構造を考えてみます。
最初は Gm です。練習番号2の前でGの長三和音で終わってから、ちょっと変化的な和音(Bbm→C→Fm→C→Adim→Cm7→D→Gm)を使いながらも、練習番号2は Gm の雰囲気のままドミナントのDの和音で終わります。
練習番号3で急に長調になります。同主調の G です。しかし、それも4小節しか続かず、Eb/G→Bb→Db→C→Fm→G→C という流れの中ですっかり Fm っぽい雰囲気になってしまいます。練習番号4では高声→低声の引き継ぎで Db→C→B→Bb の半音で和音が下降していく感じになり、調は気が付くと Ebm になっています。Ebm→Adim→Bbm→Gb→F の流れの中で、調は Bbm になり練習番号5から印象的な美しさを持ったフレーズが現れます。
練習番号6では、Bbm→Bbdim→Fm→Fdim→Ebm→Ebdim→D という若干強引な和音の流れの中で Gm に持っていくためのドミナントで終わります。
練習番号7以降はずっと Gm です。いくつか面白い和音がありますが、最後まで Gm の雰囲気を保ったまま曲は終わります。

このように解析すると、曲は全体で三つのセクションに分かれることに気付きます。
最初は練習番号1、2の部分、次は練習番号3〜6まで、そして最後は練習番号7以降です。これを仮に A,B,C とすると、A/C はともに調が Gm で、B のみ調は激しく変化します。そう考えると、このA,B,C はそれぞれ、提示部、展開部、再現部というように呼んでも良いかもしれません。

楽曲が提示部、展開部、再現部の3つに分かれたとすると、これを演奏としてどのように表現するかは、いろいろな方法があると思います。私は区切れ目で軽くリタルダンドして、区切れ目感を出そうと考えています。

曲は全体的にプーランク的な細切れ感、コラージュ感が漂うものの、比較的息の長いフレーズもあり、プーランクの宗教曲の中でも宗教的な厳粛さが強く出ているように感じます。

とは言え、プーランクの面白さはフレーズの歯切れの良さ。
この曲の中でも、フレーズが八分音符で終わっているか、四分音符で終わっているか、終わりに八分休符があるか、ブレス記号があるか、のようにフレーズの終わり方にバリエーションがあり、これを演奏の中できちんと歌い分けたいものです。
特に語尾が八分音符で終わる場合の言葉のさばき方で、プーランク的な細切れフレーズの雰囲気が上手く出るのではないかと思われます。

もう一つこの曲の面白いところは、音量記号に mp が無いことです。
p/pp/ppp はあるし、mf/f もありますが、私には mp が無いのは偶然には思えません。つまりプーランクの作曲の意図として、音楽を明確に「大きい」「小さい」の組み合わせで表現したいと考えており、そのために中間的な音量を敢えて排除したように思えます。
従って、この曲の音量の表現については、エッジを立てて変化量を大きく示してあげるべきではないかと考えています。


2013年3月10日日曜日

未来の標準化とか規格化とか

なんだか、また抽象的なことを考えてしまいました。

IT時代になって、大会社による大量生産から小規模な単位による多品種少量生産に変わるだろう、というようなことを何度か書きました。それは、社会を表面的に見るならば、近代化と呼ばれるような社会の諸要素が、また中世的に戻っていくようにも感じられるのです。

そもそも近代化を促したものは何だったのかというと、それは標準化であり、規格化であったのかなと思います。
例えば、誰かが自動車を発明したとしても、道路が無ければ自動車は無用の長物です。自動車は便利なものだけれど、道路を作り、信号を作ったりしたから本当に便利になったはずです。道路を作るためには道幅を決めなければいけないし、交通ルールも作らなければいけません。カーブの大きさとか勾配とかも無理な設定はできません。
それは道路の作り方を標準化、規格化することに他なりませんが、それにより、自動車の作り方さえも規定されることになります。

運転の仕方だって、自動車メーカーごとに異なると大変です。
誰が運転の標準化を決めているのかは私は知らないけれど、少なくとも自動車の世界では、ある一定のルールがあり、それを運用する仕組みがあるように思えます。

そのような規則は作り手に制限を課すことになりますが、それを犠牲にしてもあまりあるメリットがあったからこそ、そういう標準化が進められたのでしょう。

同様に、電力を各家庭に送るのだって規格化が必要。水道や電話なども同じ。
つまり、私たちの現代の生活が成り立っているのは、個別の技術だけではなく、その技術を広く人々が享受するための標準化や規格化といった作業があったからなのです。


そしてこの標準化、規格化という作業の方向性を大きく変えてしまったのが、昨今のITなのではないかと感ずるのです。
上で書いたことは、ほとんどが物質の物理的な規定ですが、IT時代における標準化、規格化の規定は、例えば通信のプロトコルであったり、特定サービスのAPIであったり、電子ファイルのフォーマットであったり、データベースの構造であったりします。
こういったソフトウェア技術の標準化、規格化は、一般の人の目には見えないため、多くの人にとって非常に理解が難しく、また抽象的な傾向を持っています。

これからの時代は、近代からむしろ中世に近い世界になるのではないかと先に書きました。
しかし、それは近代化の特徴である標準化、規格化が無くなってしまうのではなく、むしろ標準化、規格化がより抽象的で見えにくい領域に押し込まれるからではないかと、ふと思ったわけです。

少数の大会社のみが有名ブランドになるのではなく、どこの街にも○○屋さんがいて、そういう個人間の商売で生活が成り立つ未来。
しかし、それが成り立つには、オーダーメイドによる発注が一般化し、世界から受注が可能になり、そして性能の高いものでもそこそこ安く作れることが可能になる必要があります。
それを成り立たせるためには、よりソフトウェア的な標準化、規格化が必要なのであり、そういうことにある程度理解が無いと、このような未来を暮らしていくのは難しいのではないかと思うのです。


2013年3月2日土曜日

これから起きること ─ ツールとしてのコンピュータ

コンピュータによって、様々な知的作業が電子化されました。
例えば、私は作曲をコンピュータ上で行なっています。しかし、たかだか20年前、譜面をコンピュータで書いていた人はほとんどいませんでした。五線紙に鉛筆で音符を書き、ピアノで弾きながら音を確かめていました。
今では,多くの音楽家が、譜面浄書用のソフトを使い、音楽製作ソフト(DAW)を使って音楽を作り出しています。

小説、エッセイ、詩など、各種文章系の執筆活動はすでに手書きは無くなっているのではないかとさえ思えます。電子化が始まった最初期に文章系はワープロソフトが一気に普及しました。恐らく現在では、出版レベルのものは作者段階で電子化されているのではないでしょうか。
絵画、イラストの世界も直接コンピュータで書くというスタイルがかなり拡がっているものと思います。

上記では芸術系の話ばかりでしたが、それだけでなく経理、作図、論文、データ処理・・・といったあらゆる業務がコンピュータ上で行なわれているはずです。

このような状況の中で、創作する側にいる人たちには、もちろんたくさんの良いことがありました。
一つは、当然ながら作業中の単純作業がコンピュータに任せられるようになり、作業効率が上がりました。次に、これまで物理的に送っていた資料が、電子化されたファイルをメールなどで送れるようになりました。そして、何しろそれまでプロでしか出来なかったようなアウトプットが、専用の工具が無くてもソフトさえ手に入れれば、誰にでも出来るようになりました。

しかし、その一方、悪くなったこともあると思います。
それは、コンピュータのハードウェア、OSの進化、ソフトのバージョンアップに常に気を取られるようになったこと。バージョンアップで使い勝手が変わってしまうこと。また、ソフトの仕様によってはどうしても自分の出力したいアウトプットが実現出来ない場合があるということ、など。
もう一つ言うと、誰にでも出来るようになった結果、プロのクオリティを理解してもらうのが難しくなったこと。それは結果的に、多くのプロが買い叩かれたり、質の低いものが出回るようになってしまうことにも繋がります。

IT化が効率を追求するほど、本来の創造性とか、個性的な表現が失われてしまうということは、俯瞰的に見るならば正論だと思いますし、その理由の一つにコンピュータのツールのあり方が大きく影響していると思います。

さて、これから起きることを考えた場合、二つのシナリオが考えられます。
一つは、これまでと同様にツールが益々最適化され便利になり、各創作家はツールの新機能にキャッチアップしながら、ITリテラシーを保持しないと最先端に居られない、というシナリオ。
もう一つは、IT化がむしろ創作家に味方するような方向に変化していくというシナリオ。例えば、創作家自らがわざわざツール上で設定しなくても、創作家ごとに最適な仕様にツールが自動的に変わっていくような技術が考えられます。

やはり私としては二つ目のシナリオになることを望みます。
この場合、ツールとなるソフトウェアは、パッケージソフトによる供給では無くなっていくでしょう。むしろ、ツール類の各機能が部品化され、クラウド上から必要に応じて供給するような形になることが考えられます。
また、創作家である末端のユーザーの操作履歴は逐一ネットに収集され、それによってその創作家に最適な仕様を提案することも電子的に可能になるのではないでしょうか。

クラウドベースならOSにも依存しなくなります。
利用者が作ったドキュメントもクラウド上に保存されるようになります。
もちろん、自分が望むツール仕様がマジョリティでは無くなれば、ツールを開発してくれる人も減ってくるでしょうから、どんな仕様にでも対応出来るとは言いませんが、それでも、ツールが個別最適になる方向は正常な進化であると感じます。

今のように万人が同じツールを使う現状は、あまり正しいとは思えません。
ツールは万人の要望を満たすために、どんどん複雑になり、一人がソフトの機能を全て把握するのが困難になっています。ツールを使えるということと、良いアウトプットが出せるということがどんどん混同されるようになり、本当に実力のある人を排除してしまう危険性を孕んでいるのです。