音楽の価値について四六時中考えている作曲家なら、音楽が記号的にしか扱われないことは嘆かわしい事態だし、もっと音楽そのものの価値を理解して欲しい、と考えているのかもしれません。
実際、長い間私もそう考えてきたし、前回書いたような権威筋の意見とか、単なる刷り込みといった要因で音楽の価値に惑わされるなんて、単に感性が弱いだけだ、と吠え続けていたような気がします。
もちろんその考えは今でも思い続けているものの、音楽を記号的に扱う、ということは社会的に避けては通れないし、現実問題、もっと寛容に考えていかないといけないのではないかとも思っています。
専門を追求するからこそ、世間一般の常識からかけ離れてしまうことは良くあること。
特に現代のようにあまねく音楽が世界に行き渡り、低俗なものほど受け入れられる現実に直面し、思索に思索を重ねた音楽ほど疎まれてしまうことに日々悶々としている若手作曲家なら、ますますそういう現実を受け入れられず一人理想の世界に閉じこもってしまうものです。
でも私たちは現実に生きているのだから、現実は受け入れなければいけません。
世の中で起きていることが、本当のことなのです。自分の理想の世界は、自分の頭の中だけでしか正義たり得ないのです。
それでは、もし作曲家の立場で、音楽が記号的に消費されることをある程度受け入れるのなら、彼らはどのような態度を取ることになるでしょうか。
まず、ジングルのような短いフレーズなど、アカデミックな立場では音楽的価値がないものと思われるようなものを肯定するようになるでしょう。
もっとも日本のように街のあちらこちらで注意喚起の音楽が鳴るのは閉口しますが、このように音楽が使われることに対して一定の理解を示す必要はあるでしょう。
もう一つは、単純な音楽をバカにしない態度にも繋がるでしょう。
アイドルが可愛くあるいはセクシーに踊る音楽は、もはや音楽の価値だけで論じることは不可能な領域です。であれば、そのような音楽に対して音楽的に批判すること自体がナンセンスなこと。
もっと言えば、女の子との魅力を引き立てるためには、どのように音楽を作れば無駄に邪魔をしないのか、などと二重にひねくれた音楽の鑑賞をする必要も出てくるかもしれません。
現在の音楽は、ほとんどそのような流行歌で成り立っています。
短期間で消費されるとは言え、ポップスのような流行歌にも出来不出来があるし、芸術音楽にくらべればその社会的な影響は計り知れません。
音楽家であるなら、そのような音楽を常に軽蔑の眼差しで見てしまう態度の方が、一般の人からみれば嫌みなように見えてしまうものです。
最後に、音楽の記号的側面の受容は、作曲家の作品そのものにも影響を与えるでしょう。
泣きのメロディは、芸術音楽にとって低俗であると見なされやすいのですが、クラシック音楽でさえ泣きのメロディが好まれるのなら、そういうメロディを自分の納得する範囲内で追求すべきなのかもしれません。
ヒンデミットがチャイコフスキーを低俗だと批判した気持ちは分らないでもないけれど、それでもやはりチャイコフスキーの泣きのメロディは多くの人を魅了しているのです。
2013年1月27日日曜日
2013年1月19日土曜日
音楽の記号的側面 -記号の要因-
音楽が記号化する要因はどのようなものがあるか考えてみましょう。
ざっくり考えてみると大きく二つくらいが思い付きます。一つは権威筋や他人の評価による記号化、そしてもう一つは、繰り返し反復されて刷り込まれることによる記号化です。
権威筋や他人の評価による記号化、というのは、音楽を聴く前に誰かがレッテルを貼って、そういうものだと思い込むことです。例えば、誰かがこの音楽が良いと言ったことによって、それならきっと良いものだろう、と思ってしまうようなことです。
これは創作物を公正に評価するという点では、正しい方法とは言えないとしても、これを否定しては社会生活することは不可能です。人は全ての事物の専門家になることは不可能であり、自分の不得意なことについては他人の評価でモノゴトを判断する必要があるからです。
しかし、音楽の評価に権威筋や他人の評価が非常に大きな影響を与えていることをもっと直視しなくてはならないと思います。
今や権威的な指標ではなくなりましたが、オリコンチャートとか、もっと昔ならテレビ番組でやっていたベストテン、トップテンといった音楽のランキング情報は、以前は大きな影響を持っていました。
自分の若い頃を考えると、こういった番組が音楽を楽しむ窓口になっていたと思います。このような時代には、ランキング外の音楽は全く相手にされませんでした。今思うと、恐ろしく音楽の多様性を排除していた時代だったのではと感じます。
個人の視点で考えれば、テレビや雑誌だけでなく、自分の友人や知り合いからの情報や、身近な尊敬すべき人の愛好するものに影響されるということは良くあることです。
そして、他人から影響を受けたにも関わらず、人は知らないうちに自分の意見だと思い込んでしまったりします。まぁ、それは悪いことではないのですが、以前言ったことと全く正反対のことを平然と言っているのを聞いたりするとのけぞってしまったりします。
ただし、人の意見に影響されることを記号化というのは微妙な部分もあります。
「今みんなが聞いている良い音楽」という記号化は、いつしか自分も好き、に変わっていきます。その曲が好きだと思っている人は、記号的な価値ではなくその音楽が持つ本質的な価値を評価しているのだと主張することでしょう。
従って、記号的であることを検証することは不可能ですし、大ざっぱな印象以上の議論をすることは難しいと思います。
それでも、人々の多くにとって音楽の価値を公正に判断することなどほとんど不可能なことなのです。
さて、もう一つの反復による刷り込みについて。
例えば、小学校の何かの時間のテーマソングとか、よく見るテレビドラマの主題歌とか、もういやを通り越して空気と同じくらい日常で聞かされている音楽というのがあるのではないかと思います。
その曲に特に思い入れがなかったとしても、頻繁に聞くことによってそこに何らかの意味が生まれます。その記憶が楽しいこととして残るのなら、その音楽も楽しいことと付随した印象を持って覚えられることでしょう。
自分の子供が音楽を聴いている様子を見て、この反復による刷り込み効果の大きさを感じるようになりました。
確かに客観的に見て、あるメロディが名曲である必然はあるのかもしれませんが、名曲だからという理由で何回か聴いているうちに、その音楽がどんどん特別なものに変わっていってしまうのです。
ちょっと大げさな話かもしれないけれど、人間が音楽芸術を持っている理由はまさにこの特性に依存しているのではないかと感じるのです。
人間は人と共感して仲間意識を作り、一人では達し得ない大きな仕事を成し遂げる動物です。この共感して仲間意識を作るために、音楽は非常に大きな役割を持っているのではないかと思うのです。
ある集団で、みんなが鼓舞するようなタイミングで演奏される音楽があるとします。
こういう音楽を何度も何度も聞いているうちに、その音楽は人々を鼓舞する機能を与えられることになります。
こうやって人々は何かを成し遂げるために音楽を利用し、音楽で集団的な陶酔状態を作り出したのではないかと考えたりします。
このように音楽の記号的側面を考えることは、音楽が人間にとってどのような役割を持っているか、ということを考えることに近づくような気がしています。
音楽は絶対的な論理的な構造のみで説明されるものではなく、人々の意識に何かをもたらしその心を刺激するものであり、そのために音楽を論じることは人間を論ずることに繋がるのではないでしょうか。
ざっくり考えてみると大きく二つくらいが思い付きます。一つは権威筋や他人の評価による記号化、そしてもう一つは、繰り返し反復されて刷り込まれることによる記号化です。
権威筋や他人の評価による記号化、というのは、音楽を聴く前に誰かがレッテルを貼って、そういうものだと思い込むことです。例えば、誰かがこの音楽が良いと言ったことによって、それならきっと良いものだろう、と思ってしまうようなことです。
これは創作物を公正に評価するという点では、正しい方法とは言えないとしても、これを否定しては社会生活することは不可能です。人は全ての事物の専門家になることは不可能であり、自分の不得意なことについては他人の評価でモノゴトを判断する必要があるからです。
しかし、音楽の評価に権威筋や他人の評価が非常に大きな影響を与えていることをもっと直視しなくてはならないと思います。
今や権威的な指標ではなくなりましたが、オリコンチャートとか、もっと昔ならテレビ番組でやっていたベストテン、トップテンといった音楽のランキング情報は、以前は大きな影響を持っていました。
自分の若い頃を考えると、こういった番組が音楽を楽しむ窓口になっていたと思います。このような時代には、ランキング外の音楽は全く相手にされませんでした。今思うと、恐ろしく音楽の多様性を排除していた時代だったのではと感じます。
個人の視点で考えれば、テレビや雑誌だけでなく、自分の友人や知り合いからの情報や、身近な尊敬すべき人の愛好するものに影響されるということは良くあることです。
そして、他人から影響を受けたにも関わらず、人は知らないうちに自分の意見だと思い込んでしまったりします。まぁ、それは悪いことではないのですが、以前言ったことと全く正反対のことを平然と言っているのを聞いたりするとのけぞってしまったりします。
ただし、人の意見に影響されることを記号化というのは微妙な部分もあります。
「今みんなが聞いている良い音楽」という記号化は、いつしか自分も好き、に変わっていきます。その曲が好きだと思っている人は、記号的な価値ではなくその音楽が持つ本質的な価値を評価しているのだと主張することでしょう。
従って、記号的であることを検証することは不可能ですし、大ざっぱな印象以上の議論をすることは難しいと思います。
それでも、人々の多くにとって音楽の価値を公正に判断することなどほとんど不可能なことなのです。
さて、もう一つの反復による刷り込みについて。
例えば、小学校の何かの時間のテーマソングとか、よく見るテレビドラマの主題歌とか、もういやを通り越して空気と同じくらい日常で聞かされている音楽というのがあるのではないかと思います。
その曲に特に思い入れがなかったとしても、頻繁に聞くことによってそこに何らかの意味が生まれます。その記憶が楽しいこととして残るのなら、その音楽も楽しいことと付随した印象を持って覚えられることでしょう。
自分の子供が音楽を聴いている様子を見て、この反復による刷り込み効果の大きさを感じるようになりました。
確かに客観的に見て、あるメロディが名曲である必然はあるのかもしれませんが、名曲だからという理由で何回か聴いているうちに、その音楽がどんどん特別なものに変わっていってしまうのです。
ちょっと大げさな話かもしれないけれど、人間が音楽芸術を持っている理由はまさにこの特性に依存しているのではないかと感じるのです。
人間は人と共感して仲間意識を作り、一人では達し得ない大きな仕事を成し遂げる動物です。この共感して仲間意識を作るために、音楽は非常に大きな役割を持っているのではないかと思うのです。
ある集団で、みんなが鼓舞するようなタイミングで演奏される音楽があるとします。
こういう音楽を何度も何度も聞いているうちに、その音楽は人々を鼓舞する機能を与えられることになります。
こうやって人々は何かを成し遂げるために音楽を利用し、音楽で集団的な陶酔状態を作り出したのではないかと考えたりします。
このように音楽の記号的側面を考えることは、音楽が人間にとってどのような役割を持っているか、ということを考えることに近づくような気がしています。
音楽は絶対的な論理的な構造のみで説明されるものではなく、人々の意識に何かをもたらしその心を刺激するものであり、そのために音楽を論じることは人間を論ずることに繋がるのではないでしょうか。
2013年1月12日土曜日
音楽の記号的側面 -音楽研究の違和感-
「音楽」を学問として研究しようとするとき、どんな学問が考えられるでしょう。
もちろん音楽そのものを扱う音楽理論的なものを始めとして、音楽史を扱うもの、文化として社会との関わりを扱うもの、音楽教育を扱うもの・・・などが思い付きますが、今の日本ではいずれも文系の範疇に入ります。
その一方で理系的に音楽を扱う場合、音声・音響理論のような音現象を扱う学問が考えられますが、最近では音楽情報処理という方向性がひときわ盛り上がっているようです。
私自身は全く研究に関わっていないので、詳細は詳しくないのですが、音楽情報処理とは音楽そのものをあくまでサイエンスとして扱う学問です。
例えば、音楽の音声データから曲のテンポを抜き出したりとか、メロディを認識したりとか、演奏されている楽器を認識したりとか、演奏の特徴を抽出するとか、そのようなことを扱います。
人間は音楽を聴いただけで多くの情報を読み取ることが出来ますが、音声を解析してそういう情報をコンピュータがアルゴリズム的に読み取るということは、現状ではまだ至難の技です。
しかし、この分野が脚光を浴び始めたのは、私の認識では「初音ミク」ブーム以降であり、多くの人が初音ミクを上手に歌わすために、どのようにデータを作れば良いか、という一種オタク的な探究心から盛り上がっているような気もしています。
個人的には大変興味深いアプローチではあるのだけれど、実はこういう研究に常にある種の疑問を感じているのも確かです。
なぜなら音楽というのは文化的な側面が非常に強く、人文学的なアプローチを抜きに音楽を扱うことは非常に難しいと思うからです。
前回から書いている「音楽の記号的側面」とは、ある音楽が社会の中で記号化した結果、人々に特定の感情を与える触媒としての役割を果たす、ということでもあります。その場合、音楽そのものの価値と社会的な価値が乖離する場合があります。
例えば、名曲と言われるメロディを解析すれば、名曲になるための法則を得られることが出来るか、というような疑問にあなたはどう答えるでしょう?
私の答えは、変な曲になる法則は見つかるが、名曲になる法則は見つからない、と思っています。見つかったようにみえても、それは完全に客観的な法則ではなく、研究者の与えたパラメータに依存した結果になることでしょう。
今、このような文化的な範疇のものを扱う技術としては、客観的な法則を探すのではなく、集合知から全体の平均値を探す、というアプローチの方が正しそうです。
ある特定の音楽の価値をサイエンスとして客観的にはじき出すことは不可能だけれど、今生きている人たちが、その音楽の価値や意味をどのように考えているのかを統計的に分析することは可能ということです。
従って、音楽情報処理のような学問は詰まるところ、世界中からどれだけ多くのデータを吸い上げることが出来るかで、その価値が決まるように思います。
例えば、ある音楽が記録された音声データからその音楽のビートを抽出するようなアルゴリズムを考える際、多くの人がビートの頭だと思う場所の特徴を、出来るだけたくさん集めた方が良いシステムになるのではないでしょうか。
理系研究者はどうしても、ある普遍的な法則があることを前提として、自分の研究を進めてしまう傾向があるように思います。
文化に属するものは、その価値が相対的なものであり、いくらでも変わりうるものだという自覚を持って接するならば、そのようなアプローチは危険であると思えるのではないでしょうか。
もちろん音楽そのものを扱う音楽理論的なものを始めとして、音楽史を扱うもの、文化として社会との関わりを扱うもの、音楽教育を扱うもの・・・などが思い付きますが、今の日本ではいずれも文系の範疇に入ります。
その一方で理系的に音楽を扱う場合、音声・音響理論のような音現象を扱う学問が考えられますが、最近では音楽情報処理という方向性がひときわ盛り上がっているようです。
私自身は全く研究に関わっていないので、詳細は詳しくないのですが、音楽情報処理とは音楽そのものをあくまでサイエンスとして扱う学問です。
例えば、音楽の音声データから曲のテンポを抜き出したりとか、メロディを認識したりとか、演奏されている楽器を認識したりとか、演奏の特徴を抽出するとか、そのようなことを扱います。
人間は音楽を聴いただけで多くの情報を読み取ることが出来ますが、音声を解析してそういう情報をコンピュータがアルゴリズム的に読み取るということは、現状ではまだ至難の技です。
しかし、この分野が脚光を浴び始めたのは、私の認識では「初音ミク」ブーム以降であり、多くの人が初音ミクを上手に歌わすために、どのようにデータを作れば良いか、という一種オタク的な探究心から盛り上がっているような気もしています。
個人的には大変興味深いアプローチではあるのだけれど、実はこういう研究に常にある種の疑問を感じているのも確かです。
なぜなら音楽というのは文化的な側面が非常に強く、人文学的なアプローチを抜きに音楽を扱うことは非常に難しいと思うからです。
前回から書いている「音楽の記号的側面」とは、ある音楽が社会の中で記号化した結果、人々に特定の感情を与える触媒としての役割を果たす、ということでもあります。その場合、音楽そのものの価値と社会的な価値が乖離する場合があります。
例えば、名曲と言われるメロディを解析すれば、名曲になるための法則を得られることが出来るか、というような疑問にあなたはどう答えるでしょう?
私の答えは、変な曲になる法則は見つかるが、名曲になる法則は見つからない、と思っています。見つかったようにみえても、それは完全に客観的な法則ではなく、研究者の与えたパラメータに依存した結果になることでしょう。
今、このような文化的な範疇のものを扱う技術としては、客観的な法則を探すのではなく、集合知から全体の平均値を探す、というアプローチの方が正しそうです。
ある特定の音楽の価値をサイエンスとして客観的にはじき出すことは不可能だけれど、今生きている人たちが、その音楽の価値や意味をどのように考えているのかを統計的に分析することは可能ということです。
従って、音楽情報処理のような学問は詰まるところ、世界中からどれだけ多くのデータを吸い上げることが出来るかで、その価値が決まるように思います。
例えば、ある音楽が記録された音声データからその音楽のビートを抽出するようなアルゴリズムを考える際、多くの人がビートの頭だと思う場所の特徴を、出来るだけたくさん集めた方が良いシステムになるのではないでしょうか。
理系研究者はどうしても、ある普遍的な法則があることを前提として、自分の研究を進めてしまう傾向があるように思います。
文化に属するものは、その価値が相対的なものであり、いくらでも変わりうるものだという自覚を持って接するならば、そのようなアプローチは危険であると思えるのではないでしょうか。
2013年1月5日土曜日
音楽の記号的側面
記号的というのは、ざっくり言えば、あるコンテンツが内容そのものとは別に特定の意味を付与されて理解されてしまうような状態のことを言っています。
例えば、AKB48の曲を楽曲分析したり歌詞を読んだりせずに音楽的なレベルを云々と批評するような行為です。もちろん、何かを批評しようとするときに内容まで完全に理解するまでも無い場合、モノゴトを記号的に理解することによって、ざっくり傾向を把握することも必要なことです。
音楽を理解しようとするときに、実は多くの人がこの「記号的側面」に知らず知らずのうちに影響されている、ということを私は言いたいのです。
概言的に言えば同意される人も多いとは思うのですが、個別の話になるとやはり別。みんなが何となく常識で思っていることが、非常に記号的なコンテンツの把握の仕方だと感じることも多く、そういうこと一つ一つに疑いの目を向けていると、逆にこちらのほうが奇異な目で受け取られてしまうこともあります。
しかし、そもそも音楽とは非常に根深いところで人から記号的な判断をされ易いものではないかと感じるようになりました。
例えば私の息子の場合。彼はいま3歳ですが、順調に音楽好きになっているところです。クラシックのいろいろな名曲をYouTubeで聴いているうちに、お気に入りの曲がたくさん出来ているようです。
しかし、実際に好きになる過程を見ていると、好きだから何回も聴く、というより何らかの理由で何回も聴いているから好きになっているような気もします。
その何らかの理由とは、例えば私が「この曲キレイだよね〜」と言ったとか、テレビCMで何度も聞いたとか、何らかのBGMで使われていたとか、そのようなたわいもないこと。最初のきっかけは実はそんなものではないかという気もするのです。
そして、音楽的な内容とは別のところで彼の音楽の好き嫌いが醸成されているようにも見えます。
上記のように「音楽に絶対的な美しさの基準がある」という考え方自体を否定せざるを得ないようなことが多々あります。
このような場合、音楽の価値はその記号的側面に非常に影響されます。歌謡曲の場合、誰が、どのようなシチュエーションで、誰に向かって、どこで、どんな方法で、演奏するのか?ということが記号化され、それが時代の波にうまく乗ったときに、大量消費されます。このような状態において、その音楽的価値を純粋に評価することはナンセンスなことです。
しかし、芸術的と言われる純音楽というようなものでさえ、多くの人は単に記号的に把握していることが多く、何度も名曲と刷り込まれることによって、誰も疑わずに名曲と言っているに過ぎないように思えます。
すでに記号的意味が確立しているコンテンツに対して、その本質的な価値を説明する人は世の中にやはり必要ですが、それは専門家としての立場で当然のことをしているに過ぎません。
逆にすでに価値が確立しているもののその価値に疑問を投げかけたり、全く価値が確立していないものに対して賞賛するような行為は大変勇気がいるし、たいていの場合、そういう言説は否定されやすいものです。
しかし、記号的意味からどれだけ解放されるか、ということがモノゴトの本質に近づく方法だと思いますし、そういう態度を継続することが長い目で見て、良質なコンテンツを見つけたり作り出す能力を育むことに繋がると思うのです。
そのためには、我々がどのように記号的意味に束縛されているのか、それを認識するのは必要なことのように思われます。
というわけで、そもそも音楽にはどうしても記号的意味が付かざるを得ない側面があるのではないか、という最近の私の考えを少しずつ整理してみたいと思います。
例えば、AKB48の曲を楽曲分析したり歌詞を読んだりせずに音楽的なレベルを云々と批評するような行為です。もちろん、何かを批評しようとするときに内容まで完全に理解するまでも無い場合、モノゴトを記号的に理解することによって、ざっくり傾向を把握することも必要なことです。
音楽を理解しようとするときに、実は多くの人がこの「記号的側面」に知らず知らずのうちに影響されている、ということを私は言いたいのです。
概言的に言えば同意される人も多いとは思うのですが、個別の話になるとやはり別。みんなが何となく常識で思っていることが、非常に記号的なコンテンツの把握の仕方だと感じることも多く、そういうこと一つ一つに疑いの目を向けていると、逆にこちらのほうが奇異な目で受け取られてしまうこともあります。
しかし、そもそも音楽とは非常に根深いところで人から記号的な判断をされ易いものではないかと感じるようになりました。
例えば私の息子の場合。彼はいま3歳ですが、順調に音楽好きになっているところです。クラシックのいろいろな名曲をYouTubeで聴いているうちに、お気に入りの曲がたくさん出来ているようです。
しかし、実際に好きになる過程を見ていると、好きだから何回も聴く、というより何らかの理由で何回も聴いているから好きになっているような気もします。
その何らかの理由とは、例えば私が「この曲キレイだよね〜」と言ったとか、テレビCMで何度も聞いたとか、何らかのBGMで使われていたとか、そのようなたわいもないこと。最初のきっかけは実はそんなものではないかという気もするのです。
そして、音楽的な内容とは別のところで彼の音楽の好き嫌いが醸成されているようにも見えます。
上記のように「音楽に絶対的な美しさの基準がある」という考え方自体を否定せざるを得ないようなことが多々あります。
このような場合、音楽の価値はその記号的側面に非常に影響されます。歌謡曲の場合、誰が、どのようなシチュエーションで、誰に向かって、どこで、どんな方法で、演奏するのか?ということが記号化され、それが時代の波にうまく乗ったときに、大量消費されます。このような状態において、その音楽的価値を純粋に評価することはナンセンスなことです。
しかし、芸術的と言われる純音楽というようなものでさえ、多くの人は単に記号的に把握していることが多く、何度も名曲と刷り込まれることによって、誰も疑わずに名曲と言っているに過ぎないように思えます。
すでに記号的意味が確立しているコンテンツに対して、その本質的な価値を説明する人は世の中にやはり必要ですが、それは専門家としての立場で当然のことをしているに過ぎません。
逆にすでに価値が確立しているもののその価値に疑問を投げかけたり、全く価値が確立していないものに対して賞賛するような行為は大変勇気がいるし、たいていの場合、そういう言説は否定されやすいものです。
しかし、記号的意味からどれだけ解放されるか、ということがモノゴトの本質に近づく方法だと思いますし、そういう態度を継続することが長い目で見て、良質なコンテンツを見つけたり作り出す能力を育むことに繋がると思うのです。
そのためには、我々がどのように記号的意味に束縛されているのか、それを認識するのは必要なことのように思われます。
というわけで、そもそも音楽にはどうしても記号的意味が付かざるを得ない側面があるのではないか、という最近の私の考えを少しずつ整理してみたいと思います。
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